中国の首都である北京にある天安門に大きく掲げられた肖像画。
それは「建国の父」と呼ばれる毛沢東のものです。
革命家として混迷の時代を生き、中華人民共和国を建国した毛沢東はやがて神のように崇拝されるにまでなります。
しかし!今回は神ではなく、実に泥臭い人間味たっぷりの毛沢東のエピソードや名言を見ていきたいと思います!
「建国の父」毛沢東の名言

『知識を得たいのならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨のうまい味を知りたいなら、自分でそれを食べて、梨を変革しなければならない』
毛沢東が書いた「実践論」という論文にある一説です。物事を知りたいなら、実際に経験しなさいと言っています。
梨って美味しいよ!と聞いても、実際に自分で食べてみなければどんなに美味しいかなんて分かりませんよね。
体験に勝る知識はない、というわけです。つまり行動が大事ということなんでしょうね。
毛沢東はこの言葉の続きに、中国の故事である「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という、危険ばかり避けていては、大きな成功もあり得ないという言葉を引用しています。
この論文は日中戦争がはじまった年に書かれたものです。
混乱の時代だけれど、自分で行動しないことには良い結果は得ることはできないよ、と毛沢東は言いたかったのかもしれませんね。
毛沢東はその生涯から良くも悪くも評価されていますが、自分の理想のためには口先だけでなく、実際に行動し続けた人でもあるのです。
和尚打傘 無髪無天・自分は「和尚打傘」である
毛沢東は1970年にアメリカのジャーナリストであるエドガー・スノー氏に、自分は「和尚打傘」である、と語っています。
和尚さんが傘をさしているってなんのこと?と思いますよね。
これは古典からきている言葉なんです。
しかし、スノー氏に通訳した女性は古典の知識がなくて、そのまま「雨宿りのする傘をざして世の中を闊歩する孤独な和尚」と解釈してしまいました。
この間違った解釈からスノー氏や多くの中国学者は毛沢東が自分のことを悲劇的で孤独だと思っている、と決めつけてしまったのですが、これは大きな間違いだったのです!
「和尚打傘」という言葉には対句があって、それは「無髪無天」。
直訳すると「髪がなくて、空も見えない」という意味なのですが、これは言葉遊び。
「無髪無天」は中国語だと「無法無天」という言葉と発音が同じ。「無法無天」の意味は「法もなければ神のない」という意味。
つまり、毛沢東は自分のことを「和尚打傘」と説く。その心は?「無法無天」で、法律にも神にも従わない、自分こそが神であり法律である!と言っていたのです!
こんなこと中国の古典の知識がないと分からないですよね。
毛沢東のいやらしいところは、わざと対句の「無髪無天」を言わないことでした……。

「建国の父」毛沢東のエピソード

毛沢東が大変な読書家であったことは有名です。
それは少年の頃から死ぬまで変わりませんでした。子供の頃は家業である農業を手伝いながらも暇さえあれば本読み、夜更かししながらも本を読み続けました。
中国の最高指導者になっても本は読み続けていて、ベッドのまわりは山積みの本だらけだったそうです。
好んで読んだジャンルは思想に関するものと歴史関係で、中国国内だけでなく古今の外国のものも読みました。
毛沢東は人々の心に訴える論文やスローガン作りが非常にうまかったのですが、それも中国の古典から言葉を引用したりしていて、読書から得た知識を上手に自分の革命活動に使っていたのです!
読書は毛沢東にとって生活の一部で心のオアシスだったらしく「読書をすると心が落ち着く……」と周囲に言っていたそうです。
リスペクトは歴代の悪名高い皇帝たち
歴史が大好きだった毛沢東は、中国の歴史に精通していました。
古代の殷の時代から長い歴史の中で多くの偉人たちが登場しますが、毛沢東は歴代の皇帝たちを自分に見立てていました。
特に毛沢東が尊敬していたのは、古代殷王朝の最後の王である紂王(ちゅうおう)です。
中国の歴史に少しでも詳しい人でしたら、不思議に思うかもしれませんね。
紂王は贅沢三昧の日々を送り悪逆非道ぶりで有名なので中国の人たちも嫌っているのですが、毛沢東はそうではありませんでした。
紂王は数多くの異民族を単一支配のもとに統合した業績があり、それに比べれば悪逆非道ぶりなど何ほどでもないと毛沢東は主張しました。
秦の始皇帝も毛沢東のお気に入りの1人でした。
中国で初めて全国統一を成し遂げ、始皇帝以降2千年以上続いた中華帝国の基礎を作った人物ですが、焚書坑儒といい、儒教者を処刑し古典の書物を燃やしたり苛烈で残虐的な行為をした人物でもあります。
隋の煬帝(ようだい)は中国の人たちからは極悪人とみられていますが、毛沢東はそんなことありませんでした。
煬帝の煬という字は何もかも焼き尽くす太陽という意味があるほど縁起の悪い漢字で、そんな漢字をつけるほどに中国の人たちからは嫌われています。
しかし毛沢東は多くの人命は失ったが大運河建設によって南北が結ばれた業績は大きいと高く評価しています。
また唐時代の中国唯一の女帝である武則天(ぶそくてん)も毛沢東は高評価していました。
武則天は中国で三大悪女の1人と言われているくらい嫌われている存在です。
後年の研究で政治力があって民衆の生活は落ち着いていたと評価はされているのですが、部下に密告させあったり多くの人を処刑した事実があります。
毛沢東は武則天のことを社会改革者だった、と評していたそうです。
紂王、始皇帝、煬帝、武則天。
いずれの人物も成した実績より犯した悪名高さのほうが有名ですが、毛沢東は、彼らの成した既成概念を壊すといった革命を評価していました。そして革命のためならば無慈悲だろうが残虐だろうが人命はいとわない。
そんなところを毛沢東はリスペクトしていたのです……!
自己中心的で身なりには無頓着
毛沢東はかなり自己中心的なところがありました。周りの論理的な意見さえも、自分の意に即していなければ受け入れませんでした。
毛沢東は夜型の人間でした。
しかも寝る時間はいつもバラバラ。24時間以上起きているかと思えば、半日以上寝続けたりして不規則な生活を送っていたのですが、周りの部下たちへの配慮はまったくありませんでした。
毛沢東以外の人たちは朝起きて夜寝るといった規則正しい生活を送っているのにも関わらず、用があれば深夜に呼び出し長時間話し相手をさせたりしました。
毛沢東は歯磨きはせずに、何日も同じ服を着ていて、入浴をしないで熱いタオルで体を拭くことを好みました。
大半の時間をベッド上かプールサイドの寝椅子のうえですごし、執務もそこで行いました。
脂っこい食べ物が大好きで、その食事は油のなかに食べ物がぷかぷか浮いている状態だったのです。
毛沢東の主治医が健康のためにも、これらの習慣を見直してくださいと忠告しても、まったく聞く耳を持たず直すことはしませんでした。
毛沢東がちゃんとした服を着て椅子に座り机にむかって執務している写真が残されているのですが、それは対外用に撮られたもので、実際とはかけ離れたものだったのです!
泳ぐの大好き
毛沢東は運動でも、特に水泳が大好きで、年をとっても続けていました。
ただ好きだけならよかったのですが、毛沢東は周りに迷惑をかけ(本人は迷惑をかけているとは思ってないはず)巻き込み、無理やり泳いだエピソードがあります。
それは中国有数の川である、長江での遊泳です。
川を泳ぐだけでしょ?と思うかもしれませんが、長江は中国でも有数の巨大な川。川幅は広く向こう岸が見えないほどです。
そんな長江は見た目からは分からないほど激流です。予測できない流れと渦巻きがあり、地元民は絶対泳ぎません。
そんな長江で毛沢東は泳ぎたい!と言うものだから部下たちは必死で止めます。命に関わることだからです。しかし毛沢東は泳ぐぞ!と強行突破します。
結局長江を泳ぐことになったのですが、この時毛沢東は74歳。
毛沢東の泳ぎを邪魔しないように、何人もの共産党員たちが毛沢東の周りを取り囲むようにして安全を見守りました。
2時間近く泳ぎ続けたそうで、毛沢東は満足したそうですが、警護した人たちの心労は半端なかったことでしょう……。
長江以外にも珠江(しゅこう)という川でも泳いだエピソードがあるのですが、これも毛沢東を警護する人たちは大変な出来事でした。
毛沢東は周りの人に何も伝えないまま、いきなり珠江に飛び込み泳ぎはじめてました。
毛沢東は水着を着ていたけれど、警護の人たちはいきなりのことなので急いで下着姿になって珠江に入り、毛沢東を追いかけます。
当時、珠江は生活用水を垂れ流しにしていたので、とても汚れていました。
糞が一緒に流れていて、それらをよけながら泳いだ、と毛沢東の主治医だった人が後に書き記しています。
崇拝ぶりが狂気・マンゴー崇拝
文化大革命中、毛沢東は神のように崇拝されていました。
その民衆の狂気とも思える毛沢東崇拝のエピソードがあります。それはマンゴー崇拝です。
毛沢東はパキスタンのフセイン外相からマンゴーをもらいます。毛沢東はそのマンゴーを労働者に渡したいと言い、汪東興(おうとうこう)という人がマンゴーを小分けにして主な北京の工場に1個ずつ配りました。
工場では、あの毛沢東総書記からマンゴーをいただけるなんて!ととても感動して、盛大な式典を開いてマンゴーの到着を歓迎しました。
マンゴーは聖なる記念品として祭壇に祀られたのです。
これだけでも怖い話ですが、まだ続きがあります。
祭壇に祀られたマンゴーですが、食べ物なので当然腐ります。
腐る兆候が見えると、巨大な鍋でお湯をわかして、その中にマンゴーの果肉をいれて茹でました。そしてマンゴーを煮たゆで汁を労働者たちは一列に並んで、おさじ1杯ずつうやうやしく飲んだのです……!
そして無くなった本物のマンゴーの代わりにマンゴーの模型を作り、それを再び祭壇に祀ったのでした。
若い子大好き好色家な毛沢東
毛沢東は大変な好色家でした。しかもそれを周りに隠すことなく、オープンに堂々と見せつけていました。
毛沢東は生涯で結婚を4回しました。これだけでも驚きですよね。
1人目は羅一秀(らいっしゅう)という女性ですが、この人との結婚は親の決めたものだったので、毛沢東自身は妻として認めていません。名前以外はほとんど情報が分からない人です。
2人目は楊開慧(ようかいけい)という女性で、毛沢東の師範学校時代の恩師の娘でした。
毛沢東との間に2人の男の子が生まれました。
毛沢東が井岡山で活動をはじめた時には長沙にいましたが、国民党に捕まりました。
その時に毛沢東と離婚しろと脅されますが、それを拒否したために国民党によって銃殺されてしまいました。
3人目は賀子珍(がしちん)という女性です。しかし、毛沢東がこの女性と恋仲になったのは、まだ長沙で2人目の妻である楊開慧が生きている頃なんです!
毛沢東と賀子珍は長征を共にした仲なのですが、やがて夫婦関係が悪化します。賀子珍は病気の療養を名目にソ連に行くのですが、毛沢東はその間に4人目となる妻と結婚するのです…!
4人目の妻は江青(こうせい)とい女性です。この女性は文化大革命時に毛沢東の権力を背景に政治権力を握り、国内を混乱に貶めることになる人です。
江青は女優でした。毛沢東に出会う過去には、4人の男性と結婚したり同棲したりしていて、結婚当初は共産党の幹部は彼女を歓迎しませんでした。
これだけでお腹いっぱいな気分になりますが、毛沢東の性欲は凄まじいものでした。
結婚しているにもかかわらず、女性をまるで食事を注文するかのように、毎回違う女性と夜を共にしました。
毛沢東の好みは10代後半から20代前半の純朴な女の子たち。ダンスパーティーをする時などは、踊り疲れて休憩するための、毛沢東専用部屋にお気に入りの女の子をよく連れ込みました。
時には人妻に手をだし、そして時には男性にまでちょっかいをだしていました……!

毛沢東の面白エピソードや名言をご紹介!読書好き・若い女好きの毛沢東・まとめ
いかがだったでしょうか?
毛沢東が生きている頃、中国国内だけではなく国外においても沢東は「中国の導きの星」として世界においても輝かしい人物でした。
しかし彼の死後、政策の大失敗や個人的な情報が行き渡るようになると、その評価も徐々に変わっていったのです。
輝かしい革命家でありながらも、その人間性はあまり見習いたくないところが目立ちますよね。
しかし、人とはどこか違った突き抜けたところがあるからこそ、歴史に名を残せるほどの業績を成せたのかもしれません。
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【参考文献】
『毛沢東の私生活』 (文藝春秋) 著:李志綏 訳:新庄哲夫
『そうだったのか!中国』 (集英社) 著:池上彰
『毛沢東 日本軍と共謀した男』 (新潮社) 著:遠藤誉

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