みなさん、こんにちは。
今回は1979年に起きたイラン革命についてご紹介します。ちなみに、イランといえばどのようなイメージを持たれていますか?
なんとなくテロとか戦争とか怖いイメージでしょうか。とにかくアメリカとは仲が悪いというイメージをもっている方も多いかもしれません。
しかし、イランとアメリカは仲良しの時代もあったのです。しかも、1960~70年代にかけて。歴史的に見るとつい最近ですよね!
では、なぜ今のように険悪な中になってしまったのでしょうか??その大きなきっかけが今回のイラン革命にあります。
イラン革命とは?
「革命」とは、時の支配者が倒されて社会体制が大きく変革すること。
アメリカにつき従っていたパフレヴィ―王朝が、ホメイニー師をはじめとする民衆の手によって崩壊し、イスラムの教えに基づいたイラン=イスラム共和国が建国されました。その1979年に起こった出来事を「イラン革命」といいます。
西欧化していた社会が、伝統的なイスラム社会へと180度変わったんですね。そのような大きな出来事が国内で起こったのは様々な背景や理由があるはず。
イラン革命の起こった少し前の時代から、今の状況になっていった経緯を見ていきましょう。
パフレヴィ―王朝の統治
1925年からイラン革命が起こる1979年まで「パフレヴィー王朝」という王朝がイランを支配していました。
そして第二次世界大戦後、イランの経済は低迷。しかし、イランは全世界がほしがる資源「石油」がたくさんとれる国だったんです。
経済の立て直しにイランは石油に目を付けたのでした。石油ラインで金儲けという発想はいいのですが・・ただ問題がありました。
イランの石油利益のほとんどはイギリスのものになっていたのです。
そこで、1951年に当時のイラン首相モサテグが石油の国有化をはかりました。イギリスに支配されるのではなく、イラクが自ら石油事業を運営しようというのですね。
イランにとってはぜひ叶えたい政策です。でも、支配している側のイギリスはおもしろくないですよね。
そんなイギリスにアメリカが加わって、イランにクーデターを起こします。そしてモサテグを失脚させてしまいました。
パフレヴィ―朝の近代化と親米外交
アメリカは自らの利益のためにクーデターを支援して、民主的に選ばれたモサデグ政権を倒してしまったのです。ひどい話ですよね。
そしてクーデター後のイランは、パフレヴィ―朝の独裁となってしまいました。国王パフレヴィ―2世は、アメリカの支援の下独裁体制を強めていきます。
当時の世界情勢は米ソ冷戦の真っただ中。
アメリカとしてはソ連の指導する共産主義を排除したい、そして、石油利権を奪おうとしたかったのでしょう。
そこで西欧社会の在り方にのっとった経済支援や社会改革を進めていくことになります。
白色革命とは
その社会革命の一つに1973年に始まった白色革命があります。その革命の目的というのが次のような、なんともひどいものでした。
●農地改革
●森林・放牧の国有化
●婦人参政権を含む選挙法の改正
●国営企業の民営化
●産業労働者への利益配分
●識字率向上のための教育部隊創設
要するに、イランの伝統的な社会を破壊する内容でした。当然、地主層やイスラム宗教界を中心に民衆は反発をしました。
しかし、白色革命に基づいた政治は進められ、イランは急速に変化していくことになります。
急速な経済成長とその影
アメリカの支配のもと、イランは急速に経済成長しました。なんと毎年10%前後ともいえる経済成長率。日本の高度経済成長期に勝るとも劣らない勢いです。
特に1974年の石油危機では石油価格高騰の恩恵を受け好況に沸きました。なんだ、めちゃくちゃいいことじゃないかと思いますよね。
しかし、なんとこの経済成長と好況がイラン革命の原因となるのです。イランの石油はイギリスやアメリカが支配しています。
イランの人で、この経済成長とともに裕福になったウハウハな人は、イギリスやアメリカにつき従う王朝はじめ一部の人だけ。
国民の生活は全く楽になりませんでした。
それどころか、経済成長するとお金の価値が下がるインフレが起こるので、貧富の差がどんどん拡大しました。
国民は不満を募らせるばかり。ところが、王朝は国民の思いに応えるどころか、なんと秘密警察を設置。
王朝のやり方に不満を持って反対する人々への取り締まりを強化し、強制的におさえつけようとしたのです。
アメリカの文化流入による影響
アメリカ文化もイランに入ってくるようになりました。ヒジャブ(頭を覆う布)をかぶらず、アメリカと同じように洋服の着用が広がりイランでもなんとなくアメリカのような雰囲気が入ってきます。。
さらに、キャバレーやポルノ映画なども入ってきました。さすがに、これは信心深いイスラム教徒には受け入れがたいですよね。
ただでさえ、生活が困窮していっている上、自分たちの宗教心に基づいた日常や文化が壊されていく有り様をみて、イスラム本来の在り方を求める人々が増えていったのも当然と言えるかもしれません。
ルーホッラー・ホメイニーの登場
そんな中、王朝批判の先頭に立って活動した人物が、イスラム教の指導者であったルーホッラー・ホメイニー師です。
やっとホメイニーさん出てきました。お待たせしました。
どのような生まれで、いかにイラン革命に関わっていったのでしょうか。
ルーホッラー・ホメイニーってどんな人?
ホメイニーはイスラム教シーア派の高名な法学者です。イラン中部の小さな町であるホメインで生まれました。
あのイスラム教の始祖、預言者ムハンマドの直径子孫の家系なんですね。しかし、ホメイニーが生後五か月のときに、法学者のお父さんが殺害されます。
お父さんの意思を受け継いだのか同じく法学を学び、イスラム教の十二イマーム派という宗派の上級法学者アーヤトッラーという称号を得ます。
ホメイニー、さすが優秀ですね。そして、家系から学歴まで生粋のイスラム教徒という印象を受けます。
ホメイニーの国外追放
イスラムの教えを重んじるホメイニーは、白色革命にみられる独裁的な西欧化政策に不満をもち、激しく批判します。
1963年にホメイニーは国王を激しく批判し、抵抗運動を呼び掛けたため逮捕されました。
逮捕から数か月後に釈放されますが、政府はホメイニーの影響力を恐れ国外追放処分としてしまいました。
ホメイニーはイラク、フランスへとたびたび追放処分となりましたが、移った先から王朝を激しく非難し続けました。国外からも祖国の不正を訴え続けたのです。
ホメイニーのイランを想う気持ちや訴え続ける継続力、あきらめない精神はものすごいですね。
国外追放となっていたホメイニーの主張をおさめた文書やカセットテープが国内に広がり、国王に不満を抱く人々の心を捉えていきました。
イラン革命
じわりじわりと高まる国民の不安とホメイニー人気。
とはいえ、国がひっくり返る革命が起こるなんて、何か大きな出来事があったのでしょうか。
しかし、きっかけというのは意外とちょっとしたことだったりします。そして、人が人を呼び共感が共感を呼び、どんどん膨れ上がっていくのです。
権力も軍事力もある王朝を民衆が結束して倒すのですから、人の集まった時の「力」の強さを感じます。
ホメイニーを中傷する新聞記事をきっかけにデモ勃発
1978年1月、イランの新聞にホメイニーを抽象する記事が掲載されました。
記事が掲載された後、十二イマーム派の聖地であるゴムの街で学生たちが大規模なデモを起こすのです。
しかし、なぜ一つの新聞記事がそこまでの影響力を持ったのでしょうか。
ホメイニーはイスラム教十二イマーム派の最高位の法学者。
ホメイニーを中傷することは、なんと十二イマーム派の人々全体への中傷になるようです。
十二イマーム派のイスラム教の人々は新聞記事を見てみんなプライドを傷つけられたのですね。
イラン政府はホメイニーの影響力を落とそうとしたのかもしれませんが、かえって逆効果となりました。
このあたりは、イスラムの事情がわかっていないアメリカが関わったことによって起こった失策かもしれませんね。
イラン全土にデモが拡大し、宗教指導者をはじめ、学生や労働者、農民、市民が王制打倒を叫び始めました
1978年秋にはデモ隊がイラン各地の街頭を埋め尽くす、すさまじい状況だったとか。
国王の亡命と革命成立
国王は首相を軍人にしたり反皇帝派にしたりと、いろいろと模索するもののデモは激化し続けました。
そして、1979年1月に、国王は休暇と言って、家族と側近を連れイランから出国。
そのまま戻りませんでした…。
1979年2月 ホメイニーは満を持してフランスから帰国し政権を握りました。
国王の独裁がおわり、イラン革命の成立です。
革命後のイラン
革命で前政権を倒したら、次なる新しい社会を作らないといけません。
ホメイニーが最高権力者ですから、当然のごとくイスラム法にのっとった国づくりが行われました。
また、権力がひっくり返る革命が起こったことは、他国の権力者をも恐怖に陥れました。自国でも、民衆が権力者への反発精神を高めかねないからです。
イラン革命は自国のみならず、国際社会に大きな影響を与えたのです。
イラン=イスラム共和国の建国
1979年からイランは国号をイラン=イスラム共和国と改めました。
イスラム法に精通した聖職者が統治する国家として出発し、ホメイニーが最高指導者に。アメリカ文化を否定し、厳格なイスラムの日常や文化を復活させました。
裁判や、映画、文学までイスラムの教えに沿ったもののみを許し、女性が外出する際は、ヘジャープ(頭髪と肌の露出をさける衣服)を着るように義務付けられました。
国際的にはどんどん西欧化・近代化が進む中で、あくまでイスラムの教えに忠実な国家を目指したのですね。
深まるアメリカとの対立
さて、イランを脱出した国王はどうなったのでしょうか。
エジプト、モロッコ、パナマ、メキシコと転々とし、最終的にがん治療のためアメリカに入国しました。
よりによって、アメリカ…。
これをきっかけにイランで反米デモが起こり、学生らがアメリカ大使館職員を人質に取って国王の身柄引き渡しを要求します。
これをアメリカ大使館占拠事件といいます。
イランの民衆は、国王とアメリカに不信感でいっぱいですから。国王とアメリカが何か企んでいるのではと疑ったのでしょう。
ホメイニーも学生らの行動を支持しました。
事態は混乱。
その後、国王が亡くなったため、人質は解放され終結しました。
しかし、この事件でアメリカとイランの対立は決定的になってしまいました。このアメリカ大使館襲撃事件を題材にした映画が「アルゴ」です。筆者はこの映画をみて、イランの反米感情ってえげつないなあと思いましたね。めちゃくちゃ面白いのですが見ていてなんだかストレスを感じずに入られない映画となっています。
イラン・イラク戦争へ
1980年9月にイラクがイランに侵攻します。
イラクはイランのお隣の国。イラン革命の国民への影響を恐れたのですね。そして…、またここでもアメリカが関わってきます。
もちろん味方したのはイラク側。アメリカはイランの反撃でイラクが崩壊し、石油がとれる地域が脅かされたり、他国への革命意識が広がったりするのを恐れたのです。
この戦争は8年もの長い間続きました。
その3年後には、イラン・イラク戦争では味方していたはずのイラクにアメリカが宣戦布告。国連を巻き込んで湾岸戦争が起こります。
その後もイランの国内政治経済への影響はもちろん、中東情勢が混沌としていくこととなるのです。
ルーホッラー・ホメイニーとイラン革命についてわかりやすく解説!
いかがでしたでしょうか?
イラン革命は、アメリカに従属し経済格差と伝統社会の破壊を引き起こしたパフレヴィー王朝を、ホメイニーを中心とした民衆が倒し、イスラムの教えに重きを置くイスラム国家に立て直した革命でした。
そして、アメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などを通じて、イランとアメリカの対立は改善されることなく今も続いています。
この革命は
・強大な国の支援を受けていた王政が、民衆によって崩壊されたこと
・米ソ冷戦の中、どちらにも属さない中立で自立的な国家を建設
・伝統宗教であるイスラム教に回帰されたこと
などに大きな特徴を持っています。
民衆が王制を自ら倒し、世界の流れに属さない伝統宗教に根差した国家を確立。
歴史上でも、他にはない新しいタイプの国家が誕生したといえますね。
革命当初は、欧米ではイラン=イスラム共和国はすぐに崩壊するだろうと思われていたそうです。
しかしその後、あらゆる他国からの介入や干渉にさらされながらも、今日まで革命が作り上げた体制を基本としたまま今日に至っているのです。
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【参考文献】
人物で読み解く世界史365人 佐藤優
イラン現代史 従属と抵抗の100年 吉村慎太
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