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ユリウス・カエサルとは何をした人物なのか?名言「ブルータス!お前もか!」はなぜ放った?

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ガイウス・ユリウス・カエサル(BC100~BC44)は共和制ローマの舵を大きく切り、帝政に変える役割を果たした人物です。

「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータスよ、お前もか」という言葉で知られてはいても、カエサルが何を、どうやって成し遂げたのかはあまり知られていないかもしれません。

イタリアの高校の歴史の教科書には、次のような一節があるそうです。

「指導者に求められる資質は、次の5つである。知性。説得力。頑健な肉体。自己制御の能力。持続する意志。」

そして次の言葉で結ばれるのです。

「カエサルだけが、この全てを持っていた。」

カエサルを研究する人達は、研究する過程で人間としてのカエサルに魅了されてしまう事が多いと言います。この文を読んで、カエサルの事跡と人物について少し詳しくなってみませんか?

目次

カエサルは双葉より芳し?

帝王切開という言葉の語源は、後にその名が皇帝の代名詞ともなるカエサルがこの方法で生まれたからだ、という説がありますがこの説は明確に否定されています。

当時の医学水準では、帝王切開したら母体は確実に死に至りますが、カエサルの母アウレリアはカエサルが40歳過ぎまで生きていたことが確認されているからです。

ドイツ語で切開切除を意味するKaiserschnittを日本語に訳した際、Kaiserを皇帝と訳してしまったために生まれた誤訳とされています。

ともあれ、カエサルが生まれたのは名門でありながら当時はさほど脚光を浴びない貴族の家柄でした。

伯父が伯父を殺した!

ポエニ戦争で勝利し、地中海の覇者となったはずのローマでしたが、同胞同士の血で血を洗う政争が起こります。

元老院派ルキウス・コルネリウス・スッラと民衆派ガイウス・マリウスの争いです。

カエサルが13歳の頃、スッラ不在を衝いてマリウスがローマを制圧し、スッラの元老院派を粛清しつくします。その中にはカエサルの伯父二人もいました。

マリウスもカエサルの伯父に当たりますから、当時13歳のカエサルは伯父が伯父たちを殺すというショッキングな出来事に出会ったのです。

いつもは市民への演説が行われる広場、フォロ・ロマーノに並べられた首が放つ血の匂いは、ほど近いカエサルの家まで漂ってきたのです。

100人のマリウス

マリウス死去の3年後、カエサルは父を失います。

自然死だったといいますが、姉と妹しかいないカエサルは、16歳にして家長となったのです。

時のコンスル(執政官)ルキウス・コルネリウス・キンナは自他共に認めるマリウスの後継者でした。彼は自分の娘とカエサルの縁談を持ちかけました。カエサル最初の結婚は政略結婚でした。

BC84年、カエサル18歳の時、ローマにスッラが軍勢を率い向かうとの知らせがもたらされます。これあるに備えていたキンナは迎撃に出ますが、その途上で事故によって命を落としてしまいます。

キンナの死でほぼ抵抗なしにローマに戻ったスッラは、やはり反対派の粛清に乗り出します。

感情と怒りにまかせたマリウスと違い、スッラは反対派の名簿を作り、丹念に、冷酷に粛正を実行していきました。ローマ版デスノートです。

名簿の中にカエサルの名もありました。

決めたことは鉄の意志で貫き通すスッラでしたが、周囲の懸命の助命、とりわけ市民の尊敬を集めるウエスタの巫女の懇願まで受けて、しぶしぶカエサルの名を削除しました。

しかしその時、こう付け加えたのです。

「君たちにはわからないのかね。あの若者の中には100人ものマリウスがいることを。」

この言葉は予言となって実現します。スッラも慧眼の持ち主であったのです。

カエサルは死を免れましたが、フォロ・ロマーノは再び血で塗れたのです。

三頭政治まで

助かったとはいえ、ローマにいられなくなったカエサルは小アジア(現シリア・トルコ近辺)で初の軍務を体験したり、留学も兼ねてギリシアで過ごす中、スッラ死去の知らせが入ります。

27歳のカエサルはローマに戻ると、ポンティフクス(神祇官)15人の1人となります。目立たぬ役職ですが、いまだスッラ派が実権を握る中での就任はほとぼりが冷めたことを意味しました。

そして35歳のBC65年にはエディリス(按察官)に就任し、同年に他の役職との兼任が可能であったポンティフクス・マクシマス(最高神祇官)に立候補、周囲を驚かせます。

この職は宗教的に重要ながらも実利的な権力とは無縁で、執政官などで名を成した重鎮の名誉職と考えられていて、若いカエサルが立候補する意味が理解されなかったのです。

実は名誉職ならではの、誰も気づかぬ利点にカエサルは目をつけたのです。

まずこの職は定数が一人でかつ終身職、というローマの公職には珍しいものでした。

また、合理的精神の持ち主であればこそ、逆に宗教的権威の重要性を認識していたでしょう。ローマの数多い祭祀でいやでも目につく立場で、その宣伝効果も計算のうちです。

唯一の実利はローマ中心部フォロ・ロマーノに公邸を持てることでした。これとてもカエサルは名利のためではなく、地理的に市民への呼びかけが容易になるという点に目をつけたのです。

同じものにでも万人とは違う価値を見いだすのも天才の発想というものでしょう。

ちなみに、帝政ローマがキリスト教を国教とするまでは。最高神祇官は代々の皇帝がその任を務めました。

執政官までの道のりをクルスス・ホノルム(名誉あるキャリア)と呼びますが、カエサルの出発点はこのように地味なものでした。少なくとも周囲の目にはそう映っていました。

ライバルたち

その頃、ローマの自他共に認める2人の有力者はクラッススとポンペイウスでした。

カエサルより15歳年上のマルクス・リキニウス・クラッススは、ローマで一番の富豪で元老院での最有力者でした。

グナエウス・ポンペイウスはカエサルより6歳年上ですが、奴隷戦争の鎮圧だけでなく、アドリア海周辺の海賊の討伐をわずか三ヶ月で成し遂げるなど武勲華々しく、市民に絶大な人気がありました。

いずれもスッラ派の有力者で、BC70年には二人揃って執政官に当選しています。

その頃のカエサルはというと、31歳、BC69年あたりにやっとクワエストル(会計検査官)に就任しますが、これも20人中の一人、言ってみればその他大勢でした。

会計検査官を経験したカエサルには自動的にセナートゥス(元老院)の議席が与えられました。

この制度はスッラが元老院制を立て直すために行った改革の一つであり、密かに元老院打倒を目指すカエサルがその恩恵に浴したのは皮肉な話です。

有名人カエサル

こうして40歳に近づいて公職を歴任し始めるカエサルですが、当時はポンペイウスやクラッススから見ると取るに足らない存在だったことでしょう。

しかし、カエサルはローマでは他の二人と異なる面でかなり有名だったのです。

それは、女性関係と借金、どちらもスケールが並外れていたからでした。

恨まれない名人・カエサル

カエサルの女性関係に関するエピソードはそれだけで字数が尽きてしまうほどですが、主なものをいくつか。

ローマでは戦勝記念の凱旋式が司令官にとって最高の栄誉でした。カエサルの凱旋パレードで、古強者の兵たちはこう叫びながら練り歩いたと言います。

「男ども、女房を隠せ!禿げた女たらしのお通りだ!」

カエサルもこれには苦笑いしながらパレードを続けるしかなかったそうです。

BC63年、当時のローマを揺るがしたのがカティリナの陰謀でした。執政官になれなかったカティリナという貴族が、政府転覆を狙ったのです。

元老院に楯突く言動が目立つカエサルにも、その一味ではないかという嫌疑がかかったのです。

元老院でこの陰謀について討議が行われる中、カエサルが召使いにそっと手紙を渡し、しばらくするとその召使いが手紙を持ってきてカエサルに渡しました。

これをマルクス・ポルキウス・カトー(小カトーとも呼ばれる)は見逃しません。カトーは日頃カエサルを快く思っていない一人でした。

カエサルが陰謀の仲間と手紙のやりとりをしたと思ったカトーは手紙を見せるよう迫ります。

カエサルはつまらない私信だから、と見せるのを断りますがカトーは見せないのは益々怪しい、となおも手紙を見せるよう迫ります。

仕方なさそうにカエサルが渡した手紙を読むうち、カトーの顔は見る見る朱に染まり、手紙をカエサルに投げ返して叫びます。

「こ、この女たらしめ!」

元老院の議場は大爆笑。カエサルはだからよしとけばいいのに、という表情をしたかもしれません。手紙はラブレターだったのです。

しかもカトーの姉セルウイリア(カエサルの愛人として有名だった)からカエサルへの甘い愛の言葉が綴られていたのです。

こうして、カエサルは極めてカエサルらしい方法で陰謀に加担している嫌疑を晴らしたのでした。

他にも、600人近くいる元老院議員の妻の三分の一がカエサルと関係がある、などという噂もあったほどでした。

いくら何でも大げさな、と思いますが、ローマの人が「カエサルならあり得ることだ」と思っていたからこそ、このような噂も立ったのでしょう。

しかし不思議なことに、カエサルは女性から恨まれたという痕跡が見られないのです。

ちなみに、後のガリア出兵の際、カエサルは関係した女性の息子(カエサルの子も混じっている可能性も。)の多くを従軍させてキャリアを積ませ、面倒を見ています。

こういった点が恨まれない秘訣の一つだったのかもしれません。

借金の主人に

もう1つ、カエサルは40歳を前にして莫大な借財を抱えていることでも有名でした。

その用途の1つは、やはり(?)女性への数々の贈り物でした。

また、按察官だった頃にカエサルは借金をして自腹でアッピア街道の整備を行い、市民を楽しませる華々しい演出で剣闘士の試合を主催したのです。

これでローマ市民の人気とカエサルの借金の額はうなぎ登りとなったのです。

後にガリア戦役に赴いた際、カエサルはケントゥリア(百人隊長)達から借金をして、それを兵士達にボーナスとして支給した、という話も残っています。

後世の歴史家は、この破天荒な行為のメリットを二つ挙げています。もちろん一つは兵士達の士気が上がったこと。

そしてもう1つは、作戦が失敗したら貸した金が返ってこなくなると百人隊長達も必死に戦ったことでした。

莫大な借金の数々にも一貫した思想がありました。カエサルの借金はほとんどが、他人を楽しませるためのもので、自分のために使ったのはすさまじい量の読書の代金だけでした。

こうした借金の最大の債権者はローマ最大の資産家クラッススでした。

普通は債務者であるカエサルが低い立場になりますが、その額が莫大になるにつれて立場は逆転を起こします。

カエサルが破産すると莫大な借金が回収できなくなるため、クラッススはカエサルにお金を貸し続けることになってしまったのです。

普通なら莫大な借金を負えばその奴隷になるところを、逆に借金の主人になったところがカエサルの天才たる一面であると言えましょう。

元祖トロイカ体制

カエサルの最終目標は、元老院主導の政治を終わらせ、寡頭制、つまり現代から見ると帝政への社会システムの移行でした。

共和制対帝政、となればスター・ウオーズでは帝政が悪役ですが、当時のローマの元老院制は様々な矛盾を見せ始めていました。

あまりに大きくなったローマの領土を効率的に統治するには判断が遅れたり機能不全となる元老院制にカエサルは見切りをつけていました。

3つの力

BC60年、カエサルは初の執政官に当選します。

しかしこれが元老院政治を内部から否定する企ての第一歩である事と、裏からはクラッススとポンペイウスの支援があったことに気づく者はいませんでした。

歴史の教科書ではあっさり書かれている三頭政治ですが、これは政治はカエサル、軍事はポンペイウス、経済はクラッススという分業による秘密裏に結ばれた寡頭政体でした。

元老院を中心とした共和制ローマの終焉はまさにこの時に始まったのです。

ポンペイウスとクラッススは反目し合っており、相手への対抗心と自らの名声欲のためにこれに加わった側面が大きかったと思われます。

自分が加わった三頭政治により、カエサルが元老院政治を打倒する所まで考えているとは思わなかったでしょう。

2人とも元来元老院制の権化であるスッラ派ですから、カエサルとて真意は隠して他の2人の望む物を示して誘ったと思われます。

「人は、自分が望んだ物しか見ようとしない」カエサルの言葉です。

元老院がこの3人の危険な融合に気づいたのは半年も後で、その時は手遅れでした。

カエサルは念願の1つ、農地法改革に成功します。

改革案で利権を失う元老院は必死に反対しますが、民会が圧倒的多数で可決し、ポンペイウスが軍事力を背景として無言の圧力をかけたのです。

カエサルが生まれるおよそ100年前、グラックス兄弟が志半ばで非業の死を遂げて果たせなかった農地法改革を、カエサルは無血で成し遂げたのです。

ちなみに三頭政治(トリウンウイラートウス)は後世、トロイカ体制(3人による指導体制)の語源になっています。

ガリアヘ

執政官の任期である一年間に多くの事を成し遂げたカエサルはガリア総督に任命されます。

ガリアは現在のフランス全土、ベネルクス三国、ライン川沿いまでを含む広大な領域です。その当時、ローマの力が及ぶ属州は、ケウェンナ山脈とアルプス山脈の南でした。

ところが、ローマの力が及ばないガリアでセーヌ川を越えてきたゲルマン人の圧迫を受け、ガリア人の部族が何十万人と移動をはじめたのです。

これがきっかけでカエサルはガリアでゲルマン人やガリア人と戦うことになります。

9年もの戦いの後、BC51年にガリアをローマの版図に組み込むという偉業を成し遂げます。

カエサルは49歳になっていました。 

この戦いの記録「ガリア戦記」は現在でも出版され、その簡潔で透徹した文体は戦記文学の傑作とされています。

「私は」ではなく「カエサルは」と3人称を用いているのも特徴です。

ガリアの英雄としても名を成し、華々しい戦果と共に軍を率いてローマに向かうカエサルでしたが、ローマの情勢は重大な局面を迎えていたのです。

賽は投げられた

カエサルがローマを離れていた約9年の間に三頭政治は崩壊します。

まずBC53年、クラッススが62歳で戦死します。

経済力の次に軍事的名声を求めてパルティア(現イラン)に遠征したのですが、彼は軍事的な能力に欠けていたのです。

もう一方のポンペイウスですが、生粋の軍人である彼は政治的なことは不得手でした。カエサルの真意を理解せず、クラッススへの対抗心が大半の三頭政治への参加だったのです。

それが、クラッススが戦死した上に元老院派に持ち上げられたり扇動されて、すっかりローマの守護者になった気分でした。

元老院最終勧告

軍勢を率いてローマに向けて南下するカエサルに対して、ついにセナートゥス・コンスルトウルム・ウルティムム(元老院最終勧告)が発せられます。

この勧告に従わない者、(具体的には元老院とポンペイウスに逆らう者)には国家の敵、として裁判すら認められずに死刑が待っていました。この勧告は、今まで元老院の敵を必ず葬ってきた必殺技だったのです。

法的には諮問機関でしかない元老院が、このような有無を言わさぬ生殺与奪の権を持つ点もカエサルは元老院制の矛盾だと考えていました。

どちらの破滅か

アドリア海に臨む地でルビコン川を前にカエサルは珍しく逡巡していました。

ローマの国法では、軍団を率いてルビコン川を渡ってローマに向かってはならず、一度軍団を解散させてからローマに入らなければなりません。

しかも今回は元老院最終勧告の対象であるカエサルがこれを犯せば、即座に国家の敵となります。ポンペイウスとの戦闘になり、内戦は避けられません。

かといって軍団を解散すればカエサルがこれまでの全てを注いできた国政改革が烏有に帰すのです。

しかも軍団を伴わずにローマに入れば、元老院派によってどのような方法で亡き者にされるかわかりません。

この状態をカエサルはいつものように簡潔に表現します。

「ここを越えれば、人間世界の悲惨、越えなければ、我が身の破滅。」

しかし間もなく、兵士達に向かって叫びます。

「進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の所へ、賽は投げられた!(iacta alea est)」

従う兵士達の歓呼を後ろに聞きつつ、引き返せない朝のルビコン川を渡ったとき、カエサルは50歳6ヶ月でした。

ユリウス・カエサル、皇帝の語源となった偉人(後編)

真の貴族的精神

ルビコンをカエサルが渡った5日後、ティトウス・ラビエヌスが自分の奴隷だけを伴ってカエサルとは別の道でルビコンを越えます。

カエサルと対立するポンペイウス陣営に加わるためです。

ラビエヌスは護民官を務めた後、ガリア戦役に従軍してカエサルに副官として最も信頼された人物でした。

軍を2つに分ける時は、カエサル自身が率いる軍ともう一方は必ずラビエヌスに任せたほど信頼が厚かったのです。

カエサルは、ラビエヌスがポンペイウス陣営に加わるのを知って離反を許したといいます。

二人の間にかわされたやりとりは、今となっては永遠の謎です。

将来の暗殺犯

時間は前後しますが、カエサルはポンペイウスの最後の決戦、BC48年のファルサルスの戦いで圧勝します。

カエサル側に投降した元老院議員の中にガイウス・カッシウス・ロンギヌスがいました。

BC44年、彼はカエサル暗殺犯の首謀者となるのです。

憎しみと無縁の存在

カエサルの言葉です。「私が自由にした人々が私に再び刃を向けることになったとしても、そのようなことには心を煩わせたくはない。何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々もそうあって当然だと思っている。」

この言葉が予言でもしたように、カッシウスは後にカエサルに凶刃を向けることになります。

このような可能性が予想できても、カエサルはこの言葉のように自分の信念を貫きました。

クレメンティア(寛容)をモットーに、敵に対する憎しみとは無縁の存在であり続けたのです。

戦死者と捕虜

ルビコンを渡ったカエサルに話を戻しますが、これ以降の戦いは、ガリア戦役までとはっきり異なるのは戦死者と捕虜の比率です。

カエサルと元老院派の戦いは、必然的にローマ市民同志の内戦になります。戦死者が多くなれば、その分だけ恨みが多くなる道理です。

内戦中、勝敗が決した場合にはカエサルは追撃を命じませんでした。

この戦いが終われば勝者も敗者も同じローマ市民として国を支える存在となるのです。

カエサルの目的は勝つことであって、殺すことではありませんでした。

クリエンテスとパトローネス

イタリア本土を電撃的に手中にしたカエサルでしたが、地中海全体で見れば圧倒的にポンペイウスの支持基盤(クリエンテス)でした。

ちなみにポンペイウスのような親分(パトローネス)がクリエンテスの面倒を見て、クリエンテスは選挙などではパトローネスへの支持をし、労働力や物資を提供するなど相互扶助関係にありました。

この関係は親子代々受け継がれる強固なものでした。

カエサルの副将ラビエヌスも代々ポンペイウスのクリエンテスの家に生まれ、それがカエサル離反の理由という説があります。カエサルもこれに理解を示したのだと。

ポンペイウスとの決戦

カエサルとしては、決定的にポンペイウスを打ち破ることで、ポンペイウスからクリエンテスを引き離す必要がありました。

それがBC48年のファルサルス(現ギリシアのテッサリア地方の平原)の戦いでした。

戦力はカエサル24,000、ポンペイウス側はその倍以上。しかも包囲戦のカギを握る騎兵に至っては、カエサル1500足らずに対しポンペイエス側は7000余り。

しかも司令官は無敵のポンペイウス。戦う前から楽勝気分が漂い、戦いには素人の元老院議員たちは、戦勝後、ローマに戻ってからの利権の配分で揉めるというありさまです。

一方、数で劣勢ながらカエサルの兵は、この5ヶ月前のドラッキウムの戦いの惨めな敗戦の屈辱を雪ぐ強固な意思で団結していました。

百人隊長の一人、クラスティヌスは叫びます。「この戦いが終わった時、生きていても死んでも、カエサルから褒美をもらえる戦いをするのだ!」

騎兵数で圧倒的に不利なカエサルでしたが、不退の覚悟という鎧で身を固めたベテラン兵が敵騎兵の突撃に臆せず立ち向かいました。

つまり歩兵が騎兵を防ぐ柵になるという秘策によって敵の騎兵を非戦力化します。

ポンペイウス側の戦死2,000余り、捕虜25,000、カエサル側の戦死200と伝えられます。カエサルの圧勝でした。

あのクラティウスはこの世では褒美を貰えませんでした。顔面に槍を受けて戦死したのです。一歩も下がらなかった証でした。

エジプト、そしてクレオパトラ

ファルサロスでの決定的な勝利はカエサルが目論んだ効果を生みます。

もしポンペイエスのクリエンテスの国々が忠誠を守ってその勢力を糾合していたら、内戦はまだ続いていたでしょう。

しかし敗走したポンペイエスを前に、クリエンテスの国々が次々と城門を閉ざしたのです。

「苦境は、友を敵にする」というカエサルの言葉通りになったのです。

その中で、王位に就く際にポンペイウスが協力した少年王、エジプトのプトレマイオス7世からは歓迎の意が伝えられました。

しかし、少年王の側近たちの腹の中は違っていました。ポンペイウスの首をカエサルに差し出せば、その意を迎えられると思ったのです。

「銀河英雄伝説」で、裏切り者のグリルパルツァーの弁明に対してメックリンガー上級大将は言い放ちます。「そう思ったからこそ、卿はロイエンタール元帥を裏切ったのだな。ねずみの知恵は、獅子の心を測ることはできぬ。卿もついに、獅子の友となりえぬ男だったか」

少年王の側近も、自分たちのレベルでしかカエサルの心の中を推し量れなかったのでしょう。

ポンペイウスの首と対面したカエサルは、涙を流したと言います。

クレオパトラとの出会い

ローマはクリエンテスの国々に対し、ローマに従っている限りは、その国からの要請がない限りは基本的に不介入でした。

しかし、ローマ市民を殺したとなれば話は別です。エジプト軍の一部が敵対行動を取ったこともあり、カエサル率いるローマ軍はエジプトの王位継承争いに介入します。

少年王一派は討滅され、クレオパトラ7世(クレオパトラは王としての名で、個人名はフィロパトルです。)がカエサルの後ろ盾で即位します。

ここから有名な、カエサルとクレオパトラのロマンスが始まります。美しいだけでなく機知に富んだという彼女をカエサルは愛したのです。

愛すれど溺れず

しかし、二人の間には決定的な認識の差がありました。カエサルはクレオパトラとの問題はあくまで個人的なものだと考えていました。

カエサルが彼女を王位に就けたのも、魅力ゆえではなく、継承候補者の中で彼女だけがローマ市民の殺害に加担していなかったという政治的理由でした。

一方でクレオパトラは、カエサルと深い関係になったということは、自分がローマに対して権利を持つように成ったと錯覚したのです。

ですから、カエサルの遺言の中の後継者に二人の子である(とされる)カエサリオンの名がないことを知り、激怒し、絶望します。

塩野七生氏は、「カエサル自体が、愛しても溺れない性格だった。」と記述します。

宮尾登美子氏は、小説の中で、「この仕打に(クレオパトラが)歯噛みをするほど悔しい思いをした」と書いています。

この3人の女性の中で、1人だけカエサルを理解していたのは誰かという判断は読んだ方にお任せします。

内戦の終わり

クレオパトラのいるエジプトを離れたカエサルは、ローマに一度は従属するも反旗を翻したボスポロス王国(現、イラン北東部からコーカサス地方の国会沿い)と戦います。

元老院へのこの戦いの報告書が有名な「来た、見た、勝った」(ラテン語ではVENI、 VIDI 、VICIと韻を踏んでいます。)という文です。鎧袖一触の戦いであったことを示す文です。

小カトーの最期

しかしまだ北アフリカにはポンペイウスの息子など、カエサルに抵抗する勢力がいました。

北アフリカ平定の一連の戦いの中、反カエサルの人物が次々と退場します。

タプススの戦いで、大スキピオの血を引くメテルス・スキピオとヌミディア王は共闘しますが敗戦の末にお互いを刺し貫いて自害。

スキピオ・アフリカヌス以来のローマのクリエンテスであったヌミディア王国は滅亡、ローマの属州となります。

ついで包囲されたウティカにいた小カトーは、カエサルが自分を許すことは予想していましたが、自害を選びます。

ローマ市民は同等であり、「許す」というのは上位者の持つ権利である、それをカエサルに行使させはしない、というのが理由でした。

ラビエヌスの最期

カエサルは遂に最後の抵抗勢力がいるムンダ(現スペインアンダルシア地方)に向かいます。ここにはポンペイウスの遺児やラビエヌスもいました。

ここにいるのはカエサルに一度捕虜となりながらも、去就を自由にと言われて抵抗を選んだ者ばかり。さしものカエサルも二度は許してくれないことを知っているため、死に物狂いで抵抗しました。

そのため、カエサルの勝ち戦としては珍しく、反カエサル軍は70,000のうち30,000もの戦死者を出します。

この戦いでついにラビエヌスも戦死、その遺体と対面したカエサルの胸中は複雑だったはずですが、いつものようにその記述は極めて簡潔でした。「ラビエヌスは戦死し、葬られた」

BC45年、ローマ内戦は終わりました。カエサル54歳。

終身独裁官

スッラ、キケロ、カエサルの三人は、広大となったローマの統治のためには改革が必要であるという考えでは一致していました。

スッラは元老院体制の強化でそれを果たそうとし、そのためには反対派の根絶やしにも躊躇ありませんでした。

キケロは言論の力で統治者達の徳の向上によって改革を目指しました。

このいずれも実を結びませんでした。

カエサルは体制そのものを変革しようとします。ディクタトール・ペルペトゥア(終身独裁官)となって暗殺される1年と1ヶ月で次のような改革を次々おこないます。

政治改革

まずカエサルは、元老院議員を600人から900人に大幅増員、しかも増員された多くは属州出身者でした。

「ラテン語がおぼつかない元老院議員が増えた」などと揶揄されましたが元老院は権力も権威も低下し、せいぜい皮肉をいう抵抗しかできませんでした。

最高決定機関である市民集会もローマ市民が100万人を越えていては本来の機能を果たさないので単なる追認機関とされました。

カエサルは護民官も兼職します。統治者のトップは、非統治者の権利を守る立場にあるとの考えからでした。

カエサルは共和制を破壊しませんでした。守るように振る舞いながら、権力を集中させたのです。

AD284年までのローマには皇帝は存在しませんでした。いたのは「市民の第一人者」兼「最高司令官」(エンペラーの語源のインペラトール)兼護民官兼最高神祇官兼「国家の父」・・・と、多くの職や称号を一身に受けた人物でした。

記録と記憶に残る改革

カエサルは天文学者、数学者を集め、それまで太陰暦だった暦を太陽暦に改めさせました。

このユリウス暦はそれから1627年もの間、標準的な暦として使われました。とって変わったグレゴリウウス暦(現在の暦)は、カエサルが作らせた暦を11分ちょっとだけ正確にしたものでした。

カプトウ・ムンディ(世界の首都)としてローマを相応しい都市にしようと、カエサルは都市を清潔にする事業にも乗り出します。

ローマ人が得意とする、「公」と「私」の融合による事業の結果、現在のローマよりも清潔になったということです。現在のローマにとってはあまり名誉な話ではありませんが。

また、世界の首都として治安対策も講じます。ローマ市内は絶対的権力者、カエサルでさえも護衛を伴わず徒歩で移動したのです。

当時のローマは、6代目の王が築かせたセルウイルス城壁に守られていました。ハンニバルの侵攻からもローマを守った城壁です。

首都は城壁なしでも安全で無ければならない、との考えをカエサルは持ちました。

そして何と、この城壁を取り壊させてしまったのです。

世界の首都は、これから300年以上、城壁なしでも安全だったのです。

このような忙しい日々の中、カエサルに運命の日が迫っていました。

運命の日

BC44年、3月15日。カエサルがクラッススの屈辱を晴らすべくパルティア遠征に赴く前の最後の元老院会議でした。

この後、カエサルはすぐパルティア遠征に赴きます。そして必ずや勝利を収める。

そうして凱旋したカエサルが王位を求めたら、もはや阻む者は誰もいない。

暗殺者達は、カエサルの常勝を信じたからこそこの日を最後の機会と捉えたのでした。

暗殺者達

実行犯14人は共和制ローマを守るために絶対的権力者カエサルを暗殺するという目的で一致していました。

リーダーはマルクス・ユニウス・ブルータス。最後までカエサルの愛人であったセルウイリアの息子でした。

ファルサロスの戦いでポンペイウス軍について敗戦後に捕虜となり、カエサルに許されて配下で働く選択をした1人です。

しかし彼はカエサルの評価は高くなく、カエサル最期の言葉「ブルータス、お前もか?」はもう一人のブルータスを指したという説も有力です。

それはカエサルが「青年ブルータス」と期待と親しみを込めて記述したデキウス・ブルータスでした。

真の首謀者はファルサルスの戦いで投降し、カエサルに赦されたロンギヌスでした。彼は自分が中心では従う者が少ないとはわかっていて、マルクス・ブルトゥスをリーダーとしてこの陰謀を企てたのです。

暗殺者の中にはデキウス・ブルータスのように、ガリア戦役を初めとして長年カエサルと苦楽を共にした者も少なくありませんでした。

しかし彼らは、カエサルが目指したものを理解しなかったのでしょう。

巨大化したローマを効率的に統治するために帝政を目指した改革を、単にカエサルが王になりたいがためのものと思ったのです。

最期までカエサルらしく

元老院会議が始まる直前に14人は手に手に短剣を持ってカエサルを襲います。

カエサルは会議を記録する鉄筆で応戦したと言いますが、遂に致命傷を受け、ポンペイウスの像の前で斃れたと伝えられます。

そして見苦しくならないよう、トーガ(長衣)のすそを体に巻き付けてから息を引き取ったといいます。

スッラのように反対派を根絶やしにしていたら、このようなことは起きなかったかもしれません。

また、絶対的権力者でありながら元老院のマナーを守り、警護もつけず寸鉄も帯びずにいたことで暗殺を防ぐ術を捨てていました。

カエサルは「何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。」という言葉通り生きました。

その生き方ゆえに多くの事をなし、最期はそれゆえに命を落としたのです。あと4ヶ月で56歳でした。

ユリウス・カエサルとは何をした人物なのか?名言「ブルータス!お前もか!」はなぜ放った?まとめ

織田信長は人生五十年で志半ばにして斃れました。ユリウス・カエサルは55歳で信長と同じように非業の死を迎えます。

カエサルが歴史の表舞台に顔を出すのは信長が桶狭間で名を馳せた26歳より遥かに遅い40歳を過ぎてからでした。

ですから彼の偉業として知られる功績はほんの十数年の間に成し遂げられたのです。

カエサルはどのような死を望むか、と問われた時「突然の死」と答えたと伝えられ、事実そのようになりました。

カエサルも志半ばにして斃れました。しかし最後の功績はとてつもなく大きいものでした。

それは18歳の無名の若者、後の世にパクス・ロマーナをもたらすオクタヴィアヌスを後継者としたことでした。

【参考文献】 新潮社 塩野七生著「ローマ人の物語Ⅳ 『ユリウス・カエサルールビコン以前』 Ⅴ『ユリウス・カエサルールビコン以後』」

講談社学術文庫 カエサル著「ガリア戦記」

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