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鄭成功(ていせいこう)とはどんな人物?わかりやすく解説します!

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みなさんこんにちは!最近ニュースでよく流れる『台湾有事』。

中国と台湾はずっと政治的対立をしています。日本やアメリカはこれに対して台湾側につく姿勢を見せて中国が反発していますね。

このように中国と台湾は政治的思想の違いから対立していますが、中国と台湾両方で民族的英雄として尊敬されている人物がいます。

しかも彼は日本とのハーフなのです。

今日明王朝を守るために最後まで清王朝に抵抗した漢民族の英雄・鄭成功(ていせいこう)についてみていきましょう。

目次

鄭成功(ていせいこう)・日本での生誕

1624年、鄭成功は長崎の平戸で生まれました。

日本を統一したばかりの江戸幕府は中国や東南アジアとの貿易(朱印船貿易)を推し進めました。

鄭成功の父・鄭子龍(ていしりゅう)もそんな商人の一人でした。この章では彼の幼少期についてみていきたいと思います。

長崎・平戸で生まれる

先にも述べたように父・鄭子龍は海上貿易を行っていた商人でしたが、長崎の平戸を治めていた松浦隆信の寵愛を受け、隆信の部下の娘である田川マツを娶りました。

そして平戸に住み、平戸老一官と名乗っていました。

そんな中マツは千里が浜という海岸で貝拾いに行った帰りに産気づき、そこで鄭成功(幼名・福松)が生まれたといわれています。

福松は、7歳まで平戸で過ごしました。現在この場所には誕生石といわれる石碑がありますので、興味がある方は是非見に行ってみてください! 

国の危機を救うために父とともに中国へ

当時の中国では、明王朝という漢民族王朝が統治していました。

しかし、中国東北部に建国された満州族王朝・後金(後の清王朝)との戦いに敗れ、国内でも反乱がおこるなど徐々に国力が落ちている状況でした。

そんな中で、父・鄭子龍(てい しりゅう)は故郷の福建省に戻り、鄭一族と合流する決断をします。

実は鄭一族は商人としての顔を持つ一方で密貿易も行っており、政府軍や商売敵との戦いのために私兵を組織した海賊としての側面も持っていました。

鄭子龍はこの時鄭一族の海賊軍団を率いる長でもあったのです。

わずか7歳になった福松は父に連れられ福建省に移ります。

一方で幼かった弟は母と共に日本に留まり田川七左衛門と名付けられて日本人として育てられました。

科挙への合格と新たな出会い

福建省に移った彼は鄭成功と改名し学校に入学します。

そして学問にも優れていた彼は15歳の時に科挙に合格し、地方官僚になっています。

そして17歳の時には高官の娘であった薫友(とうゆう)と結婚しました。

20歳の時には明王朝第二の都市・南京で銭謙益(せんけんえき)という学者のもとで学びます。

明王朝の滅亡と父子の別れ

地方官僚への就任、結婚、師との出会いなど平和で幸せな日々を送っていた鄭成功ですが、時代の中心は確実に明王朝から清王朝へと移りつつありました。

この章では、明王朝の滅亡とそれによって引き起こされた父子の別れについてみていきます。

明王朝の滅亡

鄭成功が20歳となった1644年、明王朝では農民の反乱が起きていました。

乱を率いていた李自成が北京を陥落させ、最後の皇帝・崇禎帝は自殺に追い込まれ、ここに明王朝は滅びます。

変わって李自成が「順」という新たな王朝をたてました。これを受けて都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作っていました。

父・鄭芝龍らは唐王であった朱聿鍵という皇族を擁立し、朱聿鍵を隆武帝として対抗したのです。

しかし、北方では後金が清王朝と名を変えて、北京に攻め込んでいました。

寄せ集めの農民軍で構成された順王朝は攻め込んできた後金にあっさりと敗退し、ここに順王朝も滅亡。

こうして中国北部から中部は異民族である満州族の支配を受けることになったのです。

このような状況下であったので、以後、南部のみ支配した明王朝は「南明」と呼ばれます。

明王朝の「姓」を賜る

力が落ちた南明の隆武帝を見捨てて清王朝に降った明の旧臣が多くいた中で鄭成功は隆武帝のために何度も清王朝と戦いました。

その功績が認められ、鄭成功は父の紹介により隆武帝に謁見しました。

隆武帝は聡明で頼もしげな鄭成功のことを気に入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言いました。

国姓というのは皇帝の名字のことです。つまり、彼は皇帝の親戚であると認められたようなものだったのです。

しかし、皇帝の姓を名乗るなんていくらなんでもいかにも畏れ(おそれ)多いと鄭成功は決して朱姓を使おうとはしませんでした。

それでも後世の人たちからは「国姓を賜ったすごいお方だ」という尊敬の意を込めて「国姓爺」(「爺」は「お方」や「旦那」という意味)と呼ばれるようになります。

隆武帝の死・親子の別れ

隆武帝は清王朝に征服されたかつての都・北京を取り返そうと軍隊を率いて清軍に戦いを挑みますが、大失敗に終わります。

その結果、隆武帝は殺され、父鄭芝龍はもはや抵抗運動も限界だ」と清王朝に投降します。

父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたのですが、鄭芝龍の意思が覆ることはありませんでした。

ちなみに、清王朝はその後、鄭芝龍を謀反の疑いで処刑しており、父子は二度と会うことはなかったのです。

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清軍との戦いと南明の滅亡

隆武帝死後、皇位は弟の紹武帝が継ぎますが、同年のうちに清に敗れて自殺したため、鄭成功は旧明皇族である永暦帝を擁立します。

その5か月後、鄭成功は清軍に対して攻撃を仕掛けます。この章では清王朝と戦った鄭成功の戦いぶりと南明の滅亡についてみていきます。

勢いづいた清王朝への抵抗運動

鄭成功は「反清復明」を掲げ、清王朝への攻撃を行い、泉州という町を包囲します。

この包囲作戦は清の援軍到着により失敗しますが、江西省や広東省の地方総督たちが清王朝に対して抵抗を始めるなど鄭成功の勢いを見た人々が一気に蜂起します。

しかし、これらの抵抗はまとまりがなかったため、江西省や広東省の反乱はすぐに鎮圧されてしまいました。

このまとまりのなさが南明の崩壊につながってしまうのです。

母の死と南明の滅亡

1646年、鄭成功の度重なる攻撃にいら立った清軍は彼の故郷、福建省の泉州城を攻撃します。

この際に鄭成功の母・田川マツは降伏することなく、邸宅内で自害し45歳の生涯を終えます。

鄭成功は大いに悲しみますが、悲しみにふけっている余裕はありませんでした。その4年後には、永暦帝のいた桂林という街を陥落させます。

さらにその9年後には永暦帝をビルマ(現在のミャンマー)まで追いやったのです。そののち、永暦帝は清軍に捕らえられて処刑され、ここに明王朝の皇統は途絶えます。

鄭成功はこれに対して、台湾の向かいに位置する厦門島(あもいとう)を奇襲し、反抗的な従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握しました。

一族をまとめた鄭成功はようやく反撃に出ます。

清軍が大軍勝最新の大砲を使う中、鄭成功は緻密な戦術で立ち向かいました。

知略にたけた鄭成功は「江東橋の戦い」では清軍を橋上におびき寄せ、待ち伏せして殲滅させたり、「海澄の戦い」では堀沿いに火薬を仕掛け、敵を誘導して一気に地雷を爆発させ殲滅させたりと敵軍をさんざん苦しめます。

清王朝との一時和睦と再び戦いへ

何度も大敗した清王朝の皇帝、順治帝は1653年5月に鄭成功に和議を申し入れます。

最初これを拒否していた鄭成功でしたが、兵士たちが疲弊している様子を見て、3カ月後に泉州の報恩寺にて休戦協定を結びます。

そして兵士たちに休養を与え、さらに清王朝に兵士を泉州に滞在させることを認めさせます。

しかし7か月後清軍は鄭成功に再度攻撃を仕掛け、ここに再び両者は戦うことになるのです。

ここでも鄭成功は江蘇省や広東省などで勝利を治めます。

一方で厦門を中心に海にも勢力を広げていた鄭成功の艦隊と清艦隊も南シナ海で交戦します。

制海権を掌握していた鄭成功はここでも勝利をおさめます。

一方で、支配地でも「山五商」と呼ばれる杭州を中心に活動した貿易組織を活用し、彼らから資金援助を受けることで、軍資金を調達する仕組みを作りました。

この組織には中国人のほか、日本人や南方の島々の人々からも構成されたとされ、のちに清に抵抗する反社会組織・洪門や香港マフィアとして有名な三合会の源流となります。

南京陥落せず。失敗に終わった北伐

鄭成功はその後も南シナ海や泉州付近で勝利を収めた鄭成功は34歳の時に北伐軍を結成します。

その軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん、農耕牛を殺しただけでも死刑となり、またその上官まで処罰される徹底ぶりでした。

意気揚々と進発した北伐軍でしたが、益州という街で暴風雨に見舞われ、300隻の内100隻が沈没してしまいます。

それでも鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年3月には再度進軍を始めました。長江に入り、定税関の戦いや鎮江の戦いで勝利をおさめ、南京を包囲します。

この時、人々はうれしさのあまり清王朝に強制されていた辮髪(べんぱつ)を切り捨てたといわれています。

しかし、ここで清王朝は大軍を率いて鄭成功に攻撃を仕掛けます。鄭成功の軍はこの猛攻に耐えられず、全軍厦門に退却します。

それを追ってきた清艦隊を殲滅することはできたものの、南京を陥落できなかったことで北伐は失敗に終わったのです。

日本に救援を求めた鄭成功

こうして失敗に終わった鄭成功の北伐でしたが、実は北伐に取り掛かる前に日本に二度ほど援軍を要請していました(日本乞師)

しかし、当時の日本は江戸幕府によって鎖国の準備が進められていた時代。

また清王朝が有利な状況を見ていた将軍の徳川家光は物資の調達は許したものの軍事支援そのものは黙殺してしまい、この行動が実ることはありませんでした。

さらに鄭成功は日本だけでなく、琉球王国や東南アジア諸国、ローマ法王にまで使者を送り、援軍を要請していましたが、いずれも不成功に終わっています。

ちなみに余談ですが、この時鄭成功の使者として来日した朱舜水という人物が徳川光圀(水戸黄門)に献上したのが日本初のラーメンであるといわれています。

もしこの時、日本やその他周辺諸国が手を貸していたら歴史はまた違ったものとなったかもしれませんね。

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新天地・台湾での「反清復明」王国樹立

長年仕えてきた南明が滅亡。

その遺志を継いだ北伐も失敗に終わり、諸外国からの援軍も期待できないという絶望的な状況に陥った鄭成功。

しかし、ここで鄭成功のもとに救援を求める地域がありました。

それは当時オランダに支配されていた台湾です。ここでは台湾に「反清復明」の新天地を見出した鄭成功の姿を見ていきます。

当時の台湾の状況

当時の台湾はオランダに支配されていました。

オランダは日本や中国との貿易を強化させるために、ポルトガルが発見したこの島に軍を派遣し、スペインとの戦いに勝利してここを貿易の拠点としていたのです。

これに長年反発していたのが中国本土から移住してきた漢民族たちです。

彼らは幾度も反乱を起こしていましたがそのたびに鎮圧されており、鄭成功に助けを求めたのです。

鄭成功上陸・オランダからの台湾解放

鄭成功は台湾を「反清復明」の拠点としようと考え、厦門の防衛を息子の鄭経に任せ、2万5千隻の艦隊を率いて出兵、1661年に澎湖諸島を占領します。

この動きを察知したオランダ当局は台湾本島南西(現在の台南市付近)にあったプロヴィンティア城を要塞化します。

鄭成功は台南市北側の港から上陸し、オランダの軍艦ヘクターを撃沈したことで台湾周辺の制海権を握ります。

そしてプロヴィンティア城を占領し、赤崁楼と改名して台湾進出の足掛かりとしました。

その後も原住民らを征服していきながら、ついにオランダ当局の本拠地・ゼーランディア城を包囲します。

鄭成功は2万人の大軍であることから食料が尽きる前に勝利する必要があったため、オランダ側に降伏勧告をします。

しかしオランダの司令官フレデリック・コイエットはこれを断固拒否、オランダ軍の粘り強い抵抗は鄭成功の軍にも大きな損害を与えます。

これに対して鄭成功は兵士たちに畑の開墾をさせることで、食糧不足を解決し包囲戦を続けます。

その後約1年間にわたる攻防戦の末、オランダ軍は降伏。台湾から撤退します。

明王朝復興のための王国建設・鄭成功の死去

こうして台湾を治めることになった鄭成功は、東寧王国(鄭氏政権)を建国し、この地を明王朝復活の足掛かりとします。

ゼーランディア城跡に安平城を築き王城としたうえで、承天府という中央政府と天興・万年という2県を設置し、澎湖島には安撫司(あんぶし)を設置しました。

国家基盤を整えようとしていた傍らフィリピンで中国人を迫害していたスペインに怒り出兵しようとしました。

しかしそれらの慣れない南国での環境での過労がたたり、熱病にかかってしまい1662年6月23日に死去しました。

鄭成功の後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれました。

しかし残念ながら、この21年後、東寧王国は宿敵であった清王朝に滅ぼされることになります。

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鄭成功(ていせいこう)とはどんな人物?まとめ

鄭成功は「反清復明」を果たす事なく死去しましたが、今でも中国では民族の英雄として評価されています。

統治の期間が短かった台湾でも、独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、不屈の英雄として尊敬されています。

そして、母のルーツである日本でも当時から鄭成功の戦いぶりは轟いており、あの有名な近松門左衛門は鄭成功をモデルに人形浄瑠璃『国姓爺合戦』を発表。

あまりの人気ぶりにのちに歌舞伎化までされた近松門左衛門の代表作の一つとなりました。

自分の信念に基づいてひたすら戦い続けた鄭成功。

彼のその生き様は今でも複雑な国家関係を越えて様々な国で愛されているのです。

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