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建国の父・毛沢東の功績と功罪がすごい!毛沢東は偉人か犯罪者か?

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清王朝末期の混迷の時代に生まれた毛沢東は、革命のためにその生涯をささげた人物です。

清王朝の滅亡、腐敗していた国民党との戦い、日中戦争と動乱の時代を生き抜き、彼は中華人民共和国を建国という偉大な業績をなしました。

しかし、建国した後の粛清や内政の失敗により「国民を最も虐殺した独裁者」と真反対の評価も受けています。

今回は毛沢東のなした功績と、犯した功罪について見ていきたいと思います。

目次

毛沢東の功績・腐敗した国民党を打破へ

引用元:https://zh.wikipedia.org/wiki

1921年にマルクス主義思想で国を作ろうぜ!という政治のグループが中国で誕生しました。

それは今中国の政治を担っている「中国共産党」です。

毛沢東は初期からメンバーとして活動しますが、できたばかりの共産党は人数も少なく弱小でした。

当時中国は辛亥革命がおき、秦の始皇帝からはじまった皇帝をトップとする約2千年の歴史がある中華帝国の歴史が終わりをつげました。

代わりに民主政治を目指す国民党が政治を担っていました。

国民党は中華民国を建国するのですが、国内は清王朝が滅んだばかり。また各地で軍閥と呼ばれる個人の軍をもった軍人たちが各地で暴れていたので、平和とはほど遠い日々でした。

国民党は民主政治を目指すという理念を掲げながらも、結局は派閥内での権力争いが酷く、腐敗していました。

国民党のトップが、革命の父と呼ばれる孫文(そんぶん)から蔣介石(しょうかいせき)に代わるとますますその腐敗は進みました。

民衆のために国を治めようとするよりも、自分の利益や権力を考えていたからです。

自分のものと公共のもの、公私の区別がつかなくなっていたのです。

国を支えるべき農民たちが虐げられて貧しい生活をしていることを知っていた毛沢東は、腐敗した国民党が牛耳る中華民国を革命によって打倒し、新しい国を作りたいという理想を抱いていたのです。

蔣介石が国民党のトップになってからは考え方の違いもあって共産党は弾圧され、共産党員は国民党から逃げます。

長い道のりを逃げ切った共産党は、都市部で武力蜂起するのですが、これがことごとく失敗してしまいます。

毛沢東はそれに早々に見切りをつけて井岡山(せいこうざん)という田舎に引っ込んで拠点作りをはじめます。

毛沢東・規律作成

この時、毛沢東は自分の軍の兵士に守るべき内容として3つの規律をまとめました。

それは1.行動は指揮に従う 2.労働者や農民からものを奪わない 3.敵から奪ったものはみんなのものとする

というものでした。そしてさらにその後8つの項目として再編されました。

それは1.言葉遣いは丁寧に 2.売買は公正に 3.借りたものは返す 4.壊したものは弁償する 5.人を殴ったり罵ったりしない 6.農作物を荒らさない 7.女性をからかわない 8.捕虜を虐待しない

え、人として当たり前のことばかりじゃん……と思ってしまうのですが、この規律を共産党員が守ることによって国民の支持を得ていくことになります。

この当たり前に思える事をできていなかったのが国民党だったんです。

共産党と国民党はそもそも政治思想も違っていて対立していましたが、道徳的な面で軍を律し、その後の戦争を生き抜き、共産党を守ったことは毛沢東の功績といえるでしょう。

日中戦争後、共産党と国民党はどちらが国内の覇権をとるか戦い、共産党が勝利し中華人民共和国を建設することになります。

もし腐敗しきっていた国民党が勝利していたら、歴史は大きく変わっていたでしょうし、今の大国中国はなかったかもしれませんね。

毛沢東・中華人民共和国建国

1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門に立ち、中華人民共和国の成立を宣言しました。

歴史的な瞬間に立ち会おうと天安門広場には30万人も人が集まり、毛沢東の演説に歓声をあげたのです!

建国ってそんなに嬉しいものなのかな?と思ってしまいますが、当時の中国の人たちにとっては悲願でした。

それがなぜだか分かりますか?

日本軍が中国国内に攻めてくるよりも前、まだ清王朝の頃、1840年に起きたアヘン戦争がきっかけで、中国国内は日本だけでなくイギリスなどヨーロッパ諸国が国内を半植民地化してしまいました。

諸外国に好き勝手にされる中、政治も混乱ばかりで平和とはほど遠い日々のなか辛亥革命が起こり清王朝は滅亡します。

中国の民主化が進むかと思いきや、力のある軍人たちが好き勝手して国内は荒れ放題。

国民党がいちお国内を平定して中華民国を建国するけれど、国民党自体が腐敗した組織だった。

そして国民党と共産党との覇権争いという内戦状態で大変ななか日本との戦いが始まってしまう。

日本との戦いが終わり、また内戦があって…と約100年間中国国内は争いにつぐ争いだったのです。

その点において、毛沢東は約100年間の混迷の時代のなか革命を起こし、再び中国人による中国のための国を建国した偉大な人物として評価されているのです!

毛沢東は、国内の人口の約9割を占めていた農民たちの圧倒的な支持を得ていました。

中国の歴史上、限られた特権階級の人々が大多数の労働者たちを支配していましたが、毛沢東は「ともに手を携えて、労働者階級が中心となって国作りをしていこう!」と呼びかけたのです。

しかし、その呼びかけは毛沢東自身が壊してしまうことになるのですが……。

毛沢東の罪とは?多くの死者を出した政策

中華人民共和国を建国してもまだ国内には国民党の残党や、地方には地元ボスともいえる人たちがいて共産党のやり方に反対していました。

そんな人たちを、共産党は毛沢東の指示のもと処刑しました。

処刑を免れた人も強制労働収容所というところに送られて働かさせられました。

処刑は人知れず行われたものではなく、公開処刑でした。

残酷なようですが中国は昔から公開処刑を一種のエンターテイメント的に見学する歴史があります。しかし、毛沢東が行った処刑は違いました。

共産党に逆らうと、下手すると命を落とすぞ!ということを毛沢東は人々は思い知らせたのです。決してエンターテイメント的な意味はありませんでした。

建国後3年あまりで、共産党に反しているとして70万人ほどの人が処刑されました。

建国してから神格化がますます加速していた毛沢東ですが、百花斉放(ひゃっかせいほう)という共産党への不満を言ってねキャンペーンによって、共産党に反対する右派だとみなされ多くの人が処刑されました。

ここで怖ろしいエピソードがあります。

百花斉放の結果、共産党に反対する右派はどれくらいいるのかという話になった時に、毛沢東はなんも根拠もなく「5%くらいじゃないか」と口走りました。

この5%という数字は独り歩きしてしまい、国内の様々な職場の5%の人たちが右派だと決めつけられて職場から追放されてしまったのです!

百花斉放によって、実に55万人もの人が職場を追われて、僻地に追いやられました。右派と認定されてしまった人の家族も被害を受けたので、被害を受けた人たちは200万人以上だったという推定もあるのです……。

うっかりものを言うと、職を失ったり、殺されてしまう。そんな恐怖が国民に植え付けられてしまったのです。

毛沢東は神のように崇拝されながらも、そのやりようは神ではなくまるで悪魔のようなものだったのです。

大躍進政策失敗

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki 原始的な方法で、鉄を量産する農民

毛沢東は中国を、なるべく速く立派に無駄なく社会主義を達成することを目標としていました。

社会主義の敵である、資本主義に追いつけ追い越せと国力をアップするために「大躍進政策」の実施を宣言しました。

毛沢東は国民に、大躍進政策によって「地上の楽園」の実現を約束したのです!

農業の集団化の失敗

政策の見本としたのが、同じく社会主義で国を治めていたソ連です。ソ連は農業の集団化という政策を実施しました。

農業の集団化というのは、土地は個人の所有物ではなくみんなのもの、みんなで農業して、できた作物はみんな平等に分けましょう、というものです。

結果からいうとこれは大失敗に終わります。

なぜなら、みんなの農地でどんなに一生懸命働こうが、どんなに怠けようがもらえるものは、みんな同じなので、全員が少しずつ怠けるようになります。

結果的に収穫量は全体的にガタ落ちしてしまったのです。

しかし、この失敗をソ連の指導者であったスターリンは隠し、農業の集団化は成功していることにしていました。

毛沢東はソ連が実施した農業の集団化をそのまま取り入れ、同じように失敗してしまいます。

毛沢東は農業の集団化だけでなく、農業のやり方にまで指示をだしました。

毛沢東のとんでも農業知識

しかし毛沢東は農家出身であるにもかかわらず、農業の知識がありませんでした。農民たちにだした指示は科学的根拠のないデタラメなものでした。

まず田んぼに稲をぎちぎちにびっしり植えれば豊作になると言いました。生物学的根拠はなにもありません。でもまあ、気持ちはわかりますが・・・・

また農地を耕す時に、深く掘れば掘るほど農作物が豊かにできるという謎の理論が唱えられました。地域によって土の質が違うのに、全国一律で深く土地を耕したために、土の養分を失ってしまった地域もでてしまいました。

作物保護のため、といって穀物を食べるスズメを退治することになりました。

農民が大勢で太鼓や鍋をたたき、スズメを驚かせ続ければ地上に降りることができずに、飛び続けてそのうち死ぬだろうということが大真面目に考えられ実行されたのです。

スズメは駆除されましたが、結果的には作物は大打撃をうけました。

スズメは穀物や野菜を食べましたが、それだけではなくそれらにたかっていた害虫を食べてくれていたのです。スズメがいなくなったことで害虫が大発生!作物を食い荒らしてしったのです。

毛沢東のうちだした農業生産量アップ政策はことごとくハズレでした。

けれど偉大なる指導者のおっしゃったことに間違いはないはず……と誰も毛沢東に意見できません。共産党員は自分の保身のために。実際は全く作物がとれないのに、嘘をついて大豊作です!と上層部に報告したのです。

農業の集団化の失敗の事実を、スターリンだけでなく毛沢東も諸外国に隠し、成功したと伝えました。

アフリカのアンゴラ、モザンビーク、エチオピア、ソマリアなどは、この中国の農業集団化をお手本にしてしまい、同じように失敗してしまいます。

洗脳された一部人々の嘘によって将棋倒しのように他国が被害を拡大。毛沢東は自身の国民だけでなく、世界の国や人の生活にも悪影響を及ぼしたのです!

製鉄業の失敗

大躍進政策の大きな柱の1つに鉄鋼製品の生産が掲げられました。

社会主義国として中国はソ連につぐ大国だと自負していた毛沢東は、当時資本主義でアメリカにつぐ大国だったイギリスをライバル視します。

イギリスは産業革命によって大きく成長した国です。主な生産業が製鉄だと知ると、毛沢東はうちも鉄を作るぞ!と号令をかけました。

毛沢東の考えでは、中国は国土も人口もイギリスよりはるかに大きいのだから、すぐに生産量も追いつける、と簡単に考えたのです……。

高品質の鉄を作るには大規模な施設が必要です。貧しい農業国だった中国にはもちろんそんな施設もノウハウもありませんでした。

しかし毛沢東は近代的な設備なんて必要ない、農家の庭に高炉を設置してそこで作れと命令します。

毛沢東の命令なので、農民は本業である農業を差し置いて鉄作りをします。けれどその方法は原始的なものでした。

鉄を溶かすためには火を燃やし続けなければならないため、木が手あたり次第に伐採されました。森がなくなれば果樹園の木も伐採して燃やしました。

鉄の材料である鉄鉱石も足りません。どうしたと思いますか?なんと農家にとっては命の道具ともいえる鍬や鋤を溶かして鉄の塊にしたのです!それでも足りない時は生活用具である鍋も溶かしました……。

結果できたのは、ただの鉄の塊で粗悪品ばかり。とても売り物になりませんでした。

木を手あたり次第に伐採したために自然環境が破壊されました。

そして生活必需品まで鉄作りのために溶かしてしまったので、生活そのものが困難になったのでした。

数少ない農作物を毛沢東に献上

農家での鉄作りのために時間をとられしまった農民たちは、農業どころではありませんでした。

農業においても、集団化と間違った農業生産方法によって、とれる作物は不作状態でした。

けれど、共産党の幹部たちからすべてうまくいってます!と嘘の報告が毛沢東のもとにきます。

毛沢東は「そんなに豊作なら穀物をソ連に輸出して、代わりに工業製品を獲得しよう」と考えました。そして余っている農作物をもってこいと命令します。

けれど実際は不作です。農民たちは自分たちが生きるための、わずかな穀物も国に差し出します。こうして飢餓が中国全土に広がってしまったのです。

飢餓で死んだ人は少なくても3千万人、一説には5千万人と言われています。

国民が飢えていることを知り、毛沢東を諫めた側近もいたのですが毛沢東はその人を「社会主義の敵の右派だ!」と非難して意見を聞かず、失脚させてしまいます。

国内に餓死者がでているのに、当の毛沢東は自分の誕生日パーティーを開いたり贅沢な暮らしをしていたと、毛沢東の主治医だった人は記録しています。

「地上の楽園」を約束した毛沢東ですが、実際は「地上の地獄」を作り上げたのです!

文化大革命・文化の徹底的な破壊

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki文化大革命で上演された紅色娘子軍

国民たちが餓死している状況に、さすがに毛沢東の側近たちも黙っていられなくなりました。

側近たちがそろって現実を訴えると、毛沢東の弱気になったのか政治のトップである国家主席の座を劉少奇(りゅうしょうき)という人物に譲ります。政治の一線からは身をひいた毛沢東ですが、共産党のトップである総書記の座にはそのまま居座りました。

よって中国に、毛沢東と劉少奇という2人のリーダーがいるという状態になります。

劉少奇は毛沢東の死後に最高権力者になる鄧小平(とうしょうへい)たちと、大躍進政策の見直しをします。

農業については、自分で耕したものは自分のものにしていいよとしたことで農民たちのやる気があがり飢餓から抜け出すことに成功しました。

けれどその様子を悔しそうに見ていたのが毛沢東です。政策の成功で劉少奇の権力が少しずつ確実に大きくなっていったからです。

神のように崇拝され、その自負もあった毛沢東はそれが許せません。劉少奇を政治の舞台から引きずり下ろしたいけど、自分自ら国家主席の座を譲ったので表立って行動できません。

そこで毛沢東は自分が神のように崇拝されていることを利用します。

毛沢東は「今の政権は腐っている。理想的な国を作るには革命を起こし続けなければならない。特に知識人たちは社会主義革命が進むほどに抵抗するようになった。彼らは反社会主義者だ。これからは文化においても革命が必要だ!」主張します。

毛沢東は最終目標は劉少奇を追い落とすことです。そこで彼は都市部の学生たちを利用しました。

紅衛兵が暴れまわった

都市部にいた学生たちは毛沢東の主張に感化され、毛沢東に対して反対するものはやっつけて革命を進めようという運動が起こします。

社会主義のイメージカラーは赤なので、学生たちは社会主義を守る兵隊を意味する「紅衛兵」を名乗りました。

中国の国旗の赤色は革命を意味しています。

毛沢東は紅衛兵たちに手紙を送って運動を支援します。尊敬する毛沢東からお墨付きをもらった紅衛兵たちは大暴れします。若いので血気盛んだったので、行動はどんどんエスカレートしていきました。

まず社会に紛れ込んでいる資本家や資本主義に影響されている人を叩きのめせ!と集会を持ちます。

そして政府や役所の幹部たちを街の真ん中に引きずりだしてお前は腐っている、みんなに謝れ!と謝罪を要求しました。

古代の昔からある仏教や儒教の教えなどは古臭い、宗教は革命の敵だとして伝統的な寺院や文化財が徹底的に破壊しました。

お金を貯めるだけで資本家とみなされ弾圧され、時計やブローチなどの贅沢品をもってることも罪とされました。

学校は教師が追い出されえしまい休校し、工場では便利な機械が資本主義的だとみなされて破壊され工場も休業においこまれました。

もうこれだけ聞いてるとめちゃくちゃですよね。

しかし紅衛兵の暴挙を止める手立てはありません。

毛沢東からしてみれば、劉少奇が政治の舞台から落ちればいいだけなので、紅衛兵たちの行き過ぎた行動を止めることなく、むしろ警察に紅衛兵たちは革命を起こしているのだから取り締まってはいけないと命令をだすほどでした。

現代ほどメディアが発達していなかった時代です。しかも中国国内には報道の自由がありませんでした。国民も都市部で何が起きているのか、現状がまったく分かりませんでした。

やがて香港の海岸に後ろ手に縛られたいくつもの死体が何体も流れてくるようになりました。

当時の香港はイギリスの植民地だったのですが、中国本土の情報は手に入りませんでした。流れてきた死体は拷問を受けた跡がある、なにか酷いことが本土で起きているみたいだけど、何がどうなっているのか分からない、そんな状態でした。

文化大革命の被害は毛沢東の死後になって明らかになっていきます。

正確な数は分かっていませんが、犠牲者は数十万とも数百万とも言われています。

文化・さらには道徳観も崩壊

毛沢東の身勝手なほどの思惑で行われた文化大革命は、文化の新しい創造ではなく破壊でした。

紅衛兵たちによって、歴史的価値のある文化財は破壊されてしまいました。一方で日本の奈良には古代に中国からつたわった仏像などの文化財が残されています。

現代の中国人たちは、自分たちの文化でもあった昔の仏像や寺院を見たければ、奈良に行かなければいけない。そんな本末転倒なことが起きています。

中国の古代からある儒教の教えは中国の民衆の道徳的価値観でした。人を思いやる、目上の人を尊重する、学問に励むなどの教えです。

しかしそれも革命的でない、毛沢東の思想こそ正しいと破壊されました。これは毛沢東の一番の功罪かもしれませんね。

道徳観が破壊された世代は文化大革命の影響で学校にも行けず、勉強する機会を奪われたので、「失われた世代」と呼ばれています。

その失われた世代が大人になり、子育てをする。その影響を受けた子供が大人になる、といった具合で今なお道徳観の破壊の影響は続いているのです。

知識人たちへの弾圧

毛沢東は生涯をとおして、知識人たちへの憎悪を抱いていて「反知識人」の姿勢が隠れもせずに見えます。

文化大革命は毛沢東の知識人たちへの怨念ばらしだったとさえ言われています。

毛沢東が学ぶ意欲にあふれていた若者だった頃、当時の知識人たちが集まる北京大学に通いたいと強く願いました。

しかし北京大学は頭のよさだけではなく、入学する前までの学歴の良しあしによって入学できるか否かが決められていて、毛沢東は入学できなかったのです。

これをきっかけに知識人たちを酷く恨む気持ちを常に持つことになったのではないかという学者もいます。

カンボジアのポル・ポト政権は毛沢東思想をもろにうけて毛沢東がしたように社会主義国を作ろうとしました。

ポル・ポト政権も知識人たちを弾圧し、文字通り知識人絶滅政策をとったのです。

怖ろしい思想がそのまま他国に輸入された事実に、ただ驚き恐怖するばかりです……。

建国の父・毛沢東の功績と功罪!まとめ

いかがだったでしょうか?

毛沢東の死後に中国の最高指導者となった鄧小平は、毛沢東のことを「誤りもあったが偉大な指導者」として「七分の功績と三分の過失」があったと総括しています。

たしかに中華人民共和国を建国した偉大な功績はあるのですが、建国後の粛清、百花斉放、大躍進政策、文化大革命で失われた数千万の人命が、3分の過失で済む話ではないかと思います。

しかし中国としても、毛沢東は中華人民共和国を建国のシンボルであり、偉大な建国の父えあるのと同時に、政策の大失敗により多くの人命が奪った人物です。

そのせいで毛沢東の実績については堂々と言うことができないというジレンマに陥っているのではないでしょうか?

毛沢東は自分の理想を追い求める革命家でした。その理想のためならば人命をもいとわなかったのでしょう。

毛沢東の評価はまだはっきり定まっていませんが、その名前は歴史に深く刻まれ、これからも人々を引き付けていくのではないでしょうか。

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【参考文献】
『そうだったのか!中国』 (集英社) 著:池上彰
『池上彰の世界の見方 中国・香港・台湾 分断か融合か』 (小学館) 著:池上彰
『毛沢東の私生活』 (文藝春秋) 著:李志綏 訳:新庄哲夫
『毛沢東 日本軍と共謀した男』 (新潮社) 著:遠藤誉
『悪の出世学 ヒトラー、スターリン、毛沢東』 (幻冬舎) 著:中川右介

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