こんにちは!世間はタリバンのニュースから少し落ち着いてきましたね。
タリバンはイスラム教を信じる人たちのうち、過激な考え方をもつ人々が結成した組織です。
最近の中東のニュースばかり見ているとイスラム教=怖い宗教というイメージがあるのではないでしょうか?
しかしイスラム教は本来、慈愛に満ちた宗教なのです。今日はそれを体現したイスラム世界の英雄、サラディンについてみていきたいと思います。
サラディン・流浪の青年時代
サラディンは、12世紀のイラクで生まれました。
当時のイスラム世界はキリスト教徒との戦いのみならずイスラム教徒同士でも戦いが繰り広げられる戦国時代のような乱世でした。
この章では、幼いサラディンとその家族が乱世の中でどのような生活を送っていったのかを見ていきます。
サラディンの生誕
彼は1137年現在のイラク北部のティクリートという町に生まれ、「ユースフ」と名付けられました。
母親についてはほとんど記録がないのですが、4人兄弟であったことは分かっています。
父親のアイユーブはティクリートの町を治める代官でしたが、弟のシールクーフがキリスト教徒を誤って殺したことで、この地を治めるセルジューク朝という国から「ティクリートから立ち去るように」という命令を受けていました。
路頭に迷うユースフ一家をある人物が助けます。
それはイマードゥッディーン・ザンギーという武将でした。
父アイユーブはかつて、ザンギーがセルジューク朝と戦って敗走する途中にその闘争を助けたことがあったのです。
かつての恩人一家を歓迎し、父アイユーブは彼の軍団長に任ぜられ、さらに占領したシリア北部のバールベックという町の統治を任せるようになります。
幼いユースフも少年時代をここで過ごすことになりました。
バールベックは穀物や果物が良くとれる豊かな町で、ここで彼の性格の良さが育まれたといわれています。
家族の恩人の死・分裂する家族
しかし、彼の平穏な時期も長くは続きませんでした。
父アイユーブの恩人であったザンギーが部下に暗殺されます。
すると、分裂したセルジューク朝の後継国家のひとつ、ブーリー朝がバールベックの町を包囲・攻撃します。
父アイユーブはこの攻撃に耐え、予想以上に苦戦したブーリー朝の王・ムイーヌッディーン・ウナルは、「保証金を差し上げたうえで、あなたたちの生活を保障するから、町を明け渡してほしい」と交渉します。
ブーリー朝へのこれ以上の抵抗は難しいと考えた父アイユーブはこの要求を吞み、ユースフ一家は、ブーリー朝の首都・ダマスクスに移住することとなります。
この時ユースフはわずか8歳であり、ここから約20年間をダマスクスで過ごすことになります。
一方、叔父のシールクーフは「恩人の敵に降るとは何事か」とユースフ一家とは袂を分かち、ザンギーの息子・ヌールッディーン・マフムード率いるザンギー朝に仕えました。
こうして家族は分裂したのです。
一人前のイスラム戦士として
流浪の青年時代を送ったユースフでしたが、この経験によって力をつけた青年ユースフは徐々に頭角を現してきます。
そんな時、ムスリム(イスラム教徒)同士の戦いに加えて、ある強敵がイスラム世界を襲います。
この章では、混乱するイスラム世界とその中で活躍するユースフの姿を追っていきます。
十字軍によるイスラム世界への侵攻
ブーリー朝とザンギー朝が対立していた時、西方から全く異なる宗教を信じる軍隊が攻め込んできます。
それがキリスト教国の連合軍・十字軍です。
ここで軽く十字軍と結成の背景について触れておきましょう。
そもそもイスラム教とキリスト教の対立は、イェルサレムという一つの都市を巡って生まれたものでした。
この都市は、以下の理由から3つの宗教の聖地がある場所なのです。
宗教 |
聖地 |
聖地となった理由 |
イスラム教 |
岩のドーム |
預言者ムハンマドがこの地から天馬に乗って神の御前に向かったといわれているため |
キリスト教 |
聖墳墓教会 |
イエス・キリストがこの地で処刑され、復活を遂げたため |
ユダヤ教 |
嘆きの壁 |
ユダヤ人の偉大な王であるダビデ王・ソロモン王によって定められた都であったため |
元々この都市はビザンツ帝国というキリスト教国家が支配していました。
イスラム教国家のセルジューク朝によってイェルサレムが占領されると、ビザンツ帝国はローマ教皇に救援を求めました。
ローマ教皇ウルバヌス2世はヨーロッパの王や貴族たちに「十字軍を結成し、聖地イェルサレムを取り戻そう」と訴えます。
当時のヨーロッパの人々にとってはキリスト教の総本山であるローマ教皇のいうことは絶対であったため、すぐに軍隊が集まり、ここにキリスト教徒とイスラム教徒の長い戦いがはじまったのです。
しかし十字軍はたくさんの国の軍隊や民衆が集まってできた烏合の衆であったため、軍隊の規律はとれておらず、各地で強姦や殺人、強盗などを働いていました。
なんとかイェルサレムにたどり着いた彼らは一気に攻め込みます。ここでも多くのムスリムやユダヤ教徒が殺されました。
そしてここにイェルサレム王国というキリスト教国家が生まれます。
しかし歴史の経緯から多くのイスラム教徒はイェルサレム王国に強い憎悪の念を抱いていました。
若手行政官としての腕前
成人とみなされる数え年15歳に達したユースフは、サラディンと名乗ります。
そしてダマスクスの父のもとを発ち、ヌールッディーン(ザンギー朝)に仕えていた叔父シールクーフのもとに身を寄せます。
サラディンの才能を見抜いていた叔父シールクーフは主君ヌールッディーンに彼を推薦し、サラディンは15歳にしてイクターという地方官に任命されます。
この頃、ザンギー朝と対立していたブーリー朝でしたが、イェルサレム王国と接近したことで、領内のムスリムたちの不満が高くなっていました。
父アイユーブもその一人であり、弟シールクーフと内通して、首都ダマスクスを無血開城することを計画します。
そしてついに1154年にダマスクスは無血開城し、ブーリー朝は崩壊しました。
この功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治を任されるようになります。
サラディンもまたダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任されるようになります。
エジプトでの十字軍との戦い(第2回十字軍との戦い)
さて当初の目的を果たした十字軍でしたが、だんだんその目的は聖地奪還から領土拡大へと変わっていきました。
第2回十字軍を結成し、シリアのダマスクスを包囲、またエジプトを治めていたファーティマ朝を攻撃します。
これに対して、父アイユーブの活躍によりダマスクスを十字軍の包囲から解放しました。
これを見たファーティマ朝の宰相シャーワルはヌールッディーンに救援を求めます。ヌールッディーンはシールクーフにエジプト遠征を命じます。
シールクーフはこの遠征にサラディンを連れていきたいと強く考えていました。
サラディンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌っていましたが、シールクーフの再三の説得によって同行を承諾したといわれています。
こうしてユースフは叔父シールクーフとともにエジプトに向かい十字軍を撃破します。
叔父シールクーフはサラディンをとても信頼し、「サラディンに相談したり、彼の意見を聞いたりしない限り、何事も裁決しなかった」といわれています。
初陣でのまさかの裏切り(第2回十字軍・ファーティマ朝との戦い)
1164年5月にシールクーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。
シャーワルは宰相職に復権しました。
しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れたシャーワルはエジプトからの退去をシールクーフらに要求しました。
それだけにとどまらず、なんと敵であるはずのイェルサレム王国のアモーリー王にひそかに援軍を求めたのです。
こうして派遣軍は市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲され、身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなりました。
こうしてサラディンの初陣は同胞だったはずのファーティマ朝に裏切られる形で終わったのです。
アイユーブ朝の創設と度重なる戦い
まさかの同じムスリムの裏切りにより初陣にて敗退したサラディンでしたが、落ち込んでいる暇はありません。
なんとかシリアにたどり着いたシールクーフはすぐにこの屈辱を果たすべく直ちにエジプト遠征の準備を始めます。
この章では今度こそ初の活躍を見せたサラディンの勇姿とエジプトでの行政官としての活躍を見ていきたいと思います。
アレクサンドリア防衛戦・第2回十字軍・ファーティマ朝との戦い
サラディンが30歳の時に、叔父シールクーフ率いる第二回エジプト派遣軍(シリア軍)がダマスクスを出発します。
これに対して、ファーティマ朝はイェルサレム王国に援軍を要請し、ここにザンギー朝vsエジプト・イェルサレム王国連合軍が激突します。
激戦の上、シリア軍が勝利します。
そしてこの戦いの後、派遣軍一行はザンギー朝への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ滞在します。
そのころ、上エジプトという地域で不穏な動きがあるとの情報を得たシールクーフはサラディンにアレクサンドリアの防衛を任せ、偵察に向かいます。
しかし、なんとエジプト・エルサレム王国連合軍はその隙を突いて、アレクサンドリアを包囲攻撃しました。
サラディンはこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切ります。
そして敵軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功したのです。
こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなりましたが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラディンの最初の歴史的軍功となったのです。
宰相への就任と叔父の死
その後、シールクーフはサラディンやその弟アーディールなどを引き連れ、三回目のエジプト遠征をおこないます。
これに対して十字軍もエジプトに上陸し、シリア軍を迎え撃とうとしますが、ファーティマ朝は強すぎるシリア軍に萎縮してしまい、降伏してしまいます。
最終的に、戦争の原因を引き起こした宰相シャーワルが処刑され、代わりの宰相としてシールクーフが任命されます。
こうしてエジプトの実験を握ったシールクーフでしたが、その2か月後に、シールクーフは病死。
サラディンはこの出来事にショックを受け、悲しみますが、それはエジプト宰相の座が自分に渡されることを意味していました。
こうして宰相に就任したサラディンは「マリク・アル=ナースィル(勝利の王)」の称号を使用するようになります。
ファーティマ朝の反乱鎮圧・アイユーブ朝の創設
そのころ、ファーティマ朝に仕えるムータミン・アル=フィラーハという人物はサラディンがファーティマ朝の軍人から没収した土地を自身の配下に授与していることに危機感を覚えていました。
そして十字軍勢力と結託して反乱を企てたのですが、陰謀を察知したサラディンは事前にムータミンを処刑したのです。
1169年8月、ムータミンの処置に反発したファーティマ朝のザンジュとよばれる黒人奴隷兵はカイロ市内で蜂起しました。
サラディンはこれを鎮圧し、彼らの勢力を一掃します。
同年9月15日に病床にあったファーティマ朝の王アーディドがなくなったことで、ファーティマ朝は滅亡します。
サラディンは、マクスとよばれる市場税、巡礼者の通行税などを撤廃し、民衆からの支持を集めるようになりました。
民衆の人気を得たサラディンは同年に王の座につきます。そして王朝の名を父の名であるアイユーブ朝と名付けたのです。
主君との軋轢、父の死
一方、かつての主君であるヌールッディーンはサラディンがエジプトで独立した王朝を樹立したことに大きな衝撃を受け、警戒するようになりました。
なぜならサラディンに対して何度も「シリアに帰還せよ」と命令しましたが、サラディンは理由をつけて何度も拒否し、ついに応じなかったからです。
さらにサラディンの人望が厚いためエジプトのアミールと呼ばれる軍司令官の中にはヌールッディーンの呼びかけに応じず、エジプトに留まるものも現れました。
サラディンは彼らの中からクルド人とトルコ系のマムルークと呼ばれる青年奴隷を選抜し、自身の名前にちなんでサラーヒーヤと呼ばれる軍団を新たに編成しました。
また、ヌールッディーンはイスラム教の中でスンナ派と呼ばれる宗派を信じていたため、エジプトでもスンナ派の様式に則った礼拝を行うよう求めていました。
しかしサラディンはスンナ派と対立するシーア派の人々の気持ちも尊重し、それを慎重に行ったため、ヌールッディーンと徐々に対立するようになります。
この両者の仲介役として奔走したのが父アイユーブです。
彼は息子が宰相となったときもカイロに赴き、助言するなど息子の成功を願いつつも、ここまで自身を取り立ててくれたヌールッディーンのもとを離れることもできませんでした。
そのため、両者の仲を収めるために尽力したのです。
しかし1173年8月、アイユーブは乗馬中の事故によって命を落としてしまいます。そして父の努力もむなしく、のちに両勢力は戦うことになったのです。
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