みなさんは「ミハイル・ゴルバチョフ」という人物を知っていますか?
個性的な名前なので、聞いたことあるという方が多いのではないでしょうか。
額に世界地図のようなアザがあることでもお馴染みですね。
ゴルバチョフは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者でした。
ソ連最後の大統領として冷戦を終結させ、その功績としてノーベル平和賞を受賞しています。
ただその一方で、ソ連崩壊を導いた人物として、その責任を問われている側面もあります。
実はゴルバチョフの評価というのは、いい評価と悪い評価で二分しているんです。
今回はゴルバチョフの功績、そして世界からの評価について解説していきます。
ゴルバチョフの生い立ち
まずはゴルバチョフの生い立ちから見ていきましょう。
ゴルバチョフの人生は、まさに「成り上がり」です。
生い立ちを知っておくことで、その後のゴルバチョフの人生がより魅力的なものになります。
農民の子として生まれる
1931年3月、ゴルバチョフはソ連のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村という地域で生まれます。
プリヴォリノエ村といえば、南ロシアを代表する農村地域です。
ソ連最後の大統領の人生は、農民の子として誕生するところからスタートしたのです。
祖父アンドレイの悲劇
ゴルバチョフは幼少期に、「スターリンの大粛清」に遭遇しています。スターリンとは当時のソ連の最高指導者です。
そのスターリンは、自国民及びモンゴル人民へ大規模弾圧を行っていました。
この時ゴルバチョフの祖父アンドレイも嫌疑をかけられ、投獄されてしまったのです。その結果祖父は14か月もの間刑務所で過ごし、拷問と虐待を受けたのです。
幼少期のゴルバチョフを襲った最初の悲劇でした。
独ソ戦の開戦
1941年6月、独ソ戦が開戦します。
そしてこの時、農業従事者だった父親も独ソ戦に従軍することになるのです。
まだ10歳になったばかりのゴルバチョフにとっては、祖父の投獄に続いた悲劇といえます。
さらに、ゴルバチョフの住むスタヴロポリ地方は、一時期ナチスドイツに占領されていたため、戦争の悲惨さをまじまじと目撃していたことになります。
その後戦争は終息に向かいますが、まだ幼き少年の心には大きなダメージが残ったことでしょう。
ムリナーシの影響
戦争も終焉し、14歳になったゴルバチョフ。
貧しい家を支えるためにコンバインの運転手として働きながら、必死に勉学に励みました。
その結果、上級学校で成績優秀者として、銀メダルを授与されました。
ロシアの学校では良い成績を収めると銀メダルや金メダルがもらえるという日本とはちょっと違ったシステムが存在していたのです。
これはなんだか勉強もやる気が出そうですよね。
ゴルバチョフは18歳の時、労働でたくさんの収穫を上げたおかげで、国から労働赤旗勲章を授与され、ズタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学に進学します。
これは当時のモスクワの新聞で取り上げられる程、異例の出来事でした。
そしてゴルバチョフは19歳でモスクワ大学法学部に推薦で進学しました。そして在学中に出会ったのが、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えたとされるムリナーシという人物です。
ムリナーシは「プラハの春」と呼ばれた、チェコスロバキア変革運動の推進者の1人でした。
ゴルバチョフは勉学に励むと同時に、「改革者としての基礎」をムリナーシから学び取っていたのです。
ゴルバチョフ権力者への道
ゴルバチョフはその後も勤勉に過ごし、無事大学を卒業します。
そして生誕地のスタヴロポリ地方に戻り、農業の勉強を始めました。
やがてスタヴロポリ地域の農業行政官となり、地区書記に昇進。
頭角を現しだしたゴルバチョフは、ここからものすごいスピードで出世の階段を駆け上がっていきます。
青年団「コムソモール」
ゴルバチョフはスタヴロポリ地方に戻ってからというもの、コムソモール活動に従事していました。
コムソモールとは、共産党を支援していた青年団の一種です。ゴルバチョフはコムソモールの要職である「第一書記」に就任します。
そしてこの職を境に、出世の階段を上がって行きました。
出世階段を駆け上がるゴルバチョフ
出世階段を上がる間、1967年に化学的農業経済学者の資格を取得します。
大学卒業後も、学びの姿勢をやめなかったゴルバチョフの勤勉さがよくわかります。
そしてゴルバチョフは様々な役職を経て、1971年40歳の時に「党中央委員」に選出されます。
「党中央委員」とはソ連の最高機関です。
ゴルバチョフは40歳の若さで、党官僚への階段を登り始めました。
ゴルバチョフ・モスクワへ渡る
1978年、政治局員・書記フョードル・クラコフという人物が急死します。
そしてその後任として党中央委員会書記の農業担当の職に抜擢されたのがゴルバチョフ。
国家からは邸宅が与えられ、ゴルバチョフは妻・ライサとモスクワへ渡ります。
さらに1979年に政治局員候補として政治局入りをすると、1980年には史上最年少で政治局員となりました。
書記長就任
1982年、党書記長のブレジネフが死去し、新たにアンドロポフが書記長に就任します。
アンドロポフはゴルバチョフにとって同郷の先輩にあたる人物です。
また就任後にはブレジネフが書記長時代に蔓延っていた腐敗を一掃し、労働規律の強化にも着手するが志半ばで病に倒れてしまいます。
そしてアンドロポフ自身もゴルバチョフを自身の後継者として考えていました。
そしてアンドロポフの未来構想の一部はゴルバチョフによって引き継がれることになるのでした。
1984年にアンドロポフが死去し、いよいよゴルバチョフが書記長に就任と思われましたがそうはいきません。
当時53歳のゴルバチョフでは「若すぎる」と、保守派の人物の反対にあったのです。
アンドロポフの後任として就任したのは、保守派のチェルネンコです。しかしチェルネンコは病弱であったため、翌年に病死。
その後、ナンバ−2であったゴルバチョフが書記長に就任しました。
ソ連崩壊まで
とうとう書記長に就任したゴルバチョフ。
しかし、1980年代のロシアの経済は停滞気味で、国民からの不満が膨らんでいました。
そのため、国民からゴルバチョフにかかる期待も非常に大きいものでした。
ペレストロイカ
ゴルバチョフは停滞気味の状況を打破するため、「ペレストロイカ」をという民主化政策を実施します。
ペレストロイカとは「再建」を意味する言葉で、国家を再建するためゴルバチョフが行った一連の政治改革のこと。
ゴルバチョフは、情報公開(グラスノスチ)や大統領制の採用、経済の開放・自由化など経済、社会、政治、民衆の心理など、あらゆる分野での再建を目指し、尽力していったのでした。
ゴルバチョフはソ連という国を良い方向へ変えようとこのペレストロイカを行ったのですが結果的にソ連という国が解体されることとなったのです。
グラスノスチ
1986年、近代史に残る重大な事件が起きます。
チェルノブイリ原発事故です。
これにより、大量の放射線物質が敷地外へ放出されてしまいました。
しかしこの時、チェルノブイリ原発事故の情報の公開が遅れ、近隣住民が避難できず、被害が拡大したのです。
それを踏まえゴルバチョフは、情報公開を意味する「グラスノスチ」を推進していったのです。
冷戦の締結
当時のソ連では、戦争が泥沼化していることが問題視されていました。
そこで1989年、ゴルバチョフはアフガニスタンの撤退を決議します。
同年の1989年、ゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領と会談を行います。
これが地中海のマルタで行われた「マルタ会談」です。
この「マルタ会談」により、長く続いていた冷戦がようやく終結しました。
8月クーデター
1990年、冷戦の締結が評価されたゴルバチョフは、ソ連最後の大統領に就任します。
そんな中、依然として改革派の道を進むゴルバチョフをある事件が襲います。
「8月クーデター」と呼ばれる、保守派による反対運動です。
ゴルバチョフは家族や側近と共に軟禁され、いつ殺されてもおかしくない状況に陥りました。
最終的にクーデターは、ロシア大統領のエリツィンを中心とした市民の抵抗によって鎮圧されます。
しかし、クーデターの首謀者がソ連副大統領のヤナーエフなど、ゴルバチョフの側近達によるものであったため、ゴルバチョフの信頼も失墜。
ゴルバチョフの影響力が大きく弱体化する一因となりました。
ソ連崩壊
ソ連が崩壊に近づく背景は他にもありました。
ベルリンの壁崩壊による、「東欧民主化革命」の加速です。
これにより、ソ連の共和国である「バルト三国」(エストニア、ラトビア、リトアニア)が独立を宣言。
他の共和国も独立を目指す動きが活発になりました。
そして、弱体化するゴルバチョフとは裏腹に、ロシアのエリツィンが力をつけていきます。
1991年、とうとうロシアのエリツィンがソ連共和国の脱退を宣言し、ソ連は崩壊することとなりました。
ゴルバチョフの評価
こうしてゴルバチョフはソ連の大統領を辞任することとなりました。
最終的にはソ連崩壊助長することとなってしましたが、それまでのゴルバチョフの功績は疑いようがありません。
冒頭でも語りましたが、ゴルバチョフの評価というのはいい評価と悪い評価で二分しています。
この章ではゴルバチョフの評価について説明していきます。
熱狂的なゴルビー支持者
まず「冷戦を締結させた歴史に残る政治家」であることは間違いありません。
特に西側では「ゴルビー」の愛称で親しまれ、現役当時から熱狂的な支持者が多くいました。
世界的に見ても、「20世紀の最重要人物100人」に選ばれており、多大な功績が認められています。
アメリカに魂を売った売国奴
その一方、ソ連体制支持者からは、不人気であり続けました。
ソ連を崩壊させた人物として、恨みを買ってしまってるわけです。
そして、ソ連崩壊の背景となる、経済格差が広がってしまったことも大きな理由の1つでしょう。
ゴルバチョフ政権時の国民達は、生活に困窮していました。
それにより、自国を顧みない「売国奴」と非難されている側面があるのです。
日本とゴルバチョフ
実は親日家として知られるゴルバチョフ。
過去に、会談や講演会で何度も来日しています。
お馴染みのテレビ番組、「徹子の部屋」や「世界一受けたい授業」などにも出演しています。
ゴルバチョフは日本に対して、「世界で最も成功した社会主義国」という賞賛を送っています。
ゴルバチョフってどんな人?ペレストロイカって何?世界が彼の功績に大絶賛した!まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、ゴルバチョフの功績と世界からの評価について解説しました。
多くの功績を残しながら、一部のソ連体制支持者から非難されてきたゴルバチョフ。
まさに「不運な英雄」という言葉が似合う人物ですね。
また、農民の子から大統領にまで上り詰めたゴルバチョフのサクセスストーリーにも感嘆します。
ゴルバチョフの一生は、多くの恵まれない立場の方にとって、勇気を与えることでしょう。
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【参考文献】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』–ミハイル・ゴルバチョフ–
『ミハイル・ゴルバチョフ–変わりゆく世界の中で』著:ミハイル•ゴルバチョフ 朝日新聞出版
『ペレストロイカ』著:ミハイル•ゴルバチョフ 講談社
ソ連崩壊から30年 YOMIURI ONLINE
ソ連崩壊から30年–ゴルバチョフ氏-NHK NEWSWEB
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