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フランク王国の歴史をわかりやすく解説!現在のフランス、ドイツ、イタリアはどうやってできたの?

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赤・白・青のトリコロールの三色旗。自動車のルノー。世界三大料理の一つ。

さて、これらのことからイメージできる国はどこでしょう?

そう、答えはフランスみなさん、フランク王国ってもともとフランスのことだったって知ってましたか?

今回はフランスの語源となった、フランク王国の歴史について、わかりやすく解説します。

目次

ライン川の向こうから、ゲルマン人がやってきた

今から2000年前、地中海全体を支配する巨大な帝国がありました。

それが当時とても力を持っていたローマ帝国です。ローマ帝国はとても強かった時代、周辺の国をまったく寄せ付けませんでした。

しかし、300年代後半になると、国の力が弱まり、周りの民族、特にローマ帝国の北にいたゲルマン民族がローマ帝国の領土に攻め込むようになります。

ゲルマン人は、ローマ帝国の領土に入り込むとヨーロッパ各地に自分達の国を勝手に作りはじめました。

フランク族もそうしたゲルマン民族のひとつだったんです。

クローヴィスがフランク王国を建国!

481年、それまで各部族ごとでバラバラだったフランク族をまとめたのがクローヴィス1世という人。

彼はメロヴィング朝フランク王国の初代国王です。そしてクローヴィスは考えます。

「俺の領地、よくよく見てみると、フランク族だけじゃなくローマ人も結構いるな。」

「ローマ人とうまく付き合ったほうが、もめ事が少なくなりそうだな。」

そこで、クローヴィスが目を付けたのがキリスト教。中でも、アタナシウス派にめをつけます。ローマ人たちは、キリスト教アタナシウス派の信者が多く、ローマ教会とつながっていました。

クロヴィス1世は王妃クロティルドの勧めもありカトリック教徒のアタナシウス派になることを決断します。

クローヴィスはアタナシウス派に改宗しさらなる権力を持つようになりました。これに喜んだのがローマ教皇。

「やった、クローヴィスみたいに強い王様が味方になるなら、教会も安心と考えました。フランク王とローマ教会は、二人三脚で王国の支配を進めるようになっていくことになります。

イスラム教徒の軍勢から、西ヨーロッパを守った英雄カール・マルテル

クローヴィスが死んだ後、フランク王となったメロヴィング朝の王様たちは、あまりパッとしない人が多かったようです。

あまりに能力のある王様がいなかったので、かわりにナンバー2の宮宰という地位にあったカロリング家がフランク王国を指導するようになりました。

そして、時代は600年に突入すると後半から700年代にかけてイスラム教徒が世界各地を征服していくようになります。

フランスのすぐ近くのイベリア半島(今のポルトガルやスペイン)もイスラム教徒の支配下にはいります。

キリスト教の立場は危うくなっていきます。そして732年、イスラム教徒の軍勢がピレネー山脈を越えてフランスに攻め込んで来ました。

この時、フランク王国軍を率いたのが、宮宰のカール・マルテルです。

カール・マルテルはフランク族の戦士たちとともに、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍と応戦。なんとなんとこの戦いに勝利することができたのです!

フランク王国をのっとったピピン

カール・マルテルの活躍でフランク王国は勝つことができました。しかし、フランク王国の民主はちょっと不思議に思い始めます。

「あれ?この大事な戦いの最中に一体、フランク王国の王様は何してたの?」

そんな空気を察したのが、カール・マルテルの子のピピン。ピピンは密かに、ローマ教皇に手紙を出します。

ピピン「実力がある人が王様になるべきですよね?」

教皇「そうだね。」

これ、どういう意味か分かります?

もっと詳しく書くと、ピピン「(実力がないメロヴィング家の王様じゃなく)実力がある人(オレ)が王様になるべきですよね?」。

教皇「(力があるのは、だれが見てもピピンだから、ピピンが王様になるべきだ。)そうだね。(ピピンが、王様になってもいいよ)」

というやり取りなんですよね。

教皇の黙認を取り付けたピピンは、メロヴィング朝の王様を追い出し、自分がフランク王になりました。

ピピンが開いた王朝をカロリング朝といいます。

ピピンは、たぶん、お礼なんでしょうけども、ローマ教皇に北イタリアのラヴェンナ地方をプレゼントしました(教皇領の始まり)。

西ローマ皇帝となったカール大帝

ピピンの子のカールは、西ヨーロッパの各地をどんどん征服しました。

特に、イタリア半島にあってローマ教会を圧迫していたランゴバルド王国をカールが滅ぼしたことは、ローマ教皇をとても喜ばせます。

というのも、ランゴバルド王国はしばしば教会に圧力をかけていたからでした。

カールは多くの戦いで勝利しましたが、スペインに遠征したときはバスク人の奇襲にあってあわてて逃げます。

このとき、カールをかばって死んだ騎士ローランをたたえたのが『ローランの歌』。

まさに、騎士の中の騎士としてローランは描かれたんです。

ローマ教皇はカールに「西ローマ皇帝」の冠を授けました。

そのため、カールはカール大帝とかシャルルマーニュ(フランス語でカール大帝)とよばれるようになります。

フランク王国の分裂

カールが死んだあと、彼の王国は子供のルートヴィヒに受け継がれました。

ルートヴィヒが死んだとき、フランク王国は3人の子供によって分割されます。

分割された国は、それぞれ、フランス、ドイツ、イタリアのもとになりました

フランク王国の歴史をわかりやすく解説!現在のフランス、ドイツ、イタリアはどうやってできたの?まとめ

いかがでしたでしょうか?複雑な勢力図の変化にちょっと頭が混乱してしまいますよね。

まとめるとばらばらだったローマ帝国の領内に入ったフランク人をまとめたのがクローヴィス。

クローヴィスはアタナシウス派に改宗して、ローマ教皇と手を組みます。

イスラム軍がフランク王国に攻め込んできたとき、クローヴィスの子孫が無能だったので、宮宰のカール・マルテルがイスラム軍と戦って勝利しました。

カール・マルテルの子のピピンがフランク王になりピピンの子のカールは、ローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授けられたので、カール大帝、シャルルマーニュと呼ばれるようになりました。

そしてカールの死後、カールの孫達がフランク王国を3分割してしまいます。フランク王国は東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国に分かれ、これは現在のフランス、ドイツ、イタリアに形作られたのでした。

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