みなさん、こんにちは!
私たちにとって国の指導者が誰なのかは、とても重要ですよね。
指導者によって国の行く末、そして私たちの生活の行く末が左右されます。
かつて存在した国・ユーゴスラビアに、チトー大統領という指導者がいました。
チトーは「カリスマ指導者」との呼び声が高い人物です。
いったい、どういうところがカリスマだったのでしょうか?
今回は、そのチトーの生涯と評価について解説します!
チトー大統領~ユーゴスラビアの指導者~
かつてヨーロッパ東南部のバルカン半島に、「ユーゴスラビア」という国がありました。
この国は1918年から2003年まで存在した国です。
第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックの舞台となったサラエボは、このユーゴスラビアの地にあった都市です。
そんな国 ユーゴスラビアの歴史は、今回お話するチトーを抜きにして語ることができないのです。
ここではウォーミングアップとして、「チトー」という名前、そして彼が治める国 ユーゴスラビアについて見ていきましょう。
「チトー」は本名ではない
チトーのフルネームは「ヨシップ・ブロズ・チトー」です。
しかし、これは本名ではありません。
本名は「ヨシップ・ブロズ」で、「チトー」は本当の名前ではないのです
「チトー」というものは、ユーゴスラビア共産党に在籍していたときにチトーが名乗り始めた“通称”なのです。
「チトー」は、クロアチア語・セルビア語で「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という意味です。
このような意味を持つ通称なので、このことを冗談で用いられることがあったようです。
当時も今もチトー大統領の呼称は、本名ではない「チトー」でよく呼ばれています。
複雑な多様性を抱える国 ユーゴスラビア

そんなチトーが治める国 ユーゴスラビアは、ある“難しい事情”を抱えていました。
それは「複雑な多様性」です。
ユーゴスラビアは連邦制国家であり、その国家はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアの6つの共和国で構成されていました。
しかし、これら6つの共和国では、民族や言語そして宗教などがバラバラだったのです。
その多様さは、ユーゴスラビアが「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれるほどのものでした。
これほどの多様さを抱えると、やがて共和国同士や異民族同士で争いが起きやすくなります。
でも、チトーはそんな困難な事情を抱えるユーゴスラビアを素晴らしく統率していくのです。
カリスマ指導者・チトーの生涯

それでは1つ目の本題「チトーの生涯」に入っていきましょう。
チトーの生涯は「軍人時代」と「ユーゴスラビアの指導者時代」に分けることができます。
チトーの軍人時代は波乱にまみれた時期と言えます。
しかし軍人時代のチトーの功績が、のちにユーゴスラビアで人々の心をつかむことになります。
ユーゴスラビアの指導者時代は、チトーの政治的な手腕が功を奏し、比較的平穏なものでした。
そしてチトーの性格や手腕が人々の心をつかみ、ユーゴスラビアをまとめ上げます。チトーのカリスマ性はいったいどこにあるのか?チトーの生涯を一緒に追っていきましょう。
生い立ち~政治活動への目覚め~
チトーは1892年、クロアチア人の父親とスロベニア人の母親の間に生まれました。
出生地は今のクロアチアにある場所です(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)
チトーは15歳のときに故郷を離れ、鍵屋で働き始めます。
そこで働く中でチトーは労働者の権利について思うことがあったのか、労働運動を始めます。
その後、金属製造の職人たちによる労働組合に加入し、オーストリア=ハンガリー帝国の各地にある社会民主党にも入党します。
こうした活動を始めたチトーは、のちの従軍時代まで国内のあちこちで働くことになります。
第一次世界大戦の従軍時代~逮捕と脱走のくり返し~

このようにして働いた後、チトーは徴兵により軍隊に従軍します。その翌年、第一次世界大戦が起き、セルビアに派遣されます。
チトーはそこで戦争に反対するメッセージを発信し、そのことが理由で逮捕されてしまいます。
第一次世界大戦のとき、オーストリア=ハンガリー帝国はロシア帝国と敵対していました。
そのためチトーは更に翌年、ロシアに攻撃を仕掛けるために、ロシアに近いウクライナへ派遣されます。
そこでチトーを含む部隊の隊員全員がロシアの捕虜となってしまい、労働収容所に収監されます。
しかしそんなことはお構いなく、そこでチトーはほかの捕虜たちを誘いデモを起こします。チトーはロシアに対して反抗し、それが理由でまた逮捕されたのです。その後、ロシアの隣の国まで脱走しますが、またしても逮捕されます。
再び労働収容所に収監されますが、チトーはここでも脱走し、今度こそ逃げ切ることに成功します。
このように第一次世界大戦で従軍していた頃は、何度も逮捕や脱走を繰り返していました。
ユーゴスラビア共産党に入党
その後、チトーは帰国します。
すでにオーストリア=ハンガリー帝国は無くなっていました。
チトーはユーゴスラビア共産党(KPJ)に入党します。
「共産」とは「財産や生活手段を社会全体で共有する」という意味で、共産党はそういった社会の実現を目指す政党です。
KPJは民衆を取り込んだ活動によって台頭しますが、ボスニアで起こしたストライキが原因で政府によってマークされ弾圧を受けます。
政府による弾圧はどんどん強くなり、チトーはそこで4度目の逮捕をされ、そこから5年間も収監されました。
この間、バルカン半島に「ユーゴスラビア王国」が成立します。
刑期を終えた後、チトーはコミンテルンという国際的な共産主義組織で働き始めました。
この頃には、1-1節「チトーは本名ではない」でお話したように自らを「チトー」と名乗っていました。
その後、チトーはKPJの指導者となります。
KPJは勢力を完全に失っていましたが、チトーがコミンテルンの指導を受けたことで、KPJは勢力を取り戻します。
ナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻

そんな中、第二次世界大戦が起きます。
ナチス・ドイツのヒトラーはユーゴスラビアをドイツが属する「枢軸(すうじく)国」側に付くよう要求していて、ユーゴスラビアのトップはこれに進んで応じようとしていました。
しかし、このことに対してユーゴスラビアの軍部や民衆の中で賛否両論が起こります。
チトーが属する共産党もヒトラーの要求に反対でした。
1941年、そうした混乱がある中で、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリーの枢軸国勢力はユーゴスラビアへ侵攻します。
ユーゴスラビアは枢軸国勢力を前に全く太刀打ちできず敗北し、枢軸国によってユーゴスラビアは分割統治されることになってしまいます。
しかし、このままで終わらせないのがチトーなのです。
ユーゴスラビア人民解放戦争~パルチザン闘争~
枢軸国に対抗する勢力としてユーゴスラビアで台頭してきたのが、KPJが主体の「パルチザン」という軍隊です。
そのパルチザンの指導にあたっていたのがチトーです。
パルチザンは「兄弟愛と統一」をモットーにしていました。
このモットーは「民族の違いは問題にせず、1つにまとまろう」という意味で、「多数民族とも少数民族とも対等に付き合う」というものでした。
1-2節でお話したようにユーゴスラビアには色々な民族が居るため、民族間で対立が起きやすく、ユーゴスラビア全体で国民がまとまるということはありませんでした。
枢軸国の支配を受ける中、パルチザンのこのモットーはユーゴスラビアの各地で支持を集めます。
当初、兵力は枢軸国の兵力に対して、取るに足らないほど弱かったパルチザン。
しかし「兄弟愛と統一」というモットーに惹かれて、ユーゴスラビアの各地から兵士が集まるようになったことなどがあり、パルチザンの兵力は増強し、枢軸国を相手にできる兵力をそろえていきます。
その後、チトー率いるパルチザンと枢軸国勢力の戦争は熾烈を極めます。
それでもパルチザンが活躍し、1945年に枢軸国勢力を敗北させ、ユーゴスラビアは枢軸国の支配から解放されたのです。
そして、のちに第二次世界大戦が終結しました。
ユーゴスラビアの指導者に~カリスマ指導者誕生~
第二次世界大戦終結後、ユーゴスラビアは「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」として成立します。
その初代首相にチトーが選ばれます。
政治手法は「独裁政治」を取り、モットーにはパルチザン時代の「兄弟愛と統一」を掲げました。
ユーゴスラビア国民にとってチトーは、パルチザンを率いて国を救った英雄で、差別を嫌う素晴らしい性格を持つ人物であり、とても人気がありました。
チトーの経歴を見れば、人々がチトーに惹かれるのも分かりますね。
しかしそんな中、ユーゴスラビアに次なる問題が待ち構えていました。
それがロシア帝国の後身国、ソビエト連邦(ソ連)との関係です。
スターリンと決別、そして返り討ちに
当時のソ連はスターリンの指導下にあり、スターリンの意に反する者は粛清されることで恐れられていました。
第二次世界大戦中はユーゴスラビアとソ連は協力関係にありましたが、ここから関係が悪化していきます。
スターリンはユーゴスラビアを自国に取り込もうと企みますが、チトーはユーゴスラビアの独立を譲りませんでした。
そして、関係が完全に悪くなったチトーとスターリンは完全に決別します。
スターリンは、チトーとKPJ一味をコミンテルンの後身、コミンフォルムから追放し、その後、ソ連からユーゴスラビアへ刺客を送ってチトーを暗殺しようとします。
しかし、チトーは秘密警察によってスターリンからの刺客を全て返り討ちにします。
そして更にチトーは「これ以上こちらに刺客を送るのなら、こちらもお前の方に刺客を送る」と告げて、スターリンを牽制します。
これにはスターリンも成す術がありませんでした。
こうしてユーゴスラビアはソ連による支配を受けることなく済んだのです。
カリスマ指導者チトー・死す

その後、チトーは内政でも外交でも素晴らしい働きをし、ユーゴスラビアの黄金時代を築き上げます。
チトーの功績については3章でお話します。
このようにチトーは軍人時代に続いて、ユーゴスラビアの指導者としても活躍したのです。
しかし、そんなチトーに寿命が近づいていました。
晩年、チトーは体調を崩し、そしてそれは悪化の一途をたどり、ついには左足を切断する手術まで受けます。
それでも回復に至らず、1980年、チトーは87歳で亡くなりました。
ユーゴスラビアの人々にとってチトーは、国を救った英雄であり、国を良くしてくれた指導者です。
経歴や人柄を見ると、ユーゴスラビアの人々が惹かれるのも納得のカリスマ指導者です。
その後に行われたチトーの国葬には、世界各国から要人が来ました。
チトーがユーゴスラビア国外からも評価を受けていたことがうかがえます。
こうして多くの人に見守られながら、チトーは生涯を終えました。
コメント