皆さん、こんにちは!
今でも世界で争いは絶えませんが、20世紀は2つの世界大戦があり戦争の世紀と言われるくらい混迷していました。
そんな混迷の時代に、イタリアにムッソリーニという一人の男が現れます。
ムッソリーニはファシズムという新しい政治体制を作りました。
ファシズムってヒトラーじゃなかったっけ?とか、ムッソリーニって教科書に載ってたけど具体的に何をした人だっけ?と思っている方がいるかもしれません。
今回は、ムッソリーニについて解説していきたいと思います!
ムッソリーニ~ファシズムの生みの親~
中学校や高校の歴史の授業で、必ず習うものにファシズムという用語があります。
ファシズムと聞くと何をイメージしますか?ヒトラー、ナチス、ユダヤ人への迫害……。ほとんどの人がそんなイメージかもしれません。
第二次世界大戦を引き起こし、世界を恐怖のどん底に落としたヒトラーの印象があまりにも強すぎて、ファシズムという政治体制はヒトラーが一から作り上げたように錯覚してしまいますが、そうではないんです!
ファシズムを最初に作り上げたのはイタリアのムッソリーニという政治家だったのです!
ムッソリーニはファシズムにおいてヒトラーの先輩になるのです。
戦争の世紀に現れたイタリアの巨魁
ムッソリーニは世界史の教科書に必ず太文字でてくる人物です。
けれど日本人にとって、ヒトラーほど強烈な印象はなくナチスドイツの仲間だったんでしょ?程度の印象しかないかもしれません。
しかし、それは間違った印象なんです!
ムッソリーニには世界史で名を残すに値する、イタリアの巨魁なのです。
ムッソリーニと同時代を生きた、ローマ・カトリックの教皇ピウス11世はムッソリーニのことを「イタリアを救うために神から遣わされた人物」と評しています。
第二次世界大戦でイタリアの敵国関係になったアメリカのローマ駐在大使だったウォッシュバーン・チャイルドは「同時代のイタリアでもっとも偉大な人物」と評しました。
また、イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは「ローマの天才」と称えました。
ムッソリーニは自身が政治をしていた時はいわゆる独裁者でしたが、他国からの称賛があるということに驚きですよね。
ヒトラーが師と仰いだ男
第二次世界大戦ではドイツとイタリアそして日本は同盟を組んでいました。
第二次世界大戦を引き起こしたのはヒトラーです。
ヒトラーはドイツ国内をナチ党の一党独裁で治めた圧倒的であり絶対的な独裁者でしたが、見本がいました。
ヒトラーが見本にして、尊敬して師とまで仰いだ人物こそムッソリーニだったのです!
ヒトラーはあくまで、ムッソリーニが作り上げたファシズムを真似て、やがて自分色に染めていったのでした。
ムッソリーニの生涯
20世紀に起きた2つの世界大戦は、その時代を生きた人々を混迷へと巻き込みました。
ファシズムという政治体制も混迷の原因であり、悪の根源!というイメージを深く歴史に刻まれていますが、ここで注意したいことがあります。
ファシズムはムッソリーニが生み出した政治体制ですが、ムッソリーニの行ったファシズムとヒトラーが行ったファシズムは全くの一緒ではないということです。
ムッソリーニの生涯を見ていくことで、彼がどんな人生を歩み、どんな功績を残したか知ることで、彼もまた混迷の時代の被害者であった側面が見えてくるでしょう。
ムッソリーニ生い立ち
ベニート・ムッソリーニは1883年にイタリア王国に生まれました。
父親は鍛冶屋、母親は教師という比較的貧しい家庭で育ちました。
ただ、父親は当時世界中で大ブームだった社会主義に夢中であまり仕事に熱心ではなかったため、母親が家計を支えてる状態だったようです。
子供の頃は悪ガキだったようで、ムッソリーニ自身が自伝で「同年代の子供たちのガキ大将で、農作物を泥棒していた」と書き残しています。
やっていることは悪くても、小さな頃からリーダーの素質があったのでしょうか?
青年になると師範学校に入りますが、1年生の時にイタリアがアフリカのエチオピアを植民地にしようとはじめた戦争に、イタリアが負けたことで学校内がざわつきます。
自分の国が戦争に負けたことが、ムッソリーニが政治の世界に興味をもつきっかけとなりました。
師範学校時代から、持論の政治思想を演説していて、その能力は高いものでした。
卒業後は田舎町の教師になるのですが、あまり長期間勤めずに辞職し、スイスに放浪の旅にでます。
スイスでは肉体労働で生計をたてながら、いろんな語学を学び様々な人々と交流をもちました。
ムッソリーニにとってスイスで過ごした時期は、自分探しと自分磨きだったのかもしれませんね!
スイスでも政治活動にふれていたムッソリーニは、イタリアに帰国後も働きながら政治活動をしていくことになります。
戦争でボロボロのイタリア
1914年、ムッソリーニが31歳の頃、第一次世界大戦が勃発します。
第一次世界大戦は、産業革命が起こったことで世界的に経済が不況に陥ってしまったことからはじまりました。
各国は不況から脱しようとして植民地をどんどん作るぞ!と動き出します。
しかし植民地を多く獲得しようとすればするほど、利権やなんやらで各国がバッチバチに対立していきました。
いつ情勢がドカン!と爆発してもおかしくないなか、オーストリアの皇太子夫婦がセルビア人によって殺害されたサラエボ事件をきっかけに、あっという間にヨーロッパ全体が戦地になりました。
イタリアは当初、戦争には参加せずに中立の立場をとっていました。
しかし、そんなイタリアにイギリスとフランスが接近しました。
「俺たちに味方してくれたら、今オーストリア支配下にある領土をとか、戦後にあげる」
と秘密の条約を持ち掛けたのです!
植民地をもつことは、国が豊かになることだという風潮があった時代なので、イタリアはイギリス側に味方し、第一次世界大戦に参戦。
結果、戦勝国側になりました。
戦勝国になったのだから、戦後に恩恵をたくさん受けた……はずでした。
現実は違いました。
戦後に得られるはずだった領土はイタリアの思い通りには手に入らずじまいで終わってしまったのです。
しかも戦地から帰還した兵士たちは、わずかな手当をもらっただけで仕事が見つかりません。
大量失業やインフレ(物価があがる)による不況で、国民の不満はだんだんと高まっていくばかりでした。
イタリアは第一次世界大戦に参戦したことによって、ボロボロになってしまったのでした……。
ファシズム誕生
第一次世界大戦の最中にロシアではロシア革命が起こり、ソビエト連邦が誕生しました。
ソ連は「世の中、金持ちと貧乏人がいて不平等だ。みんなが平等に働いて、平等にお金を得られる、みんなが平等な社会を目指そう!」という考えである社会主義を掲げて国の運営をはじめました。
その新しい政治の思想に世界中が熱狂し、大ブームとなりました。
もちろんイタリアにもそのブームの波は押し寄せます。
そのブームによって、金持ちの経営者と労働者は対立を深めていき、1920年のはじめ頃にイタリア北部で過激な労働者による工場占拠、つまりストライキ事件が発生します。
経営者側にとっては、「みんな平等に!」を掲げる社会主義という考えは迷惑極まりないのものでした。
自由にお金が稼げなくなってしまうから当然ですよね。
ずっと独自で政治活動を続けていたムッソリーニは、反社会主義を掲げて1919年に資本家たちや復員軍人(戦争に兵士として参加して、戦後一般人に戻った人)たちと手を組み、後のファシスト党の前身となる戦闘者ファッショという組織を作りました。
そこで、掲げられたのがファシズムという考えです。
ファシズムは「結束」を語源とした言葉です。
ムッソリーニ の説いたファシズムは「貧富の格差があるから、人々の間に階級が生まれてしまう。だから強制的に貧富の差をなくしてみんな平等にして幸せになろう!」という社会主義や「個人で自由に金を稼いで、個人で自由使う。それでいいじゃないか」という資本主義とは違っていました。
ムッソリーニ のファシズムは
「お金を稼ぐことは自由。だから階級があるのも認める。階級そのものをなくすのではなくて、お金持ちも貧乏人も協力して国のために尽くそうじゃないか。階級間での争いなんて終わらせようじゃないか」
という考えでした。
とてもいいもののように聞こえますが、このファシズムという考え方には国民は国のために働くべきであるというある種過激な側面ももっていたのです。
そして戦争そのものを肯定しました。
太平洋戦争中の日本も、個人の自由よりも「御国のために!」と思想教育がありましたが、それを想像すると分かりやすいかもしれません。
ムッソリーニの運動ははじめは小規模のもので、ほとんど支持を得ることができませんでした。
しかし、1920年にはじまった労働者運動が過激になっていくと「お金を稼ぎたいし社会主義は邪魔!」という考えの資本家や地主の支持をすごい勢いで得ていき、あっという間に大きな組織に成長していきます。
ムッソリーニは各地のファシズム勢力を、まとめて全国ファシスト党という組織に統合しました。
ローマ進軍・ムッソリーニ 政権を奪取!
1922年、ムッソリーニは実力で政権をとるために行動を開始します。
ムッソリーニはのちにローマ進軍といわれるクーデターを起こしました!
進軍の名の通り、ファシスト党員と「黒シャツ隊」と呼ばれる民兵組織がナポリから首都ローマにむけて行進をしたのです。
クーデターというと武力による血なまぐさいイメージがあって、行進することに何か効果あるの?と思うかもしれません。
結論からいうと、効果抜群だったんです。
まずローマ進軍に参加したファシスト党員たちは全員黒いシャツを着て団結感をアピールします。
また注目するところは進軍に参加した人数です。その数は実に4万人!
想像してみてください。4万人の黒いシャツを着た人たちが首都ローマを目指して、ただ歩いてくるのではなくザッザッと規律よく行進してくるんです!
怖いですよね……。ムッソリーニの狙いは、行進によって政府に圧力をかけることにありました。
ファシストは行進による圧力で、ローマを無血で占拠します。
政府はファシストを殲滅しようとしますが、イタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は国内が混乱するのを恐れて、国王自らムッソリーニを首相に任命しました。
ムッソリーニは非人道的なことをせずに、合法的に首相となったのです!
イタリア復活
首相になったムッソリーニは選挙の法律を変えて、ファシスト党の一党独裁を行えるようにしました。
独裁政権を行ったと聞くと悪い政策をどんどんしたのではないかと思いがちですが、そこは違います。
ムッソリーニは自動車専用の道路網の建設や鉄道の電化をすすめ、インフラを整えました。
また農地の改良などの公共事業も行い、母子保健・労働災害保険などの社会立法を制定しました。
またイタリア王国はローマ教会と対立していたのですが、ラテラノ条約という条約を結びヴァチカン市国が成立することとなり、ローマ教会との不和を解決しました。
加えて、ムッソリーニは演説が大変上手で人々の心を掴むことに長けていました。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]ヒトラーの雄弁さは彼ゆずりだったのね[/chat]
ムッソリーニの行った政策もそうですが、巧妙なテクニックによって国民から圧倒的な支持を得るまでになったのです。
一方で1929年に世界恐慌が起こり、国内が不況に見舞われます。
「不況から脱するには、資源をより多く得なきゃいけない。植民地を獲得するぞ」と侵略戦争を推し進めていきます。
イタリアとドイツとの関係強化・そして第二次世界大戦参戦へ
話は少し変わりますが、第一次世界大戦後に国際連盟というものが発足していました。
歴史上初の世界大戦を経験した結果、国際連盟は世界の平和と国際協力の促進を目的として作られたのです。
ファシズムはもともと「植民地戦争はやっていいこと。GO!GO!」という考えがあります。
ムッソリーニはイタリアを中心として地中海沿岸の国をイタリアの支配下に置くぞ!という地中海帝国を掲げていました。
ムッソリーニ ・エチオピア侵略
ムッソリーニはイタリア領ソマリアとエチオピアの間で発生した国境紛争を口実に、エチオピアを植民地化しようと軍を集結させます。
それにたいしてエチオピアは国際連盟に「イタリアが攻めてくる気満々だから、第3者として事を解決して!」と国際連盟に訴えました。
国際連盟はイタリアのエチオピアへの侵攻を止めようと、いろいろな案をイタリアに提案しますが、ムッソリーニはそれを拒否!
エチオピアへ侵攻を開始してしまいます。
それには「おいおい、イタリアよ何やってくれちゃってんの!」と国際連盟はイタリアに対して国際連盟として初の経済制裁を発動します。
これにはイタリアも打撃を受けます。
しかし、エチオピアへの侵攻はやめず、ついにはエチオピアを支配下においてしまいました。
ドイツと手を組むイタリア
エチオピア侵攻時にも経済制裁は続いています。
ムッソリーニはどうしたと思いますか?
ムッソリーニは国際連盟の言うことは聞かずに、国際連盟の経済制裁に加わっていなかったドイツとの経済関係を強めていくことにしたのです。
イタリアとドイツは当時、同じファシズム体制でしたがはじめから仲良し同士ではありませんでした。
ムッソリーニはヒトラーが自分の真似をして、政治をしているのを知っていたので先輩ということもあって「ドイツをコントロールしてやるぞ」くらいの気持ちは持っていたのかもしれません。
しかし、経済的結びつきが強くなればなるほどドイツへの依存するようになっていきます。
経済だけではく軍事面で関係強化に!
1936年にはスペインで内戦が勃発したのですが、社会主義と対立するスペインのフランコ将軍をムッソリーニとヒトラーが支援します。
これによって経済的関係だけではなく、軍事力的にも結びつきを強めていくことになっていきました。
ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻すれば、イタリアは地中海沿岸のアルバニアに侵攻したりと連携をとるようになります。
そしてついに、1939年9月ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発します。
ムッソリーニは考えました。
「ヒトラーがヨーロッパ本土で戦争をしているうちに、イタリアは地中海沿岸国とアフリカを手にいれるぞ!」と。
ムッソリーニはドイツの連戦連勝の快進撃を見て、「いける!」と思ったのでしょうか。
1940年6月に第二次世界大戦にドイツ側に参戦、フランスとイギリスに宣戦布告します。
しかしこれが大きな誤りでした。
この時、ヒトラーから離れてドイツ側に参戦しなければ、イタリアの情勢もムッソリーニのその後の人生も変わったことでしょう。
連戦連敗のイタリア
第二次世界大戦に参戦したイタリアはアフリカやギリシアに侵攻しますが、結果は悲惨なものでした。
勝ちがなく連戦連敗だったのです。
実は第二次世界大戦に参戦する際、軍の上層部は参戦することに消極的でした。
イタリアはもともと多くの植民地をもたず、資源は豊富ではありませんでした。
どうしても、植民地をたくさんもっているイギリスやフランスには資源面では追いつくことなどできなかったのです。
第一次世界大戦後、ムッソリーニが国力増加に力をいれていたといっても、世界恐慌の影響などもあり重工業は他国に比べると遅れがちでした。
結果、軍の近代化もイギリスやフランスに比べると遅れていたの現実だったのです。
ムッソリーニがもう少しこの状況を冷静に考えれば、もしかしたら参戦しなかったかもしれません。
しかし、ムッソリーニはヒトラーにたいして対抗意識で参戦をしてしまったのです。
連戦連敗でいいことなしの状態で、イタリアのためにはじめた戦争なのに、次第にドイツのための戦争へとシフトしていきました。
戦争が長引くにつれ、民衆は飢えるようになりムッソリーニへの不満は高まっていったのです。
ドイツの操り人形
1943年7月初旬、イタリアにとってショッキングな出来事が起こります。
イタリア王国の西南に位置するシチリア島がイギリスをはじめとした連合軍に占拠されてしまいました。
そうです、国土の一部が敵の手に落ちたのです!
もともと困窮しているなかでの、この出来事に民衆の怒りが爆発しました。「ムッソリーニのせいだ!ムッソリーニをトップから引きずり下ろせ!」
ついに、1943年7月25日に国王の命令でムッソリーニは逮捕され失脚してしまいます。
ここから、ムッソリーニの人生がまっさかさまに転落していくこととなります。
しかしムッソリーニが最初に幽閉された場所は古民家で風呂もままないほどの汚いところでした。
ムッソリーニに忠誠を誓っていた下士官は、書物や洋服などを差し入れし軟禁生活のムッソリーニを手助けしていました。
ムッソリーニはその軟禁生活で自分の人生を振り返り自分のファシズムの在り方について考えゆっくりとした時間を過ごしたそうです。
もはやムッソリーニの人生もここまでかと思われたのですが、なんとあのヒトラーからムッソリーニに救いの手が伸ばされます。
ヒトラーがムッソリーニを救出
ムッソリーニの軟禁を聞いて怒り狂ったのがヒトラー。ヒトラーはイタリア進駐とムッソリーニ奪還を軍に命じました。
そしてなんと無事にムッソリーニを救出したのです!
ヒトラーは自分の師と仰ぐムッソリーニの苦境を救ったのです。ムッソリーニは救出された際「友人が私を見捨てない事は知っていたよ」とつぶやいたそうです。
しかし、本当にヒトラーは友人としてムッソリーニを救ったのでしょうか?かつては狂信的なほどにムッソリーニに心酔していたヒトラー。もちろん師として助けたいという気持ちもあったでしょう。
しかしそのころのヒトラーにはさらなる野望があり善意だけで動いたわけではありませんでした。
政治家としてのヒトラーの思惑ががっちり絡んでいたのです。
1943年9月にイタリアは停戦を発表したのですが、ドイツはイタリアに侵攻、イタリアの北部と中部の一部を占領したのです!
ヒトラーは「同志ムッソリーニのイタリアを守る」と理由付けしますが、実情はドイツのイタリア侵攻です。
そして、占領した地域にイタリア社会共和国を建て、その国のトップである国家統領にムッソリーニをつけたのでした。
これは、ドイツがムッソリーニを操り人形にしてイタリア北部を支配することを意味していました。
ムッソリーニは自分がドイツの操り人形であることを自覚していました。まさにヒトラーの傀儡政権。
しかし、自分が国家統領でなくなるとドイツ軍が我が者顔でイタリアで卑劣な行為をすることは分かりきっていました。
たとえ操り人形になろうとも、ドイツによる全面的な占領が行われないようにイタリアを守るのがムッソリーニが自分に背負った役目だったのです。
イタリアの北部の人間にとってムッソリーニは「ドイツの操り人形」ではなく「ドイツから身を守る最後の砦」だったのでした……。
ムッソリーニの悲惨な最後
ドイツの操り人形となってしまったムッソリーニですが、やがて死が訪れます。
第二次世界大戦も後半になるとドイツの旗色も悪くなり、ムッソリーニの立場も悪くなっていきました。
実はムッソリーニが死を迎えるまでの経緯はいろいろな説があり、よく分かっていません。
ムッソリーニは列車で移動中にパルチザンによって発見され拘束されています。
1945年4月28日の午後4時10分、ムッソリーニは愛人のペタッチとともに銃で処刑されました。処刑を見ていた人の証言では、ムッソリーニは処刑人に「胸を打て!」といい死を潔く受け入れていたということです。
処刑した人物についても諸説ありますが過激的で熱心なイタリア共産党員が銃殺した、というのが有力な説です。
ムッソリーニ政権下でひどい拷問をうけ長い時間、苦痛に耐えながら死んでいった多くの犠牲者がいることを考えると、銃であっという間に最後を迎えたムッソリーニはまだましだったと言えるかもしれませんね。
ただ、ひどかったのはムッソリーニが殺された後でした。死んでもなお悲惨な出来事がムッソリーニには待ち受けていました。
ムッソリーニの死体は、銃殺された翌日にミラノのロレート広場に運ばれ、広場のガソリンスタンドの屋根に逆さ吊りにされて、民衆にさらされたのです……!
その様は写真として記録されています。
さらには、死体は解剖されました。
ファシズムの生みの親、ということでイタリアとアメリカの科学者たちが独裁者を科学的に研究できるようにと脳の一部が切り取られたのです。
ムッソリーニは61歳でこの世を去り、生きている間も死んだ後も人々に多大な影響を与えたのです。
ムッソリーニとヒトラー
ムッソリーニとヒトラーは同時代に生き、ファシズムを指導した人物としてよく登場し、比較もよくされます。
ヒトラーのほうがより悪魔的魅力を持つのにたいして、ムッソリーニはどこか人間臭くて平凡な冴えない印象があります。
それは第二次世界大戦初期に連戦連勝だったドイツにたいして、イタリアが連戦連敗だったことや
ユダヤ人虐殺におけるヒトラーの突き抜けた残虐性にたいして、ムッソリーニは話題が薄いことが原因かもしれません。
しかし確かなのは、混迷の20世紀の時代に王政でもなく、社会主義でもなく資本主義でもない、ファシズムという新しい政治スタイルを創りだしたのはムッソリーニであるという事実です。
そしてヒトラーはムッソリーニという見本があったからこそ、自分の道を突き進むことができたのです。
ヒトラーはムッソリーニの真似をした
ヒトラーがムッソリーニを手本とした、という事実は何度も書いてきました。
ここでは具体的にどんなことを真似たのか見ていきたいと思います。
まずヒトラーやナチスの映像や写真を見ると、右手を伸ばして敬礼する姿をよく見ると思いますが、実はこれムッソリーニがはじめた敬礼の仕方なのです。
制服や持ち物を統一するというやり方もムッソリーニが考え、ヒトラーが真似したものです。
お揃いの物を身に着けて、所持するということは仲間意識を持ちやすいのが人間です。
私たちも学生生活では、同じ制服を着ているだけでまったく知らない人でも「同じ学校の人だ。仲間だ」と思いますよね。
もう1つはスポーツの政治利用です。
2021年には日本でもオリンピックが開催されましたが、何かしらのスポーツの世界大会が行われるたびにスポーツへの政治意識の持ち込み問題はニュースになりますよね。
ムッソリーニはスポーツが大好きだったのですが、彼はそのスポーツでさえ政治利用しました。
ムッソリーニが利用したのは第2回サッカーワールドカップです。
第1回のウルグアイ大会は小規模のものでしたが、第2回目をイタリアに誘致すると大々的にアピールしました。
サッカーの試合が行われたスタジアムは「国家ファシズム党スタジアム」やら「ベニト・ムッソリーニスタジアム」などと名前がついていたので、人々がサッカー観戦にスタジアムに行くだけで宣伝効果は抜群でした。
ヒトラーも同じようにスポーツを政治利用しています。
第2回サッカーワールドカップの2年後に行われたオリンピックはドイツのベルリンで開催されてたのですが、ヒトラーはこのオリンピックで「ナチス=ドイツってすごいんだぜ!」と国外にアピールしまくったのです。
ちなみに、ムッソリーニが利用した第2回サッカーワールドカップですが、イタリアは優勝します。
けれど、その裏では第1回大会で活躍したアルゼンチンからイタリア系の選手を引き抜いたり、審判を買収してたりしていて「最悪のワールドカップ」と言われているのです……。
ムッソリーニはヒトラーが嫌いだった!?
ヒトラーはムッソリーニを師匠と仰ぎ、尊敬していました。
1934年6月にヴェネツィアでムッソリーニとヒトラーは最初の会合をもち、はじめて会いました。
ヒトラーの最初の外国訪問でもあり、イタリアをムッソリーニを重要視していたことがよく分かります。
会合が終わり、ドイツへ帰国するヒトラーは興奮しながら「ああいう人は千年に1人しか生まれない。彼がフランス人じゃなくてイタリア人だったのは幸運だ!」と褒めたたえました。
ヒトラーのフランス人嫌いは有名です。
しかし、対照的にムッソリーニはヒトラーを嫌いました。
ヒトラーの著書の『我が闘争』については「あんなもの一度も読めたもんじゃない」と言い、ヒトラーのことを「道化師」と評しました。
最初の会合の時、ムッソリーニは「ユダヤ人と教会を迫害するのは常軌を逸している」と警告さえしました。
その警告は聞き入れられませんでしたが。
同じファシズムを掲げていた2人でしたが、一致していたわけではなかったのです。
しかし、前述しましたがムッソリーニは晩年嫌っていたヒトラーの操り人形となってしまいます。
人生何が起こるか分かりませんね……。
ユダヤ人への対応の違い
ヒトラーがユダヤ人を利用し毛嫌いし、非人道的なことを行ったことは皆さんご存じだと思います。
ファシズムという政治思想がユダヤ人への差別的行為をしたと思われがちですが、そうではありません。
ユダヤ人を迫害し虐殺したのはヒトラーでありナチスドイツで、ムッソリーニはユダヤ人を迫害もしないし差別もしませんでした。
ムッソリーニの敵は〇〇人などの人種にはなく、共産主義者、反ファシストの人だったのです。
イタリア国内にはファシストを支持するユダヤ人もいたので当然といえば当然ですよね。
ナチスのホロコースト(ユダヤ人絶滅政策・大量虐殺)がはじまると、ムッソリーニはユダヤ人たちをナチスの絶滅収容所に入れることを拒否して、何千人ものユダヤ人を救っています。
第二次世界大戦の戦勝国になった国で「ユダヤ人を救おう!」という理由で参戦した国がいなかったように、ムッソリーニもユダヤ人を虐殺しようとして参戦したわけではなかったのです。
ムッソリーニの人となり
ムッソリーニはイタリアを約21年間治めた独裁者でした。
ムッソリーニの意志でイタリアの政治のすべては決められましたし、彼自身は「イタリアの父」になることを望み、民衆もそれを望んだのでした。
実際に行ったことの良し悪しはともかく、リーダーの素質をもっていました。
1日の大半を新聞を読んだり政治活動に費やし、優れた演説家でもありました。
また相手の性格や素質を素早く理解する能力に優れていたといいます。
そんなムッソリーニですが、歴史上の独裁者のなかで見てみると少し違った側面が見えてきます。
その側面は実に、人間臭くて憎み切れないところがあるのです。
善良ではなかったが、邪悪ではなかった独裁者
皆さんは独裁者と聞くと何をイメージしますか?
政治のすべての決定権をもっていて、神のように崇められ、気に入らない奴は粛清してしまう……。
こんなところではないでしょうか。
ムッソリーニは独裁者ではありましたが、暴君ではありませんでした。
歴史上、独裁者といわれる人物は必ずと言っていいほど権力を保持するため、邪魔な奴を粛清します。しかもみせつけのために大量虐殺という手段を使うことが多いです。
ムッソリーニもファシスト党の一党独裁を作り上げたので粛清はしていますが、大量虐殺という手段は行っていません。
精神的な圧力はかけましたが、暴力ではなくあくまでも法の力でことを行っています。
国外からもムッソリーニにたいして賛辞の声があったのも事実です。
男性だけではなく、女性からも人気が高かった人物でした。
ムッソリーニは猫派だった?!
ムッソリーニは好きなことが多い人物でした。美食家で、おしゃれ好き。
スポーツも好きだったムッソリーニはフェイシングをたしなんでいました。練習風景が写真にも残っています。
生涯で決闘を5回も行ったそうです。
ここで、ビックリする話があります。ムッソリーニは動物好きで知られていて、特に猫が好きでした。
猫かわいいよね、と思いますが……猫は猫でも、ムッソリーニが飼っていたのは子どもの雌のライオンだったのです!
リードにつけて散歩してもしていました。
同じネコ科でも、家ネコとライオンでは違いすぎですよね……。
イタリアと名付けた雌ライオンを、ムッソリーニは大変可愛がっていました。
しかし幼獣から成獣になるとうなり声は大きいし、近所には危険だしという理由で、渋々動物園に寄付することになったというエピソードが残されています。
やることが凡人じゃないですよね!
ムッソリーニって何をした人?功績や最後などを解説! まとめ
いかがだったでしょうか。
実はムッソリーニは、今もイタリアの人に尊敬されています。
彼のお墓には花が絶えず、ローマ行進の記念日や誕生日、死んだ日などには教会のミサが行われ、多くのファシストたちが集まります。
イタリアでは今でもファシストを支持している人たちがいるのです。
2021年10月には、ムッソリーニの孫娘のラケーレ・ムッソリーニ氏がローマ市議会議員に当選し、ニュースにもなりました。
イタリアの新聞やテレビではムッソリーニに関する議論が日常的に行われており、良くも悪くも今なお人々を引き付けています。
何が善で何が悪なのか区別することはとても難しいように、ムッソリーニがしたことが善か悪かは断定することは簡単にはできません。
確かなことは、ファシストの生みの親であり、歴史に大きくその名を刻んで然るべき人物だということです。
多方面から調べることで、歴史の偉人についての知識がよりよく深まることができるのではないでしょうか。
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【参考文献・サイト】
『ムッソリーニ 上・下』 著:ニコラス・ファレル 訳:柴野均 白水社
『詳説世界史研究』 編者:木村靖二 岸本美緒 小松久男 山川出版社
『公立高校教師youtuberが書いた一度読んだら絶対に忘れない世界史人物事典』著:山田圭一SBクリエィティブ株式会社
『ムッソリーニの孫娘、ローマ市議会選でトップ当選』https://www.cnn.co.jp/world/35177777.html
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