皆さんこんにちは!
皆さんはアフガニスタンという国を知っていますか?
アフガニスタンと言う単語を聞いて内戦や戦争、イスラム国という単語が連想される人も多いと思います。
しかし、絶え間なく戦争をしていた訳ではなく仏教とイスラム教の文化が混ざり合う場所として数々の伝統的で美しい文化が生み出されている場所でもあるのです。
今回はアフガニスタンの歴史について宗教と文化に焦点を当てて解説していこうと思います。
アフガニスタンについて知る
どんな国を学ぶにもまずは基礎情報を知っておいた方がわかりやすいと言えます。
アフガニスタンはニュースなどではよく聞くけど実際はどんな国なのかよく分からないという人が多いと思います。
ここではアフガニスタンについての基本的な情報を知り歴史を分かりやすくしましょう。
アフガニスタンってどんな国?

まずアフガニスタンという国は南アジアにあります。
正式名称はアフガニスタン・イスラム共和国と言い、首都はカブールにあります。
南東にはパキスタン、西はイラン、北はタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンと国境を接しているイスラム系の国家で、海に面していない内陸の国となっています。
国土は約 65 万平方キロメートルで日本の約 1.7 倍の少し大きな国です。
人口は 3100 万人とそれほど多くなく、人口の約 45%がパシュトゥーン人で約 30%がタジク人、約 12%がハザーラ人、約 10%がウズベク人で多民族国家となっています。
公用語はパシュトー語とダリー語が用いられています。
国民のほとんどがイスラム教を信仰しており、約 85%がスンニ派、約 14%がシーア派、1%がシーク派となっています。
アフガニスタンには何がある?

アフガニスタンのある場所は古くから文化において重要な場所となっており、歴史的な観光スポットが多くあります。
まず、代表的なものにバーミヤン渓谷の遺跡群があります。
これは仏教の遺跡として大仏が2 体ありました。
しかし、1979 年のアフガニスタン紛争、2001 年のアフガニスタンタリバン政権の時に 2 体とも破壊されてしまったので現在では形は残っていまん。
こちらの遺跡は 2003 年に世界遺産として登録されました。
同年に危機遺産にも登録され、負の遺産として惨劇を繰り返すことのないよう教訓とすべく破壊されたままの形で残されています。
次にブルーモスクというものがあります。
これはイスラム教の礼拝堂であり、コバルトブルーのタイルがベースの壁に色とりどりのタイルが散りばめられている。
アフガニスタンの食事と芸術
さて、次にアフガニスタンの料理と芸術についてみていきましょう。アフガニスタンのポピュラーな主食はナンです。
一言でナンと言ってもインド風の大きな薄いものからイラン風の薄くて長いパンのような形であったり、文化がぶつかる場所として様々な形で存在しています。
またこめも食べられておりパロウという細長い米を玉ねぎやトマトなどと炊き込んで食べるものが有名です。
こちらもペルシャ風やトルコ風といった違いがあります。
アフガニスタンではヨーグルトが乳製品の代表格となっており、野菜料理に使われたり、そのまま食べられたりすることも多いです。
イスラムの国ということで肉料理は少なくなっています。
アフガニスタン芸術はインド系の仏教芸術とイスラム芸術が共存していました。
しかし、近年のタリバン政権の台頭によって先程のバーミヤン遺跡群のように仏教芸術は破壊されています。
イスラム教以外の宗教は弾圧されている関係からイスラム芸術以外は許されていないので現在ではアフガニスタンの芸術はイスラム芸術であると言えます。
アフガニスタンの歴史について知る

ここまではアフガニスタンの基本知識について解説してきました。
ここからはいよいよアフガニスタンの歴史について知っていこうと思いす。
アフガニスタンがある場所は歴史的に非常に重要な場所であり、複雑な場所なので世界史を学ぶ人は苦手な人は多いかと思います。
しかし、複雑な歴史を持つということは内容が濃く面白い歴史を持つとも言えます。ここでは先史時代から順に歴史を追っていきます。
今の基礎となる先史
先史時代にはまだ「アフガニスタン」という国はありませんでした。
しかし、10 万年前頃〜1 万 5 千年前頃の石器が出土していることからこの地域に広く人が住んでいたことが分かります。
また、1 万年前頃には農耕や牧畜の跡が、6 千年前頃にはこの地域特産のラピスラズリが輸出された痕跡も発見されています。
先史時代のことはわかっていることが少なく、明確な文章も残っていないので実際にどんな生活を営んでいたかは不明です。
この地域が貿易や農耕牧畜で発展していたことがわかっています。
激動の古代
さて、ここからは古代時代に入っていきます。
様々な王朝が 興っては滅ぶ を繰り返した古代のアフガニスタン地域について見ていきます。
まず、前述した通りアフガニスタンは東西文化交流の要衝に位置するので他の地域の文化が多く入ってきました。
紀元前 4 百年頃にはアレクサンドロス大王が遠征し、ギリシア人によってバクトリア王国が成立したことからギリシア文化がもたらされました。
1 世紀には仏教系王朝のクシャーナ朝が成立し仏教の影響を受けたガンダーラ美術が発展しました。
その後、ゾロアスター教(拝火教)系のササン朝に従属しました。この頃、遊牧民族であるエフタルの侵入がありましたが、これを何とか抑えました。
642 年にニハーヴァントの戦いでササン朝が滅亡するとイスラムに支配され一気にイスラム化が進行することになります。
イスラム化進む時代
アラビア半島で興ったイスラム教はその勢力をイラン、トルコ、中央アジアに伸ばし、トルコ人とイラン人はそれぞれ地方勢力を生み出し、10世紀にはこの地域から非イスラム王朝が消えることになりました。
アフガニスタン地域では、古代でアラブ系に支配されイスラム化が進む中、9 世紀にはサーマーン朝によってイランの政治的復興が行われていました。
その頃トルコ系王朝のガズナ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝が勢力を伸ばしておりやがて支配下に置かれました。
この中でもガズナ朝はアフガニスタン全土を支配しらインドの中心まで征服することになります。
しかし、アフガン系諸部族によってインド北部で樹立されたゴール朝によってガズナ朝は滅亡することになります。
この頃のゴール朝の王、アラー・ウッディーン・フサイン 2 世は「ジャハーンソズ(世界を焼き払う者)」という異名がつけられました。
迫るモンゴルとアフガン王家の統治

アラー・ウッディーン・フサイン 2 世の死後ゴール朝は一気に崩壊し、アフガニスタンはホラズム・シャー朝のアラー・ウッディーン・ムハンマドに委ねられることになります。
この頃、アフガニスタンは中国、トルキスタン(現在のカザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、新疆ウイグル自治区)、イラクにまで勢力を伸ばします。
ホラズム・シャー朝はさらにアッバース朝のバグダードに進軍し、アッバース朝支配を目論みます。
しかし、その頃アフガニスタン東部にチンギスハン率いるモンゴル帝国が侵略してきます。
反撃しましたがいくつかの都市は奪われてしまい、ホラズム・シャー朝は滅亡してしまいます。
その後、しばらくは一部がモンゴルの支配下に置かれますが、チンギスハンの死後、アフガニスタン各地で族長が独立した国家を立ち上げ、様々な王国が出来上がっていくことになります。
14 世紀にはティムールがモンゴル帝国の復興を目指しティムール朝が興り、アフガニスタンの大部分を支配しました。
16 世紀にウズベク族のシャイバーニー朝によってティムール朝は滅亡します。
その時、ティムールの子孫であるバーブルはアフガニスタン中部のカブールという街を領有しており、カブールを首都とする国家を建国しました。
バーブルは同時期に興っていたサファヴィー朝と共にシャイバーニー朝を滅亡させ、勢力を伸ばしアグラを首都とするムガル帝国を建国しました。
ムガル帝国はこの後 200年インド地域を支配し、大いに栄えることになります。
この頃、アフガニスタンはムガル帝国とサファヴィー朝によって分割統治されており、これはムガル帝国滅亡まで続くことになります。
18 世紀に入ると、アフガン系の部族であるパシュトゥーン人ギルザーイー部族がサファヴィー朝に対して反乱を起こし、いくつかの都市を陥落させ、そのままサファヴィー朝の王座を奪いました。
ギルザーイー部族が支配するサファヴィー朝の勢いは止まらず、ペルシャに攻め入り、1722年にはペルシャの首都、イスファハーンを襲撃しました。
その後もオスマン軍を破るなど、かなり強大な勢力となっていましたが1729 年に復活したペルシャ郡に敗れ、そのままアフガニスタン内にも攻め込まれ陥落されます。
その後しばらくはペルシャ系王朝による支配が続きますが、18 世紀後半パシュトゥーン人が支配から独立してドゥッラーニー朝を建国しました。
この頃、東方では清が勢力を拡大しており、ドゥッラーニー朝は清と国境を接することになります。
清の皇帝はドゥッラーニー朝に朝貢を要求し、それ以降ドゥッラーニー朝は清の朝貢国(服属国)となりました。
19 世紀に入るとこの頃のインドを支配する大英帝国と同盟を結び、フランス、ロシアに対抗する意志を見せるなど好戦的な外交で世界と交わりをもちはじめます。
19 世紀中期には国号をアフガニスタン首長国に変えましたが、この頃、中央アジアへの南下を画策するロシアとインドを死守したいイギリスの対立に巻き込まれていました。
1838 年、イギリスはアフガニスタンへの派兵を決断し、第 1 次アフガン戦争が始まることになります。
アフガニスタンの諸都市は次々に征服され、主要都市のカンダハール、カブールなども破壊され第 1 次アフガン戦争は幕を閉じました。
様々な都市が破壊されましたが、何とか独立を保ったアフガニスタンは 1855 年にイギリスとの間に相互防衛の条約を結び、アフガニスタン進出を狙うイランガージャール朝のアフガン進出を阻止しました。
帝国による保護国化

こうした中で、ロシアは着々と中央アジアへ迫っており、アフガニスタンへもイギリスの影響を受けないようにするために外交使節を送ってきていました。
それを知ったイギリスは首都カブールに大使館を置くように要求しましたが、返答がなかったのでアフガニスタン派兵を決定しました。(第二次アフガン戦争)
その後しばらくは駐留していたものの、1879 年、カブールでの反乱でイギリス軍は大敗、イギリス軍は撤退することとなります。
この時、アフガニスタンはイギリスからの内政干渉を受けない約束を取り付けるためにイギリス以外の国との政治的な交流を持たないことを約束し、事実上のイギリスの保護国となりました。
1897 年にはアフガニスタン国王とイギリス外相との間で国境を設定しましたが、アフガニスタンが考えていた精密なものではなく、暫定的なものだったため、パシュトゥーン人が分断されることとなり、現在の国境問題に発展する元になったのです。
独立から現在に至るまで
しばらくはイギリスの保護国化が続いたものの、1919 年、時のアフガン国王は先程の国境画定で分断され、奪われたパシュトゥーン人の土地を取り戻すためにイギリスに対し、第三次アフガン戦争を仕掛けることになります。
しかし、近代的で圧倒的な軍事力をもつイギリスによって早々に終戦となり条約を交わすことになりました。
しかし、第一次世界大戦やインド大反乱によって疲弊していたイギリスは国境を維持することを条件にアフガニスタンの独立を認めることになりました。
独立したアフガニスタン王国は 1921 年にソビエト連邦と友好条約を締結し、1923 年には憲法を制定、立憲君主制がとられ、イスラム教が国教とされました。
しかし、急激な改革に国内の保守層に反発を招き、カブールで反乱が起きました。
その後、保守層との妥協が図られましたが、1953 年に親ソ連派が政権を取ると保守層を弾圧。
急進的なイスラム主義が台頭することになりました。
1973 年には王政が廃止されアフガニスタン共和国になりました。
この頃にも反急進勢力は弾圧され、海外に亡命した反ソ連志向の指導者によってムジャーヒディーンが結成されました。
これが後のアルカイダやタリバンなどに発展します。
その後も政権を取る派閥によって国号を次々と変えていきますが、2004 年に現在の名称であるアフガニスタン・イスラム共和国が誕生することになりました。
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