アジア歴史

清王朝の林則徐とは?アヘン戦争の原因?林則徐をわかりやすく解説します!

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皆さんこんにちは!全然コロナウイルスは収束する気配を見せませんね。帰省ダメ!旅行ダメ!学校の行事もイベントもダメ!でも五輪はOK!

なんじゃそりゃ…。まん防も緊急事態宣言も聞き飽きたよ…。

決断すべきことが多いこのタイミングで、外国からの圧力を跳ね除けて、自分たちの利益を捨ててまで、本当に国民のことを考えて行動する気概ある政治家がいるようには思えません。

いわゆる「国難」の時に、常に国、国民のことを考え、外圧にも屈することなく、自分の信念を曲げず真っ直ぐに行動する、そんな政治家がいればなあと思うこの頃…。

今日は18世紀の中国で「国難」に対して、「国を救いたい」という一心に基づいて行動した清廉潔白(せいれんけっぱく)な政治家、林則徐について話したいと思います。

優秀な官僚下積み時代

 

林則徐は1785 年、中国南部の福建省で生まれました。福建省は烏龍茶の産地としても有名な場所ですね。

当時の中国は、清王朝と呼ばれる強大な王朝が統治していました。この国は、アジアはもちろんヨーロッパの国々からも一目置かれ、「眠れる獅子(しし、ライオンのこと)」として恐れられていた強国だったのです。

この章ではそんな林則徐の生い立ちと新人官僚としての駆け出しの時期を追っていきましょう。

教育一家の下で生誕

彼は幼いころ、貧しい生活を強いられていました。父親は科挙とよばれる中国の難しい公務員試験に何度も挑戦していましたが、ことごとく失敗していたからです。

父親は私塾の教師をしており、政府からも給料をもらっていましたが、林家は3人の男児と8人の女子からなる大所帯であり生活は厳しく、林則徐の母親が内職を行うことでやっと生活してくことができるほどだったのです。

林家は科挙に落ちているとはいえ、私塾の教師の家だけあって、林家は教育熱心な家庭でした。

林家の女の子は母親を見習い、母親の内職を手伝うのですがそれを見た林則徐がそれを手伝おうとすると「男子は学問にはげみなさい」といわれたといいます。

また、幼い彼が自分に与えられた食べ物を母親に譲ろうとすると「男子の考とはそのようなものではありません。学問を修めて出世をすること、それではじめて母の苦労も報われるというものです」といって叱られたといわれています。

また、父親もとても潔白な人物でした。

のちに出世した林則徐が父親を故郷から呼び寄せて面倒を見ようとした際には、「故郷には友と交友する楽しみがあるものだ、それを捨ててまで他所にはいきたくない。私を呼んで面倒を見ようとは思わないでくれ」といって断ったといいます。

林則徐はそのような家族との生活を折に触れて文章に残しています。高級官僚となるとそれまでの貧しい生活を隠そうとする人間が多い中で、それを恥とせず懐かしんでいるところに林則徐の奥ゆかしさが垣間見えますね。

林則徐・清廉潔白な新人官僚時代

さてそんな林則徐は父の無念を晴らすべく学問にはげみ、25歳の時に科挙に合格しました。

当時一生を科挙に費やすような人間がいるほど科挙は難関なものでした。それを25歳で突破したのはかなり優秀ですね。

さらに、優秀な成績で合格したため翰林院の編修となりました。

翰林院とは皇帝直属の秘書室であり、編修というのは書物の編集や地方への臨時派遣などを行う、いわゆる出世コースでした。

ここで林則徐は科挙の試験官を2度ほど担当するのですが、ここでの公正な態度はたちまち評判を呼びました。そして、翰林院で6年ほど職務にはげみました。

さて、当時の役人の間では賄賂が横行していました。賄賂によって生活費の足しにしたり貯金をしたり、そして自分の上司に上納するなど日常的に行われていたのです。

当時「三年高官の地位にあれば十万の銀がたまる」「清官(正しいことをしている役人)はやせ馬に乗る」とまで言われていました。

林則徐はこの問題に真っ先に取り組みます。不正を働く役人を大量に処分し、農民救済・農村再建を目指し、以下のような対策を打ちます。

・治水事業

・開運の導入

・塩売買の規制緩和

・租税の免除

・減税

・税の公平化

 

これらの政策により、林則徐の収める地域では徐々に成果が出始めます。

そんな彼の活躍は当時の皇帝、道光帝の耳にも届いていました。

そこで道光帝は当時清王朝を悩ませていたある問題の解決を彼に委ねようと考えたのです。

国難へ立ち向かう林則徐!アヘン対策大臣に就任!

新人官僚として成功を収めた林則徐。彼の名声はなんと皇帝の耳にまで届きます。

そして皇帝は当時の中国を蝕んでいたある重大な問題の解決を彼に命じるのです。

当時の中国を蝕んでいたアヘン

当時清王朝はある問題に悩まされていました。アヘンです。

アヘンとはケシの実から作られる麻薬です。当時の清王朝ではこれが大流行してアヘンによって廃人となった人間が多くおり、社会問題化していたのです。

なぜこんなことになったのか、その原因は遠く離れたイギリスでした。

当時のイギリスは空前の紅茶ブーム。今でもイギリス=紅茶のイメージがありますよね!

でも実はイギリスではお茶はとれません。じゃあどこから調達していたのか?

そう、清王朝から買っていたんですね!

でもおかげでイギリスは大赤字、当時の通貨であった銀はイギリスから流れる一方です。

当時のイギリスは産業革命が起きて機械の生産が拡大していたので、イギリス側も「イギリス製の機械を買ってほしい」と清王朝側に交渉していたのですが、清王朝はこれを拒否し、貿易も自由にさせてくれませんでした。

そこでイギリスは当時植民地であったインドでとれるアヘンに注目しました。イギリスで作った絹織物をインドに売り、インドから仕入れたアヘンを清王朝に売り、それで得た銀でお茶を買おうとしたのです。

この作戦は大成功!そのうちお茶を買うために出ていく銀よりもアヘンで儲けた銀の方が大きくなり、イギリスはこの三角貿易で大儲けしたのです。

対して清王朝は、銀の流出による財政悪化、阿片の浸透による社会不安が早急な課題となっていたのです。

鈞差大臣就任と阿片の根絶に向けて

道光帝はこの問題を深刻にとらえていました。

当時の清王朝では「アヘンに関税をかけて、許可制にすべきではないか」という弧禁論派と「アヘン中毒者は死罪にすべき」という厳禁論派で意見が分かれていました。

そこで道光帝は全国の地方長官たちに意見を募ったのです。林則徐もそんな地方長官の一人でした。

当時林則徐は湖広総督という地方長官を務めていたのですが、統治していた湖広地方(現在の湖北省・湖南省)でもアヘン問題は深刻化していました。

そこで彼はアヘンを禁止したうえで一年間を猶予期間とし、一期目に自首した者に対して罪を許しました。

そして徐々に罪を重くしていくという具体的な政策により管内のアヘン根絶に実績をあげたのです。

このやり方を上申した林則徐に道光帝も目をつけました。

そして、欽差大臣という国家の非常時のみに皇帝の全権委任を得て対処する臨時の役職に就きます。今でいうところのコロナ対策大臣みたいな感じですね。

この役職を受けるにあたり、彼は相当な覚悟を持っていたと思われます。

それは欽差大臣としての任地である広州に行く際の彼の行動からわかります。龔自珍という友人が「自分も広州に同行する」と名乗り出たのですが、林則徐はそれを断っています。

事が失敗したときに友人を巻き込みたくなかったのではないでしょうか。

また、林則徐は旅立つときに別の友人にこう語っています。「死生は命なり。成敗は天なり」(生き死には運命であり、事の成就、失敗は天命である)

広州についてから彼は自分のために歓迎の宴を開くことを禁止します。今は国家の非常事態。歓迎の宴などというものは、今は不要と判断したのでしょう。

そして、堕落しきった役人とアヘン商人の実態を目の当たりにするのです。

 中国唯一の「窓」、広州の実態と林則徐の取った判断とは?

清王朝は外国との貿易を行う拠点を広州だけに限定していました。さらに、中国人の中でも外国と貿易を行えるグループを限定しており、彼らは「公行」と呼ばれ貿易によって莫大な利益を上げていたのです。

そんな広州は当時アヘン貿易の拠点となっており、イギリス商人の館や仲介業者の中国人商人などが多く滞在していました。

当時よりアヘンは違法でだったのですが、広州の役人は彼ら商人らから賄賂を受け取り、アヘン売買を見逃すなど役人たちも堕落しきっていたのです。

林則徐は北京にいる時からそんな広州の実態を聞いていました。

そこで彼はアヘン密輸にかかわっている商人ら60人余りをリストアップし一斉逮捕を命じたのです。

アヘン・一斉逮捕始まる

アヘン商人が一斉逮捕されるという緊張が高まる中で彼は広州入りをしたのです。

中国人商人らの処分が終わった後はアヘンを持ち込んでいる外国商人たちの処分をはじめました。

さすがに彼らをすぐに逮捕というわけにいかず、まず林則徐は彼らに「持っているアヘンを全部差し出しなさい」と命じました。

さらに「これから永久にアヘンを持ち込まないこと、持ち込んだ場合は死刑にされ、財産はすべて没収されても文句を言わないこと」という誓約書にサインするように迫ります。

外国商人らは最初こそ「アヘンは私たちの重要な財産だ!やすやすと差し出せない」と拒否しますが、林則徐はなんと彼らが住む屋敷を軍隊で包囲してしまい、差し出すように迫ります。

これには強気の外国商人らも困ってしまい、ついにアヘンを差し出すことになります。

その数なんと2万283箱!重量に直すと1,452トンにも上り、この膨大なアヘンの回収には1月も要したといわれています。

アヘンの押収に成功した林則徐は早速これを処分します。

まず林則徐はアヘンを焼却しようとしたのですが、焼いてもその灰からアヘンが地中に染み込み、またアヘンが取れてしまうことが分かったため、海水に石炭を入れたアヘンを浸すことで化学反応を起こして無害化して処分しました。

この光景を目の前で見せつけられた外国商人らの怒りは想像に難くないでしょう。

強気の林則徐とイギリス商人、彼らの対立の行く末は

さて、先ほどのお話で林則徐が求めた誓約書へのサインなのですが、ほとんどの国の商人はサインしたのですが、唯一サインしなかった国がありました。

それがイギリスです。

彼らは全員で広州を離れマカオに退去しました。イギリス人の中国人への憎しみは強く、1839年にはイギリスの水夫によって林喜維という中国人の村民が殺される事件がおきました。

林則徐はこの事件後、イギリス側の責任者であった海軍大佐エリオットに犯人引き渡しを求めますが、イギリス側はこれを拒否し、この事件により林則徐とイギリスの関係はもはや修復不可能なものになっていきました。

あの世界最強国家を怒らせてしまった?アヘン戦争勃発へ

 

みなさん、世界の公用語となっている言語は何か知っていますか?英語ですね。

英悟はもともとイギリス人が使っていた言語です。

では、なぜイギリスの言語が世界共通語になったのかというとそれだけイギリスが世界のさまざまな領土を自分の支配下に置いていたからなんですね。

このアヘン戦争前後のイギリスの領土は、現在のカナダ・インド・オーストラリア・アフリカなどおおよそ世界の半分ほどあったといっても過言ではありませんでした。

そんな領土を広げられる国です。イギリスは当時世界最強の軍隊、特に艦隊を持っていました。この章ではそんな超大国イギリスと清王朝がぶつかった戦いアヘン戦争について説明していきます。

世界最強艦隊襲来!どうする林則徐

イギリスの首都ロンドンでもこのアヘン処分のニュースは大きな話題となっていました。

そしてイギリス議会でも「林則徐の対応はけしからん、戦争するべきだ」という開戦派と「麻薬であるアヘンを取り締まるのは当然の判断だ、そのようなことで戦争すべきでない」という反対派に分かれていました。

しかし、徐々に世論は開戦派へなびいていき、出兵に関する投票では賛成271票、反対262票という僅差で可決したのです。

ここに世界最強の軍隊、イギリス艦隊と「眠れる獅子」清王朝の戦い、アヘン戦争がはじまりました。

 屈辱の敗戦と左遷

林則徐もイギリスがいつか攻めてくるであろうことは予想しており、広州の軍備を固めていました。

しかし、イギリス艦隊も林則徐とまともに戦うことを避け、広州を通過し、まっすぐ北京を目指したのです。これに驚いたのは皇帝道光帝です。

彼はイギリス艦隊が北京にほど近い天津まで迫ったのを見て驚き、戦争の原因となった林則徐をクビにして、イギリス軍に和平を申し込みます。

イギリス軍もこれに賛同し一度は撤退しかけますが、その際にイギリス側の出した和平の条件に不満を募らせた道光帝はもう一度戦争を仕掛けます。

これに完全に怒ったイギリス軍は再び進軍します。

イギリスはまず林則徐がいなくなった広州を狙います。

林則徐という有能な指揮官がいない広州の清軍はあっという間に敗退。ついに南京まで迫ったため、ついに道光帝は降伏します。そして両政府の間に南京条約が締結されました。

内容は以下の通りです。

  • 賠償金をイギリスに払うこと
  • 香港をイギリスに譲ること
  • 広州、上海など5港を開港すること
  • 公行を廃止し、自由貿易を行うこと

特に、2個目の項目である香港をイギリスに譲ったことで、香港のその後の歴史は中国とはまた違ったものとなりました。

これについては最近の香港のデモなどとも深いかかわりがあるので興味のある方は是非調べてみてくださいね!

イギリスが林則徐をどう見ていたかについてはこの和平交渉でもあるエピソードがあります。清王朝側の役人がイギリスは林則徐のことを嫌っていると考え、おべっかのために林則徐の悪口を言いました。

それに対してイギリス側代表で会ったブレ―マー准将は「彼は多大な才能と勇気を持った総督だ。惜しいことに外国の事情を知らなかったが。」と述べ、なんと憎んでいたはずの林則徐を褒めたたえます。

毅然とした林則徐の姿勢は敵からも尊敬されたのですね。

ともあれ、こうして「眠れる獅子」大帝国清王朝はヨーロッパの成長した新たな大国はイギリスに敗北したのです。

左遷後もめげず、引退後も国に尽くした隠居生活

前述の通り、林則徐は僅差大臣をクビにされてしまい、遠い辺境の新疆イリの長官に左遷されてしまいます。

波乱万丈な人生を送った林則徐でしたが、この地で安らがな最後を…とはなりませんでした。この章では、アヘン戦争後も国にささげた林則徐の最後の仕事を見ていきましょう。

ロシアには気をつけろ

林則徐はこの僻地でも改革を推し進めます。

地下水路を作り、開墾事業を行うことで農地改革を成功させ、現地の人々に慕われました。彼の堀った井戸は「林公井」、彼が植えた林は「林公林」と呼ばれるほどでした。

また新疆は現在はウイグルと呼ばれている地区ですが、ここはロシアと国境を接していました。

そのため、彼はここで強大化するロシア帝国の脅威を目の当たりにします。そして後輩の左らに「将来の清の脅威はイギリスではなくロシアだ」と言い残し、のちに対ロシアを国防の中心に置く「塞防派」と呼ばれる政治派閥を作ることになりました。

実際、その予感はあたり彼の死後、イリはロシア帝国に占領されています。

 

また大臣へ、最後の大仕事に臨む前の無念の死

この仕事ぶりが再び朝廷で再評価され、彼はその後陝西省・甘粛省の地方長官となり、そのあとには雲南・貴州の総督になりました。

ここでは漢民族とイスラム教徒の間で争いが起きており、林則徐は徹底的に公正な裁きを行い、紛争を解決したといわれています。

しかし、この時に林則徐は妻をなくしたり、病気を患ったりと不幸が続いたため、引退を願い出て、1849年、64歳の時に彼は隠居することになります。

しかし彼の引退はもはや時代が許しませんでした。この年にキリスト教徒による大規模な民衆反乱「太平天国の乱」が起きます。

朝廷はこれの鎮圧のために林則徐を再び欽差大臣に任命し、事態の収拾にあたらせます。林則徐は病をおして任地に赴く際に途中の普寧で倒れ、そのまま亡くなります。享年65。

一説には林則徐を恨んでいたアヘン商人による毒殺という説もありますが、真相はわかりません。

清王朝の林則徐とは?アヘン戦争の原因?林則徐をわかりやすく解説します!まとめ

林則徐、彼はイギリスへの毅然とした対応やロシアへの警戒など、欧米諸国を完全に悪としてみなしていたのではないかと感じられた方もいたかもしれませんが、決してそうではありません。

林則徐は欽差大臣の時から英字新聞を読む、アメリカの国際法についての本を熟読するなど西欧の見方・考え方を理解しようと努めました。

そして集めたこれらの西欧の資料は友人の魏源に送られ、彼が書いた『海図図志』は中国国内はもちろん、遠く離れた我が国日本まで影響を及ぼしました。

その読者には吉田松陰や西郷隆盛など幕末を動かした志士たちもいました。アヘン戦争の13年後、今度は日本にアメリカのペリー提督が来航しますが、日本が清王朝のように欧米諸国の前に敗れなかったのは、林則徐のおかげかもしれませんね。

清廉潔白で常に公正であった林則徐は、今でも多くの中国の人々に尊敬されているのです。

 
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