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NATO・北大西洋条約機構ってなに?ロシアはなぜ硬くなにNATOを嫌うの?

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最近NATOという言葉をよく耳にしませんか?

北大西洋条約機構、NATOは、集団防衛、危機管理、協調的安全保障を掲げる軍事同盟で、第2次世界大戦後の安全保障体制を再構築する過程で生まれました。

具体的にどのようにNATOができていったのか。

NATOの対立軸として冷戦の中成立したワルシャワ条約機構とはどういったものなのか。

冷戦終結後から今に至るまで、NATOそしてロシアはどのように動いているのか。

これら3点について説明していきます。

目次

NATOの成立

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

第2次世界大戦後、ドイツをめぐる戦後処理の過程で西欧諸国とソ連の対立軸が生まれます。

その過程の中で生まれたのがソ連を仮想敵と想定したNATOです。

第2次世界大戦後、一体どんなことがヨーロッパで起きていたのでしょうか。

第2次世界大戦 ドイツの戦後処理

1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め入ることで開戦した第2次世界大戦は、1945年5月8日、ドイツの降伏によって終結しました。

この戦争のヨーロッパにおける戦後処理の一番の要はドイツの統治をどのようにするかにありました。

ドイツの処理について終戦の直前、1945年2月4日にヤルタ会談にて話し合われました。

話し合いの中心になったのはアメリカ、イギリス、そしてソ連です。

ヤルタ会談では第2次世界大戦にかかる戦後処理全般が話し合われ、特にドイツに関しては、

「ドイツの全面的武装解除」

「非ナチ化を通じたナチズムと軍国主義の根絶」

この2点を目的とすることが決まりました。

またドイツに関しては対独戦線を戦ったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連による分割占領が決定されたのです。

その後、1945年7月にアメリカ、イギリス、ソ連が集結したポツダム会議によって改めてドイツの戦後処理が定められます。

この際、「ドイツは単一の経済単位として扱わなければならない」ことを決定したのですが、実際に行われたのはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連による分割占領。

一つのドイツとして扱うことが決められたにもかかわらず、それぞれの地域に最高司令官が存在しているという状態は、ドイツ分断という大きな課題を残すことにつながりました。

東西冷戦

「バルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステに至るまで大陸を横断する鉄のカーテンが下された」

これはヤルタ会談にイギリスの代表として参加したチャーチルが、1946年3月にアメリカで行った演説の一部です。

「鉄のカーテン」という言葉は、第2次大戦後の「東西冷戦」を象徴する有名なフレーズとして人々に広く使われることになりました。

第2次世界大戦中、ヨーロッパではドイツが各国へと侵攻し、その勢力を広げていました。

しかし対独戦線を戦った国々はその勢力図をどんどん覆していきました。

戦後、イギリス、フランスといった西側諸国はソ連とともにヨーロッパの秩序を再構築していったのですが、次第にソ連との溝が深まっていきます。

それはソ連がヨーロッパでもロシアにより近い、いわゆる東欧と呼ばれる国々への影響力を強めていったことがその理由です。

ソ連は、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどに社会主義政権の樹立を支援していったのです。

そうしたソ連の動きの一方でヨーロッパの戦後復興のために、アメリカが復興計画を提案します。

マーシャルプランと呼ばれるこの計画は、ヨーロッパ各国がバラバラに復興を目指すのではなく、ヨーロッパ全体で復興を目指すとしたものでした。

そのためには、分割占領されているドイツの生産力をヨーロッパ全体の復興計画に組み込むべきだとしたのです。

しかし、この計画に関しソ連は異を唱え、アメリカの提案を拒みます。

マーシャルプランは、ソ連にとって自身の影響下にある国々への影響力を弱めるばかりか、「一緒に経済復興を遂げる」ことを目標にすると、自身の国力が下がることが予想できたからです。

ソ連は、自国がマーシャルプランに参加することを拒否したばかりか、自身の影響下にある東欧諸国に対しマーシャルプランへの参加を阻止します。

こうして、アメリカの復興計画を受け入れた西欧諸国と、拒否した東欧諸国とソ連。という東西対立の様相ができてきました。

この対立軸こそが東西冷戦の始まりです。

>>プーチン大統領の任期期限はいつまで?年齢や経歴について解説します!

西側諸国による北大西洋条約の締結

ソ連の影響下にあった東欧諸国に対し、マーシャルプランへの参加をソ連が阻止したことは先述しました。

この阻止された国の1つにチェコスロヴァキアがあります。

チェコスロヴァキアはソ連の影響下にある国でありながら、マーシャルプランへの参加を望んでいました。

ソ連はチェコスロヴァキアの表明に対し、計画への参加を断念させますが、チェコスロヴァキア国内から批判を受けることになってしまいます。

そこでソ連はチェコスロヴァキア政権に介入。

1948年2月、チェロスロヴァキアの大統領をソ連と思想を同じくする共産党系の大統領にすげ替えるというクーデターを起こさせたのです。

ソ連のいうこと聞かないと、無理矢理いうこと聞かせるぞ。という強行姿勢をとったわけですね。

チェコスロヴァキアにおけるクーデターは、西欧諸国に衝撃を与えました。

そもそも、東欧諸国においてソ連の影響が増す中、一国の代表をクーデターを起こさせることによりすげ替え、ソ連化させてしまった。

このソ連の行動は、西欧諸国にヨーロッパにソ連化の波が到来することを予期させることになります。

そこでアメリカ、イギリス、フランス、ソ連で分割占領していたドイツのうち、「アメリカ、イギリス、フランスが占領していた地域」で「通貨改革」経済復興のため新通貨発行を断行したのです。

西ドイツを経済復興させることとはつまり、西ドイツをソ連化させないこと。

西欧諸国に取り込むことを意味します。

アメリカらが実施した通貨改革に、ソ連は「ドイツをさらに分断するものだ」と反発。

1948年6月にベルリンを封鎖します。

ベルリンは他のドイツの都市とは異なり、ベルリンという都市自体がアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領されていました。

このベルリンを封鎖するという、西欧諸国にとって暴挙と呼べるようなソ連の行為により東西対立はますます深まります。

実はベルリン封鎖が行われる前の1948年3月に、ブリュッセル条約が締結されていました。

これは「ドイツによる侵略への備え」としてイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの5カ国が締結した集団防衛機構です。

表向きにはドイツの侵略に備えるとしながらも、実際に条約が対象としていた相手はソ連でした。

ソ連がいつこちらに攻めてくるかわからない。そんな不穏なムードが西欧諸国に流れていたに違いありません。

実際、ソ連による核兵器開発が活発化していくのもこの時期になります。

更なるソ連の脅威が増す中、5カ国だけではなくもっと広く連携してソ連の脅威を抑えようと1949年4月に締結されたのが北大西洋条約。

ブリュッセル条約を締結した国に、アメリカ、カナダ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガルが加わった合計12カ国による条約です。

1952年には北大西洋条約に加わった国の軍事同盟として北大西洋条約機構、つまりNATOが結成されることとなりました。

北大西洋条約の第5条では

「締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがつて、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第五十一条の規定によつて認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。」

と定められています。

つまり、加盟国のうちどの国が攻撃されたとしても、軍をもって反撃することを定めているのです。

北大西洋条約の中に、具体的な「敵」についての明言はありませんが、「ソ連」を仮想敵としてみなしていたということは、公然の事実だったようです。

西ドイツの加盟へ

1948年6月、ソ連によりベルリンが封鎖されたことは先述しました。

ソ連が統治していたベルリンも、アメリカ、イギリス、フランスがそれぞれ分割統治していたベルリンも全て他の地域と道路、鉄道、水路を遮断することで封鎖されてしまったのです。

封鎖によりアメリカ、イギリス、フランスがベルリンから占領軍を撤退させ、ベルリンを分割統治を放棄することをソ連は狙ったのですが、これにアメリカ軍が対抗。

アメリカ空軍により物資の搬入がベルリンにされ、占領軍とベルリン市民の生命の危機を救う「大空輸作戦」に出ました。

これを受け、ソ連はアメリカと協議の場を持ち、ベルリンを東西で分断することで決着させます。

アメリカ、イギリス、フランスの管理地域では1949年5月に西ドイツ基本法が交付され「ドイツ連邦共和国」が成立することとなりました。

また、1949年10月にはソ連の統治地域において「ドイツ民主共和国」が成立します。

当時のヨーロッパにおける均衡状態は、ドイツに2つの国家が樹立したことで保たれているようにも、また少しのバランスの崩れで崩壊してしまいそうにも見えていたことでしょう。

そのバランスがまたも「あわや」のところまで来たのがNATOへの西ドイツ、ドイツ連邦共和国の加盟です。

ドイツ連邦共和国は、西欧諸国の支援によって復興を進めていました。

西ドイツが経済発展を遂げていく一方、社会主義体制をとるドイツ民主共和国は西ドイツのようには発展が進まず、その経済の差から関係が悪化していきました。

関係は武力衝突の危機にまで発展したことから、1955年5月6日、NATOに加盟することを条件にドイツ連邦共和国は独自の軍事力を持つことが認められます。

東側、つまりソ連に地理的に直接対峙するドイツ連邦共和国が軍事力を持ったこと。

そして西ドイツがNATOに組み込まれたことは、ソ連の態度をさらに硬化させることになり、東西冷戦が本格的なものとなることにつながったのでした。

ワルシャワ条約機構の成立

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

冷戦の中、NATOに対抗するためワルシャワ条約機構が成立します。

NATOにより仮想敵と想定されたソ連は、どのように冷戦を終わらせる方向に進んでいったのでしょうか。

NATOへの対抗措置として

1955年5月14日、ソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ドイツ連邦共和国(東ドイツ)、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの8カ国は軍事同盟条約である「ワルシャワ条約」に署名しました。

合わせて、統一司令部議定書が調印されたことでワルシャワ条約機構が成立したのです。

これは、前文に

「再軍国化した西ドイツの参加の下における「西ヨーロッパ連合」の形における新たな軍事的共同戦線の結成及び北大西洋ブロックへの西ドイツの加入を規定し、その結果新戦争の危険が高まり、かつ、平和愛好国の国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定の批准によつてヨーロッパに生起した情勢を考慮し、ヨーロッパの平和愛好国が、これらの情勢の下に、その安全の擁護及び、ヨーロッパにおける平和の維持のため、必要な措置を執らなければならないことを確信し」

とあるように、NATO、もっというとドイツ連邦共和国のNATO加盟および、再軍備化への反発が成立の要因とされています。

一方で、ワルシャワ条約第11条に

「この条約は、締約国が終始一貫して追求するヨーロッパ集団安全保障体制の結成、及びその目的のための集団安全保障に関する全ヨーロッパ条約の締結が行なわれたときは、その全ヨ−ロッパ条約が効力を生ずる日に効力を失う。」

とあるように、ヨーロッパ全土で統一の安全保障を行う条約が締結されれば、ワルシャワ条約及び、ワルシャワ条約機構は失効すると定めています。

つまり、軍事的衝突に備えてワルシャワ条約を成立、東側の軍事同盟を作ったのではなく、「大きなヨーロッパの安定体制」を目指すための外交手段であったのではないかとされています。

とはいえ、ソ連は1948年ごろより継続して西欧諸国、特にアメリカへの対抗策として核兵器の開発をしています。

1954年9月14日には、大気中核爆発を伴う軍事演習、1961年10月27日にはミサイル発射による宇宙空間核実験、10月30日には巨大キノコ雲を出現させた巨大水爆実験が実施されました。

外交的手段とは、ヨーロッパの集団安全保障とは、考えさせられてしまいますね。

平和共存を目指す

NATOの枠組みを中心とした西欧諸国と、ワルシャワ条約機構を構えたソ連を中心とする東側諸国との対立、冷戦は深刻化する一方でした。

こうした冷戦の流れを変えるきっかけの一つになったのがソ連のフルシチョフによる演説です。

フルシチョフとは冷戦時代のソ連を率いた最高指導者の一人。

1924年から1953年にかけてソ連で独裁的権力を握っていたスターリンの死後、最高指導者になった人物です。

フルシチョフは1956年2月、ソ連で行われたソ連共産党第20回大会においてスターリンを批判する演説を世界に向けて行いました。

その内容は、スターリンがいかに残忍であったのか、またその政策の多くは誤りであったというものです。

そして西欧諸国とは、暴力をもって勢力を争うのではなく、議会制度を通じ平和的に共存を図ろうと方針を変更させました。

この方針変換は、ソ連の支配に不満を持つワルシャワ条約機構の国の状況を変えていくきっかけとります。

まだ鎮圧されることが多いものの、ポーランドやハンガリーなどでソ連の支配に対する反発が表面化するようになったのは、このスターリン批判がきっかけの一つであったと考えられます。

プラハの春

フルシチョフによるスターリン批判があってもなお、実際にはNATOとワルシャワ条約機構という二つの軍事同盟の対立は続きました。

表立っての戦闘にはならないものの、お互いに核兵器などを整備、軍備拡大の流れとなっていきます。

そんな時ワルシャワ条約機構が武力を行使する出来事が起きました。

それがプラハの春、チェコスロヴァキアにおける革命に対する介入です。

チェコスロヴァキアはワルシャワ条約機構を構成する国の一つであり、1950年代ごろまでは経済は順調に回っていました。

しかし、1961年になると日用品を入手することさえできなくなるほど経済が落ち込み、経済改革ひいては政治改革が必要であるとの意見が出てくるようになったと言います。

この動きに対し、当初ソ連は特に反対の態度は見せませんでした。

そこで1968年4月、チェコスロヴァキア指導部は共産党的な考え方からに抜け出した行動計画を発表。

6月には共産党を批判し改革と民主化を訴えた文書が新聞各社に取り上げられると、国中からこれを支援する宣言が出されました。

これがプラハの春です。チェコスロヴァキアに民主化の芽吹きが見られたのです。

しかし、この動きをポーランドひいてはソ連指導部が非難します。

「社会主義諸国の主権と自決権は、社会主義世界の大勢の利益に従属する」

つまり、社会主義を脅かす存在があれば、他の社会主義国は他国の主権を脅かしてでも介入するということを大義として、ワルシャワ条約機構はチェコスロヴァキアに軍事介入したのです。

1968年8月のことでした。

ワルシャワ条約機構の軍事介入により、チェコスロヴァキアの革命、プラハの春は終わります。

この軍事行動に関し、NATO側は抗議の態度は見せたものの何もできませんでした。

チェコスロヴァキアがもし民主化に成功したならば、西欧諸国にとっては喜ばしいことだったかもしれません。

けれど、NATOがワルシャワ条約機構に表立って反発すれば西欧諸国と東側諸国、つまりソ連との対立が激化し、大きな戦争になってしまうことが見えたからでしょう。

ゴルバチョフの登場

プラハの春に対するワルシャワ条約機構の軍事介入以降、何度となくNATO、ワルシャワ条約機構ともに軍縮の為の会談が持たれます。

解決が見出されない中、ソ連に登場するのがゴルバチョフです。

最終的に、ソ連の最後の指導者となったゴルバチョフは革新的な改革をソ連にて実行します。

ゴルバチョフは悪化していたソ連の経済を立て直すため、国際的な緊張緩和と軍縮、西欧諸国との経済協力を積極的に推し進めていきました。

1989年より東側諸国の民主化運動、東欧革命が各地で起こりますが、これについてもゴルバチョフは容認。

1989年12月に開催されたワルシャワ条約機構首脳会議において、プラハの春への軍事介入は間違いであった旨の自己批判論を展開し、これ以降ワルシャワ条約機構は事実上の停止となります。

「ヨーロッパ共通の家」

つまりNATOとワルシャワ条約機構、西欧諸国と東側諸国といった分断ではなく、全ヨーロッパの枠組みで安全保障と経済の協力が必要であるということがゴルバチョフの考えの中心にありました。

だからこそ、東欧革命に対し反対の意志を見せず、ワルシャワ条約機構も停止させることを選ぶことができたというわけです。

そして1989年12月2日に開かれたアメリカ、ソ連による会談「マルタ会談」でついに冷戦の終結が宣言。

翌1990年10月にはドイツが一つに統一されることとなりました。

「締約国が終始一貫して追求するヨーロッパ集団安全保障体制の結成、及びその目的のための集団安全保障に関する全ヨーロッパ条約の締結」

これが行われたことにより、NATOの対立軸にあったワルシャワ条約機構は、1991年7月1日に消滅することになったのです。

冷戦終結後のヨーロッパ

第2次世界大戦後から約40年間にわたって続いた冷戦の後、冷戦の当事国はどのように新しい体制へと変化していったのでしょうか。

また、今につながるロシアの問題についても見ていきます。

ソヴィエト連邦の解体

1991年、ソ連は経済の悪化に歯止めが効かず、国民の不満は限界に達し、各地で民族紛争が勃発しているような状態にありました。

連邦国家として成り立たないことを判断したゴルバチョフにより、ソ連は15の共和国

(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、エストニア、ラトヴィア、リトアニア)

へと解体されます。

しかしこの解体は民の総意に基づいたものではなく、この時代の状況からして「避けることができなかったために」解体してしまったという見方の方が強いです。

事実、ソ連解体後もソ連の体制を引き継ぐような大きな枠組みが東側諸国には残ります。

それが独立国家共同体です。

ソ連の解体が決まった1991年12月に行われた会談で独立国家共同体成立の宣言が出されました。(アルマ=アタ宣言)

ソ連解体後の東欧諸国、とりわけロシアにとって西欧諸国との友好協力関係は必要なものではありました。

その一方、後述しますがソ連解体後も存在し続けるNATOとの対立もあり、国益を強調するために旧ソ連構成国との関係が重要であると考えたからです。

ただ、このアルマ=アタ宣言において問題になったのは国境の設定と冷戦時代にソ連が保有していた核の取り扱いについてでした。

特にロシアとウクライナの間においてこの問題は顕著でした。

ウクライナは旧ソ連構成国の中でロシアに次ぐ大国であり、特に黒海に続くクリミア半島をめぐる国境の設定についてと、自国内での核保有を認めることを求めました。

クリミア半島はソ連時代に、ウクライナにおけるロシア人比率を増やす目的で、1954年にロシアの管轄からウクライナの管轄に移されていました。

その経緯があったため、1991年の時点でもウクライナはクリミア半島は自国領土であると主張したのです。

結果、ウクライナ内に置かれた核兵器を全てロシアに移管することを条件に、クリミア半島をウクライナのものとロシアは認めてアルマ=アタ宣言へとつながりました。

これらのソ連解体の経緯、そして独立国家共同体の成立の過程の一部を見てみると、現在につながる問題を抱えていたことがよくわかりますね。

NATOの拡大

冷戦初期、NATOに加盟した国には大きく分けて

・「ソ連の直接の軍事的脅威にさらされていた国」

・対ソ連との戦争になった場合「大西洋の中継地点あるいは、補給・後方支援拠  点となることが見込まれた国」

・国内秩序が不安定で「西欧諸国による支援が必要であった国」

の3種類がありました。

つまり、ソ連の脅威に対抗するための手段としてNATOは存在していたわけです。

ソ連の解体、そして分割統治されていたドイツが再統一を果たしたことでNATOの役目は終わったかのようにも見えました。

しかし冷戦終結後、現までNATOという軍事同盟は存在し続けています。

1991年、NATOの戦略会議の中で決定したのは「中・東欧諸国が直面する深刻な経済・社会問題や、民族対立・領土紛争など含む政治問題からくる地域的不安定性」がもたらすリスクに備えるということでした。

そして1994年には「平和のためのパートナーシップ(PfP)」プログラムを制定し、元々NATOの側になかった国々を広く受け入れ、新しい安全保障体制を構築しようとしてきたのです。

実は日本もNATOのグローバル・パートナー国の一つです。

アメリカで起こった「9・11テロ」に続くアフガニスタン戦争にNATO軍が関与したことからもわかるように、地理的な制限は撤廃され、今や世界中で活動が展開できるようになっています。

要するに、冷戦後NATOは何か具体的な脅威に対して立ち向かうための手段としてではなく、「価値観を共にするものの共同体」という性格を強くしながら拡大を続けているというわけなのです。

その一方で、この拡大を快く思わない国があります。

それはロシアです。

ロシアは、ソ連時代から続く独特の主権理解に基づき旧ソ連諸国を自国の勢力圏であるとみなす傾向があります。

特にロシアのプーチン政権は「冷戦後、アメリカはNATOを拡大させないとロシアに約束したのに反故にしている。ロシアを騙したのだ」という趣旨の言説をたびたびしています。

このプーチン政権が出す「約束」について、公式な資料は残っていません。

ただし、1990年のドイツ統一交渉の中で「旧東ドイツ領域についてNATOの管轄範囲を広げない」とアメリカ側より発言があったということは近年の研究でわかっているそうです。

しかし、旧ソ連構成国に対する言及はなく、「約束」についてはロシア側の拡大解釈であると考えられます。

ただ言えるのは、NATOの拡大は確実に西欧諸国、特にソ連から独立した国々にとってロシアの脅威を増幅させることにつながっているということでは確かです。

ウクライナ危機

NATOの拡大が一つの原因となり、今現在ロシアに侵攻されている国。

それがウクライナです。

ウクライナは旧ソ連構成国の中でロシアに次いで大きな国で、ロシアと国境を接しています。

2014年、ロシアは突如ウクライナ領内であるクリミア半島を併合しました。

ことのきっかけは2013年に当時のウクライナ大統領ヤヌコヴィチと、親ロシア政権であったヤヌコヴィチ政権に対する反対運動が起こったことです。

この反対運動によりヤヌコヴィチは失脚。ロシアへ逃亡しました。

ヤヌコヴィチ以前のウクライナは親ロシア的な政権が続いていましたが、この民衆の反対運動による結果は、ウクライナ内でロシアが否定されたということを意味します。

この反対運動によりウクライナはロシアの影響圏から出て、NATOそしてEUに接近したという様相を見せたのです。

しかし、親ロシア政権を倒し、NATOへの接近を見せたウクライナに強行姿勢を見せたのがロシア。

クリミア半島にロシア系住民を保護するという名目で、ロシア軍主体と見られる「自衛部隊」を配置し事実上の支配態勢を敷いたのち、ロシアに併合してしまったのです。

またウクライナ東部のルハンスク州、ドネツク州では親ロシア勢力がウクライナからの自立、分離運動を開始し、ウクライナ軍との武力衝突が始まります。

この2014年に起こったロシアによる力の支配は、一旦ウクライナ、ロシア間で休戦合意がなされたことでおさまったかのように見えました。

そもそもなぜ、ロシアはウクライナがNATOに加わること、そしてNATOが拡大することに反対の姿勢を強硬なまでに見せるのでしょうか。

もちろん先述した通り、ロシアは自身の勢力は旧ソ連構成国にまで現在も及んでいると考えていることが原因の一つとして挙げられるかと思います。

また、ロシアの地理的特徴も、研究の中で原因の一つとして数えられています。

ロシアは世界最大の陸地面積を有する国です。

14カ国と地上の国境を共有しています。

安全保障の観点から国境を守るだけでも地理的に大変困難を極めます。

そのために、ロシア周辺に「緩衝地帯」が必要であるという考えに至るのです。

その点で旧ソ連構成国であったウクライナは、まさに他国との緩衝地帯になるべき国。

ウクライナが自身の影響下ではなく、NATOの枠組みに入ることをロシア国防の観点から認められないとしているわけです。

2022年のロシアによるウクライナ侵攻については「ウクライナ領内で威圧されている親ロシア派住民を救うため」といった理由は示されていますが、

なぜ今なのか。

どうしてウクライナ全域を攻撃する必要があるのか。

などについては明確な答えは出ていません。

ただ、NATOが拡大しているというという事実は、少なからずこの侵攻に影響を与えているのではないでしょうか。

NATO・北大西洋条約機構ってなに?まとめ

第2次世界大戦後、新たな安全保障体制を作るために成立したNATOは、その役割を少しずつ変えながら現在まで続いています。

しかし、その存在自体も争いの元となり得ている現在、在り方や意義は再考されるべき問題になっているのではないでしょうか。

もちろん、どんな団体であれ、国であれ、戦争は悲劇しか産まないということを指導者は忘れてはならないと思います。

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【参考文献・参考サイト】
『最強の軍事同盟 NATO』軍事同盟研究会編、アリアドネ企画
『ヨーロッパ冷戦史』山本健、ちくま新書
『ロシアの歴史を知るための50章』下斗米伸夫編著、明石書店
『現代ヨーロッパの安全保障 ポスト2014:パワーバランスの構図を読む』広瀬佳一編著、ミネルヴァ書房
北大西洋条約機構(NATO代表:田中明彦)日本政治・国際関係データベース
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

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