日本歴史

神風特攻隊・佐々木八郎の遺書や想いとは?日本のために戦った若き勇者

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太平洋戦争末期、日本という国が存亡の危機に瀕したとき、国を守るために数えきれないほど多くの若者が、捨て石となって散っていきました。

わが身を犠牲にして、敵艦船に体当たりを決行した「神風特攻隊」

今日は、若くして日本のために命を捧げた特攻隊の日記にふれながら、その思いについて解説していきたいと思います!

特攻隊とは?

特攻とは特別攻撃の略です。

太平洋戦争末期、追い詰められた日本は、少ない兵力で確実に効果をあげるため、爆弾を抱えて体当たり攻撃するという恐ろしい作戦を決行したのです。

一度飛び立てば生きては帰れない、そんな過酷な運命を背負わされたのは、なんとまだ1724歳の若くて優秀な若者たちだったのです

考えると残酷な作戦じゃのう。それを考えたやつも狂っておる!

テレビで取り上げられる特攻隊

特攻隊と聞くと思い浮べるのは、「神風特攻隊」ではないでしょうか。

これは飛行機に乗って敵艦船に体当たりする海軍の航空特攻です。『永遠の0など、日本映画では航空特攻をテーマにした作品が多く作られていますね。

神風特攻隊の場合、半分以上は予科練(海軍飛行予科練習生)の出身者でした。

この予科練、第1回の募集時には、定員80名のところ8000人もの応募が集まります。

その恐ろしい内容とは裏腹にまさに人気の部隊だったことになりますよね。

また神風特攻隊は、日本の中でも心技体ともにトップクラスの若者が担っていたのです!

遺族や関係者の証言から見えた特攻隊の青年たち

 

特攻隊として散った20歳前後の若者は、一体どんな人たちだったのでしょう。

 『神風』を著わしたフランス人ジャーナリストのベルナール・ミローは、特攻隊員による調査報告から、特攻隊の多くが、各自の家庭にあっては最も良き息子だったと述べています。

愛情深く、高い教育を受け、すれてもひねくれてもおらず、生活態度の清潔な青年たち、そんな尊い命が特攻で還らぬものとなってしまいました

まさに未来の宝が国のために息耐えていったということになるわね

特攻隊員佐々木八郎の日記を紹介

ここでは、神風特攻隊として戦死した、佐々木八郎の日記を紹介します。

佐々木八郎は第一高等学校から東京帝国大学経済学部に入学した、当時の超一流コースを進む学生でした。

将来を期待された佐々木は、戦争や特攻についてどのように考えていたのでしょうか。彼が残した手記からみていきましょう。

佐々木八郎は、開戦をどう受け止めた?

昭和16128日、日本が真珠湾を奇襲したとき、佐々木はまだ19歳でした。アメリカという大きな国との戦争がいよいよ始まる、その翌日の日記には、佐々木の不安な胸の内が記されています。

「どうも皆のように戦勝のニュースに有頂天になれない。何か不安な気持ちと、一つは戦後どうなるか、資本主義がどうなるかも気になる」(昭和16129日)

「純粋に戦勝を喜べない俺の頭をぶちこわしてしまいたい。ヒトラーの演説を聞き、三国協定の締結を聞いても、国民の歓喜に共鳴しない俺の頭をぶちこわしてしまいたい」(昭和161211日)

日本が戦争に敗れたことを知っている私たちは、佐々木の不安を理解できますよね。

しかし当時は、日本中が真珠湾の戦勝報告に沸いて、負けることなんて考えていなかったときです。

そんな中でも彼は、周りの雰囲気に流されることなく、冷静に戦争を見つめていたことが分かります。

佐々木八郎は戦争に賛成?反対?どちらの立場だった?

当時の学生は、戦争を支持していたのかどうか、気になりますよね。もちろんどちらの意見もあったでしょう。

そんな中で佐々木は、自分のことを「反戦論者」で、「戦争を除くことに努力する」と日記に残していました。戦争に反対だったのですね。

1215日の日記には、佐々木の戦争に対する思いが痛烈に記されています。

「戦争?戦争が何だ。(略)人間、戦争なんぞに精力を使うほど馬鹿げたことはない。なるほど、戦争の時に示される人間の精神力は偉大なものだ。しかし、それを他の場所で使ったらどうなんだ。経済的な問題で戦争を起こすなど以ての外だ。どれだけの人が無理強いされた名誉のために泣いていることか。」

佐々木八郎の兵隊に行く覚悟

 

戦争を除きたいと思っていた佐々木の気持ちとは反対に、日本はどんどん後戻りできないところへと進んでいってしまいました。

そんな情勢をよく分かっていたのか、彼の日記には、出征を意識するような文章が目立つようになります。

「戦争に行けと言われたら、僕は喜んで出て行こう。それも歴史の一コマなのだから。」(昭和17211日)

確かに歴史の強烈な一コマになったのよね

「僕は戦の庭に出ることも自分に与えられた光栄ある任務であると思っている。現下の日本に生きる青年として、この世界史の創造の機会に参画できることは光栄の至りであると思う。」(昭和18611日)

戦争に反対していたのに、戦争に「喜んで出て行こう」と考えていたのは不思議ですよね。でもそれは、私たちが平和な時代に暮らしているからかもしれません。

当時の日本は、20歳になると徴兵検査を受け、合格すれば軍隊に入らなければなりませんでした。佐々木も日記に「二年もすれば兵隊にならなければならない」と記しています。

戦争をしている国に生まれた以上、兵隊となることも自分に定められた義務という意識があったのでしょうね。

佐々木が見出した出征の意義

 

義務と言えど、戦争の時代に兵隊となるのは、覚悟が必要でした。しかも佐々木が希望したのは、海軍の飛行予備学生です。命を投げ出す覚悟が求められる部隊でした。

そのためか、日記には、出征することに意義を見いだそうとするような記述が多くなります。

「国を護ることがひいては父母を守ることになるのだから、許していただきたいと思う」(昭和181010日)

「共に征く友と語り、自分の体に、頭に自信をもつとき、また親戚まわりをして力づけられ、励まされ、或いは感謝されたりするときは、正に醜(しこ)の御楯(天皇のたて)となってこの人々を護りぬこうとの気魄に満ちて来る」(昭和18114日)

彼の日記には他にも、「世界史の進歩」や「世界が正しく、よくなるため」という言葉が出てきます。これは、日本の戦争目的が、欧米帝国主義の植民地となった東洋諸国を解放するため、というものを信じて語られた言葉です。

しかし、「正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動のための空念仏としか響かない」と思いをこぼすこともありました。

彼は世界を正しく、よくすること以上に、愛情を受けた身近な人々を守るために、出征の覚悟を決めたのかもしれませんね。

日記には記さなかった父への感謝

国に身を捧げる覚悟を決めていた佐々木ですが、そんな彼が、感情を抑えきれず気持ちを吐き出した手紙が残っていました。父への手紙です。

それまで、客観的で立派な文章を書き記した佐々木が、まるで子どもにかえったように、ありのままの思いをつづっています。

「お父さん、さようなら、何一つ親孝行できなかったけれど、僕は、明日、日本のために死にます。

お父さん、もう会えませんが、いつまでも僕は、お父さんの側にいます。僕は、お父さんが大好きでした。口答え一つしたことはなかったけれど、お父さんを好きだなんて言ったことはありませんでした。最期だから、言わせてください。

僕はお父さんが大好きです。

お父さんも、僕が大きくなってから、一度もかわいがってくれなかったけれど、お父さんの目はいつも温かく僕を見守っていて下さいました。」

昭和20414日、佐々木は神風特攻隊として、南西諸島海域で戦死します。まだ、23歳という若さでした。

神風特攻隊・佐々木八郎の遺書や想いとは?日本のために戦った若き勇者・まとめ

国の発展や大切な人を守るために、自らの命を犠牲にする覚悟をもった特攻隊の若者たち。もし彼らが生きていたら、日本はどんな国になっていたでしょうか。優秀で愛情深い多くの若者が犠牲になったことは、日本にとって大きな損失です。

特攻隊について知れば知るほど、彼らが願った日本の発展や未来を、私たちが作り上げていかねばならない、そんな思いが強くなります。

 参考資料

北影雄幸『特攻隊語録 命のことば』2007年、光人社
北影雄幸『特攻隊員の手記を読む』2012年、勉誠出版
一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実』2020年、講談社

 

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