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【ユーゴスラビア紛争】スレブレニツァの虐殺をわかりやすく解説!この紛争の原因は民族意識だった!

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みなさん、こんにちは!

第二次世界大戦終結から現在まで、私たちは平和に生きることができています。

しかし今から約30年前、ヨーロッパのボスニア・ヘルツェゴビナという国では紛争が起きていました。

この紛争では、普通の精神では考えられないようなひどい行いが繰り広げられていたのです。

その1つが今回お話する「スレブレニツァの虐殺」です。

これは第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺と言われています。

いったい、どんな虐殺だったのでしょうか?

今回は、そのスレブレニツァの虐殺について解説します。

目次

ボスニアの歴史と当時の情勢

ヨーロッパ東南部にボスニア・ヘルツェゴビナという国があります。

首都はサラエボです。

第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件や、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックといった歴史的な出来事は、この国が舞台となりました。

今回の記事でお話するのは、そのボスニアにある小さな町 スレブレニツァで起きたことです。

ここでは虐殺のお話に入る前に、当時のボスニア情勢について簡単に整理しておきます。

複雑な多様性を抱えた連邦国家・ユーゴスラビア

ボスニア・ヘルツェゴビナはかつて、ユーゴスラビアという連邦国家に含まれる共和国の1つでした。

ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアの6つの共和国で構成されていました。

ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われ、とても複雑な多様性があった国家でした。

国家の中にこれだけ多様性が存在すると、民族同士や共和国同士で対立が生まれやすくなります。

そして中には「俺たちの民族の方が偉いんだ!」と主張する“民族主義者”が現れてきます。

特にセルビアではそれが顕著で、「ユーゴスラビアの全ての土地はセルビアのもの!」、「セルビアに居る民族は全てセルビア人で統一しなければならない!」という大セルビア主義と呼ばれる民族主義が台頭していました。

チトーがユーゴスラビアの大統領を務めていた頃は、彼が民族主義を力ずくで弾圧していたので、各国での民族間の対立は起きず平和でした。

ボスニアの民族構成は特に複雑~3つの民族~

ボスニアの民族構成はユーゴスラビアの中で特に複雑でした。

ボスニアでは主に3つの民族が暮らしており、紛争前は国民の約40%がボシュニャク人、約30%がセルビア人、約20%がクロアチア人でした。

ボシュニャク人はユーゴスラビアに居るイスラム教徒のうちの1民族です。

チトーがユーゴスラビアを治めていた頃のボスニアでは、異民族間で生活したり結婚したりするのは普通のことであり、民族の違いなど全く問題ありませんでした。

今回のお話は、このボシュニャク人とセルビア人の間で起きた出来事です。

ボシュニャク人がたくさん暮らしていた町・スレブレニツァ

スレブレニツァはボスニアの東部にある小さな町で、塩や温泉の産業が栄えている町です。

紛争が起きる前の人口は約6,000人で、民族の割合は約75%がボシュニャク人、約20%がセルビア人でした。

ボシュニャク人の割合が圧倒的に多いですね。

紛争前は、これらの民族は共存して平穏に暮らしていました。

しかし、のちにこの町が殺戮(さつりく)の舞台になるのです。

ボシュニャク人を目の敵にするセルビア

 

1980年にチトーが亡くなると、抑えられていた民族主義がユーゴスラビアの各地で再び台頭します。

その10年後、セルビアではセルビア民族主義者のミロシェビッチがトップの座に就きます。

彼は大セルビア主義を掲げていました。

この頃からセルビア首脳部は、大セルビア主義をこれまでより一層強く掲げていきます。

そして、どういうわけか、彼らは特にボシュニャク人を非常に目の敵にしていました。

セルビアでこうした民族主義が台頭し始めると、やがてボスニアにいるセルビア人のなかにもミロシェビッチらの影響を受ける人たちが現れてきました。

ボスニアではボシュニャク人もセルビア人も多数存在していました。

なので、この2民族の対立がだんだんと深刻になっていきました。

当時のボスニアの大統領はボシュニャク人で、このような大セルビア主義をかかげるセルビアと連邦国家を組むことは耐えられませんでした。

ユーゴスラビアの他の共和国においてもセルビアに嫌気が差す国が現れ、スロベニアやクロアチアが独立を宣言します。

しかし、「ユーゴスラビアの地はセルビアのもの!」と考えるセルビアは独立に反対し、軍事介入をします。

そして、ユーゴスラビアの各地で独立をめぐる紛争 ユーゴスラビア紛争が起きます。

こうした流れの中、1992年にボスニアも独立を宣言します。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争始まる

ボスニアの独立宣言はセルビアの逆鱗(げきりん)に触れます。

「ユーゴスラビアをセルビア一色に染めるんだ!」と考えるセルビアにとっては、ボスニアの独立は許せるものではありませんでした。

特にボスニアには、セルビア人が全体の約30%と多数存在していました。

なので、大セルビア主義を掲げるセルビアからすると、ボスニアの独立はなんとしても阻止しなければならなかったのです。

そして、ついにセルビアは軍事的行動をボスニアに対して起こします。

こうして1992年、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」が始まったのです。

なお、この紛争はボシュニャク人とクロアチア人とセルビア人による三つ巴の戦いです。

しかし、スレブレニツァの虐殺はボシュニャク人とセルビア人の問題なので、今回の記事ではクロアチア人のことは省略します。

ボスニア紛争はセルビア人勢力が優勢で、ボシュニャク人勢力は劣勢を強いられることになります。

民族浄化~極悪非道の所業~

こうした中、紛争の目的「土地と民族の統一」をもくろむセルビア人勢力はとんでもないことを実行していました。

それは「民族浄化」です。

これは暴力的手段によって、その地から他民族を絶滅させるというものです。

例としては、「全住民の殺害」、「迫害によって強制退去させる」、「敵対民族の女性を強姦して、自分の民族の子供を産ませる」などといったものです。

悪行と言う言葉では全く片付かない犯罪ですよね。

このようなことを、ボシュニャク人が多数住む場所の各地でセルビア人勢力が行います。

セルビアは、こうした極悪非道の所業によって大セルビア主義を実現しようとしていたのです。

スレブレニツァの虐殺~戦後欧州最悪の虐殺~

さて、舞台はボスニアにある町 スレブレニツァへ移ります。

1-3節で述べたように、この町にはボシュニャク人がたくさん暮らしていました。

セルビアはそのことを知っていたので、セルビア人勢力はこの町への侵攻をもくろみます。

それでは、いよいよスレブレニツァで起きたことについてお話します。

各地のボシュニャク人が避難してきた

ボスニアには、スレブレニツァの他にフォチャやズヴォルニクなど、ボシュニャク人がたくさん住んでいる町がありました。

しかしフォチャやズヴォルニクはセルビア人によって侵攻され、虐殺が行われました。

こうしてセルビア人勢力はだんだんと自分たちの支配地域を広げます。

これらの攻撃を受けた町の住民の中には生き残った人も居ましたが、その人たちはそこから他の場所へ逃げることを余儀なくされました。

その人たちが逃げ込んだ場所の1つが、このスレブレニツァです。

スレブレニツァにはボスニア国軍が張っていたので、ここならまだ安全だと思ったのでしょう。

このことにより、当初約6,000人だったスレブレニツァの人口は約3万人に膨れ上がりました。

セルビア人勢力に包囲される

しかし、安全を信じてスレブレニツァにやってきたボシュニャク人の望みも絶たれてしまいます。

スレブレニツァを囲う周辺地域が強い戦力をもつセルビア人勢力の支配下になり、スレブレニツァはセルビア人勢力に完全に囲まれてしまったのです。

これはスレブレニツァが危機的な状況になったことを意味します。

セルビア人勢力から逃げることができなくなっただけではありません。

スレブレニツァ外部からのボシュニャク人への救援物資が、セルビア人勢力の妨害に遭って届かなくなるということでもあります。

こうしてスレブレニツァの人々を飢餓が襲うようになります。

なかには、体の外側から見て骨の形がほぼ完全に浮き出るまでやせ細った人も居ました。

スレブレニツァはますます危険な状況になっていきます。

スレブレニツァが国連の「安全地帯」に指定される

ボスニア紛争で起きている事態を重く見た国連は、この紛争への介入を始めます。

その中で、スレブレニツァなどのような、セルビア人勢力によってボシュニャク人が危険にさらされている場所にも介入を始めます。

国連はスレブレニツァを始めとする、ボスニア各地のそのような危機的場所を「安全地帯」に指定します。

この安全地帯は、「その場所での武力の行使などを一切禁止する」という地帯です。

国連はこうすることでセルビアに圧力をかけ、スレブレニツァを始めとする場所で起きている危機的事態を悪化させないようにしようとしました。

安全には程遠い「安全地帯」 スレブレニツァ

国連はボスニア全土に国連保護軍を派遣しました。

スレブレニツァにも民間人を保護するために国連保護軍を派遣しました。

こうすることで国連は状況をマシにしようと考えていたのです。

しかし、事態が好転することはありませんでした。

国連保護軍の隊士の数と兵力が、スレブレニツァの危機を救うには全然足りなかったのです。

国連保護軍はセルビア人勢力に対抗することが出来ず、彼らもスレブレニツァに閉じ込められる形になります。

周りの地域はセルビア人勢力が待ち構えているので、国連側からスレブレニツァへ支援物資を送ることもロクにできませんでした。

こうして国連保護軍も、スレブレニツァの住人と同じように困窮していったのです。

国連が指定した安全地帯は、とても安全とは言えないものだったのです。

 

セルビア人のスレブレニツァ侵攻、そして制圧

そんなスレブレニツァに、ついに悪夢が訪れます。

1995年7月6日、ムラジッチ将軍率いるセルビア人勢力が突如としてスレブレニツァに向けて攻撃を始めたのです。

スレブレニツァの外周は国連保護軍が監視していましたが、戦力で勝るセルビア人勢力に対して何もできず、セルビア人勢力のスレブレニツァ侵攻を無抵抗で許すことになってしまいます。

もうスレブレニツァの人々は、町がセルビア人勢力の手中に収まるのを怯えながら待つしかありませんでした。

そして7月11日、スレブレニツァがついにセルビア人勢力によって制圧されました。

ボシュニャク人はこれから自分たちの身に何が起きるのかを悟り、スレブレニツァからの脱出を試みます。

2万人もの人で溢れかえるポトチャリ

スレブレニツァに居た多くの人々は、そこから5kmほど離れたポトチャリという場所へ避難しました。

ポトチャリには国連保護軍の基地があったので、ここであれば安全だと思ったのでしょう。

しかしポトチャリには最終的に2万人ほどの人々が集まり、基地に収められる人数をはるかにオーバーしていました。

その後まもなく、スレブレニツァのボシュニャク人を追ってセルビア人勢力がポトチャリへ来ました。

そして、セルビア人勢力はポトチャリに居るボシュニャク人を手中に収めます。

その晩、セルビア人勢力の大将と国連保護軍の司令官がそこで面会をします。

男女別で他所へ連行される

その翌日、セルビア人勢力はどういうわけか、スレブレニツァのボシュニャク人を安全な場所へ連れていくと言うのです。

国連保護軍はセルビア人勢力のこの提示を疑っていましたが、国連保護軍がそれに同行するという条件のもと、その提示を認めました。

セルビア人勢力は用意したバスに男女別々にして乗せ、男性と女性はそれぞれの場所へ連れていかれることになります。

未成年の子どもをもつ家庭もあったので、息子が「お母さん、助けて」と泣き叫ぶ様子もたくさん見られました。

その後、女性のほとんどは確かに安全な場所へ引き渡されました。

しかし、同行した国連保護軍はセルビア人勢力に制服や武器を奪われて帰ってきました。

これはのちに、セルビア人勢力が国連保護軍に変装することに使われてしまうのです。

大量虐殺~約8,000人のボシュニャク人男性を殺害~

さて問題は、連行したボシュニャク人男性はどうなったのか? ということです。

結論から言うと、ほぼ全ての男性が殺害されました。

セルビア人勢力は連行した男性のうち、若い世代を中心にして殺害対象を選び出しました。

その中には成年だけでなく、中学生ぐらいの男の子もたくさん居ました。

そして彼らを殺害場所へ連れていき、次々と銃殺していったのです。

この殺害は連日行われ、2週間ほどでボシュニャク人の男性約8,000人を殺害しました。

脱走を試みて逃げた住人も居ました。

しかし、逃げている途中に国連保護軍に変装したセルビア人勢力に騙されて捕まってしまい、そして殺害された人も居ました。

この一連の大量虐殺が「スレブレニツァの虐殺」です。

この虐殺はボスニア紛争で最悪な規模の虐殺となり、そして第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の虐殺となりました。

こんなことがなんと約25年前と、ものすごく最近に起きていたのです。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、終結 

その後、NATOがセルビア人勢力に対して厳しい空爆を行いました。

これをきっかけにセルビア人勢力が衰退し始め、1995年12月にボスニア紛争が終結します。

この紛争では「スレブレニツァの虐殺」を始めとする数々の虐殺行為により民間人のボシュニャク人犠牲者がたくさん出ました。

この紛争でのボシュニャク人の死者数は約3万人にものぼります。

この紛争では約20万人もの人たちが亡くなり、戦後のヨーロッパで最悪の紛争となりました。

虐殺の原因~民族意識の危険性~

スレブレニツァの虐殺のような、最悪なことはどうして起こったのでしょうか?

元をたどれば、それは「民族意識」というものが人々にあったからだと思います。

ボスニア紛争を始めとするユーゴスラビア紛争は、セルビア民族主義「大セルビア主義」を掲げるセルビアが各国の独立を許せないので軍事介入する、という形で始まりました。

そして、「ユーゴスラビア全土をセルビアのものにする」、「ユーゴスラビア全国民をセルビア人で統一する」という野望を、のちに虐殺や強姦のような民族浄化という手段を用いることで実行に移したのです。

スレブレニツァの虐殺はその民族浄化作戦の中で起きたことなのです。

こうした流れを踏まえると、民族主義の根元にある「民族意識」というものは戦争を起こす危険性をはらんでいると思います。

ボスニア紛争前からスレブレニツァの中心部には、セルビア正教会とモスク(イスラム教の寺院)が隣り合って存在しています。

つまり、紛争前はボシュニャク人とセルビア人は民族の違いなど全く意識せず、普通に共存していたのです。

しかし、紛争に先立ってセルビア人の政治家たちがボシュニャク人を蔑視するメッセージを発信した後、ボシュニャク人はセルビア人によって汚らわしい目で見られ始めたのです。

そして紛争が始まると、ボシュニャク人はセルビア人勢力による虐殺の対象となったのです。

スレブレニツァの虐殺は、こうした民族意識の植え付けによって引き起こされたものであると言えるでしょう。

国連の対応の問題点~平和への障壁~

スレブレニツァの虐殺では、国連の対応が問題視されています。

2章で国連側の動きを見ていて「どういうこと?」と思った人も居たかもしれません。

ここでは、その国連の対応の問題点についてお話します。

必要な兵力の配備が認められなかった

2-4節で、国連保護軍の兵力がセルビア人勢力に対抗するのに足りなかったということを話しました。

実はこれは、「国連側の全くの手抜き」というわけではなかったのです。

国連の事務局は「安全地帯を安全にしておくには、合計で3万人の兵力が必要だ」と、国連安全保障理事会(安保理)に強く訴えていました。

安保理は国連の組織の中で最も大きな権力を持つ組織です。

しかし、安保理は約8,000人の兵力の派遣しか認めませんでした。

そして戦車や砲弾などの武器は与えられず、国連保護軍に与えられた武器は銃のみでした。

これだと国連が指定した「安全地帯」を安全な状態にできませんし、強いセルビア人勢力に対して抵抗することもできません。

スレブレニツァが制圧されてしまったのも分かってしまいますよね。

また、国連保護軍の武器の装備はセルビア人勢力のそれに劣っていたので、2-7節の最後で述べたように国連保護軍は制服などを奪われ、セルビア人勢力が国連保護軍に変装するのを許してしまったのです。

国連保護軍がセルビア人勢力に対して無力だったのには、このような事情があったのです。

虐殺につながったかもしれない手続きミス

実はスレブレニツァが制圧される前、国連側はスレブレニツァへ侵攻するセルビア人勢力に対して空爆を行う予定でした。

スレブレニツァを包囲していたセルビア人勢力が地上にいる国連保護軍の監視を突破して侵攻してきた以上、スレブレニツァの人々を助ける手段はセルビア人勢力に対する空爆しかありませんでした。

1995年7月11日、スレブレニツァがセルビア人勢力に制圧される直前、国連保護軍は空爆の決定を行う上層部へ空爆の要請をしました。

しかし、このとき要請の過程で手続きミスがあり、上層部にその要請が届いていなかったのです。

空爆の要請までの手続きはとても煩雑なものだったようです。

こうして国連側がもたついている間に、スレブレニツァはセルビア人勢力によって制圧されてしまいました。

その後、空爆の要請が上層部に届きますが、そのときは既にスレブレニツァは制圧されており、国連保護軍がそこに張っていました。

空爆で国連保護軍を巻き込むようなことはできなかったので、このときに空爆をすることはできませんでした。

そしてのちに、スレブレニツァの住民たちが虐殺されてしまったのです。

スレブレニツァの人たちが殺されずに助かる未来は充分にあったはずなのです。

足並みがそろわない国連加盟国

スレブレニツァの問題では国連加盟国の足並みのそろわなさも指摘されます。

国連の常任理事国であるアメリカはボシュニャク人を支援する立場だったのですが、同じく常任理事国であるロシアはセルビアを支援していました。

さらに同じ常任理事国のイギリスとフランスは、アメリカとロシアの意見に対して中立の立場を取っていました。

このように国連の中で加盟国の立場がバラバラだったので、国連での決議が非常にあいまいなものとなり、手を打とうにも方向性が定まりませんでした。

そうなると、その決議を受けて現場で行動する国連保護軍はどうすればよいのか分からなくなります。

スレブレニツァへの派兵についても加盟国間で意見が一致しませんでした。

イギリスやフランス、オランダなどは地上部隊を合計で1万人以上派遣しました。

しかしアメリカは、国連側から地上部隊の派遣の要請があったのに対して「地上部隊は送らない!空爆でセルビア人勢力をやっつけてしまえばよい!」という立場でした。

このように国連の中でも立場や意見がまとまらず、現場の国連保護軍が効果的に機能できず、その結果スレブレニツァの制圧を許し、虐殺を招いてしまった、という見方もあります。

ここまで書いた国連の対応を振り返ると、対応の頼りの無さには「国連」という組織の体質にまず原因があると思います。

そこを何とかしない限り、スレブレニツァの虐殺のような悲劇はまた起きると思います。

また、国連というものはそもそも加盟国によって構成されているものなので、国連の不備によって起きた問題は加盟国の問題でもあると言えると思います。

そういう意味では、この問題はユーゴスラビア以外の世界の各国も他人事ではないのです。

こうした問題が、国連の目的である「国際の平和と安全の維持」の大きな障壁となっているように感じます。

スレブレニツァのいま~未だ残る傷痕~

スレブレニツァの虐殺が起きてから約25年が経ちました。

いまスレブレニツァはどうなっているのでしょうか?

特に、スレブレニツァで暮らしていた人たちはどうしているのでしょうか?

この章では、それについて見ていきましょう。

ボシュニャク人とセルビア人の対立感情は残ったまま

スレブレニツァの虐殺後、ほとんどのボシュニャク人がスレブレニツァから離れました。

紛争前のスレブレニツァでボシュニャク人は人口の約75%を占めていましたが、現在は約50%まで減りました。

現在ボスニアは、ボシュニャク人とクロアチア人が主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人が主体の「スルプスカ共和国」からなる連邦国家となっています。

スレブレニツァは現在、そのスルプスカ共和国の自治下におかれています。

現在のスレブレニツァの市長はセルビア人です。

その市長はなんと、「スレブレニツァの虐殺など無かった」と虐殺そのものを否定しているのです。

ボシュニャク人のなかには、ボスニア紛争後にスレブレニツァに帰ってきた人もいます。

帰ってきたボシュニャク人のなかにはスレブレニツァの虐殺で家族を殺された人もいて、彼女たちは今でもセルビア人勢力を許すことができません。

このように、スレブレニツァでのボシュニャク人とセルビア人の民族対立は依然として残ったままです。

現在、スレブレニツァには約6,000個もの犠牲者の墓があり、そこは見渡す限り無数の墓の光景が広がっています。

毎年、7月11日になると、ここで犠牲者を悼む式典が行われています。

スレブレニツァの虐殺から20年が経ったときのこの式典でセルビア首相が訪ねてきたときは、イスラム教徒と思われる人がセルビア首相に石を投げつける事件が起こりました。

こうした現実を見ると、両民族の融和はまだまだ程遠いように感じます。

25年経っても家族と再会できない遺族たち 

スレブレニツァの虐殺の犠牲者のほとんどの遺骨が見つかっているものの、今でも遺骨が見つからない犠牲者が1,000人ほどいるのです。

虐殺から約25年が経ってもなお、虐殺に遭った人を悼む式典では新しい墓が運ばれてきます。

自分の家族の遺骨が見つからない遺族は「せめて遺骨を見つけて再会したい」と今も遺骨を探し続けていますが、長年探し続けても見つかる気配がありません。

セルビア人勢力は虐殺の事実を隠蔽するため、遺体を埋めては掘り返してまた別の場所に埋めるということを繰り返していたのです。

そのため、遺骨は完全な状態で残っておらずバラバラになってしまっているものが多く、

見つかる遺骨が誰のものなのかを判別するのがとても難しいのです。

約25年経っても自分の家族と再会できない遺族の気持ちは、察するにあまりあります。

虐殺に巻き込まれなかった私たちにとっては「遠い国で起きた出来事だ」と他人事で済ませることができます。

しかし遺族が理不尽に負わされた悲しみは、生きている限り消えることはないのです。

映画『アイダよ、何処へ?』~ボスニア紛争に遭った女性監督の想い~

スレブレニツァの虐殺から25年後の2020年、この虐殺を題材にした映画『アイダよ、何処へ?』が製作されました。

映画『アイダよ、何処へ?』あらすじ

そして翌年の2021年、この映画が公開されました。主人公は、国連保護軍の通訳として働く女性、アイダです。

アイダには夫と息子がいて、彼らはスレブレニツァに居ました。

映画の内容は、通訳として働くアイダが、セルビア人勢力侵攻による危機がせまっているスレブレニツァから家族を救おうとするものです。

この映画を監督したのは、ボスニア人女性の映画監督 ヤスミラ・ジュバニッチさんです。

ジュバニッチさんは17歳のときにボスニア紛争に遭いました。

ジュバニッチさんはサラエボに居たため、スレブレニツァの虐殺を経験せずに済みました。

しかし、サラエボもスレブレニツァと同じようにセルビア人勢力による包囲を受けていて、サラエボの住民は食料や水に恵まれない生活を強いられていました。

そういう意味では、ジュバニッチさんもスレブレニツァに居た人たちと同じだったのです。

紛争を生き延びた彼女はこの虐殺に対して思うことが強くあり、映画を製作したようです。

当初、この映画はセルビアにおいて大きな批判にさらされ、ジュバニッチさんはつらい思いをしたようです。

しかし映画を通して訴えたい想いが伝わったのか、ジュバニッチさんを応援するメッセージもまた多くあり、励まされたようです。

映画の公開に際して、ジュバニッチさんは池上彰さんたちからオンラインでインタビューを受けております。

その中で「筆者」がすごく印象に残った言葉があります。

ジュバニッチさんはインタビューで、「なぜ今、このスレブレニツァの虐殺を題材とした映画を公開したのか?」と問われました。

それに対して第一声で、こう答えました(以下に、その発言を引用します)。

「まず、この映画は私たちにとって現在形です。」

この言葉が「筆者」にはすごく印象に残っております。

紛争を生き延びたジュバニッチさんはもちろん、5章で述べたスレブレニツァの人たち・ボスニアの人たちはどんな思いをしているのかを感じ取った気がしました。

この映画は2021年に開催された第93回アカデミー賞の国際長編映画賞部門でノミネートされました。

内容が気になった方はぜひご覧になってみてください。

【ユーゴスラビア紛争】スレブレニツァの虐殺をわかりやすく解説!この紛争の原因は民族意識だった!まとめ

今回は、スレブレニツァの虐殺について解説しました。

とてつもなく残虐なことが、遠く離れたヨーロッパで起きていたことが分かったと思います。

しかし、この虐殺は私たちにとって「遠い国の出来事」なのでしょうか?

スレブレニツァも、今の日本のように、紛争前は何のいさかいもなく平和だったのです。

しかし、平和だった日々は突然壊され、このような理不尽な虐殺が起きたのです。

そういう意味で、日本においてスレブレニツァの虐殺は本当に「遠い国の出来事」で片付く悲劇なのでしょうか?

たとえばもし、日本が他国から攻撃を受けて危機に陥ったら、国連、そして国連に加盟する国々は本当に見捨てずに助けてくれるのでしょうか?

スレブレニツァの虐殺で日本、そして国際社会が結果的にその様子をただ見守るだけだったのと同じように、日本も世界各国からただ見守られるだけで終わるのではないでしょうか?

スレブレニツァの虐殺は決して他人事ではないと思います。

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【参考文献・引用元】
ボスニア・ヘルツェゴビナ基礎データ|外務省https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bosnia_h/data.html
スレブレニツァの虐殺から25年【報道特集】 – YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=TKFhYn7Gdfw明石康氏氏講演―グローバル・リーダーシップ寄付講座(読売新聞社)http://www.j.u-tokyo.ac.jp/gls/No1Akashi.html
国際の平和と安全|国連広報センタunic.or.jphttps://www.unic.or.jp/activities/peace_security/
戦争は「陳腐な悪」が起こすもの――「アイダよ、何処へ?」監督インタビュー : 映画ニュース – 映画.comhttps://eiga.com/news/20210902/7/
アイダよ、何処へ?:作品情報 – 映画.comhttps://eiga.com/movie/93569/
CNN.co.jp : スレブレニツァ虐殺20年で追悼式、群集がセルビア首相に石 – (1/2)https://www.cnn.co.jp/world/35067252.html
映画『アイダよ、何処へ?』公式サイトhttps://aida-movie.com/【映画公開記念】ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を解説!&悲劇描いた監督にインタビュー《アイダよ、何処へ?》 – YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=QyKrCAh_Jwk

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