みなさん、こんにちは!
まさに今この瞬間にも世界のどこかで戦争が起きていますが、今から約30年前の1992年、ヨーロッパ東部のボスニア・ヘルツェゴヴィナで紛争が起きました。
この紛争は第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争と言われています。
いったい何が最悪だったのでしょうか?
今回は、そのボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争について解説します!
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ~あの世界大戦が始まった場所~
ボスニア・ヘルツェゴヴィナと聞くと、どんなイメージがあるでしょうか?
正直、あまりパッと思いつかないかもしれません。
そんなボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都はサラエボです。
「サラエボ」と聞くと、世界史好きの人は何か思い出すのではないでしょうか?
そうです、それは第1次世界大戦の引き金にもなった「サラエボ事件」です。
この事件は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者夫妻がサラエボでセルビア人青年によって暗殺された事件です。
そして、この事件をきっかけにあの第1次世界大戦が始まったのです。
みなさんが知っているあの第1次世界大戦は、このサラエボでの事件が引き金だったのです。
サラエボがあるこの国は、世界的に有名な出来事の舞台であったことが分かると思います。
かつて存在した国・ユーゴスラビアを構成する国だった
ヨーロッパ東南部のバルカン半島に、かつてユーゴスラビアという国がありました。
ユーゴスラビアは連邦制の国家であり、その中には6つの共和国が存在しているとても複雑な国家です。
その6つの共和国というのがスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアです。
ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれ、とても複雑な多様性がある国家でした。
ユーゴスラビアの国民のなかには「自分の民族だけが偉いんだ!」と主張する“民族主義者”が居ました。
しかしユーゴスラビアの大統領がチトーだったとき、民族主義者は弾圧の対象となりました。
そのため、ユーゴスラビアは民族同士の衝突が起きそうになりながらも、チトーの政策によって平和を保っていました。
3つの民族~ボシュニャク人とセルビア人とクロアチア人~
そんなユーゴスラビアの中にある国 ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、主に3つの民族が暮らしていました。
ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人です。
ボシュニャク人はユーゴスラビアに居るイスラム教徒のうちの1民族です。
紛争が起きる前、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの民族の割合は、ボシュニャク人が約40%、セルビア人が約30%、クロアチア人が約20%でした。
チトーが国を治めていたときは、これらの民族同士で暮らしていたり、民族間で結婚したりと、民族間の対立はほとんどなかったのです。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争~戦後欧州で最悪の紛争~
1980年にユーゴスラビアを平和におさめていたチトー大統領が亡くなりました。
このあたりから、ユーゴスラビアで抑え込まれていた民族主義が各地に広がってきます。
また、スロベニアはユーゴスラビアのなかで経済的に豊かだったので、他の共和国に自分たちのお金が使われることに不満を感じていました。
これらのような事情から、連邦の構成国であることに不満を持つ国がどんどん現れ、ユーゴスラビアからの独立を望むようになります。
しかしセルビアはこうした動きに反対でした。
そしてセルビア人の民族主義者 ミロシェビッチがセルビアのトップになると、「大セルビア主義」というセルビア民族主義をかかげます。
こうしてユーゴスラビア内の各国で緊張が高まってきました。
そんな中、1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアが独立を宣言し、スロベニアとクロアチアでは紛争が起きます。
これが、この後2001年までユーゴスラビアの各地で起こった紛争「ユーゴスラビア紛争」の始まりなのです。
そして1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言します。
対立する3民族、そして最悪の紛争が始まる
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ボシュニャク人とクロアチア人が独立を望んでいましたが、セルビア人は独立に反対でした。
なお、ボシュニャク人とクロアチア人は仲が良い者同士というわけではありませんでした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言した後、EC(欧州共同体)が独立を承認します。
この承認をきっかけにセルビアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対して軍事的行動を起こします。
こうしてボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人による三つ巴の紛争「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争」が始まってしまったのです。
戦場と化したボスニア・ヘルツェゴヴィナ
紛争が始まるとボスニア・ヘルツェゴヴィナは文字通り戦場となりました。
あちこちで銃声や砲弾の音が聞こえるのは日常茶飯事で、街にある建物や家は廃墟となりました。
兵力はセルビア人勢力が圧倒しており、兵力で劣るボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は劣勢を強いられます。
ボシュニャク人とクロアチア人はともに独立派ですが、お互いに敵対している関係です。
敵対する民族への攻撃、特にセルビア人によるボシュニャク人への攻撃はとどまることを知らず、何の罪もない一般市民がたくさん亡くなり、その中には子どもも居ました。
首都のサラエボではセルビア人勢力によって周りが包囲され、必要なモノを外から運ぶことができなくなり、水道・電気・電話回線も断たれ、まともじゃない生活を強いられたのです。
その後も敵対民族に対する攻撃・迫害は続き、この悲惨な紛争は1995年まで続くことになるのです。
スレブレニツァの虐殺~男性8,000人が殺害された~
戦禍は既に最悪なものとなっていますが、この紛争ではもっと最悪なことが起きます。
それが「民族浄化」と呼ばれる、暴力による他民族の徹底的排除です。
民族浄化では同じ人間のすることとは思えない、きわめて非道な行為が行われました。
その1つが虐殺です。
その中でも、セルビア人勢力によるボシュニャク人の虐殺は悪名高く、プリイェドルやフォチャなどの各地で虐殺が行われていました。
1995年7月には、この紛争で最悪規模の虐殺が起こります。
それが「スレブレニツァの虐殺」です。
スレブレニツァを制圧したセルビア人勢力は、市民を男性と女性に分けて別に連行し、その後ボシュニャク人の男性8,000人を2週間ほどで殺害しました。
セルビア人は虐殺によってボシュニャク人を絶滅させようとしたのです。
この虐殺は第二次世界大戦後、最悪の虐殺となりました。
その後のスレブレニツァには、虐殺に遭った人たち約6,000人の墓地が建てられ、見渡す限り無数の墓地の光景が広がっているのです。
大量強姦~悲鳴をあげて泣き叫ぶ女性たち~
民族浄化で起きた極悪非道の行為は虐殺だけではありませんでした。なんと、女性に対する強姦も民族浄化の手段として実行されていたのです。
強姦の被害にあったのは主にボシュニャク人の女性です。
特に酷かったのは、フォチャで暮らすボシュニャク人女性に対して行われたセルビア人による強姦です。
強姦はセルビア人勢力によって組織的に行われました。
セルビア人はボシュニャク人を強姦用の収容所へ連行し、集団強姦のみならず暴行も加えました。
時間帯など関係なくセルビア人勢力はこの収容所を訪れ、好みの女性を選んで強姦したのです。
収容所では泣き叫ぶような悲鳴が響きわたっていました。
このように民族浄化では、女性の尊厳を非道極まりなく踏みにじる犯罪も犯されていたのです。
戦後ヨーロッパで最悪の紛争、終結
熾烈を極める紛争は、NATOがセルビア人勢力に対して大規模な空爆を実行したことにより、終結へ向かい始めます。
この空爆によりセルビア人勢力は一気に勢力を弱めます。
このことによって戦闘は終わり、1995年12月のデイトン合意によりボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結したのです。
この紛争で約20万人もの人々が亡くなったと言われています。
この紛争は戦闘による死者が多いだけでなく、虐殺や強姦といった極悪非道な行為が人間によって犯されたのです。
そういう意味でこの紛争は、第二次世界大戦後のヨーロッパでまごうことなく最悪の紛争なのです。
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