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こんにちは!
以前、中国の文化大革命について解説する記事を、三篇に分けて公開させていただきました。
>>文化大革命とはどんな革命?わかりやすく簡単に解説します!前編
>>紅衛兵と劉少奇の運命とは・・文化大革命とはどんな革命?中編
>>劉少奇の失脚と天安門事件!文化大革命とはどんな革命?後編
その中で、毛沢東が一時的に失脚した原因として、「大躍進政策」があったことに触れましたね!
その記事の中ではこの大躍進政策について詳しくは解説しなかったのですが、今回はこの大躍進政策について、前後編に分けて解説していきたいと思います!
ではどうぞ!
そもそも大躍進政策とは?
ここではまず、大躍進政策の概要を説明します。
まず、大躍進政策とは、1958年から60年代前半までに行われた建設運動を言うとされています。
第二次大戦後、日本も含め、世界は戦後の復興へと進んでいくわけですが、中国では、1946年から「国共内戦(こっきょうないせん)」という内戦状態になりました。
国共内戦とは、中国共産党と国民党との間の内戦になります。この国共内戦は1949年に国民党政府が台湾に撤退し、中国共産党が中国本土を統一したことで終結します。中華人民共和国の成立ですね。
こうした経緯から、中国は他の国に比べて戦後の復興が出遅れる形となりました。
ソ連を真似した「第一次五カ年計画」の実施
そこで、共産党政府は同じ共産主義国家の先輩であるソ連の経済体制をモデルとし、1953年から57年にかけて、「第一次五カ年計画」をスタートさせました。
この第一次五カ年計画では、重工業の発展に重点が置かれ、経済の中央集権化が進められました。その結果、ある程度の成果をあげることに成功します。
このように、戦後の経済復興を急速に進めるために、ソ連をモデルとした計画経済が作り上げられていくのですが・・・・どうなっていくのでしょうか??
第二次五カ年計画でイギリスを追う中国
そして、これに続く第二次五カ年計画として構想されたのが、大躍進政策でした。
「第二次五カ年計画=大躍進政策」と考えてください。
この第二次五カ年計画では、「15年でイギリスに追いつけ追い越せ」という国家目標が立てられます。イギリスが当時世界第二位の経済大国だったからですね。
しかし、第二次五カ年計画はそのままの名前では呼ばれず、現在皆さんもよく知るように、大躍進政策という特別な名前で呼ばれているわけです。
なぜかというと、この計画が第一次五カ年計画とは多くの面で違ったものだったからです。そこで次に、第一次五カ年計画と大躍進政策との違いについて解説していきましょう!
第二次五カ年計画は農業に力を注ぐも悲惨な結果に
ここまで解説してきたように、戦後の中国は、国共内戦による経済復興の遅れを取り戻すため、第一次五カ年計画をスタートさせ、これは一定の成果をあげることができました。
これをさらに発展させて、当時世界第二位の経済大国だったイギリスを追い越そうという壮大な目標を立てたのが第二次五カ年計画、いわゆる大躍進政策だったわけです。
そのため、大躍進政策を知ってもらうためには、まず第一次五カ年計画と大躍進政策との違いを理解したもらったほうが良いでしょう。
農業よりも重工業!
すでに少し触れましたが、第一次五カ年計画では重工業に重点が置かれていました。
農業も全く無視されていたわけではないのですが、工業にくらべるとその発展度合いは低かったようです。
この点は、予算の面でも顕著でした。
具体的には、第一次五カ年計画の投資総額のうち、工業部門に58.2%が割り振られたのに対し、農業はわずか7.8%にとどまっていました。あからさまに違いますよね。
大躍進政策の大きな夢破れる
そこで、大躍進政策では農業、特に水利事業や肥料等の生産に重点が置かれました。とはいっても、工業も決して無視されていたわけではなく、政策を主導した毛沢東としては、農業を工業と同じ水準まで引き上げつつ、両方の発展を進めていこう、という構想だったようです。
こうした目標は、広い目で見れば、大躍進政策の光と影を形作るのに大きな役割を果たしてきますので、よく覚えておいてください。
第一次五カ年計画との違いはまだあります。
官僚主導から大衆へ
中央集権から大衆運動への変化です。
日本のような資本主義経済では、工業にしろ農業にしろ、民間の自由な経済活動が行われています。
企業や経営者、農家が工業や農地を「所有」し、それぞれの利益のために物を生産、販売していますよね。
一方、中国のような社会主義経済では国家によって工場や農地が「所有」され、国家の計画に沿って物の生産が行われます。もちろん、生産のための労働も、国家によって管理され、その利益が労働者に均等に分配されます。
少し難しく感じる方もいると思いますが、おおまかに言えば、社会主義経済は中央集権的な経済であるところに特徴があるのです。
中国では、第一次五カ年計画で、こうした中央集権化が進められました。その結果52年から57年までで、国内の資本主義経済はほぼ一掃されます。
しかし、こうした国家主導の経済は、行政組織の肥大化をもたらします。その結果、早くも57年から、官僚主義の弊害が指摘されるようになってきました。
こうした問題点へのアプローチとして、毛沢東は、官僚主導ではなく、大衆運動としての経済発展を求めました。
たとえば、大躍進政策の時期には、「頭脳労働と肉体労働の合一」というスローガンのもと、共産党員や幹部の「下放」が奨励されました。
官僚と民衆の距離を縮める毛沢東
そして、毛沢東や周恩来ら共産党のトップまでもが、建設現場に出て肉体労働に参加することになりました。
こうすることで、官僚と民衆との間の溝を埋めようとしたわけですね。
現在の日本でも、いわゆる「お役所仕事」とか、政治家の国民感覚の欠如が問題となりますが、毛沢東はこうしたエリート集団によって管理される路線よりも、大衆路線を強く求めるようになっていったわけです。
このように、第一次五カ年計画を経て、重工業への偏重と、中央集権化による官僚主義の弊害という問題点が浮上しました。
そのため第二次五カ年計画では、第一次五カ年計画の成果を受け継ぎつつも、こうした課題の解決が必要とされたわけです。
大躍進政策とは?わかりやすく解説(前編)!ソ連を真似しイギリスに追いつけ・まとめ
いかがでしたでしょうか?
一般的に、大躍進政策というとその問題点ばかりが注目され、なぜこのような政策がとられたのか、という面についてはあまり知られていません。結果的に大失敗に終わったわけですから当然ではありますが・・・
しかし、その前提となった中国の社会状況を見てみると、大躍進政策が、第一次五カ年計画の問題点を解決しつつ、さらなる経済発展を目指したという点で、政治的には自然な流れの中で開始されたことが分かると思います。
ただ、そうした状況を解決するために毛沢東が求めた「大衆路線」が、そのまま大躍進政策の光と影を分けることになりました。
後編では、いよいよ大躍進政策の失敗を解説していきたいと思いますので、お楽しみに!
ではまた!

