ヨーロッパ歴史

ハイドリヒの生涯・名言や彼の最後について解説!ヒトラーよりも冷酷な男・ハイドリヒとは?

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ナチスといえばヒトラーばかりが話題になりますが、ヒトラー意外にも虐殺に手を染め、いかにしてユダヤ人を消し去ろうか日々考えていた人物がいます。

その名もラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ。

長い名前ですね。。。映画などではハイドリヒと短い名前でおなじみかと思います。といっても意外と知らない人もおおいかもしれませんね。

彼はユダヤ人虐殺を推し進めた象徴的存在でもあります。ナチスの重大な犯罪にほぼすべて関わったハイドリヒの生涯や発言、どんな人物であったのか見ていきたいと思います!

ハイドリヒはいったいどんな人生を送ったのか?

ハイドリヒの名前はラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒです。めっちゃ長い名前です・・・。

ハイドリヒは1904年3月7日ドイツ帝国で生まれました。

音楽家の父と音楽研究者の娘の母、姉1人、弟1人の5人家族でした。カトリックを信仰している母から厳しいカトリックの教育を受けましたが、ハイドリヒは反カトリックでした。またキリスト教自体も好きではありませんでした。宗教自体にそれほど興味がなかったようですね。

音楽家である父の教育で、小さいころから音楽をたしなみ、やがてヴァイオリンの名手となります。いわゆるボンボンというやつですね!かなりお金もちの家柄だったようです。

ハイドリヒは第一次世界大戦時は、入隊できる年齢ではありませんでしたが、すでに民族的な思想を持ち、人種差別主義者としての思考を持ち合わせていました。

15歳の時には、ドイツ義勇軍に参加することになります。

民族主義団体「ドイツ民族防衛同盟」にも所属し、反ユダヤ主義的思想に大きく影響されます。

ハイドリヒ・海軍入隊

その後、18歳の時に海軍に入隊しました。1924年には上級海軍士官候補生となり、将校としての訓練を受け、1926年に海軍少尉に任官し、1928年には海軍中尉にまで昇進しています。

とんとん拍子で出世していくあたり、よほどリーダーとしての才能に長けていたのかもしれないですね。

またハイドリヒは語学が堪能で、英語・フランス語・ロシア語の試験に合格しており、有能な将校として注目されていました。

しかし、出世街道半ばにして、海軍中佐待遇の娘とのスキャンダルが知られてしまいます。そのことでハイドリヒは軍法会議にかけられ、海軍を強制的に除隊させらてしまったのです。

女性関係のせいで除隊とは、ハイドリヒ、少し爪があまい人物だったのかもしれないですね。

ヒムラーの面接・勘違いで合格に

その後、ハイドリヒの代父( カトリック教会で生まれた子どもの洗礼に立ち会いその宗教教育に責任を持つ男性。)の息子である親衛隊上級大佐の推薦をうけて、ハインリヒ・ヒムラーの面接を受けることになりました。

この頃、ヒムラーは親衛隊内に情報部を開設しようと考えており、情報将校の経歴を持つ者を探していました。ハイドリヒの通信将校の経歴を情報将校と勘違いし、面接の際ハイドリヒに親衛隊情報部の構想を書かせました。

その出来にヒムラーは満足し、ハイドリヒの採用を即決。

ハイドリヒは1931年6月に国家社会主義ドイツ労働者党に入党し、7月に親衛隊に配属されることになります。そして、親衛隊内にIC課(親衛隊内部におかれた情報部であるSDの前身)が設置されました。

IC課の課長は名目上ヒムラーでしたが、実質的運営はすでにハイドリヒに任されていました。ハイドリヒはどんどん頭角をあらわしていき出世のスピードも尋常じゃありませんでした。

一方ドイツは、1933年1月にヒトラーが首相に任命され、ナチス党政権が誕生。

ヒムラーとハイドリヒが政治警察のトップに

 

その後、昇進を重ね、1934年にヒムラーとハイドリヒは、ドイツ全域の政治警察権力を得ることになります。

1936年にドイツ全州の警察指揮権が中央政府に移され、ヒムラーが全ドイツ警察長官に任じられ、その権限をもって、刑事警察とゲシュタポ(秘密警察組織)を統合させて保安警察を新設。

ハイドリヒはその長官を任されることになります。ガンガン出世しますねえ!

その後「ユダヤ人移住中央本部」の本部長をハイドリヒが務めることになり、ウィーンに組織が作られます。第二次世界大戦開戦までに20万人ものユダヤ人が自分の国を追い払われウィーンへと連れていかれたそうです。

1939年9月、親衛隊内部に「国家保安本部」が立ち上げられ、ハイドリヒはそのトップを任されました。その後、ハイドリヒは国際刑事警察委員会(インターポール)の総裁に就任。

1941年9月、ヒトラーからベーメン・メーレン保護領副総督に任命され、その翌日に親衛隊大将および警察大将に昇進しました。

もうハイドリヒの進撃はとまりません!

1942年1月、ユダヤ人絶滅作戦が決定されたヴァンゼー会議を主宰。ベーメン・メーレン保護領の統治が上手くいったことを受け、次期フランス・ベルギー総督に内定。

どんだけ有能なんだよ?と思いますよね!ヒトラーから腹心を得ていたヒムラーでさえも彼の実力に嫉妬したといいますからね。

ハイドリヒってどんな人物?

映画では大柄な男のイメージがありますが実際、ハイドリヒは身長は191センチとかなりの長身だったようです。

金髪碧眼、長身、腰が大きく、外見は完璧ではない・・・というのが一般的に言われているハイドリヒの容姿。

それでも筆者はハイドリヒはイケメンの部類ではないかと個人的には思っています(笑)

一つ、弱点があるならば、女性問題が多かったことでしょうか?過去にも海軍を除隊させられたこともありましたよね。ということはモテる人ではあったんでしょう。実物をみると意外とかっこいい紳士だった可能性もありますね。

ハイドリヒはスポーツも多岐にわたり好んでいたと言われています。フェンシングに長け、乗馬や飛行機、スキーの操縦にも優れていました。特にフェンシングではオリンピック代表に選ばれたこともあったほど。

そして、なにより写真を見てもわかる通り顔が冷ややか・・・・実際ハイドリヒはあまり笑うことがなかったそうです。

寡黙なヒトラーの信者のようなイメージもありますが特にヒトラーを崇拝しているわけでもなく、「もしヒトラーが何かしくじったら、自分が真っ先に葬ってやる」と口にしていたそう。

ハイドリヒという人物がもし友達にいたらちょっと困惑しませんか?事実、ハイドリヒは二重人格で、本人のハイドリヒさえ、もう一人の自分を憎悪していました。時には鏡に映る自分に向かって発砲したこともあったそうです。

なんかメンヘラな感じもしますね(笑)

ハイドリヒが関与した事件!

これまで、ホロコーストと言えばヒトラーの一存で行われていた!と思っていませんか?彼一人がユダヤ人迫害を好んでしていたわけではないんです。

では、まずハイドリヒが関わったとされる事件を見ていきましょう。

長いナイフの夜

ナチスの幹部であるゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒが主導しヒトラーに働きかけて起こした、反ナチスへの違法な粛清事件です。

ハイドリヒは粛清対象をリストアップする事実上最高責任者でした。これに乗じて突撃隊だけでなく党内外の反対分子をまとめて粛清対象に入れていきました。

粛清は正式な法的措置を完全に無視し、身勝手に行われた挙句、政治とは直接関係のない人までもが個人的な恨みなどにより粛清され、ナチスの犠牲となったのでした。

ハイドリヒは事件当日は、ベルリンや北ドイツでの粛清の指揮を執り率先してこの違法な粛清に加担していたのです。ほんとに悪党ですね・・・。

事件後は、功績を認められ、親衛隊中将に昇進しました。そして、冷酷無比の評判を得ました。

ブロンベルク・フリッチュ事件

 

この事件はヒトラー内閣の国防軍幹部であるヴェルナー・フォン・ブロンベルクと陸軍司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュの更迭事件です。

ヒトラーのチェコスロバキアとオーストリアへの攻撃計画を前に、ブロンベルクとフリッチュはイギリスとフランスの中立が約束されない限り、戦争による領土拡大は慎重であるべきという立場で、ヒトラーと対立していました。

同じヒトラー内閣でありながら、ヒトラーのイケイケの侵略には反対だった彼らにハイドリヒは不満をもちはじめ、ブロンベルクとフリッチュの失脚を企てることに・・・。

両名にスキャンダルを発生させ、それがきっかけで2人とも2月上旬に解任されました。このスキャンダルを作り出そうと企てたのがヒムラーとハイドリヒであると言われています。

なかなか汚いやり方・・・

グライヴィッツ事件

1939年8月にヒトラーは、ポーランド侵攻を決心し、ヒムラーとハイドリヒに開戦のきっかけを作るための偽装を命じました。この計画の立案者はハイドリヒ。

この計画は、部下にポーランド国境近くのグライヴィッツのラジオ局をポーランド軍人のふりをして攻撃させ、ポーランド語でドイツとの開戦を放送させるという計画。そのことにより戦争の始まりをみなに煽ろうと企てたのでした。

また強制収容所の囚人を殺害しその死体にポーランド軍服を着せて現場に置き残し、襲撃犯たちが死んだと見せかけることも計画されました。

ヒトラーは計画実行を8月26日午前4時30分と定めていましたが、この計画がイギリスに漏れ、急遽作戦を中止、延期されました。

ヒトラーはふたたびポーランド侵攻の日を9月1日午前4時45分にきめ、計画通り作戦を行いました。

翌日、ヒトラーはこの事件をポーランド軍によるグライヴィッツ放送局の攻撃として批判し、いまやドイツとポーランドは戦争状態に入ったと国会において宣言したのです。

まあ今でいう自作自演というやつですね。

ホロコースト

ハイドリヒは1941年7月31日にゲーリングから「ユダヤ人問題の最終解決」の委任を受けており、ホロコーストの最高司令官ともいうべき存在でした。

この権限に基づき、1942年1月20日にベルリン郊外のヴァンぜーにてヴァンぜー会議を主宰。

この会議で、ナチス政権は正式にユダヤ人全滅を取り決めました。

この決定に基づいて開始された三大絶滅収容所(ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)での絶滅作戦は、ハイドリヒの死後に彼を偲んで「ラインハルト作戦」と命名されました。ベウジェツでは55万人、ソビボルでは25万人、トレブリンカでは最低73万人が虐殺されました。

ハイドリヒの発言からわかるユダヤ人のとらえ方とは?

ユダヤ人虐殺を推し進めたハイドリヒですが、ユダヤ人のことをどう思っていたのでしょう?まあ、思想からして嫌いだったことはわかりますが、、、ここでハイドリヒの発言を紹介していきます!

「反ユダヤ主義とは政治問題ではなく、医学上の問題だ。」

もはや生物学的にユダヤ人が異質なものだと思っているようです。

「一部のドイツ国民は、国家社会主義革命から2年を経た今、早くもユダヤ人に対して無関心になり始めた。しかし、ユダヤ人の側には永遠に変わることなく追求し続けるしぶとい目的がある。それは世界征服と北欧人種の絶滅である。」

「最終解決とは、1100万人のユダヤ人を処理することであり、それにはイギリスとアイルランドのユダヤ人も含まれる。すべてのユダヤ人の絶滅という目標は、人類の大再編成に他ならない。」

これらの発言から、いかにハイドリヒがユダヤ人を差別してきたかわかりますよね。またユダヤ人に対し強い危機感を持っていたのかもしれません。こんなハイドリヒだからこそユダヤ人の虐殺が進められたのでしょう。

ハイドリヒ暗殺の報復がやばい!

このままではチェコがドイツに乗っ取られてしまうと危機感を抱いていたイギリス首相ウィンストン・チャーチル。

在英チェコスロバキア亡命政府は、密かにハイドリヒの暗殺を計画しました。

亡命したチェコ軍人から先鋭10人が選ばれ、イギリス軍特殊作戦執行部から暗殺に必要な訓練を受けます。

完璧なほどに細かくハイドリヒ暗殺計画を練り実行へと移すときがきます。

1942年5月27日午前10時半頃、プラハ城へ出勤中のハイドリヒのオープンカーがカーブにさしかかりスピードを落としたところで、チェコの暗殺部隊が改造手榴弾を投げつけました見事命中!爆発しました。

その影響で、ハイドリヒの腹部と肋骨部に車のスプリングと金具の破片が食い込み、その場で倒れこんでしまいました。

現場にいた市民により病院へと搬送されましたが、ハイドリヒの容体は悪くなる一方で、ヒムラーと最後の面会をした後、6月4日午前4時30分頃に亡くなりました。

手榴弾にイギリス軍が開発していた生物兵器(ボツリヌス菌)が入っていたという説もあれば、ハイドリヒの権力拡大に危機感を覚えたヒムラーが搬送後わざと適切な処置を施さなかったという説もあります。

どちらの説も確証はありません。

 

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ハイドリヒの出世街道から暗殺されるまでを描いた映画「ナチス第三の男」。なにより冷酷な顔つきがまた彼という人物を謎のベールに包みます。ヒトラー以上の冷酷な男だったのか?それとも音楽を好む静かな男だったのか?

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ハイドリヒの死後が悲惨・・・

チェコでは、ハイドリヒの補佐をしていたカール・ヘルマン・フランクがハイドリヒ襲撃のあった日に、急遽チェコ全土に戒厳令をだします。ハイドリヒを失ったことが相当なショックだったのでしょう、彼は大々的な操作と報復に乗り出していったのです。

ハイドリヒが倒れ、死亡するまでの約一週間で、暗殺の疑いがかけられ人や共犯と思われる157人が殺されました。

SD司令官のホルスト・ベーメは500人ほどの鉱山労働者が集まるリディツェ村に目を付け、「暗殺部隊をかくまった」として報復攻撃とみなしました。

ヒトラーはこの小さな村に報復攻撃することを認めたため、1942年6月10日から11日にかけてリディツェ村虐殺が行われたのです。

成人男性200人弱はその場で銃殺され、女性や子供は強制収容所へ送還されました。

暗殺部隊はプラハにある正教会の地下室に隠れていましたが、ゲシュタポにばれ、1942年6月18日750人ほどの親衛隊が教会を包囲し、戦闘の後、自決しました。

他にも、暗殺部隊を助けていた村が発見され虐殺されました。また捜査のために大勢の人が拘束され、処刑されました。1942年9月1日までに拘束されたチェコ人は3188人、1357人が死刑となりました。実に多くの人がハイドリヒの死によって亡くなりました。

ハイドリヒの生涯・名言や彼の最後について解説!ヒトラーよりも冷酷な男・ハイドリヒとは?まとめ

ホロコーストやナチスというと必ずヒトラーの名前が上がります。しかし、極悪非道なことをしたのはヒトラーだけではありませんでした。

また、同じナチス政権でありながら、ハイドリヒの思惑で何人もの高官が失脚させられ、罪のない人が粛清を受けたのです。

ハイドリヒは最後に暗殺という形で幕を閉じてしまいますが、その先にはナチス政府の報復という、さらに悲劇が待ち構えていたのです。

ハイドリヒの人生や暗殺者の詳細は映画「ナチス第三の男」によって詳しく描かれています。興味がわいた方はぜひ見てみてください。

そのほか、ヒムラー、アイヒマンなどナチス政権下で非人道的な行いをした人物がまだまだいます。もっとドイツのホロコーストやユダヤ人迫害について勉強したい方は調べてみてください!

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