こんにちは!
みなさんは、後宮(こうきゅう)という言葉をご存知でしょうか?
後宮とは、中国の王朝において、皇帝が日常生活を送る宮中の奥深い部分を指す言葉です。
皇帝の住む宮殿は皇帝が臣下と謁見したり政治について議論したりする外朝(がいちょう)と、皇帝が妃や皇太子、宦官などと個人的な生活を送る内廷(ないてい)とに区別されます。
この内廷が後宮のことであり、ここで生活する皇帝の妃(皇后)や、その側で仕える側室、女中なども含めて、後宮と呼ばれます。
日本の江戸時代だと、江戸城の中に大奥と呼ばれる場所があり、後宮と同じ役割を担っていました。
権力者の私的な空間で、なおかつその妃たちの住む場所ですから、歴史ドラマなどでもこの場所は豪華絢爛なイメージや、時として「女の戦い」が巻き起こる場所としても描かれてきました。
では、そんな後宮の実態とはどのようなものだったのでしょうか?今回は、清朝の時代と、そこで中国史上でも類まれなる権勢を誇った西太后を例にとり、後宮の実態を見ていきたいと思います!
ではどうぞ!
後宮の起源
中国は、古来より一夫多妻制が主流であり、身分の高い人物ほど多くの側室を持つことが、儒教思想の中で認められていました。
古代中国の国家制度について書かれた『周礼(しゅらい)』という書物によれば、王者は后(こう)1人、夫人3人、嬪(ひん)9人、世婦27人、女御(じょぎょ)81人の、合計121人の正室と側室を持つことができると規定されています。すごい数ですよね(笑)
しかし、実際の数はこれだけにはとどまらず、たとえば唐の玄宗(げんそう)という皇帝は、後宮に三千人もの婦女を養っていたと言われています。もはや、一人ひとりの容姿など覚えていられないのではないでしょうか・・・汗
なぜこれほど多くの婦女を養っているかと言えば、1人でも多くの健康な男児を産ませ、後継者を確保するためでした。
しかし、これだけ多くの女性が男子を産んだとしても、その中から世継ぎとして選ばれるのはたった1人です。運良く自分の息子が世継ぎに選ばれれば、その女性は皇帝の正室となり、次期皇帝の母親として権力を握れますが、そうでなければ冷遇されることもありました。
そのため、後宮では多くの女性が、自分の子どもが世継ぎに選ばれるためにと、女の戦いを繰り広げることになります。
さて、そんな中国の後宮に入るには、どのような方法があるのでしょうか。これは時代によって様々なのですが、基本的に儒教の思想では、皇帝の妃は身分の高い家の女性を選ぶ、というのが大体の決まりでした。
しかし、必ずしもこの決まりが適用されない場合もあります。たとえば、後漢王朝の霊帝(れいてい)の正室であった何皇后(かこうごう)はもともと肉屋の娘だったと言われており、身分の高い家柄ではなかったことが分かります。
結局のところ、皇帝に気に入られれば後宮に入ることができ、そこで世継ぎとなる男子を産めば、皇帝の正室として権力を振るえるようになったわけです。
西太后と東太后のキャリアから見る清朝の後宮
しかし、時代が下るにつれ、後宮に入るための試験が設けられるようになりました。清朝では、3年ごとに「選秀女」という面接試験が行われ、これをパスした女性が、後宮に入ることを許されました。
西太后も1852年、数え17歳の時にこの試験を受け、合格したことで、18歳にして9代皇帝咸豊帝(かんぽうてい)の後宮に入り、「蘭貴人(らんきじん)」と呼ばれました。
清朝の後宮では、すでに紹介した『周礼』の規定をもとに、皇后以下、皇貴妃(定員1人)、貴妃(定員2人)、妃(定員4人)、嬪(ひん、定員6人)、貴人(定員なし)、常在(定員なし)、答応(定員なし)、官女子(定員なし)という等級が分けられていました。西太后の「貴人」は上から6番目のランクですね。
この時、咸豊帝の皇后には東太后がいました。東太后は、西太后が選秀女を受けたのと同じ1852年の2月に嬪の位で後宮に迎えられ、その年のうちに妃、貴妃とランクを上げていき、同年の6月に皇后に立てられます。
このように東太后の出世が急速に進んだ理由としては、8代皇帝道光帝(どうこうてい)の側室で、咸豊帝の養育をしていた成皇后(せいこうごう)の意向が働いていたと言われています。
このように、後宮での出世には皇帝の母親(皇太后)の意向もある程度重要だったわけですね。
しかし、東太后は子宝に恵まれませんでした。一方、西太后は、1856年に咸豊帝の長男を授かります。これがのちに10代皇帝となる同治帝(どうちてい)ですね。
西太后は、この功績によって皇貴妃まで一気に格上げされます。やはり、世継ぎを産むことの意義は大きかったわけですね。
ただ、この時にはすでに東太后が次期皇帝の形式上の母親となることが定められていたために皇后としての地位には変わりがなく、西太后は生涯を通じて、正式に皇后となることはできませんでした。
同治帝が即位すると、東太后が前皇帝の正室として、西太后が皇帝の実母として、宮中で権力を握ることになります。
ちなみに、西太后は嫉妬深く、ライバルだった他の側室を追い落とすために手足を切り刻んだなどというバイオレンスなエピソードが伝えられていますが、実際にはそのような事実はなく、他の側室たちも後宮で静かな暮らしをしていたと言われています。
やはり、後宮の女性が出世するというのは、西太后のように世継ぎを産むとか、東太后のように先代の皇后による後押しが重要だったようですね。
歴史上、後宮でドロドロとした女の戦いがあったことも事実ですが、「ドロドロ」の代名詞である西太后に関しては、意外にもそんなことはなかったようですね(笑)
意外と控えめ!?後宮の年俸と衣装とは
さて、そんな後宮での生活はどのようなものだったのでしょうか?
皇帝の妃たちですから、当然豪華絢爛な生活を想像しますよね?
しかし、清朝での実態はそれほどではなかったようです。
中国の後宮に住む女性には、細かいランクがあることはすでに紹介しましたが、この等級に合わせて、支払われる年俸の額が決まっていました。
たとえば、皇后が銀貨1000両、現在の日本円で490万円ほどでした。意外に少ないですよね。
さらに、一番下の答応クラスになると、日本円でわずか15万円ほどでした。年俸ですよ・・・?汗
とはいえ、食費や服飾費など、生活に関わる費用はこの中には含まれていません。住む場所も保障されているわけですから、年俸が15万円ほどでも生活は成り立つのでしょうか・・・。
後宮の衣装に関して、西太后などのような最高位の人物だと、宝石などを散りばめた豪華絢爛な服やアクセサリーを身に着けていたことは分かっています。
特に西太后のものは今日まで残されたものが多く、靴に至るまで宝石による装飾が施されています。
ランクの低い女性の場合、そういったものは残っていないため、詳細は不明です。ただ、年俸にこれだけの差があったのですから、衣装に関してもかなり等級による差別があったことは、推して知るべしでしょう。
【清王朝】後宮の衣装が華やかすぎる!?後宮になるための厳しい審査とは?まとめ
いかがでしたでしょうか?
清朝の後宮に入るには面接による試験が必要であり、合格して後宮に入った後は、儒教倫理によるランク付けがされました。
このランクが上がる要因としては、皇帝からの寵愛が重要だったことはもちろんですが、西太后を例にして見てみると、皇帝の母親の意向や、世継ぎとなる男子を産むことが重要であったことが分かります。
こうしたランクによって後宮に住む女性の年俸は定められていました。西太后などランクの高い女性には多額の年俸が支払われていましたが、ランクが低ければ低いほど年俸は低く、質素な生活をしなければならなかったことが分かりますね・・・。
ということで、清朝の後宮について解説してみました!実際の様子を知ると、今後ドラマなどで描かれる後宮のイメージも違った見方ができるかもしれませんね!
ではまた!