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ホーチミンってどんな人?ホーチミンの生涯をわかりやすく解説!ベトナム独立のために一生をささげる!

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ホーチミンって、人名と、都市名とが同じで、まぎらわしいと思いませんか?えっ、そうでもない?気にしたことないし・・そ、そうすねか・・

今日の話題は、人の方の、ホーチミンさん。ベトナムの大ヒーローです。英語では、Ho Chi Minh。漢字で「胡志明」。

ホーチミンは、ながく続いた、悲惨な植民地支配から、ベトナムを独立させた大英雄です。

東南アジアの偉人ランキングでは、トップ10に入ることは間違いなし!

では、ホーチミンの波乱万丈の人生をいっしょに楽しみましょう!

目次

実はベトナムを「作った」超ヒーロー・ホーチミン

「国家主席、労働党主席」これはホーチミンの肩書です。

日本で言えば、天皇陛下兼総理大臣!?だけど、あだ名は。。。 

「ほーおじさん」

いやし系っぽいニックネームです。この、ホーチミンが、フランス、アメリカを打ち負かして、ベトナムを独立させた立役者なんです!

ホーチミンの写真は、色々と残っていますが、イメージとしてはヤギみたいな、あごひげを伸ばし、やさしげな瞳をした、ほっそりしたおじさん。服は、よれよれのシャツかランニングシャツに半ズボン。

こんな感じでしょうか?

この親しみやすい見かけと、ゼッタイに負けないリーダーのギャップが、たまりません!さて、まずは、ホーチミンの生い立ちから、青年時代までをふり返ってみましょう。

ホーチミンの生まれはフランス植民地・ベトナムはなかった?

ホーチミンは、1890年5月19日、「グエン・シン・クン」として生まれました。

そうそう、「ホーチミン」という名前は、本名じゃありません。。変名というか、偽名なんですね。ポルポトもそうだったように東南アジアでは本名とは違うあだ名をつけることが多いようですね。

グエン・シン・クンは、いくつかのあだ名を使いましたが、「ホーチミン」が最後で、しかも、一番有名な名前です。

教科書とか、書類でも、彼は、「ホーチミン」と記録されています。ホーチミンが生まれたのは、フランス植民地。その時はまだベトナムという国は存在しませんでした。

近くの国(今のベトナム、カンボジア、ラオス)が、まとめて、仏領インドシナと呼ばれていたんです!

つまり、ホーチミンは、生まれつき、植民地の現地民で、独立した自分の国は無かったんです。

フランス人はやりたい放題にホーチミンの怒り

植民地って。。どういうこと? はい、説明します。例えば、あなたが、フランスの植民地で生まれたとしたら。。。

あなたは、大人になったら、ものすごく危険な山で穴をほらされたり、メッチャ高い酒を無理やり買わされたりしながら、重~い税金を払うために、死ぬまで、家畜みたいに働かされたってことです。

もちろん、あなたには、人権とか、言論の自由とかも、一切ナシ!だから、もし、フランスの命令に逆らったり、文句を言ったりしたら。はい、すぐに逮捕、拷問、そして。。。。。処刑されることもしばしば。

とはいっても、強力な軍隊を持つフランスに抵抗しても、刑務所に入れられるか、殺されるだけ。そこで、ホーチミンは、考えます。

「よし、僕らを支配しているフランスや、強い国々に乗り込んでやろう!

そして、敵のようすを見て、勉強して、自分が、かしこく、強くなって、ベトナムを独立させよう!!」

ホーチミンは、だいたい、次のような戦略で、人生とベトナム独立を成功させます。。。。

・大きな目標は持つけど、あせって、ムチャしない。

・じっくり勉強して知識を広め、仲間を作って、力をつける。

・敵の様子をじっくり見て、チャンスが来たら、一気に攻める。

ホーチミン青年、いざ、フランスへ! 

フランスに行くことは決めたけど。。カネのないホーチミン青年は、どうすれば、行けるかを必死に考えました。

そこで、考えついたアイデアが、働きながらのフランス行き!

ホーチミン青年は、コックのアシスタントとして貨物船に乗り込んで、フランスへ渡ったんです。

結局、ホーチミン青年は3年間を船上で過ごし、1914年、フランスに着きましたが、すぐにイギリスに向かいます。

憎いフランスには、やっぱり住みたくなかったのか、イギリスで英語を勉強したかったのかは定かではありませんがその行動両力は並大抵じゃないですよね。

世界を旅して独立活動!行動力、語学力、そして人間力がスゴすぎ!

イギリスの首都、ロンドンへ向かう、ホーチミン青年。

その前に、初めてフランスに上陸したときに、フランス人から「ムッシュー」と呼びかけられホーチミン青年はビックリ仰天!だって、ベトナムでは、フランス人がベトナム人を、人間扱いしなかった時代ですから。。。

ホーチミン青年は、フランスで、尊敬語で話しかけられとても驚いたのでした。

こんな感じで、ベトナムにいたら経験出来ない出来事や、すれちがうこともない人たちと出会い、ホーチミン青年は、視野を広げ、知識を深め、リーダーとしての器を大きくしていきました。

まずは基本。。3か国語をマスター!

そして、ロンドンに着いたホーチミン青年は、雪かき、皿洗い、そして、カールトンホテルの調理師助手などで生計を立てました。たくましい!

その一方で、ホーチミン青年は、海外植民地協会に参加したり、アイルランド独立運動に興味を持ったりして、ベトナム独立への思いを忘れることはなかったようです。

英語も上達したでしょう。ホーチミン青年は、もともと、中国語とフランス語は使えたので、これで三か国語!

この三か国語がペラペラなら、だいたい世界のどこでも、コミュニケーション出来ちゃいますよね。。

ベトナムを代表して、世界へデビュー!

さて、ロンドンで3年を過ごした、ホーチミン青年は、1917年、パリに舞い戻ります。そこで、すごいニュースに出逢います。ロシア革命! 世界初の共産主義革命でした。

ホーチミン青年は、大興奮!

なぜって、ホーチミン青年にとって、ロシア革命は、貧しいベトナム人が、強くて欲張りなフランスを倒して、ベトナムを独立させる、お手本に見えたんだと思います。

実際には、革命後には、悲惨なことばっかりが起こるんですけどね。

それは別として、ホーチミン青年は、フランスで、いよいよ、活躍を加速!

まずは、1919年、ホーチミン青年は、フランス社会党に入党。

フランスで、ベトナム独立に味方してくれそうな社会党に入ります!しかも、ホーチミン青年は、ベトナム人として党員第一号!

続いて、ホーチミン青年は、トンデモなく大胆な行動に出ます。彼は、ベルサイユ講和会議に参加しようとしたんです!!

この会議は、第一次世界大戦の処理を相談する会議。つまり、大国が、世界をどうやって分け合うかを話す集まりです!当然、ホーチミン青年みたいな、植民地の現地人は、全くおよびじゃありません。下手したら逮捕されるかも。。

さすがに、参加は無理でした。

しかし、ホーチミン青年は、あきらめず、「祖国解放のための八項目」を会議の事務局に提出!

そのときに、使った変名が、「グエン・アイ・クオック」(阮愛国)つまり、ベトナムの愛国者ってこと。

そして、この「八項目」では、ムチャな独立は主張せず、ベトナム人の自由、人権と、政治犯釈放等を、要求しました。現実的で、ソフトな要求だったので、多くの人から共感を得たようです。

残念ですが、要求は、何一つ実現せず。

しかし、グエン・アイ・クオックの名前は、まっとうな民族主義者として、世界の人びとに記憶されたのです!!

大国相手に堂々と「八項目」を突き付けた度胸、内容のまともさ、そして、愛国者を示す変名。ホーチミン青年の、完璧な演出と行動力ですよね!

熱い心だけでなく敵も魅了する人間力と現実を見るチカラ 

ところで、ホーチミン青年は敵にも好かれたみたいですよ。たとえば、ルイ・アルノーというフランス人警官。彼は、ベトナム人を監視する役人で、何度も、ホーチミン青年と面談したそうです。

面談で、ホーチミン青年は、フランス植民地政策の悪を、ビシビシ語りました。

ところが、アルノーは、ホーチミン青年がフランスにとってヤバい存在と知りつつ燃えるようなまなざしで語る姿に、好意を抱いたと記録されています。

ホーチミン青年は、敵にも好意を抱かせる人間的魅力を持っていたのでしょう。

一方、ホーチミン青年は、ベトナムにいるフランス人と、本国フランスにいるフランス人がずいぶん違うことに気づき驚きます。

ベトナムのフランス人は、乱暴で偉そうで、メッチャ豪華な生活を楽しんでいるのに、フランスでは多くの人々が貧しい中で生きるのに必死!

本で読んだ知識だけを信じると視野がせまくなりますが、ホーチミン青年は、自分の目で、フランスの社会や人々を見て、現実を理解したんです。

だからこそ、ホーチミン青年は、現実的なリーダーになれたのでしょう。まさに、百聞は一見にしかず!

フランスを去り、ソ連へ、そして、さらなる活躍!

ホーチミン青年は、1923年に、憧れのソ連に移動し翌年コミンテルン(共産主義者の世界組織)大会でアジア担当の常任委員に就任。

とうとう、世界の共産主義運動の中で、リーダーの一人に、のし上がっちゃいました!!

その頃に、モスクワで、ホーチミン青年と知り合ったドイツ女性、ルース・フィッシャーが、彼の感想を書いています。

「ひ弱い感じ。しかし、全員の尊敬を集め、愛された。善意と純朴さを失わず。その勇敢さ、博識などの点でも高く評価され実際活動の面を通じて学ぶ彼ほど重要なアジア人革命家はいなかった」

世界のどこでも、愛され、信頼されるホーチミン青年って、やっぱり、人間力がハンパなかったんでしょうね。。

さて、ホーチミン青年は、一か所にとどまりません。1925年、ソ連を去り、中国南部の広東へ向かいます。

いよいよ、故郷、仏領インドシナのすぐ近くで活動開始です! 張り切るホーチミン青年ですが。。。

ピンチ到来!

1927年に、中国の軍事リーダー、蒋介石が反共クーデターを起こし、多くの共産主義者を殺し始めたんです!ターゲットの1人だったホーチミン青年は、なんとか逃げ出し、タイに身を隠します。

状況が落ち着いた後、1930年に、ホーチミン青年は、香港で、ベトナム共産党(のちに、インドシナ共産党)を結党し、ベトナムでの活動の基礎を作ります。

すると次なるピンチが襲ってきます。1931年、ホーチミン青年に死刑が宣告されたのです。

何で??

少し前に、仏領インドシナで反乱が起こり、ホーチミン青年が、関係を疑われ、判決が下されとか。。。

そして、6月、ホーチミン青年は、香港(イギリス植民地)で、イギリスに逮捕されます。

フランスは、ホーチミン青年の引き渡しを強く要求!

もし、フランス当局に引き渡されたら間違いなくホーチミン青年は処刑です!しかし、ホーチミン青年はツイてました。フランスへ渡されず、香港の刑務所病院へ入院。

彼はこのタイミングで結核を患っていたのです。なんとも強運というかなんというか・・・

ホーチミン死亡説

1933年にホーチミンが、刑務所病院で死亡と、世界で報道されました。

モスクワでは、彼を悼んで(いたんで)、葬儀も行われます。えっ、話は終わり?。。。

いえいえ、安心してください!

ホーチミン青年は死んでません!実は、1932年に、イギリス人弁護士夫妻が、ホーチミン青年を刑務所病院から逃し彼は上海にたどり着きます。

そして死刑宣告からも逃れることができたのです。

その後、ホーチミン青年は、1934年から、ソ連に滞在し、結核の治療も受け回復。そして、1938年、ホーチミン(もう50才近く。。)は、中国へ戻り、活動再開!

翌年、いよいよ、第二次世界大戦勃発、世界が大混乱に。

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