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世界史に名を遺したスターリンとは?その功績や最後を解説!

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スターリンとは、ソ連の基盤を作ったレーニン亡き後、ソ連の独裁的権力を握った人物です。

レーニンは反対派を次々に排除し個人崇拝を強めた独裁者であったとも言えます。

スターリンはどのようにして独裁者スターリンになったのか?

独裁者であったスターリンが後世、批判されたのはどういうわけだったのか、これらについて説明していきます。

目次

スターリンとは誰か?

スターリンはどういった人物なのでしょうか。

そして、どのようにして独裁者スターリンになっていったのでしょうか。

スターリンの生い立ち

1879年12月21日、スターリンはロシア帝国領グルジアのゴリで生まれたとされています。

(教会の記録等には1878年生まれとなっていますが、何らかの理由で公式の生年月日は1879年となっているそうです)

本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。

農業労働者であった農奴(のうど)出身で、靴職人であった父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリオンと母エカチェリーナ・ゲラッゼの間に生まれました。

信仰心が篤かった母の勧めで勉強に励み、1894年にはジョージアの中心都市チフリス(現在のトビリシ)の神学校に進学します。

この神学校で、当初は真面目に勉強し、成績も上位にあったそうです。

けれどこの当時、チフリスの神学校は生徒たちの間に体制に対する反抗的精神が充満し始め、社会民主主義(マルクス主義)の温床となっていました。

マルクス主義とは、プロレタリアート(資本主義社会における賃金労働者階級(無産階級とも言う))を、解放して社会主義を実現しようとす運動のことです。

また社会主義とは、個人主義、自由主義、資本主義、市場経済の弊害に反対し、より平等な社会を目指す運動のことを指します。

当初勉学に励んでいたスターリンも次第にこの雰囲気に染まり、興味が神学の勉強から社会主義活動へと変わっていきます。

1898年、ロシア社会民主労働党が結成された年には、スターリンはチフリスの社会民主主義組織に参加し労働運動に積極的に関わるようになりました。

その結果、1899年5月、神学校での最終学年への進級試験を受けなかったという理由から退学処分を受けました。

神学校からの退学という出来事が、スターリンを革命家へと歩むことにつながったのです。

スターリン・職業革命家へ

神学校を退学させられたスターリンは、1899年末にチフリス測候所(測候所とは気象観測を行う場所のこと)の職員となりました。

ここで仕事をしながら社会民主主義組織での活動と続けたのです。

しかしチフリスで労働運動への取り締まりが強化されるようになったことで、1901年に測候所を辞め、職業革命家となることになりました。

職業革命家とは、革命家と正式な職業とする者のこと、ここから本格的に革命への道を歩み始めたということですね。

この頃彼は「コーバ」の名で知られていました。コーバとはジョージアで広く読まれていた義賊の名前。

この当時の革命家たちは本名を隠して筆名(文書を書くときに使う名前のこと。ペンネームとも言います)、組織名を名乗ることが普通でした。

彼が義賊の名前を使ったことから、自らを民衆にどう見せたかったかがよくわかります。

そんな義賊のような活躍を望んだスターリンも1902年4月には活動の科で逮捕、投獄されます。

そして、翌年には3年間に及ぶ東シベリア流刑が宣告されてしまいました。

この流刑先からスターリンは脱走し、革命活動を非合法的に再開させるのですが、このとき、ロシアのマルクス主義組織に大きな変化が現れました。

それはボリシェビキとメンシェビキの二つの体制への分化です。

当時ロシアのマルクス主義組織、ロシア社会民主労働党は党組織のあり方をめぐる分裂が生じていました。

ロシア社会民主労働党を率いていたレーニンは、自身の考えに賛成する多数派の党員をボリシェヴィキ、反対する少数派の党員をメンシェヴィキと呼び区別することとしました。

スターリンが活躍していたグルジアではメンシェヴィキが優勢であったものの、スターリン自身はレーニンの考えに賛同するとしてボリシェヴィキとして活動を進めます。

ボルシェヴィキであるスターリンはグルジアで精力的に活動を展開、次第にボリシェヴィキの活動家として頭角を表すようになりました。

独裁者スターリンになる

職業革命家としてのスターリンは、何度も逮捕、流刑されます。

しかし、その度に脱走。

逮捕され、流刑に処され、そこから脱走して非合法的に活動するを繰り返しながら、ボリシェヴィキの不屈の戦士としてその名を轟かせていきます。

1912年、レーニンからの信頼を得たスターリンは社会民主労働党協議会で中央委員、党内で決定権を持つ委員に選出されます。

そして、活躍の場をロシア全土へと広げました。

このころ、「マルクス主義と民族問題」というスターリンの代表的論文が発表されます。

この中で用いた筆名こそがスターリンなのです。ロシア語で「スターリ(сталь)」とは鋼鉄のこと。

鋼鉄の人としてスターリンの名は広く知れ渡っていったのでした。

最後の皇帝ニコライ2世

1917年、ロシア革命がおこりロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世が帝位を追われます。

このことを流刑地で知ったスターリンはロシアの首都ペテログラートへと移り、ペテログラート・ソヴィエト執行委員会のボリシェヴィキ代表に選出されました。

このとき、レーニンは亡命しておりロシア国内にいなかったため、事実上スターリンらが国内のボリシェヴィキを率いることとなったのです。

1917年10月には、10月革命が起こります。

これが、ソヴィエト政府の始まりです。ソヴィエトとは会議を意味する言葉です。

ロマノフ王朝が倒れた後、新しい国家体制としてソヴィエトという名前を使った国家ができたというわけです。

スターリンは新しい政府の中で民族問題人民委員に就任、旧ロシア帝国内における幅広い民族自決権を承認するに至りました。

しかし、スターリンが承認した自決権は民族個々の自決ではなく、民族内のプロレタリアートの自決でした。

「自決の原則は、社会主義のための闘争の手段でなければならないし、社会主義の原則に従属になければならない」

つまり、旧ロシア帝国内におけるロシア人、非ロシア人に拘わらず、全ては社会主義を実現させるための決定権であって、個々のやり方を認めるものではない、としたのです。

そして、この原理をもとにロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国が成立します。

これは1922年に成立するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の中核となっていきます。

ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の中でスターリンは強権的統制を断行。

それでも、レーニンの信頼をますます勝ち得ていき、国家の行政機構に影響を及ぼす地位にまで上り詰めていったのです。

レーニンの後継へ

1920年ごろのロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国は第一次世界大戦、革命、それに続く内戦により経済は疲弊しきっていました。

この経済を立て直す策「新経済政策(ネップ)」を打ち出したのがスターリン。

ネップの功績が認められ、政治局会議の議題設定と人事問題の決定を行える共産党中央委員会書記長の初代の座に就任。

スターリンの政治的影響力は増す一方でした。

そんな中、1924年1月21日、レーニンが死去します。

レーニンによる後継指名がされていなかったため、もう一人の有力者トロツキーとの間で大きな権力闘争が起こります。

最終的に党内派閥を自らの派閥で固めたスターリンが1929年に政権を樹立。

1953年まで続く長い独裁体制へと入っていくのです。

第二次世界大戦

偉大な指導者であったレーニン死去の後、スターリンの政治のあり方を大きく決めることになる第二次世界大戦が起こります。

スターリン体制はどのようにできていったのでしょうか。

スターリン体制の成立

1929年10月24日、ニューヨークの株式が暴落したことをきっかけに世界恐慌が起きます。

アメリカ、アジア、ヨーロッパでは長く不況の時代が続き、世界は混乱に陥っていました。

そんな中、世界恐慌の影響も少なく、工業化を押し進めた国、それがソ連です。

1920年台から30年台初頭のソ連を特徴付ける言葉は「上からの革命」と言われます。

集団農場(コルホーズ)を建設する事業、農業集団化の特徴を表す言葉として用いられた表現で、国家権力により農業のあり方を変革。

そして急速に工業化を進めることをこの時代は目指したのです。

こうした急速の変革は、その分野を担う生産の現場の不評を買い政府に対する不信感が増しました。

それまで自分のやり方でやっていたものを、大きな力で無理やり動かされ、しかもスピードを求められるという状況は気持ちいいものではありませんよね。

それに対し、政府は反対する労働者を排除し、国家が経営の主体を担うという強行姿勢を見せました。

農業の現場においては、農民層の中で経済的に豊かであった農民(クラーク)たち、工業化においては帝政時代から働くブルジョア専門家たちが現場から排除されました。

こうした国による管理体制を強めることにより、スターリン体制は確立されていったのです。

スターリン粛清時代の始まり

独裁者の色を持つスターリンは、自らに反発する多くの人々を粛清したことでも有名です。

上からの革命、5ヵ年計画においても反対派が排除されたことは先述した通りです。

政敵はもちろんのこと、スターリンに少しでも反対の意思を見せた者は流刑される、処刑されるといった状況は当たり前でした。

スターリンは1938年当時で1億7000万人いたソ連を構成する人々の生殺与奪権を握っていたとも言えるのです。

ホロドモール

大きな粛清、ジェノサイドの例として1932年から33年にかけてのウクライナ飢餓が挙げられます。

飢餓殺人、ホロモドールと呼ばれるこの出来事によって300万から500万人の人々が亡くなりました。

ヨーロッパでも有数の穀倉地帯であるウクライナが大量の飢餓者を出す事態になったのもちろん、スターリンの意図があってのことです。

スターリン体制によって定められた農業の集団化と、生産量以上に穀物を国家に収めなければならない状況に抵抗したウクライナ農民は、ウクライナ各地で農民一致を起こしました。

さらに、ウクライナ人が見せた民族主義と独自性への執着がスターリンをはじめ、政権指導部にとって目障りだったためにこのホロコーストを意図的に起こしたと言われています。

スターリン政権はウクライナに対しさらなる穀物の徴発を求めた上、ウクライナとロシアの国境を封鎖。農民が移動することを一切禁じてしまいました。

外国からのウクライナ救援食料はスターリンらによって絶たれ、ウクライナ内では餓死者が相次いだのです。

この出来事は、スターリンが自らに反抗の意思を見せたウクライナ人に対し、敵性民族としてのウクライナ人を破壊。

ウクライナ民族主義を奪った上で、ウクライナ人をソヴィエト国民に変えようとしたことの表れであると言えるでしょう。

こうした民族に対する大規模な抹殺行為から、個人に対する処刑まで、スターリンや政権の指示のもと多くの人が粛清されました。

反対派を抹殺していけば、最後には「イエスマン」しか残りません。

この粛清行動は、スターリン個人への崇拝が強まることにつながり、ますますその指導体制は盤石なものになっていったのです。

反対派が声を上げられなくなった1936年、スターリン憲法の名で知られる新ソ連憲法が制定されます。

ソ連が階級対立のない社会主義国家であることを規定。

労働者と農民の権利規定は、全国民を対象としたソヴィエト市民の基本的権利に変わり、社会主義強化のための言論、出版、集会、信教の自由が認められました。

ここでスターリンが作り上げようとした社会主義国家が完成したのです。

スターリン憲法制定後も、政敵や政敵になりうるであろう古くからのエリート層は排除され続けました。

その代わりにスターリン体制のもと採用された若手の幹部候補が空いた席を埋めて行きました。

このようにして、政権の代替わりと自らの独裁体制を強めることを同時に行なっていた、と言えるでしょう。

独ソ不可侵条約から連合国側へ

スターリンが国内で独裁体制を確固たるものに近づけている間、国際情勢はどんどん変化していきました。

1938年、ドイツのヒトラーはオーストリアを併合。チェコスロヴァキアからズデーデン地方を獲得。

同じ年に日本軍とソ連軍が衝突する張鼓砲(ちょうこほう)事件が起こった上に、1939年にはソ連、モンゴル、日本がぶつかるノモンハン事件が起きました。

西側、東側とも緊張状態に置かれたスターリンはドイツのヒトラーに接近し、1939年8月23日独ソ不可侵条約を締結します。

この中では、

・お互いに相手国を攻撃しない。(不可侵)

・一方が第三国から攻撃されたときに、他方は第三国を応援しない。

・情報交換、協議のための接触を行う。

・ともに一方を直接敵、間接敵とする諸国家の集団に入らない。

・相互間の紛争の平和処理。

・密約としてポーランドの分割

・バルト三国のソ連による併合

が定められました。

ソ連としては東も西も一気に軍事衝突が起きると対応しきれないから、まだ譲歩の余地がありそうなドイツと条約を結んだ、ということなんですね。

しかしこの約束がありながらも、ドイツは一方的に条約を破棄。

1941年6月22日にドイツ、ソ連の境界線を超えてドイツ軍が侵攻を開始してしまいます。

ドイツとの間に戦争が起きてしまった為、スターリンはそれまでの主義思想を変えアメリカ、イギリスらの連合国側に接近。

独ソ戦に勝利し、また第2次世界大戦において戦勝国側につくことができたというわけです。

終戦、新たな国際秩序へ

第2次世界大戦を戦勝国側として終えたスターリン率いるソ連は、1945年サンフランシスコ会議に参加し、国際連合憲章に基づく国際連合設立に関わります。

また、国際の平和と安全に主要な責任を持つ安全保障理事会の常任理事国の1つとなりました。

新しい国際秩序である国際連合という枠組みは、問題を色々とはらみながらも現在まで続いています。

今ロシアが安全保障理事会の常任理事国の一端を担い続けているのは、第2次世界大戦でソ連が戦勝国となったことに起因しているのですね。

その後、アメリカを中心とする資本主義を掲げる国たちと、戦後のドイツ処理をめぐって対立し、冷戦へと突入してしまいます。

ただ、この時にはすでにスターリンの名前はソ連の勝利と結び付けられ、戦前にスターリンが作り上げた体制はソ連の国民の間で正当性を確保していったのです。

そして、第2次世界大戦前に形成されたソ連体制は固定化されていったのでした。

東西冷戦時代とスターリンの死

Looking down Okhotny Ryad Street, Moscow

第二次世界大戦から続く冷戦期、ソ連はスターリンを中心とする社会主義体制、そして独裁体制をますます強化していきます。

そのとき何が行われていったのでしょうか。

社会主義体制の盟主へ

第2次世界大戦時、ナチスドイツはヨーロッパ特に東欧諸国をその支配下に置いていました。

独ソ戦を経てそれらの国々をナチスから解放したソ連は、解放地での影響力を強化していきます。

親ソ的民主主義政権を樹立させていったのです。

1947年にはソ連を盟主としてルーマニア、ブルガリ、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアの8カ国でコミンフォルム(共産党情報局)を結成。

1949年、ソ連と東欧の社会主義国家との経済相互援助会議、COMECONを結成。

経済的な繋がりを強めた上で、西側諸国が作った軍事同盟NATOへの対抗策としてワルシャワ条約機構を成立させます。

また、核兵器開発を進めたのもこの時期のこと。

第2次世界大戦末期、アメリカは日本に原子爆弾を2発落としました。

これに対抗したスターリンはソ連国内でも核兵器を開発させ、軍事力においてアメリカに対抗し得る超大国へとなっていったのです。

権力維持への執念

東欧諸国の盟主として、また核を保有する超大国のリーダーとして名を轟かせたスターリンでしたが年齢には勝てませんでした。

第2次世界大戦が終結した時、スターリンは65歳。

年を追うごとに彼の猜疑心、そして権力維持への執念は強くなっていきます。

自分の地位を脅かすものを排除する、後継者となり得るような人物を遠ざけるといったことがよく見られるようになりました。

また1952年には長年スターリンの警護室長であったニコライ・シドロヴィチ・ヴラシクが左遷されたことを筆頭に、個人秘書を遠ざける、主治医たちを逮捕するといった行動に出ています。

しかしこういった恐怖の雰囲気は突如収束します。1953年3月5日、スターリンが死去したからです。

スターリンの死と「スターリン批判」

スターリンの死因は脳卒中と言われています。

スターリンの許可なく居室に入ることを周囲の人間が極度に恐れていたことが原因で発見が遅れ、死に至ったのではないかと推測されています。

スターリンの遺体は保存処理がされ、レーニン廟でレーニンの遺体と並べて安置されました。

ソ連の人々は絶対的な指導者の死に涙したと言われます。

1956年、スターリンの死後第一書記に就任したフルシチョフによりスターリン批判がなされたからです。

これはソ連国内だけでなく、世界に向けられた報告、演説であり、ソ連の非スターリン化が始まったのです。

レーニンの隣に安置されたスターリンの遺体は、多くの共産党指導者が埋葬されるクレムリンにて改葬されました。

このスターリン批判の背景には、スターリンが押し進めた核武装、開発の結果、財政に大きな負担がかかっていたことによるものがあります。

冷戦はその後1989年まで続きますが、こうしてスターリンの時代は終わったのです。

世界史に名を遺したスターリンとは?まとめ

レーニンに続くスターリンの時代を作り上げたスターリン。

レーニンが土台を作ったソ連は、スターリンによって急速に社会主義国家としての形を整えていったといってもいいのではないでしょうか。

独裁というと恐怖の印象が強いですが、実際やっていたことは恐ろしく決して誉められたものばかりではないのですが、一つのお大きな時代を作った人物でといって間違い無いでしょう。

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【参考文献・参考サイト】
『スターリン 超大国ソ連の独裁者』中嶋毅、山川出版社
『レーニン 二十世紀共産主義運動の父』和田春樹、山川出版社
『図説ソ連の歴史』下斗米伸夫、河出書房新社
『スターリンのジェノサイド』ノーマン・M ・ネイマーク、みすず書房
スターリン http://www.y-history.net/appendix/wh1502-122.html

職業革命家 https://artsandculture.google.com/entity/m05wg1z?hl=ja
ロシア=ソヴィエト社会主義連邦共和国 http://www.y-history.net/appendix/wh1501-098.html
ソ連の農業政策・食糧政策 経済外強制から経済的刺激へ   https://www.jstage.jst.go.jp/article/joah/54/0/54_3/_pdf

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