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ソ連の革命家ウラジミールレーニンは何をした人?!ソ連の基礎を作り上げた男!

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レーニンは20世紀最大の革命であると言われる「ロシア革命」を主導し、ソ連体制を作り出した人物です。

彼の主導した共産主義運動は、マルクス=レーニン主義、レーニン主義と呼ばれています。

レーニンが基礎を作った「ソ連」とは一体なんなのか、レーニンはどのように革命家として名を成していったのか。

そして、ソ連体制はどのように作られていったのか。

これらについて解説していきます。

目次

ソ連とはどんな国なのか?

そもそもソ連とは一体どんなものなのでしょうか。

その成立過程、そして中心にある社会主義、共産主義とはどんなものなのでしょうか。

ロシア帝国の革命による崩壊

1613年から20世紀初頭までの長い間、モスクワを首都とするロシア国家ロマノフ朝が成立していました。

ロマノフ朝はツァーリ皇帝を頂点とする官僚制、常備軍を兼ね備えた帝政国家です。

ロシアが正式な国号とされたのは、ロマノフ朝のピョートル1世の時代で1721年ごろのことと言われています。

長きにわたって帝政を維持していたロマノフ朝でしたが、市民革命により帝政から国民国家へと変化したり、産業革命を進めていた西欧諸国に比べ産業の近代化の遅れが目立つようになっていきました。

そして産業の近代化の遅れは、国民生活への圧迫へと変わっていきます。

各地で革命勢力による運動が活発になり、1905年1月に起きた「血の日曜日事件」を皮切りに革命的な動きは激化。

10月17日にロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世が出した「10月宣言」により、市民の政治的自由を認め、国会が開かれることとなりました。

ソヴィエトとは「会議」のこと

10月宣言ののち、ロシア各地でソヴィエトが結成されます。

ソヴィエトとは、会議を表すロシア語ですが、各地で結成されたソヴィエトとは労働者の代表機関のこと。

1905年に起こった血の日曜日事件に連なる革命運動を第1次ロシア革命と言いますが、第1次ロシア革命ののちに起こったソヴィエトは次第に自然消滅していくこととなりました。

転機となったのは1917年。

第1次世界大戦中のこの年、食糧不足に端を発したデモ隊に対し、ニコライ2世率いるツァーリ政府が発砲。

この発砲から民衆は蜂起し、ニコライ2世は退位。ロマノフ王朝は終わりを告げました。

その後臨時政府が立ちましたが、労働者、農民はソヴィエトを結成することで対抗を見せます。

臨時政府とソヴィエトの対立は、ソヴィエト側の勝利に終わり、1917年にはソヴィエト政権が成立することとなりました。

共産党支配

1918年にはロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国。

1922年にはウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースがロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国に加わり、ソヴィエト社会主義共和国連邦、ソ連が成立します。

ソ連とは「ソヴィエト型社会主義を目指す共和国の連邦」という意味であって、具体的な地名、国名ではありません。

つまり、同じ社会システムを共有する枠組みだということです。

ロシア革命によって斃れた旧ロシア帝国を主要な地域として「共産主義」達成を目標に、資本主義に対抗する社会主義の実現を目指したわけです。

ここで、共産主義と社会主義とは一体何を指すのでしょうか。

共産主義とは、ドイツのカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが体系化した思想、マルクス主義思想のことです。

このマルクス主義の中で「人類史における発展の最終段階」と定義されるのが共産主義です。

資本を個人が所有するのではなく、社会全体で共有し、人々が協力して運営していく社会を目指します。

新しいものは、多くの人々の知恵が積み重なってこそ実現されるもので、資本主義のように一部の資本家のみが独占するものではないとしたのです。

社会主義とは、共産主義の前段階にあたります。

マルクス主義の中で、資本主義から共産主義に至る第一段階が社会主義であるとされます。

資本は国が管理し、平等にする。「国が管理する」という点が一番のポイントです。

共産主義は資本は全体で共有するものであり、国の管理は必要ありません。

つまり、社会主義がさらに進んだ理想の形。それが共産主義だということです。

ソ連は、この「共産主義」を実現するという大義名分のもと結成され、1991年まであり続けました。

そしてレーニンこそがこの共産主義を掲げるソ連の大枠をつくっていった人物なのです。

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レーニンになった男、ヴラジーミル

ソ連の大枠を作ったレーニンとはどのような人物なのでしょうか。

レーニンは最初から「レーニン」であったわけではなく、その家庭環境などがレーニンをレーニンたらしめていったのです。

レーニンの生まれ

1870年4月10日、ロシアのヴォルガ川中流の町シムビルスクでレーニンは生まれました。

本名はヴラジーミル・イリイーチ・ウリヤーノフ。

この時代の共産主義者は本名ではなく、筆名(ペンネーム)や組織名を名乗っており、レーニンも実は筆名です。

レーニンの名前を始めてヴラジーミルが用いたのは30歳の時で、ロシア=マルクス主義者の指導者プレハーノフに宛てた手紙の中と言われています。

プレハーノフはヴォルガ川にちなんだ筆名「ヴォルギン」と使用していたため、シベリアの大河レナ川にちなんだ「レーニン」をヴラジーミルは使用しました。

1881年、当時の皇帝アレクサンドル2世が暗殺される事件が起きましたが、この時はレーニン自身に特に大きな影響を及ぼすことはありませんでした。

また4歳上に兄、アレクサンドル。

6歳上に姉アンナがいましたが、特に兄弟から思想的な影響を受けることもなく、思想的な発達は遅めだったと言えます。

兄からの影響

そんなレーニンに転機が起こったは17歳の時。

この年、兄アレクサンドルが皇帝アレクサンドル3世の暗殺を企てた罪で逮捕、処刑されます。

犯罪者の家族として住み慣れた土地を追われたレーニンはカザン帝国大学法学部に入学することなりました。

しかし、皇帝暗殺を企てた人物の弟として目をつけられたレーニン。

特別何か活動をしたわけではありませんが、学生集会に参加したことをきっかけに退学処分を受けてしまったのでした。

兄が処刑されるまでは社会問題に全く意識が向かなかったレーニンでしたが、皮肉にも「兄が大罪を企て処刑された」という事実が彼を革命への道を歩ませるきっかけになったのです。

1989年に退学処分を受けたカザン帝国大学より卒業検定試験を受けることを許されたレーニンは、卒業資格をめでたく得ることができ、弁護士補として働くことを始めました。

しかし、兄の処刑に端を発するレーニンの革命への信念は揺らぐことがなく、わずか1年半で職を辞し革命への道へと身を投じていったのです。

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第一次ロシア革命

革命への道を歩み始めたレーニンは何度も投獄、流刑に処せられます。

そのような境遇の中でもレーニンはいくつもの論文を世に発表。

1902年には、レーニンが初めて「レーニン」のペンネームを使って出版した『なにをすべきか(Что делать?)』も発表されます。

ただこの時代はレーニンにとっては不遇とも言える時期で、ある程度の支持は得られるものの、大きな変革を起こせるところにありませんでした。

1904年、極東で日本との戦争が始まります。いわゆる日露戦争です。

日露戦争は国内では不人気でしたが、レーニンは日本国家がツァーリズムを打ち破ることで革命的な役割を果たしていると言い切ったといいます。

日本がロシア、特に皇帝が率いるロシアを倒してくれることを望んでいたのです。

ただレーニンは、1904年から始まる日露戦争、そして先述した1905年に起こった血の日曜日事件の時ロシア国内にはいませんでした。

彼はスイスに亡命していたのです。

ロシアで起こった革命の様子は遠い地においても伝え聞くことはできていましたが、レーニンが何をいったところで机上の空論でしかありませんでした。

そして第一次ロシア革命は、専制君主性を倒すところまではいきませんでした。

1906年に制定された憲法では、「全ロシア皇帝に最高専制権力が属す」と規定され、専制は残ったのです。

もちろん革命勢力はこれに反対しましたが、少しずつその体制は分解されていきます。

レーニン自身、この革命後に警察から再び追われる身となり、スイスのジュネーブ、フランスのパリへと身を隠すことになるのですが、この時初めて自分自身の「党」を持つことになりました。

それが「ロシア社会民主党」です。

第一次世界大戦

1914年6月、オーストリア帝位継承者フェルディナント夫妻がサラエヴォで暗殺されます。

これが契機となって第一次世界大戦が開戦します。

レーニンは開戦時、オーストリアにいました。

しかしスパイ容疑をかけられ逮捕されてしまったため、再度スイスへ亡命します。

その亡命の最中に執筆したのが1916年の『資本主義の最高の段階としての帝国主義』です。

世界戦争から人類を救うためには、帝国主義政策の転換では不十分であって、帝国主義を打倒しなければならない。

そのためには資本主義を破壊し、全く新しい社会をユートピアに従って作り出さなければならない。

「世界戦争は社会主義世界革命の時代を開くのだ。」

これがレーニンの主張でした。

1917年、第一次世界大戦の最中、ロシア二月革命が起こりツァーリ専制政治が終わります。

この報を受けたレーニンはロシアに帰国することを望みます。

しかしスイスからロシアに帰還するためには、ロシアの交戦国であったドイツ領を通らなければなりません。

そこでレーニンはドイツ領事と交渉し、一切ドイツ人と交流することがない、いわゆる「封印列車」に乗って帰還を果たしました。

帰ったレーニンを迎えた労働者たちにレーニンは「社会主義革命万歳」と叫んだのだとか。

レーニンは二月革命によって起こった臨時政府を認めないとして、国内指導部に対してソヴィエトが権力を握る方針を示します。

これが四月テーゼです。

下から成長してくる全土の労働者や雇われ農民、そして農民代表のソヴィエトの国家を目指す「すべての権力をソヴィエトへ」を指針としたのです。

ソ連結成へ

亡命先から新しいロシアの形を模索、作り上げていったレーニンですが道半ばにして病に倒れてしまいます。

そこから一体どのようにソ連はできていったのでしょうか。

ソヴィエト政権の成立

ロシアに戻ったレーニンでしたが、臨時政府よりドイツのスパイとみなされ逮捕されかけます。

これが七月暴動です。

そのためレーニンは今度はフィインランドへ亡命。

今度はフィンランドで『国家と革命』を書き上げます。

資本主義の文化的達成が管理機能を単純化させ、誰にでもできるものとする幻想が生まれる。だから、国家が死滅していくのだという論を唱えたのです。

1917年10月、レーニンは変装してロシアに戻り臨時政府を倒します。

これを10月革命と言います。

民主的講和と即時休戦の提議。

地主地などの没収、軍隊の完全な民主化と兵士の権利の確立を掲げました。

さらに生産に対する労働者統制、憲法制定会議の招集、都市にパン、農村に生活必需品を供給する、そしてすべての民族の自決権の保障。

これらを民衆と約束する形でソヴィエト政権が成立したのです。

他国の内閣に代わる形で「人民委員会」を組織した政権は、国家元首にあたる書記長にレーニンを指名し、レーニンは国の代表の形で改革を推し進めることにやっとなったのでした。

もちろんこの変革には多く抵抗が生まれ、ロシアは内戦が激化。

1921年ごろまでその状況は続きました。

コミンテルン創設

コミンテルンとは、共産主義インターナショナル、通称第3インターナショナルのことです。

レーニンは資本主義国家権力を倒し、社会主義革命を成功させるためにはロシアだけでは実現し得ないと考えていました。

そこで革命路線の国際組織の必要性を感じ、1919年3月コミンテルンを設立したのです。

第1回大会において参加したのは30カ国52名の代表でした。

ただ、これらの人々はロシアに亡命している各国の革命家だったといいます。

レーニンはこの国際組織をもって国際革命、資本主義国家権力を倒すことがなされると考えていましたが、現実はうまくいきませんでした。

世界全体がこの革命を求めている。

革命のために働く兵士やそれを受け止める民衆もこの革命に賛同するだろう。

そうレーニンは思い描いて組織を作ったのですが、現実にはそういった意識は低く、ドイツ共産党によるドイツ革命は失敗。

ハンガリー革命も失敗。

レーニンの思惑から逸れていったコミンテルンは、ロシア共産党に対する各国共産党の支部といった側面を強くしていくことなったのでした。

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後継者問題 スターリン対トロツキー

そんな革命への道半ばの頃、レーニンの健康状態が悪化します。

1922年5月には脳の硬化症により右手、右足が麻痺。言語障害が現れ、事実上の引退を余儀なくさせられます。

その跡を引き継いだのがスターリンです。

1922年4月にはレーニンの跡を継ぐ、後継者書記長にスターリンは選出されていました。

そして1922年12月、スターリンのもとでソヴィエト社会主義共和国連邦が成立します。

ここでやっとソ連が出来上がったというわけです。

けれど、レーニンの後、スターリンがすんなり権力を掌握したように見えますが実際はそうではありません。

軍事指導者としても有名で、レーニンの古くからの同志であったトロツキーもレーニンの後継者の座を狙っていたのです。

トロツキーの主張は「世界革命論」として知られています。

資本主義が十分に育っていないロシアにおいて革命がなされても、それを十分に継続させていくことは難しい。

だから、世界中の国が革命を同時期に起こし世界全体が社会主義に変わっていくまで永続的に革命を続けるべきだ。

これがその主張です。

レーニンもこの主張を当初支持しており、先述したコミンテルンもこの主張に実は基づいていました。

しかし実際は、世界が同時に革命を起こして社会主義を目指すといったことはコミンテルンの失敗から分かるように不可能であったのです。

一方で、スターリンが主張したのは「一国社会主義革命論」です。

1924年にスターリンが刊行した『レーニン主義の基礎について』によると、一国でも革命は可能であることを主張しています。

トロツキーの論を完全に否定しているわけですね。

スターリン、トロツキーの闘争は、1924年にスターリン派によってトロツキーが役職を解かれ、1929年に国外追放されることによって幕を閉じます。

さらに1940年にはスターリンからの刺客により、亡命先のメキシコでトロツキーはその生涯を閉じることとなりました。

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レーニンの死 スターリン体制へ

1924年1月21日、レーニンは突然の発作により死去します。

享年53歳でした。

レーニンの遺骸は永久保存して、クレムリンの赤の広場の廟で公開されることが決定されました。

また、ロシア帝国の首都であったペテルブルクは、レーニンの名前を冠して「レニングラード」と改名されました。

レーニンは偉大な革命指導者として名を残すこととなったのです。

そして先述の通り、レーニン亡き後のソ連の指導者をめぐってスターリンとトロツキーの激しい争いが始まり、勝者はスターリンとなりました。

1924年から1953年までの間、独裁的権力を振るうこととなったスターリンは、レーニンが切り拓いた革命の道を完成させ、歩んでいったと言えるでしょう。

ソ連の革命家ウラジミールレーニンは何をした人?!まとめ

革命家としての人生で、ロシア革命の重要な時のほとんどをロシアからではなく海外で迎えたレーニン。

遠く離れた地からにおいてもその考え方、思想は多くの人を動かし、強い影響力を持っていたということがよくわかります。

現在のロシアに続く思想、体制の大元を作った人物、それがレーニンだと言えるかと思います。

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【参考文献・参考サイト】
『レーニン 20世紀共産党主義運動の父』和田春樹、山川出版社
『図説ソ連の歴史』下斗米伸夫、河出書房新社
レーニン http://www.y-history.net/appendix/wh1401-105.html
共産主義とは? 社会主義・資本主義との違いを子どもにも分かりやすく説明 https://hugkum.sho.jp/167293
レーニン http://www.y-history.net/appendix/wh1502-123.html

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