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周恩来がすごい!名言やエピソードを一挙解説!親日で寛大な心をもった唯一の中国人政治家

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先の記事で周恩来の人生を見てみました。

中国人民はもちろんのこと、世界の要人からも一目置かれていた周恩来ですが、

前の記事に書かれていないエピソードや名言も多いんですよ!

今日は日本にまつわるエピソードを中心に、彼の人柄が分かるエピソードや名言について10個一挙に解説します!

>>【衝撃中国史】面白い中国歴史の本を【7つ】ご紹介!悔しいけど中国の歴史は嫌いになれない!

目次

田中角栄とのエピソード

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki

「前事不忘、後世之師

この言葉の意味は過去の出来事は忘れてはならないが、後世の人の先生になるようなことをしようではないか!!というものです。

1972年、日中国交回復のために当時の日本首相であった田中角栄が訪中した際に、なかなか議論がまとまらなかったときに、周恩来が言った言葉とされています。

日中戦争の過去は忘れずに教訓として残しつつも、それを乗り越えて我々自身が後世の人たちの見本となるようにしようという意思が見えますね。

周恩来の前で寝入った田中角栄

北京での日中国交正常化交渉がうまく進み、田中角栄ら一行は周恩来とともに上海にいくことになりました。

その時に、機内で会談を実施したいという田中角栄の強い希望で、周恩来の専用機で上海に向かいました。

ところが、飛行機が空港を飛び立つとなんと田中角栄はいびきをかいて眠ってしまったのです。

外相の大平正芳があわてて起こそうとすると周恩来は「田中さんは北京で疲れているのだから、そっとしておいてください。私とあなたで機中会談やりましょう」と言いました。

通常、外交では総理同士の会談、外相同士の会談が普通であったため、大平外相はこれに大変驚き、感激したといわれています。

周恩来の優しさと対応力がよくわかるエピソードですね

3つの家庭」を持っていた田中角栄

周恩来とともに日中国交正常化を成功に導いた田中角栄は、日本列島改造論などを掲げ日本の高度経済成長を支えたことから日本でも人気のある首相でしたが、彼は金銭問題や女性問題などのスキャンダルが絶えない人物でした。

特に、彼は本妻のほかに2人の女性と交際し、それぞれ子供をもうけていたことから、「3つの家庭」をもっていたと週刊誌などからバッシングを受けていました。

一方中国では儒教の一夫一妻の考えが浸透していることからこのことを問題視する声も多く、側近の一人が「日本の田中首相にはいろいろと女性問題がある」と週刊誌を集めて報告した部下がいました。

それに対して周恩来は「中国と日本が歴史的な和解をしようとしている。そういう話は何の関係もない」としかりつけたとされています。

私生活に問題のある人間についてもそこばかりを見ずにビジネスライクに付き合おうとする姿勢は見習うべきことがおおいと思います。

岡崎嘉平太との絆

周恩来と先述の岡崎嘉平太という人物は強い絆で結ばれていました。

彼は、学生時代から中国人留学生たちとの交流を深め、日中戦争の際も上海に領事として滞在して、中国との関わりを続けていました。

戦後、日中の国交が途絶えた後も、貿易や文化面での日中民間交流に尽力していました。

なお、この時期、彼は全日空(ANA)の社長にも就任し、会社の規模を大幅に拡大させるなど商才も発揮しています。

そして、日中貿易交渉の交渉役として周恩来のもとに訪れた際に周恩来に言われたのが先ほどの言葉です。

これに岡崎嘉平太は感動し、周恩来の印象をこう語っています。「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」

二人の仲を示すエピソードはいくつもありますが、代表的なものを3つご紹介しましょう。

周恩来と岡崎嘉平太・絆がわかるエピソード

「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。

我々にはその深い恨みがあるのです、恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。

我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」

これは日本と中国が国交正常化をまだ果たしていない時に、日中唯一の窓口として交渉役となっていた日本の岡崎嘉平太という人物にかけた言葉です。

当時はまだ日中戦争の記憶が両国民に残っていましたが、周恩来は「過去にいつまでも囚われず、アジアの発展のために手を取り合おう」と提案したのです。

今の中国からは考えられないこの言葉。周恩来のこのセリフに見られるように未来志向がなければ今の日中交流はなかったかもしれません。

と言っても現在の中国を見ているとあの時の友好的な関係の構築は良かったのかわるかったのか・・・・

周恩来と岡崎の感動エピソード

ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねました。

岡崎は「周総理よりも一つ年上です」と答えました。すると周恩来は「じゃあ、あなたが兄だ」といい、それから二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったといいます。

なぜここまで周恩来は岡崎を信頼するのか、その理由を周恩来はちゃんと述べていました。

それは岡崎の息子、岡崎彬氏が父親についていき、中国で周恩来に会ったときです。当時岡崎嘉平太の行動は中国を嫌う一部の日本国民や右翼団体の反発を招いていました。

周恩来は彬氏にこう語ります。

「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」

「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」と。

そして二人の努力によってついに田中首相が国交正常化のために訪中することが決まります。

田中首相が訪中する2日前、周恩来は岡崎嘉平太をもてなすために、食事会を開きました。そのときに

「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」

「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」

と言ったといわれています。

自分も信念に生きた政治家だからこそ同じく信念のために身を投げ出した人に対する信頼というのは絶大なものだったのでしょう。

日本人公墓を守った周恩来

日本敗戦に伴い、ソ連軍が満州に侵攻したことで多数の日本人避難者が虐殺されました。

残留者の一人が、「埋葬したい」と地元政府に要望したところ、周恩来は「政府の仕事としてやらせてもらう」と、地方政府に「方正地区日本人公墓」をつくらせました。

この際に彼は自ら方正に赴き、ばらばらに散り落ちた白骨の収集が行い、決まっている場所に埋葬しました。

文化大革命の際は、この公墓も破壊されそうになりましたが、周恩来は「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」と指示しました。

この一角は柵で囲われ、「中日友好園林」として日中友好の原点との場所として今でも残っています。

周恩来の結婚エピソード

引用元: https://upload.wikimedia.org/wikipedia

周恩来は21歳の時に、5・4運動の中で、鄧穎超(とう・えいちょう)という女性と出会います。

周恩来はその後フランスに留学しますが、その際も彼女との文通を続けていました。

そして25歳の時に周恩来は彼女に手紙をおくります。

カール・リプクネシとローザ・ルクセンブルグという二人の男女の肖像画が書かれたはがきにこう書かれていました。

「この2人のように、将来は一緒にギロチン台にあがってほしい」と。

このカール・リプクネシとローザ・ルクセンブルグという男女二人はこの時期の約7年前にドイツで革命を起こそうとして失敗し、逮捕・処刑された2人であり、周恩来は鄧穎超に対して、殺されるかもしれない覚悟をもって自分についてきてほしいと言ったのです。

彼女もこの覚悟にこたえ、2年後に二人は結婚しています。

「一緒に殺されるかもしれない覚悟を持ってほしい」といえる勇気もそれを言われたうえで受け入れる勇気もすごいですよね。 

他の子どもは車の迎えだったけど…

指導者のめいであった周秉宜さんによれば、周家は周恩来が首相になってからも他の幹部の子どもに比べると質素な生活だったといいます。

普段、学校に下宿している生徒が週末、実家に帰る時、多くの子どもは迎えの乗用車に乗っていました。

ところが周恩来が手配したのは自転車でした。伯母で周恩来の妻、鄧頴超からは「周恩来は国家の総理で、人民のために働くが、周家のために働くのではない」と聞かされたそうです。

公私混同しない清廉潔白な彼の性格が良くわかるエピソードですね。

愛新覚羅のエピソード

引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki

周恩来は、労働者階級出身が多い共産党員の中では家柄もよく教養もあるいわゆるインテリ層の生まれでした。

そのため皇帝として生まれながらその後、日本軍の傀儡、そして一市民まで落ちぶれた清の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀に対して同情的であったといわれています。

清朝最後の皇帝溥儀のために奔走

そのため、中華人民共和国建国後はずっと溥儀をサポートし続けました。

溥儀は戦後、日本軍に協力したということで、収容所に入れられていましたが、周恩来は彼が釈放されるようにずっと便宜をはかっていました。

そして釈放後も元皇帝の彼が一般社会に慣れるように北京植物園での庭師の仕事を紹介したり、政協全国委員という国会議員相当の職位につくのをサポートしたりしています。

その後溥儀は文化大革命の中で、ガンを患ってしまいます。

元皇帝という「反革命的」な人物であったため、紅衛兵の攻撃を恐れた病院の多くが彼の入院を拒否しました。

そこで周恩来は、北京市内の病院を手配しましたが、その病院に紅衛兵が押しかけて騒いだため、医師たちは溥儀に治療を施さず放置していました。

これを知った周恩来は激怒し、直接院長に電話して溥儀の治療を行わせました。

しかし、残念ながら末期状態であった溥儀は治療の甲斐もなくなってしまいました。

周恩来がすごい!名言やエピソードを一挙解説!まとめ

周恩来のイメージは中国の政治家、ということであまり日本人にはなじみがない印象があるかもしれませんが、このようなエピソードがあるように実はものすごく日本とかかわりの深い人物なのです。

彼がいなければ今の日中関係はなかったといっても過言ではありません。

どのエピソードを見ても彼のまっすぐな人間性や漢気、優しさがよくわかると思います。

ぜひ、これを機にさらに周恩来について興味を持っていただければ嬉しいです!

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