今回はヒトラーの部下であり、ナチ党副総統を務めたルドルフ・ヘスを取り上げたいと思います。
ヘスの逸話で有名なのは、第二次世界大戦中、敵国イギリスへの謎の単独飛行があげられます。
この行動の目的について、ヘスの言動は二転三転して、結局、目的は判明しないまま、彼はこの世を去っています。
今回はヘスの人生を歴史を絡めながら見ていきたいと思います。そして、なぜ彼はイギリスへの単独飛行を決行したのかについて考察してみたいと思います。
ヘスの生い立ち

1894年4月26日、ヘスはエジプトのアレクサンドリアに生まれました。
父親が貿易商を営んでいた関係です。
1908年にはドイツに戻り、ギムナジウムで学んでいます。ギムナジウムというのは日本でいう中学校・高校に該当します。
第一次世界大戦
1914年に第一次世界大戦が起きますが、ヘスは父親の反対を押し切り、ドイツ軍への従軍に志願しました。
戦時中、家族に宛てた手紙には、村が燃えている光景が「美しい」と綴られており、彼の好戦的な性格を窺い知ることができます。
1917年には戦闘で重傷を負い、長期入院することになり、退院後の1918年には航空部隊に移籍し、飛行学校で訓練を積んだ後、正式に戦闘機のパイロットになりました。
しかし同年11月11日に第一次世界大戦は終了。パイロットとして活躍することはできませんでした。
第一次世界大戦終了後、軍を退役したヘスは、1919年2月にミュンヘン大学に入学します。
この時、ヘスは地政学の父と呼ばれ、後にヒトラーをブレーンとして支えたカール・ハウスホーファーに師事することになります。
そして1920年5月、ミュンヘンのビアホールでヒトラーの演説を聞いたヘスはヒトラーに感服し、同年7月にナチ党に入党しました。
そもそも、なぜヒトラーはナチ党に?
ここで視点を少しヒトラーに移してみたいと思います。
私たちはヒトラーがナチ党を創設したと思っていますが、実は途中から入党しています。
また、なぜヘスを含めて多くのドイツ人がヒトラーに惑わされたのか考えてみたいと思います。
ヒトラー、ナチ党と接触
第一次世界大戦後、パリ講和会議においてドイツはヴェルサイユ条約を結ばされました。
この屈辱的な条約内容にドイツ人のプライドは傷付き、ドイツ国内は混乱を極めました。
そうした状況の中で、多くの政治的グループ(政党)が乱立し、その中には危険な思想を持つグループも存在しました。
ヘスと同じように軍に所属していたヒトラーは、そうした政党の監視をする任務を任されていました。
そんなある日、とある政党の集会があるという情報を入手したヒトラーは、一般客と装い集会に参加しました。その政党がナチ党だったのです。
ヒトラーの才能
ヒトラーが入り込んだナチ党の集会では集団討論のようなものが行われており、そこでヒトラーも意見を求められます。
その際に議論が白熱し、集会終了後にナチ党の一人に声をかけられます。「お前、話が面白いから、今度の集会で演説してみないか」という提案です。
その提案を受けたヒトラーは後日、100人程度の前で演説したのですが、これがかなりの盛り上がりを見せ、連日ヒトラーの演説を聞くために多くの人が押し寄せたそうです。
ヒトラーの演説によってナチ党の知名度は一気にアップし、ナチ党を支援するスポンサー(資本家や企業)が現れました。
ナチ党=ヒトラーという構図が一気に出来上がり、ヒトラーはナチ党のリーダーに上り詰めます。
なぜ多くの人がヒトラーにハマったのか?
私たちの感覚からすると、演説で多くの人がヒトラーに感激しナチ党に入ろうとする感覚はイマイチ理解できないかもしれません。
しかし当時はi-phoneなどの電子機器もなく、気軽にエンタメを楽しむ文化はありませんでした。
そんな中でラジオが社会に流通し始め、そのラジオを通じて、ヒトラーの演説は多くの民衆の耳に入りました。
ヒトラーの演説の特徴は「話が短く、分かりやすい」ことがあげられます。
当時の民衆にとってヒトラーの演説は、今の私たちでいうところのポップソングを聴いている感覚と似ているかもしれません。
そのように考えると、刺激的で、魅力的な「ヒット曲」を連発するヒトラーを、民衆はアイドルのように見ていたのかもしれません。ヘスもヒトラーに魅せられた一人でした。
ナチ党時代のルドルフ・ヘス

ナチ党時代のヘスはヒトラーのために努力し、尽くせば尽くすほどヒトラーとの距離が離れていくという不遇の時を過ごします。
ミュンヘン一揆
1923年11月8日、大衆の圧倒的支持を得て勢いに乗るヒトラーはミュンヘンでクーデターを起こします。
いわゆる「ミュンヘン一揆」です。
ヘスもこれに参加して好戦的な性格を生かし、積極的に大衆を誘導します。
結果としてクーデターは失敗し、ヘスは国外に逃亡。ヒトラーは逮捕され、裁判にかけられました。
1924年4月、ミュンヘン一揆における裁判が行われました。
この裁判でヒトラーは得意の演説力を駆使し自らが裁かれる立場にも関わらず大喝采を浴び、ヒトラーは禁錮5年という軽い判決を受けました。
ヘスはオーストリアに逃亡しましたが、ヒトラーに判決下ったことを知るとドイツに帰国し逮捕されました。
ヘスはヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄されます。
刑務所内ではヒトラーとの面会も自由にできたため、ヘスはヒトラーの著書である『我が闘争』の口述筆記を務めます。
ミュンヘン大学で地政学を学んだヘスの影響が色濃く反映されていると指摘されています。
ヒトラーには禁錮5年の懲役がありましたが、恩赦によって同年12月には釈放されています。
釈放後、ヘスはヒトラーの秘書を務めています。
独裁体制とヒトラーとの確執
1929年の世界恐慌による社会不安を背景にしてナチ党は支持を拡大し、国会でも議席を増やし続けます。
勢いに乗ったヒトラーは1932年春、大統領選挙に出馬します。
結果として、惜しくもヒンデンブルクに敗北することになります。
しかし同年夏に行われた国政選挙においてナチ党は第1党に躍進し、ヒトラーはヒンデンブルク大統領から首相に任命されます。
1934年8月、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは総統に就任。
ナチ党の独裁体制が確立します。
この時期からヒトラーとヘスの間で確執ができ始めたと言われています。
実際にヒトラーは他の部下に対して、ヘスが鬱陶しいというような発言を繰り返しています。
ただヒトラーとしてもヘスを無下にすることはできず、ヘスを副総統というポストを与えていますが、実際は形だけのポストで、ヘスにはほとんど発言権がなかったということです。
この時期からヘスの精神状態も悪化しています。
第二次世界大戦

1939年8月23日、独ソ不可侵条約を結び9月1日ドイツはポーランドに軍事侵攻し第二次世界大戦が勃発しました。
この大戦中、ヘスは謎の行動を起こします。
以下で詳しく見ていきたいと思います。
謎の単独飛行
第二次大戦中の1941年、ヘスは突如としてイギリスに向けて単独飛行を試みます。
突然の奇行。ヘスは、飛行後そのままイギリスの防空網をくぐり抜け、スコットランドの農場に不時着しイギリス軍に捕らえられます。
この事実を知ったヒトラーは驚愕し「ヘスはイギリスに逃げた」と叫んだそうです。
イギリスに拘束されている間、ヘスはうつ状態に陥り部屋の窓から飛び降り自殺を図りましたが、一命をとりとめました。
ヘスはウェールズの精神病院に送られ1945年の第二次大戦が終戦するまでを過ごします。
終戦後のヘス
第二次大戦後に行われたニュルンベルク裁判でヘスは戦争犯罪人として裁かれます。
精神状態が悪化し裁判中に小説を読むなど奇怪な行動を繰り返したため責任能力を問う声もありました。
翌年の1946年、ヘスは死刑判決を逃れ終身刑の判決を受けます。
1947年から刑務所で服役し、仮釈放を求める要望が国連に提出されましたが、ソ連の反対によって却下され続けました。
1987年、ヘスは電気コードに首を吊って自殺しました。93歳でした。
なぜヘスは1人でイギリスに向かったのか?
以上、ヘスの人生を簡単に見てきましたが、最後になぜヘスはイギリスに単独飛行したのかについて考察したいと思います。
体育会系のヘスと文化系のゲッベルス
1934年、ヒトラーが総統に就任。
独裁政権を確立して権力基盤を整えたヒトラーの課題は、いかに円滑に政権運営をするのかということになります。
ミュンヘン一揆のように権力奪取を狙っていたときとは明らかに状況が違います。
状況が変化すれば部下に求める能力も違ってくるため、ヒトラーが大事にする部下も変わることになります。
ヒトラーが重宝する部下が、体育会系のヘスよりも、文化系のゲッベルスになってしまうのは必然といえば必然だったと思います。
ミュンヘン一揆のように、ナチ党のためにアクティブに動き回り、暴力も辞さないと考える武闘派のヘスよりも、理論的に政策の立案や党の方向性などを提案できる実務型のゲッベルスなどをヒトラーは重宝するようになります。
この時期、ヒトラーとの距離が疎遠になるにつれて、ヘスの精神状態もおかしくなってしまったことは先ほど確認しました。
日本史でも同じような話があります。
かつて豊臣秀吉が全国統一するため、戦に明け暮れていた時には、戦に強い加藤清正を重宝しましたが、ある程度の権力基盤が整うと、経済に強い実務派の石田三成を後継者として指名しています。
このように考えると、ヘスによるイギリスへの単独飛行は、ヒトラーに再び振り向いてもらうための行動だったのではないか、という説が有力なような気がします。
ヒトラーに認められたい
世界地図を見ると、ドイツは右側にソ連(ロシア)、左側にフランス、イギリスに挟まれるように存在しています。
ヒトラーは独ソ不可侵条約を結び、右側のソ連から攻められる可能性をなくした上で、左側に戦力を集中させポーランドに侵攻し第二次世界大戦を始めました。
イギリスとフランスはドイツに宣戦布告します。
いくら左側に集中させたとしても、ドイツにとって、フランスとイギリスの2つの大国を相手にすることは大変なエネルギーが必要になります。
上記の状況を考慮して、イギリスと講和を結ぶことができればフランスとの戦争に集中することができるのではないか。
このようにヘスは考えていたことを示す資料や研究が多く存在しています。
もし自分がイギリスとの講和を結び、手柄を上げることができれば、再びヒトラーは自分を評価してくれる、認めてくれるのではないか。
ヘスはこのように考え、単独でイギリスに向かったのではないかと考えられます。

ルドルフ・ヘス・ヒトラーを愛しすぎたが故に?!まとめ
以上、ヘスの人生を見てきました。
ヘスの人生とは、ヒトラーのために生きたにも関わらず、ヒトラーに見捨てられ、失望のうちに死んでいったように見え、とても切ない印象を受けます。
他人に対して過度に期待することの危険性、自分自身の考えをしっかり持ち、自分のとって大事なこと、幸せなことをしっかり考えることの重要性を、ヘスは教えてくれているような気がします。
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【参考文献】
グイド クノップ、『ヒトラーの共犯者 上: 12人の側近たち』
吉田 喜重、『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』
参考にしたサイトは「世界史の窓」というものです。年号などを確認しました。
http://www.y-history.net/appendix/wh1504-081_4.html


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