ラヴレンチー・パーヴロヴィッチ・ベリヤは、スターリンの側近の一人であり、「五人組」の一人として知られています。
スターリン統治下のソ連において、秘密警察や諜報機関を一手に引き受ける行政機関、NKVDに所属し活動していました。
そんなベリヤとは一体どんな人物なのか?
ベリヤの生い立ちや、ベリヤがトップを務めたNKVDとはどういったものか、冷戦期、どのように核開発を進めたのか、これらについて説明していきます。
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤという男
ベリヤは第一書記といった目立つ位置には就かなかったものの、スターリン期のソ連を見ていく上で重要な人物であることは間違いありません。
ベリヤの生い立ち
ベリヤはジョージアの少数民族ミングレル人の農家の息子として生まれました。
1899年3月29日に出生地であったスフミ(現ジョージア国内の自治共和国アブハジアの首都)近郊のロシア正教会で洗礼を受けたとされます。
ベリヤはスフミ実業学校、バクー工業専門学校へと進学し、建築技師の資格を得ました。
このとき数学と化学の成績は良かったようです。
校内では「刑事」とあだ名がつけられたと言います。
学内では盗みが頻発しており、それらの「事件」をベリヤが解決。盗まれた品のほとんどを回収していたというのです。
しかしこれには裏があります。
回収率が良かったのは、その犯人がベリヤであることがほとんどであったから。
なんとも狡賢い人物であったのかもしれません。
ベリヤ、ジョージアからモスクワへ
1917年10月、ロシアで10月革命が起こりました。
この革命の直後、ベリヤはソ連共産党員になり活動の拠点をモスクワに移すことになります。
このころソ連共産党の中ではスターリンがその地位を確立させていました。
スターリンもベリヤと同じく現在のジョージアから出てきた名士。ベリヤはそんなスターリンにすり寄っていきます。
スターリンの娘であるスヴェトラーナの回想によると
「ベリヤは父に一心をささげるという態度を崩したことがなかった」
とあります。
スターリンとベリヤの関係は君主と廷臣の関係。馴れ馴れしく接するのではなくあくまで臣下として支えていたとされます。
スターリンとしては、ベリヤをさまざまな汚い仕事を任せられる、便利で仕事のできるやつ、として使っていた側面もあるようですね。
しかし、そんなベリヤの仕事の仕方、組織管理能力を認めたスターリンによって内務人民委員部(NKVD)のトップに抜擢され、ますますベリヤは活躍していくこととなりました。
ベリヤ自身が粛清対象に
NKVDのトップとして、スターリンの残虐な面を支えたベリヤ。
ベリヤ自身、家に帰れば、妻ニーナ、息子セルゴ、娘エテリ、セルゴの嫁マルファ、初孫ニーナと共に一家団欒で過ごしていました。
正しくは、過ごしているように見えていました。
仕事に邁進するタイプであったようで家をあけることが多かったとされますが、放蕩癖もあったようです。
生粋のサディストであり、女癖が悪い。という言葉では片付けられないほど。
映画女優だけでも79人もの女性がベリヤの犠牲になったとされます。
これらの乱行はスターリンの死後、非公開法廷でベリヤが裁かれた際に全貌が明らかにされました。k
非公開法廷で裁かれるということ。
スターリンが生きている間、ベリヤは権力を掌握していましたが、その死後、ベリヤは失脚に追い込まれたのです。
のちに「スターリン批判」を行ったフルシチョフによって権力を追われたベリヤは「権力を掌握しようとした罪」により、死刑が宣告されます。
そして1953年12月23日。ベリヤは銃殺刑に処されました。

スターリンの粛清を担うNKVDのトップとして
独裁者として知られるスターリンは、多くの自身に反抗する人々を粛清してきました。
その粛清の一端を担ったのがNKVD、そして長官であるベリヤでした。
一体何が行われていたのでしょうか。
NKVDとは一体どんな組織なの?
NKVDとは内部人民委員部のことで、秘密警察、対外諜報の役目を担っていました。
第2次世界大戦中、独ソ戦においてNKVDは赤軍、つまりソ連軍とは別の指揮系統で活動。
スターリンからの退却阻止命令をもとに、前線から逃亡しようとする自国の兵士を銃殺したのもNKVDの仕事でした。
スターリンの指示のもと、政治犯を大量処刑していたのもNKVDの仕事です。
NKVDは1934年に成立。
ベリヤはその3代目長官として就任しました。
この就任自体、前NKVD長官であったニコライ・エジョフ及び、その部下たちを粛清する形の就任だったといいます。
権力闘争の末路を垣間見るような長官交代ですね。
エジョフは、スターリンの弾圧的政策のピークだった1937年の大粛清時のNKVD長官です。
エジョフシチナ(エジョフの時代)と呼ばれる時代を作ったエジョフ。
エジョフシチナの1つの例を挙げると、当時の満州国ハルビンからロシアへの帰還者を「日本のスパイ」として弾圧。
4万8000人以上が逮捕され、うち3万992人が銃殺されたのです。
この大粛清の流れを、少しだけ変えたのがベリヤです。
民衆に対し過度な弾圧を続けることは、スターリンの支持率の低下に繋がりかねません。
この事実をスターリンが認識していたため、長官をベリヤに変えたのではないかという見方があります。
エジョフが長官であった最後の年の1938年、ソ連において死刑判決を受けた人数は32万8000人。
これが、ベリヤが長官に就任した1939年には2600人となりました。
死刑判決を受けた数はこのように変化していますが、実際に粛清の規模が小さくなったかというとそういうわけでは決してありません。
ベリヤがNKVDの長官時代には「カティンの森事件」がおこりました。
カティンとは、旧ポーランド領で、現在はロシアのベラルーシ国境近くの森林地帯です。
1940年、おそらくNKVDが主体となり、ポーランド将校ら約4400人を銃殺し、遺棄しました。
これがカティンの森事件です。
これはこのカティンの森だけで起こったことではなく、こういった反対勢力を暗殺する、銃殺するといった事件がソ連の各地でNKVDにより起こされていたと言います。
表立っての粛清の件数は減ったものの、ベリヤが長官時代においても、スターリンの粛清機関であることには変わりなかったNKVD。
そのトップを務めたベリヤという人物。
なんとも恐ろしく感じます。
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ収、容所建設
ベリヤがNKVD長官の座に着いたのは39歳の時でした。
ベリヤは就任以降、以前からあった労働キャンプ(ラーゲリ)を大規模強制収容所群(グーラク)に作り直しました。
ラーゲリとは、収容所、キャンプを指すロシア語です。
第2次世界大戦終結後、シベリアに抑留された日本人により「ラーゲリ」という言葉が日本に知れ渡ったため、「ラーゲリ=強制収容所」と日本では捉えられています。
一方、グーラグとは、複数のラーゲリをまとめる強制収容所センターのことです。
正式には、「強制労働収容所中央管理局」と呼ばれます。
グーラクにはナチスの強制収容所のように集団殺処分を目的としてガス室などは備えていませんでした。
しかし、鉄道輸送によって囚人を搬送し、そこで労働を行わせるという非道な施設、という意味ではほぼ同等の施設であったと言えます。
NKVDの職員70万人のうち、30万人をグーラクの管理にあて、スターリン体制を揺るぎないものにしたのです。
この功績により、ベリヤはソ連の支配階級に名を連ねることになりました。
ここで言われる囚人とは国家反逆罪を犯した一般市民です。
国家反逆罪を犯したものは「人民の敵」と呼ばれ、収容、無給労働に処せられました。
家族ごと収容される例も少なくなかったため、収容者の中には幼児も含まれたとされています。
例えば、ある集団農場の農民家族2万3000人は、決められた日数を働かなかったという理由でグーラクに送られました。
グーラクに送られたのはロシア人が全体の55.6%。それ以外の約44%にはドイツ軍捕虜や日本人捕虜が含まれるとされます。
ともあれ、このような収容所体系をあらためて作り直させたのがベリヤなのです。
KGBとは
ベリヤはNKVD長官としてスターリン体制の重要な役割を果たしました。
このNKVDはスターリンの死後、フルシチョフの時代に新しい組織へと生まれ変わりました。
それがKGBです。
KGBとは国家保安委員会、Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnostiの略です。
その公式の目的は社会主義国家を内外の敵から守り、ソ連の国境を守ることであるとされました。
しかし実質は政治指導部であった共産党中央員会の「剣と盾」であったといいます。
つまり、ソ連の政治を安定させ、反体制派を弾圧する。
諜報活動も国内外で行い、国外においては、秘密作戦の実行を行うほか、ソ連国境の防衛まで全てを担っていたのです。
スパイ活動を行なっていた機関であることはよく知られているのではないでしょうか。
イギリスの有名な諜報機関、MI6とのスパイ合戦などは少し検索しただけでも出てくるかと思います。
また、現在のロシア大統領ウラジーミル・プーチンがKGBに所属していたということもよく知られた事実なのではないでしょうか。
このNKVDの流れを汲むKGB自体は1991年にソ連が崩壊し、冷戦が集結した時点でその役割を終えます。
現在はFSB(連邦保安庁)、SVR(対外情報庁)、MVD(内務省)、FSO(連邦警護庁)がロシアにおける治安の維持を担っているとされています。

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