アジア歴史

ホーチミンってどんな人?ホーチミンの生涯をわかりやすく解説!ベトナム独立のために一生をささげる!

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ホーチミンって、人名と、都市名とが同じで、まぎらわしいと思いませんか?えっ、そうでもない。。。。気にしたことないし。。。。そ、そうすね。。。

今日の話題は、人の方の、ホーチミンさん。ベトナムの大ヒーローです。英語では、Ho Chi Minh。漢字で「胡志明」

ホーチミンは、ながく続いた、悲惨な植民地支配から、ベトナムを独立させた大英雄です。

東南アジアの偉人ランキングでは、トップ10に入ることは間違いなし!

では、ホーチミンの波乱万丈の人生をいっしょに楽しみましょう!

実はベトナムを「作った」超ヒーロー・ホーチミン

 

「国家主席、労働党主席」これはホーチミンの肩書です。

日本で言えば、天皇陛下兼総理大臣!?だけど、あだ名は。。。 

「ほーおじさん」

いやし系っぽいニックネームです。この、ホーチミンが、フランス、アメリカを打ち負かして、ベトナムを独立させた立役者なんです!

ホーチミンの写真は、色々と残っていますが、イメージとしてはヤギみたいな、あごひげを伸ばし、やさしげな瞳をした、ほっそりしたおじさん。服は、よれよれのシャツかランニングシャツに半ズボン。

こんな感じでしょうか?

この親しみやすい見かけと、ゼッタイに負けないリーダーのギャップが、たまりません!さて、まずは、ホーチミンの生い立ちから、青年時代までをふり返ってみましょう。

ホーチミンの生まれはフランス植民地・ベトナムはなかった?

ホーチミンは、1890年5月19日、「グエン・シン・クン」として生まれました。

そうそう、「ホーチミン」という名前は、本名じゃありません。。変名というか、偽名なんですね。ポルポトもそうだったように東南アジアでは本名とは違うあだ名をつけることが多いようですね。

グエン・シン・クンは、いくつかのあだ名を使いましたが、「ホーチミン」が最後で、しかも、一番有名な名前です。

教科書とか、書類でも、彼は、「ホーチミン」と記録されています。ホーチミンが生まれたのは、フランス植民地。その時はまだベトナムという国は存在しませんでした。

近くの国(今のベトナム、カンボジア、ラオス)が、まとめて、仏領インドシナと呼ばれていたんです!

つまり、ホーチミンは、生まれつき、植民地の現地民で、独立した自分の国は無かったんです。

フランス人はやりたい放題にホーチミンの怒り

植民地って。。どういうこと? はい、説明します。例えば、あなたが、フランスの植民地で生まれたとしたら。。。

あなたは、大人になったら、ものすごく危険な山で穴をほらされたり、メッチャ高い酒を無理やり買わされたりしながら、重~い税金を払うために、死ぬまで、家畜みたいに働かされたってことです。

もちろん、あなたには、人権とか、言論の自由とかも、一切ナシ!だから、もし、フランスの命令に逆らったり、文句を言ったりしたら。はい、すぐに逮捕、拷問、そして。。。。。処刑されることもしばしば。

とはいっても、強力な軍隊を持つフランスに抵抗しても、刑務所に入れられるか、殺されるだけ。そこで、ホーチミンは、考えます。

「よし、僕らを支配しているフランスや、強い国々に乗り込んでやろう!

そして、敵のようすを見て、勉強して、自分が、かしこく、強くなって、ベトナムを独立させよう!!」

ホーチミンは、だいたい、次のような戦略で、人生とベトナム独立を成功させます。。。。

・大きな目標は持つけど、あせって、ムチャしない。

・じっくり勉強して知識を広め、仲間を作って、力をつける。

・敵の様子をじっくり見て、チャンスが来たら、一気に攻める。

ホーチミン青年、いざ、フランスへ! 

フランスに行くことは決めたけど。。カネのないホーチミン青年は、どうすれば、行けるかを必死に考えました。

そこで、考えついたアイデアが、働きながらのフランス行き!

ホーチミン青年は、コックのアシスタントとして貨物船に乗り込んで、フランスへ渡ったんです。

結局、ホーチミン青年は3年間を船上で過ごし、1914年、フランスに着きましたが、すぐにイギリスに向かいます。

憎いフランスには、やっぱり住みたくなかったのか、イギリスで英語を勉強したかったのかは定かではありませんがその行動両力は並大抵じゃないですよね。

世界を旅して独立活動!行動力、語学力、そして人間力がスゴすぎ!

イギリスの首都、ロンドンへ向かう、ホーチミン青年。

その前に、初めてフランスに上陸したときに、フランス人から、「ムッシュー」と呼びかけられホーチミン青年はビックリ仰天!だって、ベトナムでは、フランス人がベトナム人を、人間扱いしなかった時代ですから。。。

ホーチミン青年は、フランスで、尊敬語で話しかけられとても驚いたのでした。

こんな感じで、ベトナムにいたら経験出来ない出来事や、すれちがうこともない人たちと出会い、ホーチミン青年は、視野を広げ、知識を深め、リーダーとしての器を大きくしていきました。

まずは基本。。3か国語をマスター!

そして、ロンドンに着いたホーチミン青年は、雪かき、皿洗い、そして、カールトンホテルの調理師助手などで生計を立てました。たくましい!

その一方で、ホーチミン青年は、海外植民地協会に参加したり、アイルランド独立運動に興味を持ったりして、ベトナム独立への思いを忘れることはなかったようです。

英語も上達したでしょう。ホーチミン青年は、もともと、中国語とフランス語は使えたので、これで三か国語!

この三か国語がペラペラなら、だいたい世界のどこでも、コミュニケーション出来ちゃいますよね。。

ベトナムを代表して、世界へデビュー!

さて、ロンドンで3年を過ごした、ホーチミン青年は、1917年、パリに舞い戻ります。そこで、すごいニュースに出逢います。ロシア革命! 世界初の共産主義革命でした。

ホーチミン青年は、大興奮!

なぜって、ホーチミン青年にとって、ロシア革命は、貧しいベトナム人が、強くて欲張りなフランスを倒して、ベトナムを独立させる、お手本に見えたんだと思います。

実際には、革命後には、悲惨なことばっかりが起こるんですけどね。

それは別として、ホーチミン青年は、フランスで、いよいよ、活躍を加速!

まずは、1919年、ホーチミン青年は、フランス社会党に入党。

フランスで、ベトナム独立に味方してくれそうな社会党に入ります!しかも、ホーチミン青年は、ベトナム人として党員第一号!

続いて、ホーチミン青年は、トンデモなく大胆な行動に出ます。彼は、ベルサイユ講和会議に参加しようとしたんです!!

この会議は、第一次世界大戦の処理を相談する会議。つまり、大国が、世界をどうやって分け合うかを話す集まりです!当然、ホーチミン青年みたいな、植民地の現地人は、全くおよびじゃありません。下手したら逮捕されるかも。。

さすがに、参加は無理でした。

しかし、ホーチミン青年は、あきらめず、「祖国解放のための八項目」を会議の事務局に提出!

そのときに、使った変名が、「グエン・アイ・クオック」(阮愛国)。つまり、ベトナムの愛国者ってこと。

そして、この「八項目」では、ムチャな独立は主張せず、ベトナム人の自由、人権と、政治犯釈放等を、要求しました。現実的で、ソフトな要求だったので、多くの人から共感を得たようです。

残念ですが、要求は、何一つ実現せず。

しかし、グエン・アイ・クオックの名前は、まっとうな民族主義者として、世界の人びとに記憶されたのです!!

大国相手に堂々と「八項目」を突き付けた度胸、内容のまともさ、そして、愛国者を示す変名。ホーチミン青年の、完璧な演出と行動力ですよね!

熱い心だけでなく。。。敵も魅了する人間力と現実を見るチカラ。。 

ところで、ホーチミン青年は敵にも好かれたみたいですよ。たとえば、ルイ・アルノーというフランス人警官。彼は、ベトナム人を監視する役人で、何度も、ホーチミン青年と面談したそうです。

面談で、ホーチミン青年は、フランス植民地政策の悪を、ビシビシ語りました。

ところが、アルノーは、ホーチミン青年がフランスにとってヤバい存在と知りつつ燃えるようなまなざしで語る姿に、好意を抱いたと記録されています。

ホーチミン青年は、敵にも好意を抱かせる人間的魅力を持っていたのでしょう。

一方、ホーチミン青年は、ベトナムにいるフランス人と、本国フランスにいるフランス人がずいぶん違うことに気づき驚きます。

ベトナムのフランス人は、乱暴で偉そうで、メッチャ豪華な生活を楽しんでいるのに、フランスでは多くの人々が貧しい中で生きるのに必死!

本で読んだ知識だけを信じると視野がせまくなりますが、ホーチミン青年は、自分の目で、フランスの社会や人々を見て、現実を理解したんです。

だからこそ、ホーチミン青年は、現実的なリーダーになれたのでしょう。まさに、百聞は一見にしかず!

フランスを去り、ソ連へ、そして、さらなる活躍!

ホーチミン青年は、1923年に、憧れのソ連に移動し翌年コミンテルン(共産主義者の世界組織)大会でアジア担当の常任委員に就任。

とうとう、世界の共産主義運動の中で、リーダーの一人に、のし上がっちゃいました!!

その頃に、モスクワで、ホーチミン青年と知り合ったドイツ女性、ルース・フィッシャーが、彼の感想を書いています。

ホーチミンは、「ひ弱い感じ。。。。しかし、全員の尊敬を集め、愛された。。善意と純朴さを失わず。。その勇敢さ、博識などの点でも。。。高く評価され。。。実際活動の面を通じて学ぶ。。。彼ほど重要な。。アジア人革命家は。。いなかった」

世界のどこでも、愛され、信頼されるホーチミン青年って、やっぱり、人間力がハンパなかったんでしょうね。。

さて、ホーチミン青年は、一か所にとどまりません。1925年、ソ連を去り、中国南部の広東へ向かいます。

いよいよ、故郷、仏領インドシナのすぐ近くで活動開始です! 張り切るホーチミン青年ですが。。。

ピンチ到来!

1927年に、中国の軍事リーダー、蒋介石が反共クーデターを起こし、多くの共産主義者を殺し始めたんです!ターゲットの1人だったホーチミン青年は、なんとか逃げ出し、タイに身を隠します。

状況が落ち着いた後、1930年に、ホーチミン青年は、香港で、ベトナム共産党(のちに、インドシナ共産党)を結党し、ベトナムでの活動の基礎を作ります。

すると次なるピンチが襲ってきます。1931年、ホーチミン青年に死刑が宣告されたのです。

何で??

少し前に、仏領インドシナで反乱が起こり、ホーチミン青年が、関係を疑われ、判決が下されとか。。。

そして、6月、ホーチミン青年は、香港(イギリス植民地)で、イギリスに逮捕されます。

フランスは、ホーチミン青年の引き渡しを強く要求!

もし、フランス当局に引き渡されたら間違いなくホーチミン青年は処刑です!しかし、ホーチミン青年はツイてました。フランスへ渡されず、香港の刑務所病院へ入院。

彼はこのタイミングで結核を患っていたのです。なんとも強運というかなんというか・・・

ホーチミン死亡説

1933年にホーチミンが、刑務所病院で死亡と、世界で報道されました。

モスクワでは、彼を悼んで(いたんで)、葬儀も行われます。えっ、話は終わり?。。。

いえいえ、安心してください!

ホーチミン青年は死んでません!実は、1932年に、イギリス人弁護士夫妻が、ホーチミン青年を刑務所病院から逃し彼は上海にたどり着きます。

そして死刑宣告からも逃れることができたのです。

その後、ホーチミン青年は、1934年から、ソ連に滞在し、結核の治療も受け回復。そして、1938年、ホーチミン(もう50才近く。。)は、中国へ戻り、活動再開!

翌年、いよいよ、第二次世界大戦勃発。世界が大混乱に。

本腰をいれ戦いに挑むホーチミン・無敵の北ベトナム!

いよいよ、世界は乱れ、植民地を支配してきた大国もボロボロに。。。

ベトナムの独立も現実味を帯びてきます。

そして、ついに、ホーチミンが故郷、仏領インドシナに戻る日が近づいて来ました。

ホーチミンのさらなる波乱万丈と、大活躍のファイナル・シーズンか?!

三十年ぶりの帰郷、そして独立運動にまい進。。。しかし、更なるピンチが!!

日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった1941年、ホーチミンは、中国から故郷の仏領インドシナへの侵入に成功。

1910年に旅立ってから30年ぶりの故郷。さぞや、感慨深かったでしょう。しかし、思い出に浸るヒマは無いホーチミンです!

まず手始めに、ホーチミンは、「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任。このベトミンが、その後ベトナム独立・統一の中心組織となりました。

とはいえ、戦いは楽じゃありません。日本軍が、仏領インドシナに進駐してきてフランス軍と一緒に支配し始めましたから。

そこで、ホーチミンは1942年、かつて自分たちを殺そうとした、蔣介石に助けを求め、中国へ行きました。その時に初めて使った名前が、「ホーチミン」

ついに、ホーチミン時代到来!

ところがどっこい、ホーチミンは、蒋介石の中国国民党に逮捕されちゃいます。もともと、蒋介石は、共産党が大嫌いですから。。。

でも、ホーチミンは焦りません。いや焦ったかもしれませんが、ムチャはしませんでした。

せっせと、ポエム(漢詩)を作り続けました。。。たとえば、こんな詩です。。。

「バラの花が咲くが、バラは何をしたのかも知らずに枯れてゆく、しかし、バラの香りは牢獄にただよい、囚人の心では、世界の全ての不正が叫び出す」

うーん、牢獄で虐待されながらも、ロマンティックで、図太くて。。。この生命力、折れない心の強さ。。勉強になりますね。

そして、ホーチミンは、何とか生き残り、蒋介石軍と交渉し、釈放され、1944年、仏領インドシナに戻ります。

さすがの生命力と交渉力。タダモノじゃない!

そうこうするうちに、1945年8月、日本は連合国に降伏。9月にはポツダム宣言に調印して、

日本の敗戦確定。日本軍は仏領インドシナでも、活動を禁止されます。

チャンス到来!何度もチャンスが訪れているホーチミンですがなかなか思うように進みませんね・・。。

ホーチミンは、ポツダム宣言調印の当日に、ベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)樹立を宣言。ホーチミンは、国家主席兼首相に就任します。

いやー、ついに、やりましたね!

今後も色々と困難はあるだろうけど(実際には苦労ばっか)、とうとう、ベトナムに独立国を作りました!

この一連の動きでの、ホーチミンのスゴミは、キレッキレの判断力と行動力。

・機が熟すまでは、焦らず、待つ。

・チャンスが来たと判断したら、つべこべ言わず、ガムシャラに実行!

これは、もう、さすが、としか言えません!

独立万歳!と思ったら。。。ベトナム南北分断。。そして、アメリカが。。。

北ベトナムの人たちは、よっしゃ!と思いますよね。だって、支配者がいなくなって、独立国家樹立ですから。。。アゲアゲでしょ。ところが、喜びも、つかのま。。またもや、試練。。

なんと、フランス軍が仏領インドシナ南部へ復帰し始めました。。

しかも、北ベトナムには、中国国民党軍が侵入。この国民党が、盗賊よりもタチの悪いアクドイ集団だったようです。

中国国民党を激しく嫌悪していたホーチミンの言葉が残っています。

「中国人のクソを一生喰らうよりは、フランス人のクソをしばらく嗅ぐ方がまし」

驚くほど下品ですが、本音みたいです。

ホーチミンはまず、盗賊みたいな国民党を追い出しその後フランスと独立の交渉をして、中国を追い出しそうと考えます。

ホーチミンらしい! 何事もあきらめずに、現実的な解決策を考えて、実行!

結果、1946年3月、国民党が北ベトナムから、やっと帰ってくれました。

と、ところが、次のステップで。。。

フランスとの交渉が決裂しちゃいます!

ついに、12月、フランス軍は北ベトナムへの攻撃を開始! ホンモノの独立戦争勃発。歴史上は、第一次インドシナ戦争と呼ばれます。

ホーチミンの指導の下、乏しい武器で、命がけで戦う北ベトナム軍。そして、8年も続いた戦争の末、1954年5月、ついに、フランス軍が降伏。

植民地ベトナムが、支配者フランスを打ち破った瞬間です!

そして、7月、ジュネーヴ協定締結。北ベトナムとフランスは正式に休戦します。

やれやれ。。。やっと勝ったぜ。。と一休みしたところですが。。。。

ここで、またもや、大問題!この協定で、ベトナムは、北緯17度線で南北に分けられてしまいます。

つまり、北がホーチミンの、ベトナム民主共和国(北ベトナム)、南がベトナム国(南ベトナム)。そして、この分断が、とんでもない大バトルへ発展していくのです。

ホーチミンの地位に異変?! アメリカとガチンコの末に。。。。

ホーチミンも、北ベトナムも、ぜんぜん休むヒマがありません!!だって、南北分断後のベトナムでは、アメリカが南ベトナムを後押しし始めたのです。

対抗して北ベトナムは南に浸透しベトナム内戦が激化。そして、ホーチミンの立場にも、異変がでてきます。

北ベトナム内で、統一方法を巡り、激しく意見が対立します。トップのホーチミンは、ジュネーヴ協定実施を通じた平和的方法を支持。

一方、ナンバー2のズアンさんという人は、武力で統一を強力に主張しました。議論の結果、ズアンが勝ち、リーダーの地位をゲット!

ホーチミンは、トップの座を奪われてしまいます。

引き続き、ホーチミンは、北ベトナムの国家主席(実際の権力者はズアンですけど。。)として、外交を担当して、世界を味方につけたり北ベトナム国民を励ましたりして、大活躍します。

要は、ホーチミンにとっては、ベトナム独立が人生の目標なので、自分の権力が弱くなっても、気にしないんです。みんなで決めた方針(武力で統一)に従って、引き続き、努力を継続!

ここがスゴイですよね! 

自分の立場じゃなくて、目標の為に、戦い続ける。言うのは簡単ですけど、なかなか出来ませんよね。

さて、その後の展開は、こんな感じです。

1960年12月 南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)結成。これメッチャ重要!ベトコンが、北ベトナム軍と連携して、南の内部で攻撃の中心になります。。

1965年3月 米軍の南ベトナム派兵開始(最大50万人超!)。とうとう世界最強の米軍が。。

1966年7月 ホーチミンがラジオ演説。「独立と自由ほど尊いものはない」

世界がベトナムに注目し始め、ホーチミンは、ベトナム独立のシンボルとして、さらに有名になります。

1968年1月 テト攻勢。これが、アメリカを追い出す大きなキッカケになります。

テトはベトナムの旧正月で、みんなが、お休み気分でした。

その油断をつき、ベトコンと北ベトナムが攻撃しアメリカ大使館を一時占拠!最後は、米軍がはね返し、ベトコンと北ベトナムは約6万人の犠牲者を出し敗退。

しかし、事件はテレビで世界に中継され、アメリカ人は大ショックを受け、ベトナムってヤバえよと考えはじめ、ベトナム撤退論が広まります。

そして、1969年6月、ついに、アメリカのニクソン大統領がベトナム撤退計画を発表!

ホーチミン、そして北ベトナムとしては、よっしゃ、いよいよ、ベトナム統一だー!って感じですね。

ついに、我らのホーチミンも。。そして、ベトナム統一の行方は?!

1969年といえば、ホーチミンが、ベトナムを旅立ってから約60年。戦い続けた末、いよいよ、悲願の南北ベトナム統一が目前か!。。。。と思った矢先のできごとでした。。

1969年9月2、ホーチミン死去79歳。

今回は本当に亡くなりました。心臓発作だったようです。ベトナムの独立・統一のために、最後まで頑張って人々を勇気づけた人生でした。

ホーチミン死去に悲しみつつも、北ベトナム軍は、その後4年近く、アメリカと南ベトナムを相手に、苛酷な戦いを続けます。

そして、1973年3月、米軍撤退。

2年後の1975年4月30日に、南ベトナム首都サイゴンが陥落しベトナム戦争終結。

北ベトナム勝利。

これは、アメリカが勝てなかった、唯一の戦争として記録されます。翌年1976年には、選挙を経て南北ベトナムが統一されベトナム社会主義共和国誕生。

ホーチミンが亡くなって7年後、ついに、ベトナム統一、独立が実現! 

ホーチミンの生涯の夢が、やっと、叶ったのです!!

因みに、南ベトナムの首都、サイゴン市は、ホーチミンにちなみ、ホーチミン市に改称されました。ホーチミン市は、ベトナム最大都市で、ベトナムGDPの半分を占める一大商業センターです。

 ホーチミンの遺産。。 手段と目的を間違わない

いやーすごい人生ですね。30年間の世界放浪、革命運動、独立戦争、逮捕、投獄、死亡説。

普通の人の何倍、いや何十倍も濃い人生。しかも、見かけは、その辺の、オッちゃん。。。

ホーチミンの偉業と比べる為、同じ共産主義のカンボジア(お隣)との違いを見てみましょう。

カンボジアでは、国民の20-25%が政府に殺され、国はボッロボロ。ベトナムは、フランス、アメリカにボコボコにされながら、統一し、自力で独立。

何が違うのでしょうか?

ホーチミンの目的はベトナム独立と人々の幸せ。。

ベトナムとカンボジア。

隣国であり、同じ共産主義でありながら未来の形はだいぶ違っていました。それはなによりトップ人柄や目的の違いが大きいようです。

カンボジアの支配者はポルポトさんでしたが、彼は、共産主義自体が目的だったようです。

一方、ホーチミンの目的は、ベトナムの独立と人々の幸せ。共産主義は手段というか道具?

やっぱり、手段と目的を取り違えないことが大切なんでしょうか?

それと、ポルポトはコンプレックスが強く、独りよがりで、インテリや反対者を、どんどん殺しました。

対象的に、ホーチミンは語学が出来て、頭がよく、謙虚でユーモアもあったので、敵にも味方にも好かれる人物でした。コンプレックスとも無縁だったようです。

ホーチミンの人柄を示す、こんなエピソードがあります。

ホーチミンは、あるとき、町で一番貧しい家族を訪問して、様子をみました。ところが、その家族のあまりの貧しさに同情して、ホーチミンは、家族を抱きしめて泣いてしまいます。そして、その後、ホーチミンは、その家族の生活を助け続けた・・・

こんな人柄が、ホーチミンの、リーダーシップや政策にも、影響を与えたのかもしれませんね。

その差は明白! ホンモノの地獄カンボジアvs独立したベトナム

もちろん、共産主義政権なので、北ベトナムでも反対者への処刑、虐待は有りました。

しかし、ポルポトやその他の共産政権に比べれば圧倒的に少なかったようです。まあ、200万人を殺したポルポトと比べるのは、アレですけど。

つまり、カンボジア人はポルポトにより地獄に落とされましたが、ベトナム人は、ホーチミンのおかげで独立し初めて自分たちの国を持てたんですね。

結局、手段と目的を間違わないこととか、リーダーの人格、コンプレックス、才能が、民族の運命を左右するのかもしれませんね。。。

ホーチミンからベトナムの人たちへ伝えたかったこと。。。

ホーチミンが残したかったのは、民族の独立や自由の精神だといえます。

自分の神格化は、すごくいやだったようですね。

たとえば、ホーチミンは、死後、自分の遺体は火葬を希望し、おおげさな墓も拒否しました。

実際には、ベトナムの人びとは、ホーチミンの遺体を永久保存し、デカい廟堂(びょうどう)まで作りました。

本人は、天国で、ゼッタイ苦笑してますね。

ベトナムの人々が、廟堂や、ご遺体を見て、ホーチミンの、精神を思い出せれば、結果オーライでしょう。

ホーチミンってどんな人?ホーチミンの生涯をわかりやすく解説!まとめ

いやー、波乱万丈(はらんばんじょう)という言葉に、ピッタシですね、ホーチミンの人生。

ホーチミンは、リンカーンとか、ナポレオンとかに比べたら、有名じゃないけど、ぜんぜん負けないヒーローっぷりじゃないすか?!

なんたって、ホーチミンは、人生のほとんどを戦いに費やし、ベトナムを独立させちゃいましたからね。

ホーチミンの成功の秘訣は。。。 

・笑顔、謙虚、誠実、ユーモア、知性。。で、味方を増やし、敵を減らす人間力。

・目標(独立)を忘れず、戦いながら、じっくり待ち、チャンスが来たら、爆速で行動する決断、行動力。

しかも、ホーチミンは、生活が質素、おカネにもキレイだったから、むだな争いと無縁。

結果、独立戦争につきももの、虐殺、粛清は、比較的少なく、国もうまくまとまったのでしょう。

ホーチミンの人生をふり返ると、国の運命も意外と、リーダー個人の性格や力量に依存するのかもと思えてしまいます。

 

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[参考文献] ホー・チ・ミン伝(上下)チャールズ・フェン著  岩波新書 1974年
ホー・チ・ミン  古田元夫著  岩波書店  1995年
ベトナムの星  J.ラクチュール著 サイマル出版会 1968年

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