清朝最後の皇帝である溥儀(ふぎ)をご存知でしょうか?
中国史上最後の皇帝である彼の名は、世界史の教科書だけでなく、1987年に公開された映画「ラスト・エンペラー」でも有名です。
しかし、彼の生涯や、その一族について、ご存じない方も多いのではないでしょうか?
たとえば、「溥儀」というのは名前で、姓は「愛新覚羅(あいしんかくら)」というのをご存知だったでしょうか?
清朝が滅び、中国に革命の嵐が吹き荒れる中、愛新覚羅溥儀とその一族には、過酷かつ数奇な運命が待ち受けていました。
そんな溥儀と愛新覚羅一族について、今回から前、中、後の三編に分けて解説していきたいと思います!!
「愛新覚羅」ってナニ?名前の由来は?
そもそも、溥儀にはなぜ愛新覚羅という長ったらしい姓があるのでしょうか?
実際、私も小学生の頃は姓が溥、名前が儀だと思っていました。
なにせ教科書には「溥儀」としか書いてありませんでしたし、中国の人の名前って普通は姓も名前も1文字か2文字、多くて3文字ですよね?
それが「愛新覚羅」だと4文字です。
日本でも、4文字の姓というのはとても珍しいですよね。
そこで、溥儀とその一族について知ってもらうために、まずは「愛新覚羅」という姓の由来について、解説します。
愛新覚羅は満洲族だった
そもそも、清朝は漢民族の王朝ではありません。
漢民族というのは、現在の中国では「漢族」とも呼ばれる人々のことで、昔から中国の大部分に住んでいた民族のことです。
それに対し、ウイグル人やチベット人、モンゴル人などは「少数民族」と呼ばれます。
清朝を建国したのは、この少数民族の一つである「満州族」でした。清朝が建国された17世紀当時は、「女真族」と呼ばれていました。
つまり、少数民族であった満州族が中国全土を支配してできたのが、清朝なのです。
満洲族独特の髪型がすごい
また、チャイナドレスも、もともと満州族の服装です。
漫画『キン肉マン』に、ラーメンマンというキャラクターがいるのをご存知でしょうか?
知らないという人も、頭のてっぺんの毛だけ残して三編みにしているキャラクターと言えばなんとなく見たことがあると思います。
実はあの髪型は「辮髪(べんぱつ)」といって、満州族独特の髪型です。
満州族は遊牧民でもあったので、馬に乗るのに便利なように、両サイドに切り込みが入ったワンピースを着ていたのです。
どちらも日本人が抱く中国のイメージとして定着していますが、実はこれらは漢民族の文化ではなく、満州族の文化だったのです。
ただ、清朝が滅びる直前の写真などは数多く残っているため、日本人の中でこれらがステレオタイプな中国のイメージとして残っているんですね。
満洲語の名前「愛新覚羅」
このように、清朝を支配したのは漢民族とは違う民族だったので、喋る言葉も満州語という独自の言語でした。そのため、当然名前の文化も違ったのです。
愛新覚羅というのは、「アイシンギョロ」という満州語に漢字を当てたものです。
ちなみに、「アイシン」は満州語で「金」を指す言葉ですが、「ギョロ」の意味は明らかではないそうです。
愛新覚羅という姓については、ご理解いただけたと思います。
溥儀の生涯とはあまり関係ないように思えるかもしれませんが、愛新覚羅一族が満州族であることは、溥儀の生涯を語る上で欠かせない要素となります。
愛新覚羅溥儀の即位と清朝の崩壊
さて、愛新覚羅溥儀は、そんな満州族が支配する清朝の、第12代皇帝として、1908年にわずか3歳で即位しました。
先代の光緒帝(こうちょてい)は、伯父にあたる人物で、父親は光緒帝の弟載灃(さいほう)という人物です。
溥儀を皇帝として指名したのは西太后でした。彼女は、先代の光緒帝に代わって政治の実権を握っていた人物ですが、光緒帝崩御の翌日に亡くなります。
このため、幼い溥儀に代わって父親である載灃が摂政王(せっしょうおう)に任命され、清朝における政治上のトップとなりました。
しかし、載灃もこの時わずか25歳でした。彼は若いながらも崩壊寸前の清朝を立て直すために力を尽くしましたが、力及ばず・・・。
力なき3歳の第12代皇帝「溥儀」
辛亥革命(しんがいかくめい)の結果、溥儀は1912年に退位し、清朝300年の歴史に幕が降りました。
3歳で即位した溥儀は、崩壊していく清朝を前にして完全に無力でした。
幼き皇帝として私生活では何不自由の無い生活ではあったものの、成長して政治に興味を持ち始める頃には、清朝はすでに崩壊していたのです。
このように、政治的に無力であったという記憶が、溥儀を清朝復活の夢へと駆り立てたのかもしれません。
実際、革命後の混乱の中で、溥儀は次第に清朝復活のための行動を起こしていくことになります。
そこで、次に革命後から満州皇帝即位までを見ていきましょう!
辛亥革命後の混乱、そして満州皇帝へ
清朝のあとには中華民国が建国されましたが、しばらくの間、溥儀は北京でそれまで通りの生活をすることを許されます。
しかし、中華民国建国後の中国は混乱した状態が続きました。
清朝以来の軍事力を使って、各地に軍閥(ぐんばつ)と呼ばれる集団が割拠したのです。これに、日本をはじめとした列強国の干渉も加わり、中国はあたかも群雄割拠のような状態になりました。
※群雄割拠ぐんゆうかっきょ(各地を地盤とした英雄たちが、互いに勢力を振るって対立すること)
こうした中、1924年、軍閥の一人である馮玉祥(ふうぎょくしょう)が北京を占領したため、溥儀とその支持者(革命後も、一部の人々は溥儀による清朝の復活を求めていました)らは北京日本公使館に援助を求めます。
その後、しばらくの間は日本の保護を受け、溥儀らは天津で過ごします。
満州事変勃発
1931年になると、有名な満州事変が勃発します。
この事件の詳しい説明をすると長くなるので省略しますが、この事件を経て、日本は溥儀を執政(しっせい)とする満州国という国家を作り、間接的に中国東北部を支配しようとしました。
この満州国、表向きはその名の通り満州族の国家ということにされましたし、国のトップである執政は溥儀、その他大臣クラスのポストには溥儀の側近が就きました。
しかし、彼らが就いたポストに実権は無く、実権のあるポストには必ず日本人が就くことになっていました。
満洲帝国で再び溥儀即位
溥儀は満州国における帝政の実現を強く希望しました。この願いは1934年に認められ、溥儀は皇帝に即位、満州国も満州帝国に名を改めました。
しかし、日本の傀儡国家であることに変わりはありませんでした。
溥儀がいかに皇帝という「地位」にこだわっていたかが伺えます。
皇帝となった溥儀は日本の皇族とも関係を持つようになり、1937年には弟の溥傑(ふけつ)と、昭和天皇の遠い親戚であった華族の嵯峨浩(さがひろ)との結婚が成立しています。
1941年に日本がアメリカに宣戦布告して太平洋戦争が勃発します。
満州国は実質的には参戦しませんでしたが、日本への物資供給などの役割を担いました。
しかし、戦況は次第に悪化し、1945年、ついに日本は戦争に敗北します。
そして、日本が戦争に負けた1945年以降こそ、溥儀とその一族にとって、清朝崩壊以来の悲劇の始まりだったのです・・・。
生まれてから終戦まで40年足らずですが、その中で2度も即位と退位を繰り返していることからも、溥儀の人生が非常に特異なものであったことが分かります。
一方、溥儀自身皇帝としての夢を追い続けていたことも分かっていただけると思います。
実際、満州国の皇帝になることを父親の載灃は反対していたようなのですが、溥儀はそれを押し切って満州国皇帝に即位しました。
しかし、その満州国もわずか13年で崩壊するのです。
満州国の崩壊と二度目の退位
1945年8月9日、これはソビエト連邦が満州国に進軍した日です。
それまで、日本とソ連には日ソ中立条約がありました。
しかし、ソ連はヤルタ会談でアメリカ、イギリスと協議した結果、中立条約の破棄を決定します。
この結果、満州はソ連の激しい攻撃にさらされます。
もちろん、満州国にも軍隊はありましたし、日本の関東軍もその防衛を担っていました。
終戦間近になると関東軍の主力はほとんど東南アジアの戦線に送られており、ソ連の攻撃から満州を防衛するほどの余裕は残っていなかったのです。
満洲国の崩壊と溥儀の退位
8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合軍に降伏します。
これを受け、溥儀は17日に皇帝の位を退き、二度目の退位を経験します。
これをもって、満州国は完全に崩壊しました。
このように、溥儀はまたもや自分の国を失います。満州国の皇帝としての在位期間はわずか11年でした。
清朝の皇帝としての在位期間は3年なので、合わせて14年間しか、皇帝でいられなかったことになります。
しかも、満州国の皇帝としてはもちろん、清朝の皇帝としても、政治的な実権を持つことができなかったのです。
しかし、実権を持たなかったとはいっても皇帝は皇帝、しかも国を失った「亡国のエンペラー」です。
そんな彼に、このあとどのような試練が待っていたのでしょうか??
元皇帝・溥儀は処刑ではなく「改造」??
溥儀らは、日本政府からの勧めもあり、日本への亡命を計画していました。
しかし、進駐してきたソ連軍によって捕らえられ、ハバロフスクの収容所に送られます。
この時、溥儀が恐れていたのは自分の身柄が中国に送られることだったようです。
日本の敗戦後、中国ではかつて日本に味方していた人々が多く逮捕され、「漢奸(かんかん)」として処刑されていました。
もし自分が中国に身柄を送られれば、自分も漢奸として処刑されることは間違いないと考えていたのです。
そうでなくても、フランス革命ではルイ16世が、ロシア革命ではニコライ2世が処刑されたように、革命が起きた国では、旧体制の指導者が処刑されることは珍しいことではありませんでした。
しかし、溥儀を待っていたのは意外な結末でした。
戦後、中国では中国共産党と国民党が争う「国共内戦(こっきょうないせん)」が続いていましたが、1949年に国民党が台湾に逃れ、中国本土を共産党が制圧したことで、中華人民共和国が成立していました。
溥儀・中華人民共和国で「再教育」という名の洗脳
そして、1950年、ソ連はこの中華人民共和国に、溥儀の身柄を引き渡したのです。
溥儀はいよいよ死を覚悟しますが、共産党のとった方針は意外なものでした。
というのも、共産党は溥儀を処刑するのではなく「改造」する方針を決めていたのです。
改造というとピンときませんが、正確には思想改造、もっと簡単に言えば「再教育」を図ろうとした、と言えます。
長らく皇帝による支配が続いていた中国において、中華民国の掲げた民主主義が理解されるまでには長い時間がかかりました。さらに新しい思想だった共産主義ならなおさらです。
とりわけ、中国共産党にとって溥儀などの元皇族や、国民党体制下の資産家、知識人は、共産主義体制をおびやかす存在として考えられていました。
なぜ彼らが共産主義をおびやかす存在なのか?と思うかもしれません。
しかし、溥儀が皇帝という地位にこだわり、それに加担する人々がいた、ということを思い出せば、まず元皇族が共産党にとって邪魔な存在であったことは言うまでもないでしょう。
なぜ溥儀を洗脳する必要があったのか?
共産主義は簡単に言えば社会の全てを国有化し、国民一人ひとりに対して均等に富を分配しようとする考え方です。
そうなってくると、毎日の生活にも苦労している農民や労働者にとっては良いのですが、多くの財産を持つ資産家や地主は困りますよね。
また、知識人も、そうした財産を元手にして高度な教育を受けていると考えられていました。
そのため、彼らが財産を奪われることを恐れ、共産党に対して反乱を企てる可能性があったのです。
実際、同じく共産主義体制であるソ連においては、こうした人々がスターリンの命令によって逮捕、処刑されることが数多くありました。
これに対し、中国共産党は彼らに再教育を施して、共産主義体制への自発的な参加を求めることにしたのです。
実に平和的なやり方のように思えますが、実際にはいわゆる「洗脳」と批判されることもあります。
溥儀・思想改造で命拾いをする
とはいえ、共産党がこうした方針をとったため、溥儀は命だけは落とさずに済んだことになります。
このように、退位後の溥儀を待っていたのは意外な展開でした。
溥儀自身は、自分が中国に送られれば間違いなく殺されると考えていたようで、撫順市の収容所で説明を受けるまでは半狂乱状態だったといいます。
それに対して、「処刑はしない」と言われたわけですから、溥儀としては内心ほっとしたのではないでしょうか。
では、その後の溥儀の生活はどのようなものだったのでしょうか?
元皇帝・溥儀の「再教育」で共産党への洗脳!釈放と晩年
1950年以降、溥儀は撫順市のハルビンの収容所で、この改造を受けることになります。しかし、皇帝としての意識が抜けない溥儀の改造は困難を極めたようです。
というのも、皇帝だったころの溥儀は身の回りのことを全て召使いにやってもらっていたため、自分で服を着るとか靴を履くとか、掃除をするとかいったことが全くできなかったのです。
ただ、そうした中でも溥儀は模範囚として振る舞い、徐々に生活力を身に着けていきます。
そして、1959年、模範囚として特赦を受け、釈放されます。
釈放後しばらくの間は、北京植物園の庭師として勤務していました。自分で服も着れなかった人間が普通に働けるまでになったのですから、大きな進歩ですよね。
しかし、庭師としての生活は短期間だったようで、64年には政治協商会議全国委員会委員など、国会議員クラスの役職に就任していました。
溥儀の洗脳は成功!とアピールしたい共産党
こうして溥儀は再び政治に関与することになるのですが、これは、溥儀を満州族の代表として利用したいという思惑と、共産党による改造の成果をアピールしたいという思惑とが重なった結果でもありました。
実際、共産党は、たとえばチベットではパンチェン・ラマを全国人民代表大会常務委員にするなど、革命以前の少数民族社会における指導者を、政治的なポストに起用することを多くおこなっています。
そうすることで、皇帝一家を処刑したソ連共産党などに比べて、中国共産党は平和的であることをアピールしようとしたわけですね。
当然、溥儀にしろパンチェン・ラマにしろ、実権を与えられていたわけではありませんが・・・。
ただ、この時の溥儀にはもう政治的な実権を握ろうという野心もなく、一般人の女性と結婚して、比較的平和な余生を送っていました。
そして、1967年、北京で病気のために死去します。享年62歳。64年には北京で自伝『わが半生』を出版して、反響を呼びました。
「男装の麗人」川島芳子の生い立ち
運命に翻弄された愛新覚羅一族の1人として、川島芳子は欠かすことのできない存在です。
ここからは川島芳子についてみていきたいと思います。
川島芳子、本名、愛新覚羅顕シ(あいしんかくらけんし、シは王に子)は、1907年北京生まれ。
清朝で代々王家を継承することを許された、粛親王愛新覚羅善耆(しゅくしんのうあいしんかくらぜんき)の娘です。れっきとした王女ですね。
愛新覚羅の一族ですが、本家の子である溥儀とはかなり遠い親戚関係にあります。
清朝滅亡後、彼女の父親である善耆は、清朝復活を求め、日本との繋がりを強めます。
そして、芳子を親交のあった川島浪速(かわしまなにわ)という日本人の養子とします。
養子となった芳子は、当初は東京の赤羽に住み、その後、浪速の故郷である長野県松本市に移り住みます。
松本では、現在の松本蟻ヶ崎高校の前身である松本高等女学校に通いました。
馬に乗って登校したと言われ、満州族の王女という出自やその気品ある雰囲気から、当時の女性たちの間ではアイドル的な存在でした。
川島芳子の転機・自殺未遂
そんな彼女ですが、1924年、17歳の時に自殺未遂を起こし、一命をとりとめたものの、髪を5分刈りし、男装をするようになります。
川島芳子はテレビでもたびたびとりあげられ、男装した人というイメージが定着していますがちゃんと17歳までは女性として生きていたようです。
川島芳子の男装理由と影響力の凄さ
では川島芳子が男装を始めた理由とはなんなのでしょうか。
理由は、川島浪速に乱暴を受けていたのではないか!や、当時付き合っていた男性との恋愛感情のもつれからなのではとも言われています。
しかし現在でもなぜ、川島芳子が男装を始めたのか真相は不明です。
また当時は、芳子の真似をして男装をする女性も多かったらしく、その人気ぶりがうかがえます。
芳子は、その気品ある姿から「男装の麗人」と呼ばれました。
その後、22歳でモンゴル人と結婚しますが、すぐに離婚。
男装しているのに結婚!ということはやはり心は女性のままだったようですね。
川島芳子・満州独立の為に力を尽くすも、、
離婚からの経歴は不明な部分も多いのですが、中国に渡り、関東軍のもとでスパイ活動をおこなっていたとも言われています。
満州国が建国された時には、溥儀の満州行きに反対した妻の婉容(えんよう)を満州へ連れ出すなどの工作に関わっていました。
清朝復活を夢見ていた父親同様、彼女も満州の独立のために奔走していたようで、「亡国の王女にして独立運動家」というイメージがうけ、小説の主人公として描かれたり、ラジオ番組に出演するなど、当時のメディアを賑わせていたようです。
ですが、満州国を傀儡(かいらい)としようとする日本のやり方に、徐々に疑問を抱いていくようになります。
そして、「自分は利用されていただけ」、という失意から、政治への関与を避けるようになっていきます。
しかし、運命は彼女に対して残酷に当たりました。
川島芳子・裏切者の中国人として終わる?
日本が戦争に負けると、国民党政府が彼女を漢奸(かんかん)として逮捕したのです。
終戦後、中国ではかつて日本に協力した人物が多く漢奸として逮捕、処刑されたことは中編で述べましたが、彼女もその1人だったのです。
原因はもちろん、彼女が満州国の建国に関わっていたとされたからです。
しかし、実は彼女が日本のスパイとして活動していたという公式な記録は無く、現在でも、関係者の証言が残っているだけです。
国民党にとって彼女を処刑することは中国の勝利を国内外にアピールする政治ショーでした。
そのため、裁判では彼女を主人公にした小説までもが証拠とされる始末。
つまり裁判は形だけで、彼女の処刑は予定調和だったのです。
結局、関係者による助命嘆願も虚しく、1948年、42歳で銃殺刑に処せられます。
辞世の句として、
「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん」
という句が残されています。
彼女の孤独な心情が現れていますね。
川島芳子生きていた!?
彼女の生涯こそ、運命に翻弄されたというに相応しいものでしょう。
清朝の王女に生まれながら、最期は漢奸、つまり売国奴の烙印を押されて処刑されたのですから・・・。
そんな彼女ですが、実は生存説も囁かれています。
というのも、彼女の処刑には不審な点が指摘されているほか、42年以降に彼女を見た、と証言する人も何人かいるのです。
源義経や西郷隆盛など、悲劇の死を遂げた人物について生存説が囁かれることはよくあることですが、川島芳子についても同様と言えます。
それだけ彼女の波乱万丈な人生が、人々の心を掴んでいるのかも知れません。
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「流転の王妃」嵯峨浩
華族として愛新覚羅家に嫁いだ日本人、嵯峨浩(さがひろ)も、運命に翻弄された人物の1人です。
嵯峨浩は、1914年、公爵嵯峨家の長女として生まれました。天皇家とは遠い親戚関係にあります。
彼女は、1937年に溥儀の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と結婚しました。
政略結婚でありながらも、、、
当時すでに満州国が建国されていたため、「日満親善」をアピールするためのという政治的目的から、関東軍の主導で縁談が進められたようです。
当初、溥儀は溥傑と皇室女子との結婚を望んでいましたが、当時の皇室典範では皇族と外国人との結婚は認められていなかったため、代わりに華族であった浩に白羽の矢が立ったというわけです。
文句なしの政略結婚なのですが、溥傑との夫婦仲は良く、2人の女の子を産んでいます。
しかし、彼女の運命も敗戦とともに大きく動いていきます。
それぞれ壮絶な人生を歩む2人
1945年の敗戦後、ソビエト連邦が満州に攻め込んできたことは中編で解説しましたが、この時の混乱で、溥傑と浩(と次女。長女は日本で学習院初等科に在学)は離れ離れになってしまいます。
その結果、溥傑はソ連軍に、浩と娘は1946年1月、中国共産党の軍隊である八路軍(はちろぐん)に捕らえられてしまいます。
その後同年7月に釈放されるまで、浩たちは八路軍とともに旧満州であった中国東北部を転々としました。
当時、旧満州はソ連、中国共産党、国民党がそれぞれ占領しており、特に共産党と国民党は中国の支配を巡って争っていたため、非常に混乱した状態が続いていました。
そのため、八路軍は各地を転戦していました。こうした中で、2月に起こった通化事件に浩たちは巻き込まれます。
日本人の多くが犠牲になった通化事件!浩が感じた恐怖
通化事件は、旧満州の通化という都市で、満州に取り残された日本人約3000人が、八路軍に虐殺された事件です。
この事件で浩たちが殺されることはありませんでしたが、当時の旧満州には多くの日本人が取り残され、虐殺を受ける事件が多発していました。
自分も処刑される恐怖に怯えながらこうした情景を目の当たりにするというのは、現在の私達には想像もつかない恐怖だったのではないでしょうか。
こうした中、結局7月に浩たちは釈放されるのですが、今度は国民党に捕らえられ、同年12月に身柄を上海に移されます。
そこで、旧日本軍の大尉であった田中徹雄の助けを得て上海を脱出、1947年の1月にようやく日本に帰国します。
実に1年間、命の危険を感じながら流転の日々を送ったことになります。
帰国後、その時のことをまとめ、1959年に『流転の王妃』というタイトルで出版し、反響を呼びました。
夫の溥傑と嵯峨浩の実に15年後の再会
一方、夫の溥傑は身柄をソ連から中国共産党に引き渡され、撫順(ぶじゅん)の収容所に収監されていたため、長らく再会することはできませんでした。
2人の再会が叶ったのは1961年、実に15年ぶりの再会です。
その後、2人は北京に住み、1987年に北京で死去しました。
2人の娘のうち、長女は1957年に自殺しているのですが、次女は日本人男性と結婚し、5人の子をもうけました。
愛新覚羅一族の血は、こうして現在の日本にも残っているのです。
川島芳子の男装理由が明らかになる!愛新覚羅一族の現在とは?まとめ
いかがでしたでしょうか?
溥儀には子供がいなかったのですが、今回紹介した川島芳子の父善耆には30人以上の子がいました。
清朝の王族は他にもたくさんいるので、単純に愛新覚羅家の人物全てを紹介しようとすれば途方も無い数になります。
そのため、今回は特に有名な2人をピックアップし、紹介してみました。
川島芳子の場合、子孫はいませんが、現在でも生存説が囁かれているのは興味深いですね。
また、浩の子孫が日本で生きているというのも意外でした。
名字は愛新覚羅ではないものの、溥傑の血を受け継いでいるわけですから、愛新覚羅の血は現在の日本でも生き続けていると言って良いでしょう。
これで、愛新覚羅一族と溥儀についての解説は終わりです。
ぜひ皆さんがこの時代の歴史にも興味を持ってくれればと思います!ではまた!
【愛新覚羅家の悲運な運命】愛新覚羅溥儀と川島芳子の悲しき人生を解説!!まとめ
いかがでしたでしょうか?
戦後、収容所で改造を受けた溥儀は、一般人としての生活力を身に着けます。
数十年に渡って皇帝として生活してきた溥儀にとって、それは皇帝という地位だけでなく、内面そのものを捨てるということでした。
ただ、釈放後の生活は、映画「ラスト・エンペラー」のように一般人として余生を終えた、と言い切るわけにはいかないようです。
むしろ、皇帝を退いてなお、政治的に利用されていた、といった感が見え隠れします。
それでも、こうした溥儀の後半生は、他の愛新覚羅一族に比べると比較的平和だったと言えます。
次回は、そんな愛新覚羅一族について解説します。前編、中編では溥儀の経歴紹介が主だったため、その人間性について深く見ていくことができなかったのですが、後編では、他の人々について解説していく中で、溥儀の人間的な面についてもスポットを当てていければと思っています!
お楽しみに!!
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