ヒトラーは知ってるけど意外に知られていないハインリッヒ・ヒムラー。
彼もナチスドイツ時代にユダヤ人迫害に加担していた中心人物の1人であり第二次世界大戦で活躍したドイツの政治家です。
独裁者として有名なヒトラーの右腕ともいわれた人で、全ドイツ警察長官というドイツの警察のトップを務めていた人です。
今日はヒムラーがどんな人だったのか紹介していきたいと思います!
ヒムラーの生い立ち
ヒムラーの正式な名前は、ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー。1900年10月7日、次男として生まれました。
ヒムラーの父は、教師として有名なヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラーという人で、ハインリヒ王子の家庭教師をしている方でした。
家庭教師をしている関係で、ハインリヒ王子から名前をもらって、ハインリヒという名前になりました。
王子から名前をもらえるなんてすごいことですよね!将来偉い人になるということがこの頃から決まってたのかもしれませんね!
ヒムラーの家庭は中産階級といって、お金持ちでもなく貧しかったわけでもありませんでした。
ヒムラーの小学校時代は、病弱で、学校を160回も休んでいました。
成績優秀だったヒムラー
しかし、家庭教師のおかげで勉強は遅れずついていけて、卒業することができました。
その後、1910年9月に名門校であるヴィルヘイム・ギナジウムに入学しました。
担任からは「才能に恵まれた生徒で、熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と褒められていました。
同級生は、ヒムラーのことを「虫一匹殺せないような少年だった」と証言しました。子どもの頃のヒムラーは真面目で、優しい子だったのでしょうね。
1913年、父の転勤により、ヒムラーは引越して、学校もハンス・カロッサ・ギナジウムへ転校しました。
彼はここでも歴史学、古典学、宗教学において優秀な成績を収めました。
ただ、体育だけは苦手でした。
やっぱり誰でも苦手なものはあるものですね~!
そして、第1次世界大戦をはさんで、1919年7月にハンス・カロッサ・ギナジウムを卒業しました。
第1次世界大戦後から全ドイツ警察長官になるまでの道のり
ドイツが第1次世界大戦で敗戦したため、経済的に貧しくなると予想した父に農場で働くことを求められます。
しかし、農業をしているヒムラーはチフスという感染症にかかってしまい、医師に1年間療養して、大学で農学を勉強するように説得させられたのでした。
1919年10月18日、ヒムラーはミュンヘン工科大学に入学することになります。
大学時代は、弱々しい性格だったヒムラー。しかし彼が心優しい人物であったことはヒムラーの日記からよくわかります。
性格は心優しく世話好きだったヒムラー
彼の日記は戦後ヒムラーの別荘から見つけられました。
日記には、1919年に盲目の人の家に行って何度も本を読み聞かせたことや、1921年に貧しい年配の女性の所に通って食べ物などをそっと置いていったこと、友人が病気になると、お見舞いに行って、おつかいに行ってあげたりしていたことが書いてありました。
そして、1922年8月1日に、大学を卒業しました。
成績はかなり優秀で、卒業後は、農薬や肥料を扱う会社の研究員になりました。
しかし、1923年8月末に仕事をやめ、政治活動に専念するようになりました。
せっかく大学で勉強していた農学が活かせるところで働いていたのに辞めちゃうなんて少しもったいない気がしちゃいますね。
ヒムラーは政治活動や軍事活動に大学時代から熱心に取り組んでいました。
1919年12月にバイエルン人民党に入党、1923年に離党しています。
1920年5月、ミュンヘン市民自衛隊に入隊し、大学卒業の時に、準軍事組織である「帝国戦闘旗団」に入団しました。
そして1923年には反スラヴ主義・農本主義的な民主主義団体「アルタマーネン」に入団。
ここで、リヒャルト・ヴァルター・ダレの人種論と農業論を合わせた独特な「血と大地」思想に影響されることになります。
「血と大地」思想とは、土地と良い関係を築いている地方の人の生活を美徳とする思想です。
つまり、農業を国の基礎とする産業にしようという考え方です。
ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていて、ドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると信じていました。
1924年のヒムラーのメモには、「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は農民の敵」とあり、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラヴ劣等民族と戦うよう運命づけられてきた」とあります。
これらから、ヒムラーが国際ユダヤ民族とスラヴ劣等民族を憎んでいたことがわかります。
ヒムラーは1923年8月国家社会主義ドイツ労働者党(通称:ナチ党)に入党しました。
そしてミュンヘン一揆というクーデター未遂事件に参加していました。
ヒトラーとヒムラーの出会い
このミュンヘン一揆の時にヒトラーと初対面をしていたと考えられています。
ミュンヘン一揆にてヒトラーは捕らえられ、国家社会主義ドイツ労働者党の活動も禁止されることになりました。
その間に、ヒムラーはナチ党偽装政党である国家社会主義自由運動に入党しました。
1924年末ヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されましたため、ヒムラーはナチ党に戻りました。
このころからヒムラーはヒトラーに従うようになったそうです。ヒムラーは1925年8月8日に親衛隊に入隊しました。
1927年に第2代親衛隊全国指導者の代理になります。
ヒムラー・とんとん拍子の出世劇
しかしその指導者は突撃隊最高指導者と対立し、1929年1月6日に辞任することになりヒムラーはチャンスを得ることになります!
ヒムラーはその後任に選ばれ、第3代親衛隊全国指導者になったのでした。
ハイドリヒと同じようにとんとん拍子で昇進していったようですね!
ヒムラーは、親衛隊を党内警察組織としその規模を大きくしていきます。
親衛隊全国指導者になった1929年1月6日には280名ほどしかいなかった隊員を、1929年12月には1000人、1930年12月には2700人、1931年12月には5万2000人に隊員数を増やすことに成功。
この急激な増加には1929年10月24日にニューヨークで発生した世界恐慌が関係しています。
失業者が増え、ナチ党やナチ党の組織への参加を希望する人が増え、親衛隊に入隊を希望する人も増えました。
親衛隊以上に人員を増やした突撃隊に、ドイツ各地で徒党を組み無法行為を行う者が増えました。
それは党首であるヒトラーの統率が取れなくなるほどでした。
これに頭を悩ませたヒトラーは、この無法行為を行う者たちを取り締まる警察組織が必要だと考え、その役割をヒムラー率いる親衛隊に任せることを思いつきました。
1930年11月7日、ヒトラーが正式に親衛隊を党内の警察組織にすると命令し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないときめ、ここに亀裂が生まれます。
しかし、元々、親衛隊は突撃隊の下の組織した。しかし突然突撃隊の指揮に従うなという命令があり関係が悪化します。1934年に起こった長いナイフの夜という事件も親衛隊と突撃隊の亀裂から発生した大きな粛清事件です。
ヒムラーは党内警察として情報部の創設を考えており、その運用を任せられる人材をさがしていました。
1931年6月、親衛隊上級大佐の推薦で親衛隊の面接に来た元海軍将校であるラインハルト・ハイドリヒに目をつけ、親衛隊に採用しました。
そして、情報課であるIC課を創設、1932年に名前をSDに変え、そこの長官にハイドリヒを任命しました。
ヒトラーが政権を掌握してもヒムラーに恩恵なし?
1933年1月30日、ヒトラーが首相になり、政権を掌握することになります!大事な役職が与えられるとおもいきやヒムラーは当初なんのポストもあたえられませんでした。
仕方なくヒムラーはバイエルン州政治政府の解体に参加しましたが、副官的な立ち位置でした。すごく微妙ですよね。
その後、バイエルン州の都市であるミュンヘンの警察長官に任命。そして、党の政治的敵対者を次々と保護拘禁しました。このあたり、なんだかハイドリヒと似ていますよね!
その保護拘禁した者を収容する施設を親衛隊で運営していました。1933年4月1日、バイエルン州政治警察司令官になりました。
ヒトラー内閣によって各州の自治権を取り上げる政策が進み、1934年1月までに、1部の州を除く各州の政治警察はヒムラーに任されることに。
ヒムラーは当初あまり大事な役職はもらえなかったものの順調に出世していったのです。
1934年6月30日に突撃隊を粛清する事件「長いナイフの夜」が起こりました。
あまり気の進まないヒトラーにこの粛清を行わせたのはヒムラーとハイドリヒでした。
そして、1934年7月20日に親衛隊は突撃隊から独立した組織として認められることになりました。
1936年6月9日にヒトラーがヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案と認めました。大出世ですよね!そして、1936年6月19日、ヒムラーは全ドイツ警察長官になりました。
ヒムラーは警察組織を再編成し、一般の警察業務を行う部署として秩序警察を作りました。
さらには秘密警察部隊であるゲシュタポと刑事警察を合わせて保安警察としました。
そして、その長官を当時バリバリと出世街道まっしぐらだったハイドリヒに任せました。
ヒムラーが逃亡して自殺したって本当?
ヒムラーは第2次世界大戦末期、ドイツの勝利の確信を失っていました。ヒトラー政権のためには他国との講和が必要だと考えていました。
そして、講和のための交渉や調整を続けていましたが、それを行っていたことがヒトラーにばれ、ヒトラーの怒りをかうことに・・・。
ヒトラーによってヒムラーの役職はすべて取り上げられ、逮捕命令が出されました。
事態をしったヒムラーはなんと髭をそり眼帯をして側近を連れて逃亡しましたのです。真面目そうなヒムラーだけにこれは意外ですよね。
!!しかし、難なく1945年5月22日にイギリス軍に拘束され捕虜となってしまうのでした。
次の日、ヒムラーの身体検査が行われ、その際に奥歯に仕込んでいた青酸カリを服毒して自殺をしてしまいます。
また皮肉なことにイギリス軍により作成されたヒムラーのデスマスクはロンドンの帝国戦争博物館に展示されているそうですよ。
ナチス党員には珍しい?ヒムラーがやさしすぎ!
ヒムラーはヒトラーと国から与えられた仕事において忠実でした。ヒトラーからは「忠臣ハインていたほどですていたほどです。(ヒムラーの名前はハインリヒ・ヒムラー)
そんなヒムラーの性格はとても心優しく思いやりのある人物だったと言われています。成績も優秀でした。しかし運動神経だけは鈍かったようですね・・・
列車を降りる際に階段を踏み外して転んでしまうというドジなところもあったそうでかなりの運動音痴と思われます。
優しくて倹約家だった?
ヒムラーは華美な生活を嫌っていました。権力はあっても私生活は質素でした。
「親衛隊全国指導者友の会」に大量の献金があったにもかかわらず、それで私腹を肥やすことなく、すべて親衛隊の経費にあてていました。貧しく死ぬことが理想だと語っていたそうです。
あんなに権力があってお金もいっぱいもらえるはずなのに、わざわざ質素な貧しい生活をするなんて変わり者だったのでしょうかね。
また、ヒムラーは動物にも優しく、動物愛護教育に力を入れていました。殺生を嫌ったため、動物の肉は食べず、菜食主義でありました。
発言からわかるヒトラーとの関係やヒムラーの思想とは?
ヒトラーに対する思いについてヒムラーはこのように発言していました。
「ヒトラーが命じれば、私は実の母親でも打ち殺すだろう。そしてそんな命令を下すほど信頼してくれたことを誇らしく思うだろう。」
なんという忠誠心でしょうか。
この時代の方の考え方はとても過激に思ってしまいますね。
ヒムラーの考える思想に関してこのように言っていました。
「我々は同じ血の流れる民族同胞に対してのみ愛を持つ。ロシア人やチェコ人がどうなろうと、私はいささかの関心も持たない。
他国に我らと同じ純血が残されているのであれば、連れ戻そう。
必要とあれば子供を誘拐して我々の下で育てよう。
他国民の繁栄もしくは餓死は、彼らが我々の奴隷として必要になる限りにおいて、私の関心事となる。
1万人のロシア人女性がドイツ軍の対戦車壕を掘るために倒れたとしても、私が関心を持つのは、ドイツ軍の対戦車壕が完成するかどうかだけである。」
かなり偏った思考ですが、一つ言えることはヒムラーは血の繋がりをかなり重要視していたということですね。
周りからみたヒムラーはどんな人だった?
周りの方はこのようにヒムラーのことを話していました。
「ヒムラーは見たところちっぽけな男に見えた。しかし実は『ちっぽけ』などではなかった。彼には特筆すべき才能があった。人の話に耳を傾ける才能。決定を下す前に長い間考慮する能力。自分の指揮に従う人間を選び出す手腕。これらをすべて併せ持つとどれほど効果的であるか、彼を見るとわかった。」
「ヒムラーはとりたてて賢いとは言えないが、勤勉で実直である。」
「ヒトラーが政治的廃棄物処理を任せるのに彼(ヒムラー)ほどふさわしい男はいなかった。あの男は恐怖組織を事細かに作り上げ、慈悲も後悔も知らなかった。」
「ヒムラーは優しい父親にも公正な上司にも親しみのもてる人物になることもできた。しかし同時に彼はとりつかれたような狂信者でもあり、ゆがんだ夢想家でもあり、ヒトラーに操られる意志なき人形でもあった。彼はますます強くなっていく愛とも憎しみともつかぬ思いでヒトラーと結ばれていた。」
ヒムラーは真面目で、人を見抜く才能があって、優しい人間でもあったことがわかります。しかし、時には無慈悲なところもあり、ゆがんでいるところもあったようです。
ヒムラーは真面目で、人を見抜く才能があって、優しい人間でもあったことがわかります。しかし、時には無慈悲なところもあり、ゆがんでいるところもあったようです。
ハインリッヒ・ヒムラーとはどんな人物?ナチス党員には珍しく心優しい男だった!?まとめ
今回はハインリッヒ・ヒムラーについてご紹介してきました。いかがでしたでしょうか。
ヒムラーは、ヒトラーの右腕として活躍し、全ドイツ警察長官にまでのぼりつめた実力者でした。
時には無慈悲なほどに人を殺していたヒムラーですが、そんな彼の性格は優しいものでした。家族の前では優しい父親であり、動物愛好家で、質素な生活を愛する倹約家でした。
しかし、そんな彼の最後はなんとも残念なものでした。やっぱり人の命を奪うと最後は残念なものになるのでしょうかね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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