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こんにちは!
皆さんは、文化大革命についてご存知でしょうか?
文化大革命は、中華人民共和国(以下、中国)において、1965年から10年間に渡って起こった社会運動のことです。
名前自体は聞いたことがあるかもしれませんが、高校の世界史の教科書でもさらっと流してある部分なので、実際にどういうものだったのか説明できる人は、あまりいないのではないでしょうか。
しかし、文化大革命は、現在の中国を知る上で、とても重要な事件!!です。
そこで今回は、文化大革命(以下、文革)について、詳しく知らない人にも分かるように前、中、後編に分けて解説していきたいと思います!
文革のキーマン・毛沢東と60年代までの中国

文革を説明するためには、毛沢東(もうたくとう)の存在は欠かせません。
天安門(てんあんもん)の上に肖像画が飾られている、不思議なヘアースタイルのあの人ですね。
毛沢東は、1949年に中華人民共和国が成立する以前から、中国共産党で国家主席、つまり最高指導者の地位にあった人物です。
中国で一番、偉い人ってくらいに思っていただければよいです!
第二次世界大戦後、中国では国民党と共産党が戦う内戦状態。
いわゆる国共内戦(こっきょうないせん)が続いていましたが、その中で毛沢東は共産党を勝利に導いた指導者として、英雄的な立ち位置にありました。
しかし、そんな毛沢東もとある出来事をきっかけに、国家主席の座を追われることになります。
毛沢東の失策!大躍進政策ってなに?
その出来事というのが、大躍進政策(だいやくしんせいさく)の失敗でした。
世界も失笑してしまう知る人ぞ知るこの政策。。。。
大躍進政策とは、簡単に言えば、中国の生産力拡大を目的におこなわれた、一連の政策の総称です。
国共内戦によって、中国では戦後の経済復興が他の国に比べてお幅に遅れてしまっていたのです。
そこで、世界に追いつけと毛沢東はこの大躍進政策によって、中国の経済を短期間で復興させ、生産力をアップさせようとしたわけですね。
しかし、この政策かなり無理があったようです。
とにかくヨーロッパを越えようと、知識もないまま鉄鉄鉄!と鉄に執着。鉄さえつくっとけば経済はあっというまに世界に追いつくだろう!と毛沢東は考えたのでした。
溶鉱炉をつくったはいいけど、なんだかそれっぽいものを技術がないままつくったものだから粗悪品の山ができ、おまけに再利用ができないというありさま。

当時は反抗するものは粛清だったので誰も「この政策やばくないっすか?」と突っ込む人もいませんでした。
大躍進政策の内容と失敗の原因について解説すると一記事では収まりきらないので割愛しますが、これによって中国では大飢饉が起こり、1958年から62年までの四年間に、2000万人近い餓死者を出してしまいます。
2000万人ですよ。
どんだけこの政策が馬鹿げたものだったのかわかりますよね。
餓死がこんなにでるということはかなりの食糧不足。経済復興のはずが多くの国民に死をもたらしてしまったのです。もう同情しかありません。
一体どうしてその政策を考えたのか。。これなら経済が遅れてもなにもしないほうがマシでしたよね。
この結果、毛沢東はその失敗を批判され、1959年には国家主席再選を辞退せざるを得なくなります。
当然の結果ですね!
海瑞罷官で情報操作?自暴自棄になった毛沢東
この時、毛沢東は事態を収拾するため、『海瑞罷官(かいずいひかん)』という当時中国で人気だった歴史劇を引き合いに出して、共産党への批判を国民に呼びかけました。
『海瑞罷官』とは、明代の海瑞という官僚が主人公の歴史劇で、北京副市長であった呉晗(ごがん)という人物によって書かれました。
内容としては、官僚である海瑞が、人民のために正義を貫く姿を描いたストーリーになっています。
人民のために皇帝に対してすら恐れず立ち向かっていく姿を、権力と戦う民衆のあるべき姿として引き合いに出したわけです。
そうして政府への自由な批判を許すことで、ガス抜きをしようとしたわけですね。

再びトップにあがろうと必死だったのがわかります!
こうした空気の中、中国の初代国防部長(国防大臣のようなポスト)であった彭徳懐(ほうとくかい)が、大躍進政策の失敗を指摘する書簡を毛沢東に送りました。
本来であれば、彭徳懐の行動はまさしく海瑞になぞらえて称賛されるべきでしょう。しかし、毛沢東がとった行動は、それとは真逆でした。
毛沢東って本当にみかけによらず傲慢チキな男だったんですね!
毛沢東・文化大革命を批判され逆ギレ

なんと、毛沢東は党の全体会議で、彭徳懐の書簡を批判し、彭徳懐とその関係者を、「反党、反人民、反社会主義の傾向を持つ右翼日和見主義者」として、全ての職を解任する決定を下したのです。
おかしな話ですが、辞任したといえどもこの当時の毛沢東がどれほどの力をもっていたのかわかりますね。
そして、毛沢東は新たな国防部長として、日頃から毛沢東への忠誠を買われていた林彪(りんぴょう)を選びました。

彭徳懐は毛沢東と同じ湖南省の出身で、共産党の軍隊である八路軍(はちろぐん)の指揮官として、戦中、戦後の戦場を戦い抜いてきた英雄的人物でした。
しかし、そんな彭徳懐が、毛沢東への批判で失脚し、代わりに毛沢東への忠誠心が厚い林彪が軍事のトップとして就任したことになります。
『海瑞罷官』と彭徳懐、そして毛沢東と林彪は、このあと始まる文革を理解する上で重要なキーワードとなってくるので、よく覚えておいてください。
ともかく、文革が始まるまでの中国の状況はこのようなものでした。
大躍進政策の失敗と、それによる毛沢東の失脚、そして毛沢東による反対派弾圧という流れが、文革へとつながっていくわけです。
それでは次に、毛沢東失脚から文革開始までの流れを見ていきましょう!
「上海組」による『海瑞罷官』への批判
このように、大躍進政策の失敗により、毛沢東は国家主席の座を降りることになります。
一方で、
自らを批判した彭徳懐を失脚させ、林彪を国防部長に据えることで、自分の支持者が軍事権を握っている、という状況を作り出しました。
なかなか賢い男ですよね!そうじゃなきゃこんなに建国の父として崇められることもなかったのでしょうが。。。
ただし毛沢東が国家主席の座を降りたあと、国家主席になったのは劉少奇(りゅうしょうき)でした。

劉少奇は、大躍進政策の失敗によって起こった混乱を収拾すべく、資本主義寄りの政策を採っていきます。
劉少奇は、彭徳懐同様に大躍進政策の失敗を指摘しつつも、毛沢東個人への過度な攻撃はしないよう、慎重に改革を進めていきました。
しかし、毛沢東の側は劉少奇の政策に不満を抱いており、権力奪還の機会を狙っていました。
こうした中で、文革が構想されました。ここで毛沢東が目を付けたのが、毛沢東の三番目の婦人である江青(こうせい)と「上海組(のちの四人組)」の存在です。

左から毛沢東の4番目の妻である江青、姚文元、王 洪文、張 春橋ですね。女性4人組かと想像していましたが普通のおじさんが3人です。
江青は上海で映画女優をしていた人物で、1939年に毛沢東と結婚しました。
当初、毛沢東は江青の政治関与に否定的な態度をとっていましたが、魯迅芸術学院(ろじんげいじゅつがくいん)の教授などを歴任する中で、文芸方面での政治力を発揮していきました。
上海組は、そんな江青や文芸評論家の姚文元(ようぶんげん)を中心とした、政治活動グループです。
1965年、そんな上海組のメンバ一人である姚文元が、上海の共産党機関紙、『文匯報(ぶんわいほう)』に、論文「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を寄稿しました。
内容は、『海瑞罷官』のストーリーには、先に失脚した彭徳懐を海瑞になぞらえ、彭徳懐が批判した毛沢東を「暴君」として告発する意図が含まれている、と主張するものです。
もちろん、この主張に確かな証拠などありません。すでに説明したように、『海瑞罷官』はそもそも毛沢東自らが引き合いに出し、国民に共産党への自由な批判を求めたものでした。
にも関わらず、上海組と毛沢東は反対にこの『海瑞罷官』を利用して、すでに失脚したはずの彭徳懐を中心とする、反革命派の陰謀があると主張したのです。

こうした上海組の動きと軌を一にして、毛沢東も「資本主義の復活を目論む策謀がある」との発言をし、そうした策謀を企む人々を「走資派」として批判しました。
この「走資派」として想定されていたのが、劉少奇や彭徳懐など、毛沢東と政治的に対立する(本人たちにその意図があるかは別として)人々であったことは言うまでもありません。
このように、毛沢東と劉少奇との政治的対立が、上海組による『海瑞罷官』への批判によって、文芸の世界を巻き込んだ問題へと発展していきます。
共産党内の毛沢東派と劉少奇派という派閥対立を文芸(文化)と絡めて中国全体に広げていくところに特徴があったわけです。これが、「文化」大革命と呼ばれる理由になります。
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文化大革命とはどんな革命?わかりやすく簡単に解説します!前編まとめ
いかがでしたでしょうか?
日本では中華人民共和国の建国以来、一貫して毛沢東が政治のトップであり続けたかのように思われがちですが、実は50年代の後半、彼は大躍進政策の失敗を理由に、国家主席の座から降りなければなりませんでした。
代わって国家主席となった劉少奇は、大躍進政策の失敗を取り戻すために、資本主義的な改革をおこなおうとします。
これに不満を持つ毛沢東は、権力奪還を計画するようになり、「上海組」を中心とする文芸界を、そうした政治闘争に巻き込んでいくのです。
それでは、こうした政治闘争が、その後どのようにして中国全土を巻き込む「革命」となっていくのか?中編以降ではその辺りを解説していきたいと思います!
ではまた!

