皆さん、こんにちは!
中国といえば私たち日本人にとって隣国であり、影響力の大きい国ですが、中華人民共和国という国家が建国されたのは今からおよそ70年前だと知ってますか?
この中華人民共和国を建国にした人物は毛沢東(もうたくとう)という人です。
名前は聞いたことあるけど、どんなことをした人なのかよく分からないという人もいるかと思います。
今回は、この毛沢東について見ていきたいと思います!
中国現代史の怪物、毛沢東
毛沢東は中国現代史を語るうえでかかせない人です。
しかし単純に「良い事をした人」「悪いことをした人」と評価できない人なのです。
毛沢東には中華人民共和国という巨大な国を建国した偉大な父、という素晴らしい偉業がありますよね。
しかし、建国したのちに彼が行った政策で国は大パニック状態になってしまい、多くの人が命を落としてしまうという状況を作り上げた人物でもあるのです……。
世界的にみると「国民を多く殺した独裁者」と評価が固まりつつあるのですが、中国国内だと「間違いもあったけど偉大な指導者」と見られています。
毛沢東が行った政策は、中国国内だけでなく他の国にも影響を与えています。
「昔いた中国の偉い人」という枠には収まらない世界規模の人物、それが毛沢東。
今ではアメリカに次ぐほどの大国になった中国ですが、今の中国は毛沢東が作った理念を基礎としています。
毛沢東のことを知ることで、今の中国の在り方についても知ることができるのです。
毛沢東の運命的な出会い。それは「マルクス主義思想」です。
マルクス主義思想とは簡単いうと、みんなが自由にお金を儲けるから人々の間に格差がうまれる、だから身分の差や貧富の差がないみんなが平等な社会を作ろう!というものです。
中国の北ではロシア帝国が崩壊後にソビエト連邦(ソ連)が成立していたのですが、このソビエト連邦がマルクス主義思想を基礎とした国作りをしていました。
中国と隣の国なので、この思想も中国に伝わり、中国国内にもマルクス主義思想の考えで国を作ろぜ!というグループができます。
清王朝が滅亡した後の中国は、中華民国という名前で統一されるのですが権力争いなどが頻発。
権力をもった軍人たちが暴れていて国内は争いが絶えませんでした。
毛沢東は北京大学でのアルバイトを辞めたあとに故郷に帰ることにします。
そして故郷で小学校の先生をしていたのですが、軍人たちが自分たちのことばかり考えている!と怒りのパンフレットを作って、人の集まる都市で配る政治活動をします。)
その活動が、マルクス主義思想で国を作ろうぜというグループに認められて、毛沢東はそのグループの一員になります。
このグループの名前は中国共産党。
現在の中国の政治を担っている党です。
結成の初期から毛沢東はメンバーの一員でしたが、目立つ存在ではありませんでした。
中国共産党は活動をはじめたばかりの頃は、まだまだ少人数でした。そこで当時中国国内で最大の政治グループだった国民党の仲間になります。
当時の中国共産党は独自で政策を決めて動いているグループではありませんでした。
ソ連の共産党がマルクス主義思想を基礎として世界に革命を起こすぞと作った、中国支社のようなもので、政策はソ連の言いなりでした。
国民党、孫文の死去と毛沢東
メンバーも都市部育ちの知識人ばかりで、毛沢東は不満がたまっていったようです。
そんなか、辛亥革命のリーダーで国民党のトップの孫文(そんぶん)が死んでしまいます。
孫文の死後、国民党のトップ的存在だった蒋介石(しょうかいせき)は国民党の中に共産党の人達がいることを許さずに弾圧します。
蒋介石にとって共産党の考え方は自分の考え方とは違うので邪魔だったんです。
共産党はこの弾圧で打撃をうけ、国民党から脱退することになりました。
国民党から脱退後、中国共産党は国民党と対立し、国内の政治の主導権をとるために、ソ連の共産党からの指示で、各地の都市部で武装蜂起を起こしますが次々に失敗してしまいます。
毛沢東は中国共産党指導部の「都市部で武力蜂起する」という指示を無視。
自分の仲間を引き連れ井岡山(せいこうざん)という田舎の山岳地帯に撤退し、中国共産党の新しい拠点を作りをはじめます。
国民党とトップになっていた蒋介石は毛沢東の軍をつぶそうとするのですが、井岡山は攻めにくく守りやすい地形なうえに、毛沢東は独自のゲリラ戦法で国民党を追い返します。
毛沢東は趣味の読書から得た知識で戦いを有利に進めたのです。
蒋介石から逃れる共産党
毛沢東は国民党との戦いのために井岡山だけではなく他にも拠点を建設したりして共産党の勢力は少しずつ大きくなります。
それにともない毛沢東も中国共産党での地位が高くなっていきました。
けれど、そんなことは蒋介石の国民党は許しません。
中国共産党よりも圧倒的な人数で何度も攻撃した結果、中国共産党は拠点を捨て逃げます。
この国民党から逃げるために共産党が中国国内を1年あまりの期間に1万2千キロも逃げながら移動したことを「長征(ちょうせい」といいます。
1万2千キロといわれてもよく分かりませんよね。
これは地球の直径とほぼ同じ長さなのです!
日本の南北の長さが約2千8百キロなので、とてつもない距離を逃げ回ったことが分かるのではないでしょうか。
この惨めな逃避行中に、毛沢東は「共産党が十分な武力をもっていないのに、武力蜂起したから大きな災難にあっている!」と中国共産党の方針を決める指導部を非難します。
それにたいして周恩来(しゅうおんらい)という人が毛沢東の意見に賛成してことで、毛沢東は中国共産党内での発言力がさらに増します。
長征が終わった頃に毛沢東は、中国共産党内の思想をキレイにするという運動をします。
スパイを排除して仲間どうし同じ考えをもって協力しあおうというと運動です。
素晴らしい!と思ってしまいますが、実は自分に反対する党員を絶滅させるというものでした。
この運動もあって毛沢東は中国共産党の実権を握り、トップに上り詰めるのです!
国民党との協力と日中戦争
中国共産党のトップになった毛沢東ですが、国民党との戦いはまだ続いていました。
長征もあって、共産党はかなり弱っていました。そんな時に毛沢東にとっては天の助けにも思える出来事が起こります。
それは国共合作(こっきょうがっさく)といい、内戦はやめて協力しあい、共通の敵である日本軍と戦おう!というものです。
国民党の張学良(ちょうがくりょう)という人が「国民党と共産党で国内で争っていてはダメだ!今は一緒に協力して日本軍と戦うべきだ!」と主張して、蒋介石を監禁し、彼に要求を飲むように迫ったのです。
共産党側からは周恩来が調停に動き、双方は協力することになります。
共産党が国民党に物量でつぶされそうになっていた時に国共合作が成立したので毛沢東は命拾いをしたのでした!
しかし、いざ日本軍と真正面から戦ったのは国民党の軍でした。
共産党の軍はあくまでも戦いの後方で戦っていたのです。
国民党と協力、と言いながら毛沢東は日本軍と戦っている間にも共産党の勢力拡大を狙っていたのです!
実際に毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」と指令をだしていたことも分かっています。
毛沢東のしたたかさがよく分かりますね……!
共産党と国民党 どちらが覇権をとるか?!
皆さんもご存じのとおり1945年8月に日本は敗戦します。
共通の敵がいなくなったことで、国民党と共産党の協力関係も終わり、再び国内でどちらが覇権をとるかという内戦がはじまります。
ここで注目したいことがあります。それは以前争っていた時と違う点がいくつかあることです。
1つ目は、国民党が日本との戦いでボロボロになっているなか、共産党は後方で戦っていたので勢力が拡大していて、国民党より元気だったこと。
2つ目は、共産党はソ連の支援を受けていたことです。ソ連もマルクス主義思想なので、同じ考えをもつ共産党に土地や大量の武器を提供したのです。
内戦はかなり共産党が有利な条件がそろっていたのです!
さらに、共産党は国民の大多数を占める農民の圧倒的な支持を受けることに成功します。
国民党は台湾に逃げて、共産党は中国国内を平定、内戦は終ったのです。
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