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【康熙帝】康熙帝って何をした人なの?わかりやすく解説!台湾を平定したすごい人物だった?!

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みなさんこんにちは!

先日は民族の英雄・鄭成功(ていせいこう)を紹介しましたね!

鄭成功が建国した鄭氏台湾を滅ぼしたのが清王朝の名君・康熙帝(こうきてい)です。

今回は、中国史上最高の名君と称された清王朝4代皇帝・康熙帝(こうきてい)についてみていきましょう。

現在、中国が支配を狙っている台湾ですが一体どんな歴史をたどって今に至るのでしょうか。

目次

生誕と皇帝に就くまで

康煕帝 清王朝

康熙帝はわずか8歳で清の第四皇帝に就いた人物です。

幼くして皇帝となった人物の多くは周りに甘やかされたことで暗君になることが多い中で、康熙帝が史上最高の名君となれたのはその少年時代が大きく影響しています。

ここでは康熙帝の少年時代を見ていきます。

不遇だった少年時代

康熙帝は、1654年清王朝2代皇帝・順治帝の第3子として生まれ、玄燁(げんよう)と名付けられました。

ところが疱瘡(ほうそう、天然痘)という感染症にかかったことで宮殿から追い出され、北京の町で乳母の手で育てられます。

父・順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁(げんよう)は祖母の孝荘文(こうそうぶん)皇后により厳格にしつけられました。

7歳の時、父・順治帝が病に倒れると、「疱瘡を克服して生き残ったこと」「厳格な教育を受けて育ったこと」を理由に玄燁(げんよう)が皇太子に指名されます。

このとき、宦官が玄燁(げんよう)を迎えに上がったとき、玄燁は同年代の北京の庶民の子供と路上で遊んでいたといわれています。

贅沢な生活や宦官の誘惑に負けて失政を行った皇帝が多い中で康熙帝がそうした人間にならなかったのはこの少年時代が大きく影響しているといわれています。

そして順治帝は同年に崩御し、玄燁(げんよう)は8歳で皇帝に即位したのです。

少年皇帝の誕生

オボイ

玄燁は皇帝になったことで康熙帝と呼ばれるようになります。

しかし当初は順治帝の遺命により、スクサハ・ソニン・エビルン・オボイという重臣4人による合議で政権運営が行われる形になりました。

1667年ソニンが死去すると、オボイは反対派を粛清して専横を振るうようになりました。

身の危険を感じたスクサハは「先帝の陵墓を守って余生を送りたい」と引退を申し出ますが、オボイは逆にスクサハに無実の罪を着せて一族もろとも処刑に追い込みました。

残ったエビルンはオボイに追従し、オボイの専制が確立されることになったのです。

しかし、少年皇帝康熙帝は父の遺志をないがしろにして好き勝手にふるまうオボイに危機感を募らせます。

そして15歳の時からソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、オボイを油断させるためにモンゴル相撲に興じて政治に興味がないふりをします。

しかしその半年後、康熙帝は年少の側近やオボイらとモンゴル相撲を楽しんでいるときに、「オボイを捕らえよ」と命令します。油断していたオボイは取り押さえられ、逮捕されたのです。

オボイの罪状から死刑が妥当だと言われましたが、康熙帝は今までの功績に免じて、終身刑とします。

こうして康熙帝の親政がはじまったのです。

新たな王朝の混乱を鎮め、清王朝の礎を築く

康熙帝が親政を始めたときの清王朝はとても不安定な統治をしていました。

もともと中国を支配していた明王朝は漢民族の国家でしたが、清王朝は満州民族という別の民族が建てた王朝だったからです。

南方には明王朝の残党、台湾には「反清復明(清を滅ぼし明を復活させよう)」を掲げる鄭成功が力を蓄えていました。

さらに危険分子は清王朝内にもいました。

それが「三藩」と呼ばれる漢人武将たちでした。

彼らは明王朝が農民の反乱で滅んだ際に、農民軍に付くくらいならと清王朝に降った過去がありました。

そして清王朝の中国平定を手助けしたため広大な領土と強大な軍隊を持つようになっていましたが、このような経緯から康熙帝は完全に彼らに心を許していなかったのです。

この章では、康熙帝が敵味方問わず清王朝の不安定要素をつぶしていき、清王朝の支配を確実なものにしていった戦いをみていきます。

油断ならぬ味方「三藩」への対応

「三藩」とは清王朝に仕えていた呉三桂・尚可喜(しょうかき)、耿仲明(こうちゅうめい)の3人の武将のことを指します。

特にその中でも勢いがあったのが呉三桂です。

呉三桂はもともと明の家臣で、清王朝の侵入を防ぐため、山海関という北の要塞を守っていました。

しかし明王朝が農民反乱によって滅んだことを知ると、清王朝の皇帝であった順治帝に降伏したのです。

その後は明王朝の残党を破り、南に逃れた南明の永暦帝を殺したことで功績が認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず爵位を授けられていたのです。

この呉三桂を筆頭とした尚可喜・耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南・広東・福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので半独立国家状態となっていました。

「彼らをこれ以上放っておくと清王朝の平穏がおびやかされる可能性がある」と考えた康熙帝は三藩を廃止することを決定します。

これに対して家臣の多くは「廃止をすれば呉三桂らは反乱を起こす」と反対しました。

しかし3人の家臣らは「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか」という意見を出し、康熙帝もこれに賛同。

こうしてひそかに三藩を廃止するための動きをとっていきます。

そんなとき、三藩の一人であった尚可喜が地位を息子に譲り自身は引退したいと申し出てきました。

三藩を潰すまたとないチャンスととらえた康熙帝は「引退は許すが、地位を息子に譲るのは認めない」と返答します。

これを見た呉三桂は「次は私の番だ」と警戒心を高め、清王朝を試すために尚可喜と同じように「引退して地位を息子に譲りたい」と要望します。

康熙帝の返答は同じでした。

ここで呉三桂・耿精忠ら三藩は康熙帝に反乱を起こし、1673年三藩の乱が起こったのです。

三藩の乱勃発・反清勢力の逆襲

三藩の乱勃発・反清勢力の逆襲

強大な三藩軍が蜂起したのちしばらくは、清軍は次々と破られていきました。

中国南部の反清勢力に加え、台湾にいた鄭氏台湾の当主・鄭経も加わり、一時は長江以南を制圧されてしまいます。

呉三桂は「天下都招討兵馬大元帥」と名乗り、「満州民族を追い出して漢民族の国を建てよう」と呼びかけました。

そして次々と清王朝の都市を落としていったのです。

一方北京では家臣たちが康熙帝に「満州民族の故郷である満州に避難してください」と勧めていました。

しかし康熙帝は断固としてこれを拒否し、毎日数百もの報告を適宜に対応して三藩と戦う意思を示します。

実は康熙帝には秘策がありました。

それは漢人武将を将軍に取り立てることで呉三桂の大義名分である「漢民族の復興」を無効化することでした。

実際、世論は呉三桂が「漢民族復興」を唱えていたのを冷ややかな目で見ていました。

確かに当然でしょう。

そもそも清を中国に引き入れ、漢民族である南明の血統を滅ぼしたのはほかならぬ呉三桂です。

康熙帝の策略通り、大きな大義名分を失った三藩軍は徐々に士気が下がっていき、代わりに清軍の勢いが優勢になっていったのです。

1676年には、尚可喜の息子・尚之信が、その一年後には耿精忠が清に降伏し、残る三藩は呉三桂のみとなったのです。

呉三桂は最後の最後まで抵抗をつづけました。

その年3月には自身が皇帝として周という新たな王朝を建国したのです。

しかしこの5か月後、呉三桂は死去。息子の呉世璠(ごせいはん)が跡を継ぎますが、康熙帝はこの機を逃さず周王朝に猛攻撃をかけます。

1681年、周の最後の首都・昆明が陥落し呉世璠が自殺したことで周王朝は滅亡します。

こうして康熙帝は三藩の乱を8年かけて鎮圧することに成功したのです。

鄭氏台湾の平定

三藩の乱平定後の2年後、李光地という中国人の意見を取り入れ、鄭氏政権から降伏してきた施琅(しろう)という武将を台湾平定の総大将として台湾に派遣します。

もともとこの地域の人々は海上戦に優れており、騎馬戦が得意であった清軍は海戦では苦戦を強いられていました。

そこで康熙帝は海上戦の指揮を地元の漢人武将である施琅に任せたのです。

施琅は康熙帝の期待通り、澎湖(ぼうこ)海戦にて鄭氏台湾の艦隊を破ります。この時の鄭氏台湾は鄭経の息子、鄭克塽(ていこくそう)が治めていました。

しかしこの海戦で敗れた鄭氏台湾ではもはや勝ち目なしとの判断を行い、康熙帝に降伏しました。

このようにして康熙帝は最後まで抵抗していた台湾も平定し、中国統一を成し遂げたのでした。

続く外国との戦い

康熙帝が中国を平定していたころ、北方では大国・ロシア帝国が力を伸ばしていました。

さらに、モンゴルやチベットでも清に抵抗する勢力が勃興していたのです。

この章では国内を平定した康熙帝が次は国外に進出していった戦いぶりを見ていきましょう。

大国ロシアのピョートル大帝との戦い

当時ロシア帝国を治めていたのは、ロシアの近代化を図り、その礎を築いたことで「大帝」と呼ばれたピョートル1世でした。

ピョートル1世はヨーロッパ方面だけでなく中国方面への進出も進めていました。

台湾を平定した年には、ロシア帝国は満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンにまで南下してきたのです。

さらに現在のハバロフスク近郊に要塞を築き、それに危機感をいただいた現地の清軍司令官と戦闘に入ります。

この戦いではロシア軍が勝利し、清軍司令官は処刑されてしまいます。(アチャンスクの戦い)

そこで康熙帝は軍を率いてロシア軍と戦います。

清軍とロシア軍は何度か衝突を繰り返しますが、1658年清艦隊がロシア艦隊を撃沈しロシア兵のほとんどを討ち取ります。

この時、康熙帝は平定した鄭氏台湾の兵士たち(藤碑営)の優れた水軍能力に目を付け、彼らをロシア戦の主力として派遣しました。

これによって清軍が不慣れな海戦で再び勝利を収めることになったのです。

中国初めての国際条約・ネルチンスク条約締結

康熙帝に恐れをなしたロシア帝国は清王朝との和平を申し入れます。

こうして和平交渉が続けられ、1689年、ネルチンスクという町でネルチンスク条約が締結されます。

これは中国が初めて結んだ国際条約でした。

今までの中国の外交というのは中華思想に基づいており「中国は唯一の国家であり、周辺諸国はすべて野蛮な民族である」と考えていました。

それに対して康熙帝はイエズス会の宣教師たちにアドバイスをもらうことで「対等な国家」という存在を認め、中国初めての国際条約を締結したのです。

当時のヨーロッパでは各国で近代国家としての外交が確立されつつある時期でしたが、康熙帝は中国にも近代的な外交を取り入れようとしたのです。

この条約では清露国境を黒竜江という河川と外興安嶺という山脈によって定めることが決まりました。

こうして清王朝は今まで曖昧であった北方の国境線を確定させたのです。

反清勢力ジュンガルの鎮圧、モンゴル平定

時を少しさかのぼり康熙帝が三藩と戦っていた1670年代。

現在の新疆ウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地という土地で、ガルダン=ハンという人物がオイラトという遊牧騎馬民族をまとめ上げ、その地に帝国を作りました。

彼は中央アジアを征服していき、さらにはモンゴル(ハルハ部)の民族同士の内紛に介入しモンゴルも平定してしまいます。

これに反発したモンゴル諸侯たちは清王朝に亡命し、康熙帝に保護を求めます。

康熙帝はこれに応え、対ロシア戦争がやっと終わったばかりの1693年、今度は自ら軍を率いてジュンガルに出兵します。

そしてその3年後、康熙帝はジョーン・モドの戦いでガルダンに致命的打撃を与えることに成功します。

敗走したガルダンは1697年に病死し、その息子タンチラが清軍に捕らえられたことで清はモンゴルを完全に平定したのです。

チベットの平定

チベットポタラ宮

康熙帝は40歳になろうとしていましたが、それでも戦いを続けました。

ガルダンの甥であるツェワンラブタンがジュンガルの残党を率いてチベットに侵攻したからです。

当時のチベットはダライ・ラマという王の座を巡って争っていました。

その一人が傍系王族で青海という地域を支配していたグシ=ハン王家です。

グシ・ハン王家はツェワンラブタンと同盟を結び、チベットの首都・ラサへと進軍します。

これに驚いたチベットの王・ラサン=ハンが康熙帝に救援を求めたことで、康熙帝は1718年、チベット平定の軍を派遣します。

しかし、ジュンガル・グシ=ハン連合軍はラサを制圧、ラサン=ハンを殺害してしまいます。

チベットの王族はグシ=ハンとなり、ただの侵略者とみなされた清軍はサルウィン川の戦いで壊滅させられてしまいます。

康熙帝は大義名分を得て勢いづいた連合軍に正面から衝突するのは危険だと考え、グシ=ハンに裏工作を仕掛けます。

ジュンガルに味方した者も含めてグシ=ハン王族を北京に招き、爵位につけることで清朝の味方にしたのです。

こうして「チベットをジュンガルからチベット王族の手に戻す」という大義名分を得た清軍は、グシ=ハンのチベット軍とともに出撃。

当時チベットで反乱を起こしていた反ジュンガル勢力はこれを見てゲリラ活動をさらに強めます。

この様子を見たジュンガル軍はチベットから撤退し、チベットも康熙帝の手によって平定されたのです。

ただ、チベットはこののちしばらくグシ=ハン王族とラサン=ハンの後継者が決まらない状態で混乱を迎えることになります。

最後の戦いとなった台湾反乱平定

チベットを平定したとき、台湾では反乱が起きていました。

康熙帝はチベット問題を解決するや否や台湾に軍を派遣し、それを速やかに鎮圧しています。

しかし、この1年後に康熙帝がなくなったことでこれは康熙帝最後の戦いとなったのでした。

台湾反乱鎮圧の年である1722年11月に康熙帝は冷たい風にあたったことで高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御します。

こうして彼の中国統一事業は終わりを迎えましたが、その事業は息子の雍正帝に引き継がれました。

内政も完璧であった名君・康熙帝の統治

数々の戦いに勝利し、清王朝をアジア随一の強国に育て上げた康熙帝ですが、彼がのちに中国一の名君と称されるようになったのは、戦いに強かったからだけではなく内政面でもとても良い政治を行ったからでした。

この章では、康熙帝がどのような政治を行ったのかを見ていきましょう。

自ら倹約に努め宮廷費用を抑えた

康熙帝は自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれています。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らしました。

このように国家の無駄な費用を抑えたことで、財政が潤ったため減税をたびたび行い、人々の暮らしを楽にしました。

康熙帝は黄河の治水と水運の整備が行き届いているか確認するために全国を廻りましたが、この費用はすべて自費で賄うという徹底ぶりでした。

そのほかにも康熙帝は自分の息子が皇太子になった際には、爵位や領民を与えず、質素倹約をしつけるなど自身の子に対しても倹約を心がけさせたのです。

文化事業をおこし、儒教を保護する

康熙帝は文化事業にも力を入れ、様々な文書を編集しています。代表的なものは以下の通りです。

『康熙字典』…中国史上最も文字が収録されている漢字辞典

『大清会典』…清王朝の政治制度に関する史書

『全唐詩』…唐王朝時代に作られた詩すべてが網羅された詩集

『古今図書集成』…中国史上最大の百科事典

『皇輿全覧図』…最初の中国地図。

イエズス会宣教師らが実測し、完成させた

さらに、自らも勉強熱心であり、特に朱子学については自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれています。

異教であるキリスト教にも寛容だった

さらに康熙帝は西洋人がもたらしたキリスト教にも寛大な態度を見せます。

国内でキリスト教を邪教として扱い宣教師を追放した動きがあったときは、康熙帝は

「西洋人は我が国の暦法を助け、軍事面においても大砲を造った。これらの誠心を認め、布教事業の禁止はしない」

と命令したのです。

しかし、やがてローマ法王庁が中国人にキリスト教以外の信仰をやめるように要求するようになると徐々に清王朝はキリスト教に厳しい態度で臨むようになります。

草原の王者としての行動

康熙帝はモンゴルを平定してから、夏にはムラン・イ・アバという内モンゴルの草原に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行いながら、十数日の間モンゴル風のテント生活を送りました。

このような行動をとることでモンゴル諸侯に草原の王者としての皇帝をアピールしたのです。

康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれています。

遊牧民族へのアピールとストレス発散を兼ねて、毎年北方で過ごす習慣はその後の皇帝たちにも引き継がれていったのです。

晩節を汚した康熙帝の後継者選び

そんな完璧ともいえる康熙帝の唯一の失敗が後継者選びでした。

康熙帝には30人以上の息子がいましたが、とくに第2皇子である胤礽(いんじょう)を可愛がっていました。

胤礽の叔父・ソンゴトゥが権力者であったこともあり康熙帝は胤礽を皇太子に指名します。

しかし、叔父のソンゴトゥがクーデターで失脚すると孤立した胤礽は自暴自棄になってしまい、部下に暴力をふるったり、モンゴル人が献上する馬を勝手に奪ったりと乱暴な行為が目立つようになります。

康熙帝は泣く泣く胤礽を逮捕させますが、そのショックから不眠症となってしまいます。

その後は第1皇子の胤禔(いんし)や第3皇子の胤祉(いんし)が皇帝に名乗りを上げたり謀反を告発したりと後継者争いの中で宮廷は混乱してしまいます。

康熙帝は、「やはり皇太子には胤礽しかいない」と考え、胤礽のもとを訪れます。

すると胤礽は別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は再び胤礽を皇太子に立てます。

しかしその後、胤礽が反乱を企てていたことが発覚。激怒した康熙帝は首謀者を処刑し、胤礽を幽閉します。これに懲りた康熙帝は二度と皇太子を立てませんでした。

しかしそれでも王子たちの暗闘は収まることはなく、「九王奪嫡(きゅうおうだっちゃく)」と呼ばれる後継者争いが繰り広げられたのです。

最終的には第4皇子の胤禛(いんじぇん)が雍正帝として次期皇帝につきますが、雍正帝は父の犯した反省から皇太子を擁立せず、自身の死後に自身の記した文書によってはじめて公表するという「太子密建」というやり方を確立します。

それほどまでにこの争いは清王朝にとって深刻な事態だったのですね。

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康熙帝は実に61年もの間、皇帝の地位に就いていました。

なぜ康熙帝はこんなに長い間政権運営を円滑に行うことができたのでしょうか。その秘密を康熙帝はブーヴェという宣教師にこう述べています。

「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。

50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。

今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。

私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。

こうやって向かい合っている君臣が髪も髭も白くなっているとは楽しいことではないか。」

自身の部下だけでなく、征服した漢民族や降伏した敵の武将。

異教徒の宣教師など立場を問わず寛大に接した康熙帝だからこそ、現代でも中国史上の名君としての評価を確立するほどの功績を残せたのかもしれませんね。

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