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洪秀全の生涯をわかりやすく解説・キリストに魅了されユートピアを実現した男!

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こんにちは!最近テレビをつけると常にタリバンのニュースが流れてきますね。

いつの時代も宗教のもつ団結力というのは新たな国家を作ってしまい、元の国家さえ転覆させてしまうほどの力を持っています。

宗教によってできた国ってあんまり日本ではイメージがわかないと思いますが、実はお隣中国ではある男によってキリスト教徒だけの国がつくられたのです。 

今日は、キリスト教によるこの世の天国を作ろうとした男、洪秀全についてみていきたいと思います。

目次

世の中は正しいのか…?勤勉学生の苦悩と出会い

洪秀全が生まれた当時の中国は清王朝が統治していました。

当時の清王朝はアヘン戦争に負けたことで欧米列強の進出が増え、民衆への負担が大きくなっている時代でした。

この中国暗黒期に洪秀全は生を受けたのです。彼はこの暗黒期に何を考えどう行動したのかを見ていきましょう。

洪秀全の生誕と青年時代

洪秀全は1814年、広東省の貧しい農家に生まれました。

彼の生家は貧しかったものの、彼の先祖は南宋という漢民族王朝のために命をささげた忠臣であり、彼の生家では「漢民族をいつか再興させよう」という思想が受け継がれていました。

洪秀全は村の中でも秀才であり、兄弟の仲で唯一文字を読み書きできました。さらに村で私塾に通い、四書五経という儒教の難しい経典を読み漁ることができたほどでした。

成長するにつれ、世の中をよくしたいという彼の気持ちはどんどん大きくなっていきます。

そこで、父親は彼に科挙という官僚登用試験を受けるように勧めます。

なぜなら中国東北部の少数民族である満州族が大多数の漢民族を支配している構造であり、漢民族の人々が役人になって世の中を改革する手段は科挙に合格することだけだったからです。

しかし科挙は、世界一難しい試験といわれていました。

14歳の時に1度目の試験に失敗し、20歳の時には2度目の失敗をします。

そして25歳の時にも3回目の失敗をしてしまいます。とうとうショックで熱病を患ってしまい、寝込んでしまうのです。

キリスト教徒の出会い

この三度目の試験を受ける前に洪秀全は、江蘇省で、ある老人から『勧世良言(かんせいりょうげん)』というキリスト教を紹介した本を渡されます。

この時彼はこの本を数ページめくっただけで読むのをやめています。

しかし、3度目の科挙に落ちて寝込んでいた時に洪秀全はある夢を見ます。

自分の目の前には、老人と隣に聡明そうな人がいます。

老人は彼にこう言います。

「私が本当の神であり、世の中はすべて私が創造した。それにも関わらず世の中の人々は悪魔を信仰している。ゆえに世の中が乱れているのだ。お前はその悪魔を追い払うために現世に派遣したのだ」

夢から目が覚めた彼は、思わず『勧世良言』を読み漁ります。

そして彼は夢に出てきた老人はキリスト教での唯一神・ヤハウェであり、隣にいた聡明そうな人はキリストであると確信します。

そして自分はヤハウェの次男であり、キリストの弟であると考えるようになります。その後、彼はキリスト教に没頭しその布教活動に力を入れていくことになります。

拝上帝教の誕生

彼は4度目の科挙に最後にチャレンジしますがこれにも失敗したため、官僚になることをあきらめます。

代わりにキリスト教を自分なりに解釈した考えを拝上帝教として説き始めます。

この考えに同調した馮雲山(ふううんざん)という人物とともに拝上帝会を結成し、広州付近で布教を開始します

ところが広州付近では成功しなかったため、30歳には広西という街に移りそこで精力的に活動します。

この地では「入信すれば男女問わず平等であり、男性同士は兄弟、女性同士は姉妹となる」という考え方は人々の共感を呼び、徐々に信者が増えていきました。この頃、楊秀清(ようしゅうせい)をはじめとした新たな仲間との出会いによって彼は勢力を拡大することになります。

洪秀全の教え

 彼はキリスト教の聖書である「旧約聖書」に記されている「十戒」をもとに拝上帝教の教えである「十款天条(じゅうやくてんじょう)」を制定します。

  1. 皇帝の神を崇拝すること
  2. 悪霊を崇拝しないこと
  3. 皇帝の神の名前を偽らないこと
  4. 7日礼拝し、神への恩を賛美すること
  5. 親孝行すること
  6. 人を殺さないこと
  7. 不倫をしないこと
  8. 盗みや強盗をしないこと
  9. 嘘をつかないこと
  10. 欲張りな人にならないこと

さらに、馮雲山とともに『原道醒世訓(げんどうせいせいくん)』という本を書いています。

これは彼のキリスト教の考え方をまとめた作品となっており、これによってさらに信者が増えることになりました。

悪魔との戦いと太平天国の建国

洪秀全や仲間たちの努力により拝上帝会は徐々に力を伸ばしていきます。

しかし、これを当時の清朝は快く思わず、弾圧をするようになります。彼は清朝こそが悪魔であると考え、ついに清朝との戦いを決意します。

洪秀全の挙兵

1851年1月11日、洪秀全率いる信者たちの軍は広西省金田村で挙兵しました。

この時、彼は信頼できる五人の部下(楊秀清・蕭朝貴(しょうちょうき)・馮雲山・韋昌輝(いしょうき)・石達開(せきたつかい))に信者たちの軍事訓練を任せ、来るべき戦の準備をさせていました。

またこの時期広西省では数年続きで天災に見舞われており、生活に苦しんでいた民衆たちがすでに天地会という団体を中心に反乱を起こしていたため、彼のもとには一気に13,000人もの兵力が集まりました。

清王朝がこの動きに気づいたときにはもうすでに時遅しでした。

広西省の清軍は人数が少なかった上に、先に述べた反乱の鎮圧に兵力が取られていたからです。

その年の12月には清軍が洪秀全の屋敷を包囲しますが、楊秀清がこれを破ったため、洪秀全と馮雲山は金田村に戻って戦いの準備を整えることができました。

その後、敵の総大将を討ち取った拝上帝会は新たに「太平天国」という国を作ったのです。

人々を清王朝から解放せよ

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki

太平天国では、清王朝に押し付けられた満州族の風習である弁髪(べんぱつ)から解放されました。

これは頭の周囲を剃り、後頭部に残した髪を編んで長く背後に垂らすものであり、漢民族もこの髪型にすることを強制させられていました。

これは漢民族にとっては屈辱であり、これから解放された人々はますます太平天国への忠誠を誓うようになったのです。

「天王」と名乗った洪秀全は、太平天国軍にも十款天条を守らせようとしました。

そして軍紀5カ条を定め、軍隊による民衆への略奪や殺害を禁じました。

これは民家に右足を踏み入れたら右足を切り落とすという大変厳しい規則であったため、太平天国軍は規律の取れた軍隊となり、ますます人々の指示を得るようになっていきました。

南京陥落!快進撃続ける太平天国

太平天国軍の快進撃は止まりません。

1852年には湖南へと進出、その一年後にはなんと清朝第二の首都と呼ばれた南京までを陥落させます。

洪秀全は南京を天京と改名して太平天国の首都に定めます。

このような快進撃を進められたのは楊秀清の活躍によるものでした。

こうして洪秀全は周りの信者に助けられながらついにこの世の天国を作り出すことに成功したのです。

この世の天国を作り出せ!国家運営に乗り出した洪秀全

洪秀全の悲願は太平天国建国という形で第一歩を踏み出しました。

実は国家の具体的な政務は楊秀清などの部下が実施していましたが、その政策は洪秀全の考えが色濃く出ています。

しかし、洪秀全はあくまでも宗教家であってやはり政治家ではありませんでした。

この章では彼の理想と現実を太平天国の最盛期での政策を通して見て見ましょう。

全ての平等を実現させる社会政策

洪秀全は全ての人は平等であると考えていました。

そのため、朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど)という制度を整備し、土地や生活物資が人々に平等に行き渡るようにしました。

また礼拝堂を建てたり司法制度を整備したりと人々の生活が良くなるように努めたのです。

しかし、実態は清軍との戦いのためにほとんど実施されなかったと言います。

またいきなり自分の土地を与えられて経営を任せられてもやり方がわからない人々も多く、結局地主による封建支配のやり方に戻っていったのです。

男女平等を目指せ!纏足の廃止

さらに洪秀全は纏足を禁止しました。

纏足(てんそく)とは女子が幼いより足に布を巻かせ、足が大きくならないようにする風習のことです。

これは中国では足が小さい女の子が美人だとされてきたことから行われたものですが、女性にとっては不健康かつ不衛生であったことから洪秀全はこれを禁止したのです。

このように平等の理念に基づいて男女平等も目指した洪秀全でしたが、やはり古くから根付いた男尊女卑の考えはそう簡単に改まりませんでした。

例えば、太平天国の科挙では女性合格者は一人もおらず、王位の官職にも女性は一人もいなかったのです。

同じ価値観を持つ欧米諸国と対等な関係を!

洪秀全はキリスト教を信仰していた欧米諸国を「洋兄弟」と呼び親しみを感じていました。

欧米諸国も同じキリスト教国なら仲良くできるであろうと考え、イギリスなどは使節を送り中立関係を維持しようと提案しています。

しかし洪秀全も古くから根づく中華思想には抗えませんでした。

使節団に対してイギリスを朝貢国とみなしたのです。

これにイギリスは失望し、むしろ清王朝に肩入れするようになったのです。

この世の天国はどこに?暴君と化した洪秀全

このように太平天国は洪秀全の理想とは裏腹に清王朝と同じような実態となっていたのです。

さらに太平天国は悪魔の手によって内部から崩壊していきます。

皮肉にも洪秀全が恐れた悪魔とは彼自身でした。

平等のはずなのに?欲には勝てなかった洪秀全

皆平等を謳っていたはずの洪秀全でしたが、天王となってからは自らそれを破るような行動を取っていました。

例えば、キリスト教の考えに則って民衆には一夫一妻を命令しておきながら自身は何人もの妻を抱えていました。

当時の中国には権力者は後宮制度があり、権力者は何人も妻がいることが普通でしたが、洪秀全を信じてきた人々の心は次第に離れていったのです。

楊秀清との対立・虐殺

先にも少し述べたのですが、太平天国の政治・軍事などはすべて楊秀清が仕切っていました。

また楊秀清も神の声を聞いたというようになりました。

そのため、楊秀清の意見は洪秀全といえども逆らうことができない状態となってしまいました。

例えば、楊秀清が「『万歳と人々から呼ばれるのは洪秀全だけであるが、楊秀清も多大な功績をあげているのだから、楊秀清も万歳と称させるべきである』と神様が言っております」といえば、洪秀全はそれを認めざるを得なかったのです。

また洪秀全が儒教の経典である四書五経を燃やそうとしたところ、楊秀清が拒否するなど徐々に自分に反発するようになったため、楊秀清に謀反の疑いをかけて殺害してしまいます。

この時にその部下や一族併せて2万人を殺すという暴挙に出たのです。

天京事変による国家の混乱

これに恐れをなした韋昌輝という部下が天京を離れ、反乱を起こしました。

彼はかつての仲間であった石達開を襲い、彼の一族郎党を皆殺しにしてしまいます。(天京事変)

これに激怒した洪秀全は韋昌輝や協力した武将を殺害し、この混乱をおさめますが、石達開もその後洪秀全のやり方についていけないと離脱するなど、洪秀全の求心力は地に落ちたのです。

洪秀全死す

このように洪秀全が理想を追い求めながらも、矛盾した私生活を送ったり部下を虐殺したりと太平天国が混乱しているうちに、清王朝は反撃のために力を蓄えていました。

そしてついに太平天国にも終わりの時が近づいてきたのです。

曽国藩や李鴻章による反撃の開始・外国人傭兵部隊との戦い

清王朝では負け続けの軍上層部の発言力が弱くなり、代わりに西洋の知識を積極的に取り入れた若手の将校たちの力が増していました。

それが曽国藩や李鴻章です。

彼らは、軍事技術や訓練を取り入れた軍隊(湘軍・淮軍)を率いて、太平天国軍に反撃します。

最新の西洋式軍隊の前に太平天国軍は次々と敗走していきます。この時に清軍との戦いで長年の仲間であった馮雲山も戦死しています。

さらに、清王朝は外国にも攻撃の支援を頼んでいました。そしてイギリス人ゴードン率いる外国人傭兵部隊(常勝軍)も太平天国を攻撃します。

近代化した清軍に加え列強軍も相手にした太平天国軍にもはや勝ち目はありませんでした。

この世の天国から地獄となった天京

そのころ、洪秀全はお気に入りの部下を優遇し、それで不満が出れば官位を与えるなど適当な政治を行っていました。

国名を「上帝天国」に変えようとしたり都を天京から移すべきという部下の忠言を退けたりと困難の局面下で適切な政策を打ち出すことができなかったのです。

そしてとうとう清軍は天京を取り囲みました。

すぐに食料は尽き、天京はこの世の地獄のような景色が広がっていました。

部下の一人が「餓死する人々が多いため、すぐに対策をしてください」と上奏しましたが、洪秀全は「みな甜露(かんろ)を食え。さすれば長生きできる」と答えました。

甜露とは聖書の中に出てくる食べ物で、それによってユダヤ人は生きながらえたといわれていますが、洪秀全が手にしていたのは雑草でした。

彼は、この雑草を食べ続ければ生きながらえると信じており、病に倒れた時も薬を断り、ずっと雑草をたべていました。

しかし、雑草では病は治らないどころか悪化していき、ついに1864年6月1日そのまま亡くなりました。最後の言葉は「私は天国に上り、天父天兄から兵を借りて、天京を守る」でした。

最後の言葉もむなしくその1カ月後に天京は陥落し、中にいた20万人の民衆は虐殺されます。

こうして太平天国は激動の時代の中で滅びたのです。

洪秀全の生涯をわかりやすく解説・まとめ

理想と現実の間に苦しみ、最後は自身が悪魔と化してそのまま迷信を信じてなくなった洪秀全。

実は彼の考え方は正当なキリスト教ではなく、洗礼に行ったときにアメリカ人の牧師から洗礼を断られているのです。

そのため、彼は自分なりのキリスト教理念で人民の幸せを願い、国を作ったのです。それでも多くの人々がついていったのはひとえに彼の求心力・人望でしょう。

最後は残念な結果に終わりましたが、この反乱は決して無意味ではありませんでした。

漢民族による満州族王朝への抵抗という出来事はその後の漢民族に大きな勇気を与えました。

中国革命の父として有名な孫文は幼いころ、太平天国の乱についての本ばかり読んでいたといいます。

彼のやり方は間違っていたかもしれませんが、世の中を変えたいという思いが受け継がれ実現したのは間違いありません。

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