イギリス

ネヴィル・チェンバレンの宥和政策は間違いだったのか!悲劇の首相の政策とは?

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1939年9月3日イギリスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。

ネヴィル・チェンバレン首相は一言。。。

「This country is at war with Germany.」(この国はドイツとの戦争中なのだ)

ネヴィル・チェンバレン首相はラジオで国民に戦争の開始を知らせたのです。

ダンディーな首相じゃ!どんな政策を行っていったのか気になるところじゃ

チェンバレンはドイツとの戦争のおいて常に宥和的な政策をおこなってきました。

ドイツに対する弱腰にみえるその態度を宥和政策といいます。

ドイツと戦争することはチェンバレン首相にとっては望んだものではない苦渋の決断だったのです。

この記事ではウィンストン・チャーチルに比べて注目されることの少ないネヴィル・チェンバレンに焦点を当ててみていきたいと思います。

ドイツの弱体とヒトラーの誕生

ドイツは第一次世界大戦の敗北により、領土を縮小、軍備を制限され、払いきれないほどの膨大な賠償金を課せられたヴェルサイユ条約への調印を余儀なくされます。

ヴェルサイユ体制とは?

当時の戦勝国であるイギリスフランスの思惑としては、ドイツの力を極力抑えておけば、ヨーロッパにおいて脅威はなくなり、平和が維持できるというものでした。

このような考え方は、列強がドイツに関与する余裕があることと、ドイツが対外的に有効な政権を維持すること、という条件付きで成り立つものだったのです。

当初はうまくいくかに見えましたが、このヴェルサイユ体制は、1929年に世界恐慌が起きると、ヨーロッパ各国は自国の経済の立て直しに追われ、ドイツに構っている余裕などなく、その体制は機能しなくなったのです。

見放されていくドイツ

ニューヨーク・ウォール街の群衆

世界恐慌による大不況を前に、イギリスやフランスという本来はドイツを抑制すべき立場にあったヨーロッパ列強は自国の内政で手いっぱいになっていきます。

その証拠にイギリスもフランスも本国と植民地の間で独自の経済圏を構築し、世界経済からは手を引き始めたのです。

ヨーロッパは、もうドイツをかまってる余裕はありません。

あれだけドイツの力をヨーロッパから弱体化させてやろうと企んでいたのに、あっさりとその計画はなくなってしまいます。

一体あの強気なドイツ抑制作戦はなんだったのでしょうね?

ドイツは敗戦からの復興資金を、世界恐慌によって不況に見舞われたアメリカ、イギリス、フランスなどに頼っていました。

そして、不況でドイツ国内は困窮しているアメリカやイギリスはそれどころでない!とドイツから早々と手を引き復興資金も止めてしまったのです。

そして当然のようにドイツ経済を世界恐慌が直撃します。

カリスマ的指導者ヒトラーの誕生

大不況に陥ったドイツ。

もはや外国に頼ることはできなくなりました。

とんだ窮地に追い込まれたドイツはもう絶望。。。。

絶望するドイツ国民に唯一の希望を与えたのが、一部界隈で人気者のアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党いわゆるナチスでした。

民族の復興をかかげるナチスは、第一次世界大戦の敗北によってズタズタにされたドイツ国民の誇りを呼び覚まします。

ヒトラーのカリスマ性は演説で民衆を強く惹きつけ瞬く間にドイツを団結させてしまいます。

ある意味ヒトラーは人を魅了するのにずばぬけた才能をもってたんでしょうね。

やってきたことは極悪非道ですがカリスマ性に関していうとソ連のスターリンも嫉妬するほどだったそうです。

1933年ヒトラーは首相に就任後、翌年には独裁体制を作り上げます。

世界恐慌を乗り切ったことで国民の支持を集めたヒトラーは、ヴェルサイユ体制に公然と挑戦します。

チェンバレン!遂に首相に就任へ

ナチスは軍国主義の道を突き進みます。

1935年にナチスは再軍備を宣言し、1936年には非武装地帯であったラインラントに進駐し、ヴェルサイユ条約を破りました。

まだ孤立主義を取っていたイギリスはこのドイツの違反行為を黙認してしまいます。

このようにナチスの脅威が日々高まる1937年5月28日、ネヴィル・チェンバレン第60代のイギリス首相に就任します。

ネヴィル・チェンバレン

チェンバレンはバーミンガム市長を務めた後、1918年の総選挙で保守党から立候補し、下院議員となりました。

さらに、保健大臣、財務大臣などを歴任した後、スタンリー・ボールドウィンの後を受けて保守党党首そして首相に就任します。

そして、暗雲立ち込めるヨーロッパへの対応を余儀なくされることになります。

ナチスドイツ大きく躍進

チェンバレンが首相に就任した後もドイツの領土拡張は続きました。

1938年4月、ドイツはオーストリア併合を実現し大ドイツを成立させたのです。

チェコスロバキア併合に抗議してドイツ系への食事の提供を拒否するチェコ系アメリカ人のレストラン経営者

 

これに勢いを得たドイツは1938年9月、チェコスロヴァキアに対しズデーテン地方の割譲を迫りました。

だんだんと欲をだしてきたナチスドイツ。

もう勢いに乗じて全部支配してしまおうという感じですよね。

ヒトラーは演説で武力行使の可能性をちらつかせ、チェコスロヴァキア軍は総動員令を発令。

チェコスロヴァキアと安全保障条約を結んでいたイギリスやフランスも軍に動員をかけます。

第一次世界大戦の悪夢よみがえる

このように軍事的緊張が高まる中、人々は第一次世界大戦の苦い記憶を呼び覚まします。

塹壕、機関銃、飛行機、毒ガスなどが否応なく人々の脳裏をよぎります。

軍人だけでなく、おびただしい数の民間人も犠牲になった第一次世界大戦!

戦争の恐怖に打ちひしがれた人々は、熱心にニュースに耳を傾け、チェコスロヴァキア情勢を固唾をのんで見守ります。

チェンバレン平和的解決を模索・ミュウヘン会談へ

高まる国際的緊張と人々の不安。

危機的状況の中、何とか事態を打開しようと動いたのはチェンバレンでした。

ヒトラーと首脳会談を重ね何とか武力行使を思いとどまらせていたチェンバレンは、ズデーテン問題の最終的な解決のため、英・独・仏・伊のヨーロッパ4大国の首脳会談の開催に平和への活路を見出そうとしました。

1938年9月29日、ミュンヘンに4大国の首脳が集まり協議。

ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳

領土的要求はこれが最後、と言うヒトラーの要求を全面的に受け入れ、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決まりました。

チェコスロヴァキアの犠牲のもとに、何とか平和は保たれたのです。

帰国したチェンバレンは平和を守った英雄として国民に歓迎されました。

第二次世界大戦の勃発

ミュンヘン会談でドイツの領土要求にイギリス・フランスが武力介入することはないという自信を深めたヒトラーは、さらなる領土拡張に進みます。

拍車がかかったドイツの領土拡大

ミュンヘン会談の翌年の1939年3月にはドイツがチェコスロヴァキア全土を併合。

さらにポーランドに領土の割譲を要求し、9月1日には軍事侵攻を開始します。

運はナチスに完全に傾いていました。

同時のヒトラーは負けを知らない猛者のように進攻に勢いを増していったのです!

チェンバレン・ドイツに宣戦布告

ポーランド侵攻を受け、もはや事態を見過ごすことのできなくなったイギリスはドイツに宣戦を布告します。

1939年9月3日チェンバレンは国民にラジオで演説しました。

「この国はドイツと戦争をすることになります。平和への苦闘が無に帰してしまったことは痛恨の極みであります。」

チェンバレン辞任・新たな首相チャーチルへ

チェンバレンは開戦から間もなくして、軍事的敗北の責任を取って辞任しました。

そして、ここで歴史人物ではかなりの知名度を誇るチャーチルの登場です。

チェンバレンの歴史的評価

チェンバレンの外交政策はナチス・ドイツの勢いを増長させ、結局は戦争を招いたとして否定的に評価されることが多いです。

現在でもミュンヘン会談は外交的失策の典型とされています。

ネヴィル・チェンバレンの宥和政策は間違いだったのか! まとめ

決して評価が高くないチェンバレンの外交。

しかし、当時の人々の気持ちを考えると一概に否定はできません。

第一次世界大戦によりヨーロッパは史上類をみない惨禍に襲われました。

こんな戦争はどんなことがあっても二度と起こしてはならない、というのが、チェンバレン。

さらには人々の本当の気持ちではなかったでしょうか。

そうであるならば、一時的にでも戦争を回避した宥和政策は決して間違いではありません。

平和を希求したチェンバレンの宥和政策は評価されてしかるべきなのです。

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