今日は西ヨーロッパで1番、経済や工業が発達した国・ドイツの歴史についてわかりやすく解説していきます!
1870年、ドイツ帝国が統一するまで、ドイツは小さな国の寄せ集めでした。
どんな歴史をたどって、ドイツは1つにまとまったのでしょうか?
今回は、ドイツの元になった東フランク王国から、神聖ローマ帝国、プロイセンやオーストリアなどを紹介し、ドイツ帝国の成立までわかりやすく解説します!
フランク王国をもりあげたカール大帝
今からおよそ1200年前、西ローマ帝国が滅んだあと、バラバラだった西ヨーロッパを統一した人がいました。
その人物がカール大帝です!
フランク王国をつくりあげた人物であり、全盛期だった時の王様でもあります。

カール大帝は、現在のフランス、ドイツ、オランダ、ルクセンブルク、ベルギー、イタリアなどにまたがる西ヨーロッパをほぼ支配し広い領土を手に入れたのです!
フランク王国が分裂し、東フランク王国ができた
A=西フランク B=東フランク C=中部フランク D=ローマ教皇領
カールが死んだあと、カールの帝国は3人の孫によって分割されます。
ヴェルダン条約やメルセン条約の結果、カールの孫たちで遺産を分割し現在のドイツに東フランク王国ができました。

オットー1世の躍進・神聖ローマ帝国に

西暦936年、カール大帝の孫の1人、オットー1世が東フランク王国の王になりました。
オットー1世は、東フランクの人々の期待にこたえ、周辺国との戦争に勝利します。
なかでも、1番有名な戦いが西暦955年のレヒフェルトの戦いでした。
オットー1世が戦ったのは、アジアからヨーロッパにやってきた遊牧民のマジャール人です。
マジャール人は、騎馬の扱いが長けており、戦争にも強い人々でした。また、開戦直後にも2倍の兵力の差がありオット一1世は不利だったのです。
しかも、東フランク王国の軍はすばやく動き回るマジャール人の騎馬戦法についていけず、あちこちに引きずり回され苦戦。
しかし、次第に東フランク軍もマジャール人の戦法に慣れ、対抗できるようになるのです!!
西暦955年、東フランク王オットー1世は、南ドイツのアウクスブルク近くにあるという場所で、マジャール人との戦いに勝利することが出来ました。
また、オットー1世はイタリアにも攻め込み、北イタリアでローマ教皇に圧力を加えていたベレンガリオ2世を滅ぼします。
マジャール人とベレンガリオ2世という2つのプレッシャーから解放されたローマ教皇は大喜び。
オットー1世を神聖ローマ帝国の皇帝に任命しました。
豆知識・選挙によってローマ皇帝を決める??
神聖ローマ帝国の皇帝ってどうやって決めるか知っていますか?なんとなく世襲のような気もしますよね。実際はローマ皇帝って選挙で決められてきたんです。ちょっと意外ですよね。
といっても、国民が選挙で皇帝を選んだわけではありません。
皇帝を選ぶ選挙で、投票権を持つ7人の大貴族・偉大なキリスト教の司祭(高位聖職者)の投票で皇帝が決められたのです。
皇帝を選ぶ選挙で投票権を持つ人たちのことを選帝侯といいます。
ハプスブルク家の皇帝の位、カール5世が独占
16世紀になるとオーストリアを支配するハプスブルク家が皇帝の位を独占するようになりました。
ハプスブルク家で最も有名な皇帝といえばカール5世でしょう。
カール5世はスペイン王でもありました。
スペインは南北アメリカやフィリピンなどに大きな植民地を持っていたので、カール5世は世界で一番広い領土を持つ皇帝となります。
ドイツでプロテスタントとカトリックの2つの宗教が対立!
カール5世が皇帝だったころ、宗教学者のルターは、ローマ教会がドイツで販売していた「免罪符」(正しくは、贖宥状:しょくゆうじょう)の販売に疑問を持ちます。
聖書はラテン語で書かれていましたが、ラテン語が読めるルターは、聖書に免罪符のことなど全く書かれていないことに気が付きます。
ルターは、ローマ教皇に質問状をたたきつけますが、逆にローマ教皇の怒りに触れてしまいました。
皇帝カール5世はルターに自分の考えを引っ込めて、教皇の言うことを聞くよう言いますが、ルターは「やだ!」と拒否。
ドイツ国内では、ルターのことを支持する「プロテスタント」とローマ教皇のことを支持する「カトリック」が対立しました。
キリスト教についての考え方の違いが宗教改革の始まりです。
ドイツで最大の宗教戦争!三十年戦争!
ドイツではプロテスタントとカトリックとの宗教の対立が収まらず、三十年戦争という大戦争に発展しました。

三十年戦争はドイツ国内の争いですが、周辺国も軍隊を出して、大きな戦争になります。
三十年戦争の結果、ドイツはぼろぼろになり国自体が無力化していきました。
小さな国の寄せ集めになってしまったのです。

プロイセンとオーストリアの対立
ドイツの国々の中で、大きな力を持ったのがプロイセンとオーストリアでした。
プロイセンは北ドイツの国、オーストリアは今のオーストリア共和国とハンガリー、チェコなどを支配する国です。
両国の対立が激しくなったのは1750年の前後。
プロイセン王のフリードリヒ2世が、オーストリアの女帝マリア=テレジアの即位に文句をつけ、戦争したからです(オーストリア継承戦争)。

フリードリヒ2世はオーストリア継承戦争で、シュレジェンという豊かな地方を手に入れます。
シュレジェンをとられたマリア=テレジアは七年戦争で、フリードリヒ2世ともう一度戦いますが、取り戻すことができませんでした。

ちなみに、マリア=テレジアはフランス革命で殺されるマリー=アントワネットのお母さんですね。
ドイツ帝国の成立
1800年ころ、フランス革命の軍隊を率いたナポレオンがヨーロッパ各地を征服しました。
プロイセンもオーストリアもナポレオンに負け、領土を取られてしまいます。
ナポレオンが負けてフランスから追い出されてからは、プロイセンもオーストリアも復活しました。
ドイツ人は、ナポレオンに負けないためにはドイツ人もまとまるべきだと考えます。
このとき、ドイツ統一をプロイセン中心ですすめるか、オーストリア中心ですすめるかで争いとなりました。
戦いの結果、プロイセンが勝利したので、プロイセンがドイツ統一の中心になります。
ドイツの宰相(日本でいう総理大臣のような役職)のビスマルクは、ドイツ統一を邪魔してくるフランスをやっつけ、ドイツ統一に口を出せないようにします。

そして、ドイツはプロイセンを中心にまとまり、ドイツ統一国家が出来上がったのです!
ドイツの歴史をわかりやすく簡単に解説します!まとめ
西ヨーロッパの歴史は非常に複雑なのですが、ドイツのはじまりは、東フランク王国という国です。
歴史の教科書でも名前くらいは聞いたことあるのではないでしょうか?
ドイツは登場人物や台頭する国がめくるめく変化していき世界でも最も複雑な歴史をもっているといっても過言ではありません。
しかし、ヒトラーが登場するまでも非常に悲しい歴史を繰り返しています。じっくりと1つ1つ深堀していくとまたドイツの歴史がおもしろくなってくるはずです!
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