皆さん、こんにちは!
今回ご紹介するのは、第二次世界大戦時代のドイツ軍中佐オットー・スコルツェニーです!
歴史や戦争通の方ではない限り、あまり馴染みのない人物かもしれません。
ですので、今回は彼の基本的な情報から、なぜ”ヨーロッパで最も危険な男“と呼ばれるようになったのかまで、丁寧にご紹介いたします。
ヨーロッパでもっとも危険な男とは
最も危険な男と聞くと、とても強く冷酷で恐ろしい男をイメージしませんか…?
しかし、スコルツェニーはひとたび命令が下ると、それを決して諦めずに遂行する男でした。
緻密な計画を練るだけでなく、突発的なアクシデントが起きても状況を冷静に判断し、大胆に任務を遂行するのです。
技術と知識のある仲間たちと共に任務を遂行する、誇りを持った軍人だったのです!
特殊部隊を率いて数々の作戦を遂行
では実際に彼はどのように活躍していたのでしょうか?
スコルツェニーは特殊部隊を率いて戦いました。
特殊部隊とは主に奇襲や偵察などの比較的小規模な部隊のことです。
スコルツェニーも、重要人物の救出や誘拐、相手軍を錯乱させるなど、命令の度に緻密な計画を練り、極秘に遂行したのです。
スコルツェニーは着実に実績を積み、敵国にも名前が知れ渡りました。
彼の実力は、なんといってもドイツ総統であるアドルフ・ヒトラーが直接命令を下すほどでした!
ヒトラーが最も信頼した男の一人
スコルツェニーがヒトラーに初めて会ったのは1943年7月でした。
ある任務を命じるための候補として、6人の軍人がヒトラーの前に集められました。
その中の一人がすでにエリート軍人となっていたスコルツェニーだったのです。
任務の内容は、ドイツと同じくファシズム国家であったイタリアのムッソリーニが投獄されたため、彼を救出するというものでした。
ヒトラーはムッソリーニの盟友であり、とても重要な任務でした。
ヒトラーは集めた軍人たちに任務の詳細を何も伝えず、ただ“イタリア人をどう思うか”という質問をします。
スコルツェニー以外の軍人達は皆、自信なさげに”見方“や”枢軸の盟友“などと答えました。
そこでスコルツェニーだけははっきりと“私はオーストラリア人です”と一言答えたのでした。
この言葉の真意は、オーストリアの領土で最も美しい土地をイタリア人に奪われた過去を表しています。
また、アドルフ・ヒトラー自身もオーストリア人であったため、一言でこの真意が伝わるとスコルツェニーは考えました。
この意志の強い、大胆な返答を聞いたヒトラーはスコルツェニーにこの任務を与え、彼は見事にムッソリーニをヒトラーのもとに連れ帰ったのです。
そしてその後もスコルツェニーは、ヒトラーからの任務を常に遂行していきます。
筆者はこの出会いのエピソードが、スコルツェニーのこびない姿勢を表していると感じました。
また、ヒトラーもこの時にスコルツェニーの熱いエネルギーを感じたのだと思います。
そんなスコルツェニーはいったいどんな人生を過ごしたのか、皆さんにご紹介いたします!
生い立ちと第二次世界大戦での活躍
スコルツェニーは1908年の6月12日、オーストリアのウィーンに生まれました。
典型的な中流家庭で、父親は技術者でした。
しかし、オーストリアは第一次世界大戦後の不況に苦しみ、彼の生活も決して楽なものではありませんでした。
学生時代
スコルツェニーは18歳でウィーン大学工学部に進学します。
その頃にスコルツェニーは身長192㎝のとても大柄な体に成長していました。
そして大学で、彼に大きな影響を与えた、ある経験をします。
当時、大学の伝統で多くの学生がサーベルを使った決闘を行っていました。
スコルツェニーも当然、それに参加し、13回にも及ぶ決闘を一日で行いました。
彼の頬に刻まれた大きな傷もこの時にできたものです。
彼はこの時の経験を、人生で最も恐怖を感じた出来事だと言います。
この決闘があったからこそ、今後の困難に常に真正面から挑み続けられたのです。
そして、ついに彼の軍人としてのキャリアがスタートします!
ナチの軍人となる
オーストリアは1938年にドイツ帝国に併合されます。
当時スコルツェニーはウィーンで技術者として成功していました。
しかし、大戦前夜のヨーロッパで彼は空軍へと志願します。
軍人として成功するという願いがあったのです。
しかし、31歳という彼の年齢のせいで空軍に入隊することは叶いませんでした。
その後、スコルツェニーは武装親衛隊に入隊することができました。
スコルツェニーは、入隊できるのはごく一部というエリート師団に配属されました。
周りに比べて年齢は高い彼ですが、すぐに頭角を現しました。
1939年に第二次世界大戦がはじまり、スコルツェニーも数々の激戦を経験します。
しかし1941年の冬、ソ連との戦闘中に後頭部に傷を負います。
それが原因で前線を退き、補給所での技術関係の仕事をすることになったのです。
活躍の機会が奪われてしまったかのように見えますが、ここから彼の人生は一変します。
スコルツェニーの活躍
1942年の半ば、スコルツェニーは突然親衛隊司令部に出頭するように命令を受けます。
戸惑いながらそれに応じたスコルツェニーは、上官から特殊任務を遂行できる人材を探していると告げられます。
そして、スコルツェニーを中心としてドイツ初の特殊部隊を組織することになりました。
野心にあふれたスコルツェニーはこの機会を転機と捉え、迷うことなく決心したのです!
ムッソリーニ救出
1943年、スコルツェニーの名が一躍有名になる任務を行います。
突如、ヒトラー総統大本営からの呼び出しがあったのです。
ヒトラーからの直接の呼び出しは、スコルツェニー本人としても部隊としても初めてのことでした。
そしてスコルツェニーはヒトラーとの初対面を果たしたのです。
初対面エピソードについては先ほどお話ししたので割愛しますね!
そうして、彼はムッソリーニ救出というヨーロッパの歴史や国家の今後が左右される一大任務を請け負ったのです。
1943年7月26日にローマに降り立ったスコルツェニー。
ムッソリーニの居場所に関する情報はほとんどないまま、地道な情報集めを繰り返します。
居場所を突き止めても、救出の計画を練っている段階で、ムッソリーニが再び移送されてしまうこともありました。
情報収集はとても地道で大変なものでした。
例えば、スコルツェニーの部下のヴァルガー中尉は禁酒主義者にもかかわらず居酒屋での情報収集のために、何度もトイレに駆け込むほど酔っぱらってしまいます。
しかし、その努力によって得た情報はなんと⁉⁉
ムッソリーニの居場所のつかむ大きな手掛かりとなったのです!
何度も連れ去られるムッソリーニを諦めずに探し続けたスコルツェニー。
最終的にスコルツェニーは、ムッソリーニがローマから160キロほど離れた、雪山の最高峰グラン・サッソにあるホテルに監禁されていることをつかんだ。
しかし、雪に覆われた小さな大地にある、ましてや山頂にあるホテルに忍び込むのは容易ではありませんでした。
スコルツェニーはホテル裏の小さな空き地にグライダーで着陸する方法を考えました。
空軍の専門家たちは、危険過ぎると反対しましたが、ついにスコルツェニーは計画を決行しました。
決行の際には部下たちに、専門家からは計画を反対されており、任務が大変危険なものであることを説明します。
そして、参加するかどうかを部下たちの個人の判断に任せたのです。
しかし、部下たちは皆スコルツェニーの計画に迷いなく命を懸けると言いました。
スコルツェニーの熱意と彼の人望が伝わってきますね!
そして、200人いるイタリアの守備兵に対し、数十人でホテルを制圧することに成功したのです!
大胆な計画を、先陣を切って行動に移した彼がつかんだ成功でした。
そしてヒトラーの下へとムッソリーニを無事に連れ帰りました。
ハンガリーでの活躍
イタリアでの任務完了後、スコルツェニーはフランスやユーゴスラビアなどで任務にあたっていました。
そして、1944年9月にヒトラーから夕食会に招待され新たな任務について聞かされます。
それは、盟友であるハンガリーが連合国と独自に単独講和を企てているというものでした。
ハンガリーが戦争に協力しないとなれば、ドイツにとって大きな痛手になります。
ハンガリーの動きを阻止することこそが、今回のスコルツェニーの任務だったのです!
スコルツェニーはさっそくハンガリーにて、当時連合国側との講和を進めようとしていたハンガリーの総督の息子を誘拐します。
しかし、この出来事が起きた後も、総督はドイツに対峙し続けました。
このままでは、ハンガリーとの関係がますます悪化すると、スコルツェニーは焦りました。
そして、状況を好転させられると期待されたのがパンツァーファウスト作戦です。
これは、ハンガリーの首都、ブタペストを制圧するための作戦でした。
この際、スコルツェニーは先頭に立ち、ハンガリーの司令官の所に急ぎました。
なるべくハンガリー軍との戦闘を避けながらもハンガリー軍の中心へと突入したのです。
そして、無益な争いを避けるよう、ハンガリーとドイツとの協力を訴えました。
結果的にドイツ軍の制圧は成功します。
スコルツェニーは戦争に勝利するにはハンガリーの協力も不可欠と考えました。
広場に多くのハンガリー兵を集め、彼らの兵士としての誇りを傷つけることが無いよう、ドイツへの協力を促しました。
結果的に、ハンガリーは敗北までドイツと共に戦い続けたのでした。
一般的にみれば、これはドイツが行ったハンガリーでの軍事クーデターであり、その後の歴史的にみても、これがハンガリーにとって好機となったかはわかりません。
しかし、スコルツェニー自身は軍人としての誇りをもって任務を行いました。
広場でのハンガリー兵に対する演説も、軍人としての熱い思いを表現したものとなっていた。
ドイツの敗北とその後の人生
スコルツェニーは大いに活躍しましたが、日を追うごとにドイツの戦況は苦しいものとなりました。
終戦の時が近づく中、スコルツェニーはどのような運命をたどったのか…
そして戦後の彼の人生はどのようなものだったのかをご紹介いたします!
ドイツの戦況悪化
1944年10月、スコルツェニーは再びヒトラーから直接命令を受けました。
それは、のちに西部戦線で最後の激戦といわれるバルジの戦いにて行われるものでした。
内容はスコルツェニーの特殊部隊が敵兵士に変装し、敵軍の後方をかく乱するというものです。
この任務は、敵兵に変装するための軍服などの物資から、流暢な英語を話せる軍人、敵軍に紛れ込むための情報など、多くの準備時間と物資を必要としていました。
スコルツェニーはまたしても、成功することが難しい任務を任されたのです。
しかし、スコルツェニーは任務を引き受け、成功のために奮闘します。
そして、アメリカ軍の兵士を装うための訓練を受けた兵士たちが戦場に放たれたのです。
もちろん、多くの兵士が偽物であることがばれて、捕虜となりました。
しかし、自国の軍隊の中にドイツのスパイが紛れ込んでいるかもしれないという疑いは、恐怖や混乱を生みました。
多くのアメリカ軍は、偽物を探すためにお互いに疑い、誤って見方を拘束することもありました。
ドイツ軍の持つアメリカ軍の情報は完ぺきではなく、かく乱作戦を行うには決して万全な状態ではありませんでしたが、スコルツェニーは敵軍を恐怖に陥れることに成功したのです。
故郷ウィーンへ
バルジの戦いの後、負傷したスコルツェニーは前線を離れていました。
1945年の初め、スコルツェニーはヒトラーと再び面会します。
このころすでに大戦の終結が間近であると誰もが予想していました。
しかし、面会したヒトラーは自身と熱意にあふれていました。
このころのヒトラーはすでに正常な判断ができる状態ではなかったと考えられます。
そして、ドイツの直面している現状を正確に把握できていなかったのです。
それでもスコルツェニーは最後まで戦い続けました。
東部も西部も、連合軍やソ連軍の侵攻を食い止める必要がありました。
しかし、日に日に戦況は悪化していった上、かつての有能な兵士はもう存在しませんでした。
粗末な装備で訓練を受けていない兵士がただ消費されるだけになってしまったのです。
そして、スコルツェニーは最後の命令を受けます。
アルプスにいる軍を増強せよというものでした。
そしてスコルツェニーはドイツからオーストリアのウィーンへと急ぎました。
その中で彼が目にしたものは疲れ果てた悲惨な兵士たちの姿でした。
そして故郷でもあるウィーンに到着したのです。
しかし、すでに軍隊は壊滅状態であり、明日にでもソ連軍に占領されるという状態でした。
スコルツェニーはそこで確かに敗北を感じたのです。
今まで彼を突き動かしてきた何かが消えた瞬間でした。
敗戦と米軍への降伏
強い敗北感を覚えたスコルツェニーでしたが、最後の命令のため、アルプスにいるはずの軍を探しました。
しかしそこにはもう、サビついた少しの兵器と戦車がいくつか、人影はありませんでした。
アルプス軍は上層部の空想であり彼らは本気で、山中に逃げ隠れた、まだ戦える兵士たちがたくさんいると信じていたのです。
万事休すという状態になったスコルツェニー。
彼にとっての次なる問題は、今後どうするかということでした。
そして数名の部下と共にアルプスの山中に隠れたのです。
1945年5月8日にドイツが敗北してからもしばらく、スコルツェニーは山で過ごしました。
米軍はすでにスコルツェニーと思われる人物を数十人も逮捕していました。
降伏を決心したスコルツェニーは、近くの米軍指揮官に書簡で所在を知らせました。
しかし何と!まともに取り合ってもらえず、自ら出頭したのです!
その後もアメリカ軍は、彼がスコルツェニーであるということを信じるまでには時間がかかりました。
そして逮捕されたのち、二年間の捕虜収容所生活を送ることになるのです。
この時、スコルツェニーは世界中から注目され、ニューヨークタイムズなどでも大きく取り上げられました。
彼の戦時中の存在感が感じられますね!
アメリカでの裁判
その後、スコルツェニーは戦犯裁判の法廷に立ちました。
虐殺や公人の暗殺計画など、告訴された罪状は多岐にわたりました。
弁護人として米軍のロバート大佐という人物が弁護を行いました。
当初スコルツェニーは彼が検察側の人間で自分の味方になるはずがないと考えていました。
しかし、彼は熱心にスコルツェニーの弁護を行いました。
それだけではなく、イギリス空軍の英雄的な存在であったイェオ=トマス中佐という人物は証人としてスコルツェニーを助けたのでした。
それは敵同士であるにもかかわらず、彼がスコルツェニーのことを立派な軍人として認めていたからでした。
第二の人生の成功
無事にスコルツェニーへの告訴は取り下げられましたが、なかなか無罪放免とはならず、再び収容所送りにされてしまいます。
釈放の機会は訪れるもその度に延期となり、数か月の間スコルツェニーは思い悩んでいました。
助言を求め、イェオ=トマス中佐に手紙を送ると、簡潔に返信がありました。
手紙には「脱走」という二文字。
そして…スコルツェニーは本当に収容所から仲間の助けを借りて脱走したのです!
しかし、独立国家として再び歩みを始めた西ドイツには迷惑をかけられないと考え、スコルツェニーは自分で自分の身を守ることを決意します。
身を隠すため、髪をブロンドに染め、家族との再会も果たしました。
そして最終的にスペインに渡り、エンジニアという戦前の職業を再開したのです。
彼の設立した工業技術関係の会社は、1952年に当時としてのスペイン戦後の最大売り上げを記録する大当たりとなりました。
その後も事業を続け、彼の第二の人生は成功したといえるでしょう。
オットー・スコルツェニーの波乱万丈な人生は1975年7月5日に幕を閉じました。
最後に
オットー・スコルツェニーの人生を皆さんはどのように感じましたか?
第二次世界大戦という過酷な状況を、信念をもって生き抜いたのだと筆者は感じました。
第二次世界大戦の戦況を、ドイツ側から考えるというのは新鮮な視点だったのではないでしょうか?
世界史や大戦の歴史から学ぶことはたくさんあります。
皆さんの歴史への興味が、この記事によって少しでも増せば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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チャールズ・ホワイティング著
芳地昌三訳
「ヨーロッパで最も危険な男」
サンケイ出版 1985年
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