みなさんこんにちは!
最近の中国のニュースを見てどんな印象を受けますか??
新型コロナ蔓延、ウイグルや香港の弾圧など独裁的な政治が目立つ怖い国。
一方で、急激に経済成長し、他国にも軍事的・経済的に大きな影響力を持っており、最近はITに力を入れてアメリカとも張り合っている超大国。
ところが、第二次世界大戦後、建国したての中華人民共和国は混乱と貧困が常に存在している新興国の一つにすぎませんでした。
そこからGDP第2位の超大国が生まれたのはある政治家のおかげなのです。それが本日紹介する政治家、周恩来です。
激動の時代に生まれて
周恩来が生まれたとき、中国を統治していた清王朝はイギリス、フランス、日本などに立て続けに敗北し、欧米や日本などの強国に半植民地化されている状態でした。
そんな激動の時代に周恩来がどのような青年時代を送ったのかを見てみましょう。
激動の時代・周恩来の生誕
周恩来は1898年3月5日に江蘇省の地方官僚の家にて生まれました。
地方官僚といっても周家は落ちぶれており、家族は幾度と引っ越しをせざるを得ない環境でした。周恩来は生まれてから、伯父と養母に育てられますが、実の母と養母ともに教育を重視する考え方を持っていたため、周恩来は学業の面でとても優秀な成績を収めていました。
ところが周恩来が9歳の時、母親が肺疾患でなくなり、養母もしばらくしてなくなってしまうのです。
二人の母親を失ったため父親が生計を立てるようになり、周恩来自身も幼い弟の面倒を見るなど苦労が絶えない幼少時代を過ごすことになります。
周恩来はその後満州や天津などを転々とし、天津の南海中学校に入学します。
ここでは学費を免除されたり月刊誌を編纂したりするなど優秀な学生でした。そのため、周恩来は19歳の時に急激に成長した大国、日本へ留学することになります。
周恩来・人生に影響を及ぼした日本留学
周恩来は最初、東京第一高等学校(後の東京大学)と東京高等師範学校(後の筑波大学)を受験しますが、日本語の成績が足りず落ちてしまいます。しかし明治大学に入学し、東京の神田に下宿しながら日本語を学びます。
余談ですが、周恩来はこの留学中にホームシックになったようで東京の中華料理屋によく通っていました。
その中華料理屋は今でもなんと神田に残っているんだとか。神保町駅から歩いて3分程度のところにある中華料理店、漢陽楼がそれです。機会があれば是非行ってみてくださいね!
さて周恩来が留学した際に、遠く離れたロシア帝国で革命が起き共産主義という考え方が日本にも伝わるようになります。
ここで共産主義とロシア革命について軽く触れておきましょう。
共産主義とロシア革命
共産主義とは、土地や財産などを全て国のものとしてそれを人民みんなで均等に分け合うという考え方です。
この考え方が生まれたのは産業革命時のヨーロッパでした。当時のヨーロッパは急速に工業が発展したため、土地やお金といった資本を大量に持つ資本家がどんどん稼ぐことで世の中を発展させるという資本主義が世の中のスタンダードな考え方になっていました。
しかし、この世の中の仕組みでは、稼いだ資本家はどんどん金持ちになっていきますが、稼げない人々はどんどん貧しくなっていくという問題がありました。
この貧富の差を埋めるために、ドイツ人のマルクスという人が「みんなで稼いだ分はみんなで平等に分け合おう!」といいました。この考え方を共産主義と呼びます。
ただ、やはりヨーロッパの国々の多くは資本主義の考え方で社会が成り立っていたので、この考え方は国家としてはあまり受け入れられませんでした。
しかし貧富の差に不満を抱く人々が多いロシアではその不満が爆発し、ついに民衆が皇帝や貴族を捕らえて、共産主義の国家を作りました。
それがソヴィエト連邦、通称ソ連です。
この出来事に世界中が驚きました。
世界中の稼いでいた政治家や資本家は共産主義が自分の国に広がらないように警戒し、逆に貧富の差に苦しんでいた人々は共産主義にハマっていったのです。
周恩来も例外ではありませんでした。当時の日本も都市部の裕福な人々と農村部の貧しい人々の間で格差があったため、共産主義の考え方に興味を持つ人々が増えていたのです。
周恩来は河上肇や幸徳秋水といった共産主義者の本を読みあさります。
さらに、当時欧米列強に半植民地化されており、貧乏な生活を強いられていた中国の人々の間でも共産主義だけでなく西洋の考え方が広がっていきました。
陳独秀という青年が編集した雑誌『新青年』によって中国の多くの若者が共産主義や新たな西洋の価値観に触れ、中国の古い価値観を脱するようになったのです。これを文学革命と呼びます。
周恩来・革命への参加
日本留学によって大きな影響を受けた周恩来。
しかし、周恩来が日本を去るきっかけとなる出来事が起きます。それは日本による中国への進出でした。
中国では当時、袁世凱(えんせいがい)という力を持った軍人が清王朝を滅ぼしており、また中国南部では孫文という革命家が中華民国という新たな国を作っていました。
争いを避けたい孫文は袁世凱に中華民国のトップの座を譲るのですが、袁世凱はその後独裁者となり好き勝手な政治をしていました。
そんな中で第一次世界大戦が起き、世界の注目がヨーロッパに向いている中で、日本は袁世凱に二十一か条の要求という中国をほぼ植民地化するような勝手な要求を突きつけました。
これを袁世凱がしぶしぶ承認したことで国民の不満は爆発し、五・四運動という反帝国主義・抗日運動が起きました。これを受けて周恩来は祖国に帰国し、その活動に身を投じるようになるのです。
共産党への入党
周恩来は天津に戻るとすぐに五・四運動を指揮し、学生運動の中心的人物となります。しかし周恩来はすぐに中国警察に逮捕され、半年間留置されます。
釈放後、本格的に共産主義を学ぶために、学校からお金を支給してもらい、フランスのパリに留学します。
そしてパリで働きながら本格的な共産主義を学ぶことになります。
そしてこの地で、周恩来は中国人の留学生仲間とともに共産主義のグループを立ち上げます。これが共産党員としての周恩来の活動の始まりでした。
ちなみに周恩来はイギリスのエディンバラ大学にも合格していたのですが、中国政府から奨学金が支給されなかったため断念しています。
めちゃくちゃ頭良かったのでしょうね。
実はこのフランス留学の前に五・四運動を指揮している際に周恩来はある女性と出会っています。それが同じく天津の学校に通う学生の鄧穎超(とう・えいちょう)です。
周恩来女とはフランス留学中もずっと文通を続けるなど良き友人として交流を続けることになります。
孫文、そして最愛の妻との出会い
![](https://history-go.com/wp-content/uploads/2021/09/79CAF322-C9A3-40DD-9D4C-1C27D6720CE9.jpeg)
帰国後、周恩来は孫文に出会います。
孫文は袁世凱に中華民国のトップの座を譲ったものの袁世凱の横暴ぶりを見てもう一度革命に向けた活動をしていたのでした。
孫文は国民党という違う考え方の勢力を率いていたのですが、孫文と周恩来は革命を成功させるには、考え方の違いを超える必要があると考え、国民党と共産党が手を結ぶこと、すなわち国共合作を行いました。
そして周恩来は黄埔軍官学校という孫文が作った軍人養成学校に教官として赴任することになります。
この時、校長を務めていたのは、国民党の次のリーダーを期待されていたエリート、蒋介石でした。この二人の出会いはのちに歴史的に大きな意味を持つようになります。
革命の機運が徐々に高まっていた1925年、中国革命の父と尊敬された孫文が「革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし」と言葉を残しこの世を去りました。
周恩来やその周りの仲間たちは悲しみにくれますが、めでたい出来事もありました。それは長年の友人であり良き理解者でもあった鄧穎超との結婚です。
彼女はこの後も生涯にわたって周恩来を支え続けることになります。
弾圧にも負けず
孫文の死後、国民党のリーダーとなった蒋介石は共産党の考え方を嫌っていました。
蒋介石を支持していた地主や資本家の人々も共産主義が広がると自分たちの立場が弱くなると警戒していました。
そしてついに1929年、上海にて国民党員が共産党員を一斉に逮捕、処刑するという事件(上海クーデター)が起こります。
その後も各地で共産党員が逮捕、処刑されたため、周恩来らは都市部から農村部に逃げざるを得ませんでした。
そのため共産党はいくつもの派閥に分かれて農村部で国民党と戦うようになりました。
その一人がのちに中華人民共和国の建国の父である毛沢東です。
周恩来らは、井崗山(せいこうざん)という山に新たな根拠地をつくり、そこで畑を耕し、自分たちで食料をつくりながら激しい訓練を続けていたのです。
そして1931年毛沢東は井崗山ふもとの瑞金という町で中華ソヴィエト共和国臨時政府を設立し、蒋介石との徹底抗戦の構えを見せていました。
周恩来も上海クーデター以後各地を転々としながら国民党と戦っていましたが、この年に中華ソヴィエト臨時政府に参加し、そこで中央軍事部長となりました。
中国共産党の命運を分けた長征
共産党がここ瑞金で反撃の機会をうかがっている中で、国民党軍は攻撃の手をゆるめません。
ついに瑞金を取り囲み、一斉攻撃を仕掛けたのです。この攻撃に首都瑞金が陥落し、共産党員らは山奥へと逃げました。
軍隊の指揮をとっていた周恩来は責任を感じ、若き共産党員であった毛沢東を支持することにしました。
こうして共産党のリーダーとして毛沢東が歴史の表舞台に出てきたのです。
リーダーとなった毛沢東はこの地を捨てて共産党の同志がいる延安という町まで向かい、そこで体制を立て直すことを決定します。
ここに中国史上類を見ない行軍「長征」が始まったのです。
もちろんその道のりはとても困難なものでした。目的地の延安までの距離は約1万2500キロ。
こういわれてもパッと来ないかもしれませんが、日本をぐるっと一筆書きのように一周する距離が1万2000キロといわれています。つまり、周恩来らは敵に追われながら日本一周よりも長い距離を歩いたのです。
1935年1月末、周恩来らは出発します。
まず大河川、長江を渡ろうとします。しかしそれも地元の軍閥に攻撃され何度も失敗します。やっとそれを乗り越えると次は大雪山という豪雪地帯、ここでも多くの同志が凍傷や高山病で倒れていきました。
さらに国民党だけでなくチベットや少数民族からの攻撃にもさらされ、9か月後に延安についた際は10万人いた軍隊は8千人にまで減っていたといいます。
日本軍との戦いに向けて
国民党と共産党が争っている中で、着々と中国に進出している国がありました。
それが日本です。
日本は、満州事変という事件を引き起こし、満州(現在の中国東北部)を支配していた地方軍人の張作霖を暗殺しました。
そして混乱のうちに満州を制圧し、清王朝最後の皇帝であった溥儀を担いで満州国という新しい国を作ったのです。
これに中国人は大激怒し、国際連盟もこれを非難しました。
そんな折、毛沢東は延安到着後、八・一宣言を発表します。これは「中国人同士で争いをやめてまずは日本軍に抵抗しよう」という内容のものでした。
これには共産党のみならず多くの中国人が賛成しました。
周恩来の交渉力が発揮された西安事件
![](https://history-go.com/wp-content/uploads/2021/09/8FEF127C-B8D5-484F-80CF-E2E6C9DA3F0F.jpeg)
しかしこれに対し蒋介石は「日本軍は小さな皮膚の病気だ、しかし共産党は大きなガンだ」と言って共産党への攻撃をやめようとはしませんでした。
これに怒ったのは国民党の将軍であった張学良でした。
周恩来の父親は張作霖、そう日本軍に爆殺された人でしたね。周恩来自身父の仇を討つために共産党と休戦して日本と戦うべきだと考えていたのです。
そして蒋介石が西安という中国西部の町に滞在していた時、蒋介石を監禁してしまいます。
これを西安事件と呼びます。
蒋介石を監禁した張学良は八・一宣言を受け入れるように説得します。しかし蒋介石はなかなかこれに応じません。そこで張学良は周恩来に説得を依頼します。これを受け、周恩来は西安に向かうのです。
かつての同じ士官学校の上司であった蒋介石に対し、周恩来は国共合作の重要性、今の中国にとって何が課題であるかを説きます。
そして最終的に蒋介石は二度目の国共合作に合意するのです。
日本軍との戦い
こうして共産党・国民党連合軍は進出してくる日本軍に対抗します。
日本軍は強く、国民党政府の首都であった南京を占領しますが、国民党は首都を重慶に移して抵抗します。
この重慶も毎日のように空襲に晒されました。
また日本軍は次々と都市を占領し、鉄道や道路といった重要なインフラを押さえていきます。しかし毛沢東や周恩来は「日本軍は都市という点と鉄道という線しか押さえていない。中国の広大さを活かしてゲリラ戦に持ち込もう」と呼びかけ、主に農村部で抵抗を続けます。
日本軍も広大な中国大陸での戦争は疲弊すると考え短期戦で臨もうとしていたためこの抵抗は大きなダメージとなりました。
特に共産党の軍隊であった八路軍、新四軍はゲリラ戦によって日本軍を苦しめていました。
この後、日本軍は中国軍の補給を断とうとしてフランス領インドシナ(現在のベトナム)に進出したことでアメリカと対立し、あの太平洋戦争に突入します。
そしてみなさんご存知の通り日本は最終的に1945年、無条件降伏を受け入れて敗戦します。日本降伏によって現地の日本軍も撤退します。しかし、まだまだ中国の混乱の時代は続くのでした。
中国統一に向けて
日本軍が撤退すると蒋介石はすぐに共産党への攻撃を再開します。
実は蒋介石は西安事件以降も日本と戦っている間にも何度か共産党を攻撃していました。
それほど共産党の拡大を脅威に感じていたのかもしれません。
当時の世界情勢を見ると、共産主義国家のソ連と資本主義国家のアメリカで対立が深まっており、共産主義の拡大を防ぎたいアメリカは蒋介石を積極的に支援しました。
アメリカの最新鋭の兵器を使った国民党軍は強く次々と共産党の支配下に置いていた都市は占領され、鉄道も押さえられていきます。
しかし国民党はここで日本軍と同じ過ちを繰り返してしまいます。
つまり、点と線だけの支配にとどまってしまったのですね。また、蒋介石は戦争のためのお金を確保するためにお札をたくさん刷りました。
そのため国内は深刻なインフレ状態となり国民は国民党に不満を抱くようになりました。
その後、民衆の支持を得た共産党は各地で勝利を収めるようになります。
ついに1949年蒋介石率いる国民党は台湾に逃げここに共産党による中国統一が成し遂げられることになります。
さてこれから周恩来が理想としている中国建国をすすめていくことになります。
日本軍が撤退していった中国。
激しい日本との戦争が終わり一息つくまもなく中国国内では国民党と共産党が再び激しく衝突します。
理想の国家づくりに邁進
1949年10月1日、北京天安門広場で初代国家主席となった毛沢東の手によって中華人民共和国の建国が高らかに宣言されました。
この時周恩来は副総理兼外務大臣として重要なポストに任命されました。
この章では新生中国のために尽力した政治家としての周恩来の姿を追っていきましょう
第三勢力のリーダーとして
さて当時の世界情勢に目を向けてみましょう。
当時はアメリカを中心とした資本主義国家(西側陣営、第一世界)とソヴィエト連邦を中心とした共産主義国家(東側陣営、第二世界)が対立していました。
いわゆる東西冷戦ですね。
その中で今まで欧米諸国の植民地であったアジア・アフリカ諸国が次々と独立していきました。
彼らは東西陣営どちらにも与(くみ)さなかったため、第三世界と呼ばれる存在となりました。
第三世界諸国のリーダー的存在となった国は二つありました。それがインドと中国です。
インドはイギリスから独立後、ネルーという人が首相になっていました。
周恩来はネルーと連絡を取り、インドとの関係強化に尽力しました。この時ネルーと平和五原則という5つの理念を発表しました。
・領土保全 「お互いの国の領土、主権を尊重しましょう」
・相互不侵略 「お互いの領土に侵略をやめましょう」
・内政不干渉 「お互いの国の内政に干渉するのはやめましょう」
・平等互恵 「お互い平等に助け合いましょう」
・平和的共存 「平和的な形で共存しましょう」
同時にインドと対立していたパキスタンとも友好関係を結ぶなど卓越した外交能力を見せました。
この外交能力は国際会議の場でも発揮されます。
東南アジア・アフリカをまとめる周恩来
1955年インドネシアのバンドンでアジア・アフリカの国々が集まり、会議が開かれました(バンドン会議)。
この場では独立したばかりの多くの国々が集まったため、なかなか意見がまとまりませんでした。
そこで周恩来は「求同存異」という中国の慣用句を紹介しました。
これは「お互いに違いがあると認めたうえで、お互いの同じところ、共通点を求めよう」という意味です。
周恩来は各国首脳に対して、「各国で各々事業があるのは分かるが、共同の利益を追求していこう」と呼びかけたのです。
これを聞いた各国首脳は感銘しました。
特にガーナの初代大統領でありアフリカ独立の父と呼ばれたエンクルマ大統領は周恩来から贈られた人民服を生涯愛用するほどの敬愛ぶりでした。
そして、この会議で平和五原則にさらに5条を追加した平和十原則が発表されたのです。
ここでは新たに追加された項目は割愛しますが、この平和十原則は新興独立国の外交政策と連帯の基本として国際政治を動かす原動力となったのです。
文化大革命の混乱の中で
中国の国際的地位が少しずつ高まっていった中で、毛沢東は「5年でイギリスに追いつき、10年でアメリカを追い越す」をスローガンに農業・工業の急速な近代化を図りました。
これは大躍進運動と呼ばれ国家プロジェクトとして大々的に推し進められましたが、実態はひどいものでした。
例えば鉄を作るために人民が持っている鉄鍋や自転車といった生活用品を供出させつぎつぎと鉄くずに変えていったり、罰を恐れた地方幹部が成果を誇張して中央政府に報告したりと生産性のないこの政策は大失敗に終わります。
さらにその年には洪水が各地を襲い、飢餓が発生。5,500万人がなくなりました。
さすがの毛沢東も責任を追及され、国家主席の座を劉少奇という人物に渡します。
劉少奇は「経済の回復のためにはある程度の競争を認めることも必要だ」と考えており、ある程度の資本主義の容認する政策をとりました。
毛沢東の復権と紅衛兵
これにより少しずつ経済は回復してきたのですが、これに反発したのは毛沢東でした。
彼はもう一度国家主席の座を取り戻すために学生の力を利用しようとします。
それが文化大革命です。
大学生を中心に紅衛兵と呼ばれた若者たちが知識人と呼ばれた医者や教師、政権の幹部らを次々と襲いました。
多くの人々がこの弾圧により職を追われ、また貴重な文化財の多くも「古い思想の象徴だ」という理由で壊されたり燃やされたりしました。
これによって劉少奇は失脚に追い込まれ投獄されてしまいます。
周恩来はこの騒動の火消し役として紅衛兵の横暴を押さえようとしました。
紅衛兵の暴挙
紅衛兵が「共産主義=左翼なので左が正義だ。右側通行をやめろ」と北京の道路をむりやり左側通行に変えさせて交通が大混乱に陥った際に阻止したり、故宮や数々のお寺の破壊を防ぎ保護したりと紅衛兵の暴走を何とか抑えようとしたのです。
陳毅という外相が紅衛兵に襲われそうになった時、「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」といい、身を挺して守ったとされます。
しかしその踏ん張りもむなしく、紅衛兵の活動はますます激化しました。
そして嫌気が指した毛沢東は彼らに農村部に行き新たに農地を開拓するように指示しました。
これにより大量の若者が農村部へ派遣され過酷な環境の中でなくなっていきました。
こうして文化大革命は一旦の落ち着きを見せましたが、この運動が中国に与えた被害は大きく、周恩来もまたこの時の過労がたたって次第に病気に冒されるようになっていったのです。
周恩来・再び中国外交の顔となる
文化大革命の後、周恩来は中国の復興に尽くします。
その第一歩は大きく落ちた中国の国際的地位の向上でした。
文化大革命中は、紅衛兵がソ連領事館を襲うなど無秩序化しており多くの国々と関係を修復することが急務となっていたのです。
また中国は当初は同じ共産主義国家であったソ連と仲が良かったのですが、領土問題や思想の違いからソ連と対立していきました。
そのため、敵の敵は味方ということでアメリカと手を結ぼうと考えていました。
周恩来とアメリカ
当時のアメリカの大統領はニクソン大統領という穏健派の大統領でしたが、アメリカは対外的には台湾=中国という認識を持っていたため、米中国交正常化は困難と思われました。
周恩来はこの問題に対して、第三国経由でアメリカに書簡を送る、アメリカの卓球選手団を中国に招待する(ピンポン外交)など、アメリカの態度を徐々に軟化させることに成功しました。
アメリカも当時泥沼化するベトナム戦争にケリをつけるために中国と関係を結びたい思惑があり、両者の利害は一致していたため、極秘に話し合いが続けられました。
ここでも周恩来の人柄に惹かれた人物がいました。
それが国務長官のキッシンジャーです。
彼は極秘訪中を行い、周恩来と会談をしましたが、その時のことをのちに回想録で「およそ60年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と語っています。
そして1972年2月21日にニクソン大統領が中国を電撃訪問し、全世界を驚愕させました。
こうして中国とアメリカは国交を正常化することになったのです。
周恩来・日本と関係改善へ
次の目標は日本との国交正常化でした。しかし日中両国はかつて戦争をした関係であり、国民レベルではまだわだかまりが残っていました。
そのため、当時の佐藤栄作首相とは交渉がうまくいかずに頓挫していたのです。
しかし日本の総理大臣が田中角栄に代わってから大きく流れが変わりました。田中角栄首相はニクソン訪中の7か月後に北京を訪れました。
そして日中国交正常化に向けた議論が開始されました。やはりここでも日中戦争によって日本が中国に与えた犠牲が大きな問題となりました。
しかしそれに対して周恩来はこのように述べました。
「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」
「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」
この発言は日本でも取り上げられ大きなニュースとなりました。
こうした周恩来の未来志向によって、議論はスムーズに動きだし、ついに日中共同声明の発表により日本の国交正常化も果たしたのです。
![](https://history-go.com/wp-content/uploads/2021/07/はてなブログ アイキャッチ画像 はてブ Blog-8-300x169.png)
周恩来・人民に悼まれた死
このように内政外交ともに活躍した周恩来ですが、その疲労が祟り74歳の時に膀胱癌と診断されました。そしてその2年後には彼は入院し手術を受けることになりました。
さらに、建国時の盟友で会った毛沢東との関係もこじれていきました。
毛沢東は文化大革命でその人気を落とした一方、逆に優れた手腕で活躍する周恩来を警戒していたのです。毛沢東は四人組と呼ばれる側近らとともに、「批林批孔運動」を開始します。
これの表向きは、失脚した林彪という政治家と孔子の儒教始思想を批判する活動でしたが、四人組はこれで周恩来も批判しようと試みたのです。
しかし中国国民は文化大革命に懲りたのか思ったよりこの運動は盛り上がりませんでした。
そんな中、周恩来は四人組からの批判にさらされながらも病魔と闘っていました。
しかし1976年1月8日午前9時57分、北京人民解放軍第35病院で死去しました。享年75。その死は全国民に悼まれました。
毛沢東も少しのわだかまりがあったとはいえ何十年にもわたって共に努力してきた仲間の死を嘆き悲しんだといわれています。
彼の告別式は北京の人民大会堂で開催され、当時の中国共産党中央委員会副主席の鄧小平が会議を主催し、祝辞を述べました。
彼の遺骨を載せた霊柩車が天安門広場を通り過ぎると、何百万人もの首都の群衆が長安通りの両側に集まりました。
わずか数日で、北京人民英雄記念碑は周恩来に捧げられた花輪でいっぱいになりました。
そして遺言書に従い、彼の遺体は火葬され、その遺灰は飛行機で中国の大地に散布されました。
周恩来とはどんな人?その生涯をわかりやすく解説!まとめ
周恩来は「不倒翁」と呼ばれ、今でも中国で人気のある偉人です。何があってもすぐに起き上がる不屈の精神の持ち主でした。
彼の人生は文字通り波乱万丈でした。しかしそんな中でも彼が希望を捨てずに困難に挑んでいった原動力となる彼の思想は今でも日本に残っています。
日中友好にも尽力した周恩来ですが、中国首脳が訪日した際に必ずと言っていいほど訪れる名所が京都、嵐山にあります。
それが亀山公園内にある「雨中嵐山」の石碑です。この詩を読んだのが周恩来です。
「雨の中、二度嵐山に遊ぶ。 両岸の青い松が幾本かの桜を挟んでいる。その尽きるところに、一つの山がそびえている。
流れる水は、こんなにも緑であり、 石をめぐって人影を映している。 雨脚は強く、霧は濃く立ちこめていたが、雲間から一筋の光が射し、眺めは一段と美しい。
人間社会のすべての真理は、求めれば求めるほどあいまいである。だが、そのあいまいさの中に、一点の光明を見つけた時には、さらに美しく思われる。」
彼の原動力となった不屈の精神、これは今でも日中友好の証として京都の地に残っています。
次に読みたい記事はこちら
- 【大躍進政策】大躍進政策とは?わかりやすく解説・毛沢東の大躍進政策はなぜ失敗したのか?
- 【世界史】毛沢東の文化大革命とはどんなものだったのか?わかりやすく解説!
- 周恩来がすごい!名言やエピソードを一挙解説!親日で寛大な心をもった唯一の中国人政治家
- 周恩来とはどんな人物だったのか?日本やアメリカとの関係をわかりやすく解説!
- 毛沢東とはどんな人?わかりやすく解説!中国ではいまだカリスマ性の高い偉人扱い?
- 毛沢東の面白エピソードや名言をご紹介!読書好き・若い女好きの毛沢東
- 江沢民ってどんな人?政策やウイグルの侵略計画の真相とは?
コメント