みなさん、こんにちは!
第二次世界大戦終結から現在まで、私たちは平和に生きることができています。
しかし今から約30年前、ヨーロッパのボスニア・ヘルツェゴビナという国では紛争が起きていました。
この紛争では、普通の精神では考えられないようなひどい行いが繰り広げられていたのです。
その1つが今回お話する「スレブレニツァの虐殺」です。
これは第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺と言われています。
いったい、どんな虐殺だったのでしょうか?
今回は、そのスレブレニツァの虐殺について解説します。
ボスニアの歴史と当時の情勢
ヨーロッパ東南部にボスニア・ヘルツェゴビナという国があります。
首都はサラエボです。
第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件や、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックといった歴史的な出来事は、この国が舞台となりました。
今回の記事でお話するのは、そのボスニアにある小さな町 スレブレニツァで起きたことです。
ここでは虐殺のお話に入る前に、当時のボスニア情勢について簡単に整理しておきます。
複雑な多様性を抱えた連邦国家・ユーゴスラビア
ボスニア・ヘルツェゴビナはかつて、ユーゴスラビアという連邦国家に含まれる共和国の1つでした。
ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアの6つの共和国で構成されていました。
ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われ、とても複雑な多様性があった国家でした。
国家の中にこれだけ多様性が存在すると、民族同士や共和国同士で対立が生まれやすくなります。
そして中には「俺たちの民族の方が偉いんだ!」と主張する“民族主義者”が現れてきます。
特にセルビアではそれが顕著で、「ユーゴスラビアの全ての土地はセルビアのもの!」、「セルビアに居る民族は全てセルビア人で統一しなければならない!」という大セルビア主義と呼ばれる民族主義が台頭していました。
チトーがユーゴスラビアの大統領を務めていた頃は、彼が民族主義を力ずくで弾圧していたので、各国での民族間の対立は起きず平和でした。
ボスニアの民族構成は特に複雑~3つの民族~
ボスニアの民族構成はユーゴスラビアの中で特に複雑でした。
ボスニアでは主に3つの民族が暮らしており、紛争前は国民の約40%がボシュニャク人、約30%がセルビア人、約20%がクロアチア人でした。
ボシュニャク人はユーゴスラビアに居るイスラム教徒のうちの1民族です。
チトーがユーゴスラビアを治めていた頃のボスニアでは、異民族間で生活したり結婚したりするのは普通のことであり、民族の違いなど全く問題ありませんでした。
今回のお話は、このボシュニャク人とセルビア人の間で起きた出来事です。
ボシュニャク人がたくさん暮らしていた町・スレブレニツァ
スレブレニツァはボスニアの東部にある小さな町で、塩や温泉の産業が栄えている町です。
紛争が起きる前の人口は約6,000人で、民族の割合は約75%がボシュニャク人、約20%がセルビア人でした。
ボシュニャク人の割合が圧倒的に多いですね。
紛争前は、これらの民族は共存して平穏に暮らしていました。
しかし、のちにこの町が殺戮(さつりく)の舞台になるのです。
ボシュニャク人を目の敵にするセルビア
1980年にチトーが亡くなると、抑えられていた民族主義がユーゴスラビアの各地で再び台頭します。
その10年後、セルビアではセルビア民族主義者のミロシェビッチがトップの座に就きます。
彼は大セルビア主義を掲げていました。
この頃からセルビア首脳部は、大セルビア主義をこれまでより一層強く掲げていきます。
そして、どういうわけか、彼らは特にボシュニャク人を非常に目の敵にしていました。
セルビアでこうした民族主義が台頭し始めると、やがてボスニアにいるセルビア人のなかにもミロシェビッチらの影響を受ける人たちが現れてきました。
ボスニアではボシュニャク人もセルビア人も多数存在していました。
なので、この2民族の対立がだんだんと深刻になっていきました。
当時のボスニアの大統領はボシュニャク人で、このような大セルビア主義をかかげるセルビアと連邦国家を組むことは耐えられませんでした。
ユーゴスラビアの他の共和国においてもセルビアに嫌気が差す国が現れ、スロベニアやクロアチアが独立を宣言します。
しかし、「ユーゴスラビアの地はセルビアのもの!」と考えるセルビアは独立に反対し、軍事介入をします。
そして、ユーゴスラビアの各地で独立をめぐる紛争 ユーゴスラビア紛争が起きます。
こうした流れの中、1992年にボスニアも独立を宣言します。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争始まる
ボスニアの独立宣言はセルビアの逆鱗(げきりん)に触れます。
「ユーゴスラビアをセルビア一色に染めるんだ!」と考えるセルビアにとっては、ボスニアの独立は許せるものではありませんでした。
特にボスニアには、セルビア人が全体の約30%と多数存在していました。
なので、大セルビア主義を掲げるセルビアからすると、ボスニアの独立はなんとしても阻止しなければならなかったのです。
そして、ついにセルビアは軍事的行動をボスニアに対して起こします。
こうして1992年、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」が始まったのです。
なお、この紛争はボシュニャク人とクロアチア人とセルビア人による三つ巴の戦いです。
しかし、スレブレニツァの虐殺はボシュニャク人とセルビア人の問題なので、今回の記事ではクロアチア人のことは省略します。
ボスニア紛争はセルビア人勢力が優勢で、ボシュニャク人勢力は劣勢を強いられることになります。
民族浄化~極悪非道の所業~

こうした中、紛争の目的「土地と民族の統一」をもくろむセルビア人勢力はとんでもないことを実行していました。
それは「民族浄化」です。
これは暴力的手段によって、その地から他民族を絶滅させるというものです。
例としては、「全住民の殺害」、「迫害によって強制退去させる」、「敵対民族の女性を強姦して、自分の民族の子供を産ませる」などといったものです。
悪行と言う言葉では全く片付かない犯罪ですよね。
このようなことを、ボシュニャク人が多数住む場所の各地でセルビア人勢力が行います。
セルビアは、こうした極悪非道の所業によって大セルビア主義を実現しようとしていたのです。

スレブレニツァの虐殺~戦後欧州最悪の虐殺~
さて、舞台はボスニアにある町 スレブレニツァへ移ります。
1-3節で述べたように、この町にはボシュニャク人がたくさん暮らしていました。
セルビアはそのことを知っていたので、セルビア人勢力はこの町への侵攻をもくろみます。
それでは、いよいよスレブレニツァで起きたことについてお話します。
各地のボシュニャク人が避難してきた
ボスニアには、スレブレニツァの他にフォチャやズヴォルニクなど、ボシュニャク人がたくさん住んでいる町がありました。
しかしフォチャやズヴォルニクはセルビア人によって侵攻され、虐殺が行われました。
こうしてセルビア人勢力はだんだんと自分たちの支配地域を広げます。
これらの攻撃を受けた町の住民の中には生き残った人も居ましたが、その人たちはそこから他の場所へ逃げることを余儀なくされました。
その人たちが逃げ込んだ場所の1つが、このスレブレニツァです。
スレブレニツァにはボスニア国軍が張っていたので、ここならまだ安全だと思ったのでしょう。
このことにより、当初約6,000人だったスレブレニツァの人口は約3万人に膨れ上がりました。
セルビア人勢力に包囲される
しかし、安全を信じてスレブレニツァにやってきたボシュニャク人の望みも絶たれてしまいます。
スレブレニツァを囲う周辺地域が強い戦力をもつセルビア人勢力の支配下になり、スレブレニツァはセルビア人勢力に完全に囲まれてしまったのです。
これはスレブレニツァが危機的な状況になったことを意味します。
セルビア人勢力から逃げることができなくなっただけではありません。
スレブレニツァ外部からのボシュニャク人への救援物資が、セルビア人勢力の妨害に遭って届かなくなるということでもあります。
こうしてスレブレニツァの人々を飢餓が襲うようになります。
なかには、体の外側から見て骨の形がほぼ完全に浮き出るまでやせ細った人も居ました。
スレブレニツァはますます危険な状況になっていきます。
スレブレニツァが国連の「安全地帯」に指定される
ボスニア紛争で起きている事態を重く見た国連は、この紛争への介入を始めます。
その中で、スレブレニツァなどのような、セルビア人勢力によってボシュニャク人が危険にさらされている場所にも介入を始めます。
国連はスレブレニツァを始めとする、ボスニア各地のそのような危機的場所を「安全地帯」に指定します。
この安全地帯は、「その場所での武力の行使などを一切禁止する」という地帯です。
国連はこうすることでセルビアに圧力をかけ、スレブレニツァを始めとする場所で起きている危機的事態を悪化させないようにしようとしました。
安全には程遠い「安全地帯」 スレブレニツァ
国連はボスニア全土に国連保護軍を派遣しました。
スレブレニツァにも民間人を保護するために国連保護軍を派遣しました。
こうすることで国連は状況をマシにしようと考えていたのです。
しかし、事態が好転することはありませんでした。
国連保護軍の隊士の数と兵力が、スレブレニツァの危機を救うには全然足りなかったのです。
国連保護軍はセルビア人勢力に対抗することが出来ず、彼らもスレブレニツァに閉じ込められる形になります。
周りの地域はセルビア人勢力が待ち構えているので、国連側からスレブレニツァへ支援物資を送ることもロクにできませんでした。
こうして国連保護軍も、スレブレニツァの住人と同じように困窮していったのです。
国連が指定した安全地帯は、とても安全とは言えないものだったのです。
セルビア人のスレブレニツァ侵攻、そして制圧
そんなスレブレニツァに、ついに悪夢が訪れます。
1995年7月6日、ムラジッチ将軍率いるセルビア人勢力が突如としてスレブレニツァに向けて攻撃を始めたのです。
スレブレニツァの外周は国連保護軍が監視していましたが、戦力で勝るセルビア人勢力に対して何もできず、セルビア人勢力のスレブレニツァ侵攻を無抵抗で許すことになってしまいます。
もうスレブレニツァの人々は、町がセルビア人勢力の手中に収まるのを怯えながら待つしかありませんでした。
そして7月11日、スレブレニツァがついにセルビア人勢力によって制圧されました。
ボシュニャク人はこれから自分たちの身に何が起きるのかを悟り、スレブレニツァからの脱出を試みます。
2万人もの人で溢れかえるポトチャリ
スレブレニツァに居た多くの人々は、そこから5kmほど離れたポトチャリという場所へ避難しました。
ポトチャリには国連保護軍の基地があったので、ここであれば安全だと思ったのでしょう。
しかしポトチャリには最終的に2万人ほどの人々が集まり、基地に収められる人数をはるかにオーバーしていました。
その後まもなく、スレブレニツァのボシュニャク人を追ってセルビア人勢力がポトチャリへ来ました。
そして、セルビア人勢力はポトチャリに居るボシュニャク人を手中に収めます。
その晩、セルビア人勢力の大将と国連保護軍の司令官がそこで面会をします。
男女別で他所へ連行される
その翌日、セルビア人勢力はどういうわけか、スレブレニツァのボシュニャク人を安全な場所へ連れていくと言うのです。
国連保護軍はセルビア人勢力のこの提示を疑っていましたが、国連保護軍がそれに同行するという条件のもと、その提示を認めました。
セルビア人勢力は用意したバスに男女別々にして乗せ、男性と女性はそれぞれの場所へ連れていかれることになります。
未成年の子どもをもつ家庭もあったので、息子が「お母さん、助けて」と泣き叫ぶ様子もたくさん見られました。
その後、女性のほとんどは確かに安全な場所へ引き渡されました。
しかし、同行した国連保護軍はセルビア人勢力に制服や武器を奪われて帰ってきました。
これはのちに、セルビア人勢力が国連保護軍に変装することに使われてしまうのです。
大量虐殺~約8,000人のボシュニャク人男性を殺害~
さて問題は、連行したボシュニャク人男性はどうなったのか? ということです。
結論から言うと、ほぼ全ての男性が殺害されました。
セルビア人勢力は連行した男性のうち、若い世代を中心にして殺害対象を選び出しました。
その中には成年だけでなく、中学生ぐらいの男の子もたくさん居ました。
そして彼らを殺害場所へ連れていき、次々と銃殺していったのです。
この殺害は連日行われ、2週間ほどでボシュニャク人の男性約8,000人を殺害しました。
脱走を試みて逃げた住人も居ました。
しかし、逃げている途中に国連保護軍に変装したセルビア人勢力に騙されて捕まってしまい、そして殺害された人も居ました。
この一連の大量虐殺が「スレブレニツァの虐殺」です。
この虐殺はボスニア紛争で最悪な規模の虐殺となり、そして第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺となりました。
こんなことがなんと約25年前と、ものすごく最近に起きていたのです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、終結
その後、NATOがセルビア人勢力に対して厳しい空爆を行いました。
これをきっかけにセルビア人勢力が衰退し始め、1995年12月にボスニア紛争が終結します。
この紛争では「スレブレニツァの虐殺」を始めとする数々の虐殺行為により民間人のボシュニャク人犠牲者がたくさん出ました。
この紛争でのボシュニャク人の死者数は約3万人にものぼります。
この紛争では約20万人もの人たちが亡くなり、戦後のヨーロッパで最悪の紛争となりました。

【前半】スレブレニツァの虐殺をわかりやすく解説・まとめ
ここまで大規模な民族浄化が起こってしまった背景にはいろいろなことがあります。
次の後半では国連の対応や、なぜこのユーゴスラビア紛争が泥沼化してしまったのか解説していきたいと思います。

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