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ロマノフ王朝・最後の皇帝ニコライ2世が悲惨すぎる・・・

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ギロチンで首をはねられたルイ16世にマリー・アントワネット、我が子のように思っていたブルータスに刺され死亡したカエサル、6歳という幼さで、海の中に身を投じた安徳天皇。

これまでの長い歴史において、悲惨な最後を迎えた権力者は少なくありません。

それらの人々が迎えた結末は自業自得の場合もあれば、安徳天皇のように悲しさだけが浮き彫りになるものもあります。

そんな権力者たちの中で、ひと際悲惨な最期を迎えた人物が、19世紀のロシアにいました。

その人の名は、ニコライ2世

彼はどんな人物だったのでしょうか?そして、どんな最期を迎えたのでしょうか・・

今日はニコライ2世についてみていきます!

目次

ロシア革命で滅びたロマノフ王朝

革命で倒れた王朝と言えば、ルイ16世のブルボン朝が有名ですよね。しかし、ロシアのロマノフ王朝も、激しい革命の動乱により、断絶した王朝です。

ニコライ2世を知るということは、彼が統治していたロマノフ王朝を知るということ。そして、それらのことを知るためには、ロシア革命のことを知らなくてはなりません。

それでは、ざっくりとロシア革命について見ていきましょう!!

血の日曜日事件

ロシア革命が勃発したのは、1905年に起きた「血の日曜日事件」がきっかけです。これを、第一次ロシア革命の始まりと見る人もいる。

血の日曜日事件は、1905年1月9日に起こりました。

もともとは、労働者の平和的なストライキ行進として計画されたものでした(現在でも良く見られるデモ行進を想像してもらうと良いでしょう)。ガポン神父という人物をリーダーとして、ニコライ2世が住む宮殿を目指し行進したのです。

この時代、民衆の暮らしは苦しいものでした。労働者を搾取する経営者に、戦争での敗戦。一般民衆は貧困に喘いでいました。

穏やかなデモが一変

行進の目的はこうした「苦しさ」を、皇帝であるニコライ2世に「直接的に」訴えるためのものでした。

行進する民衆の中には、子供も含まれていました。そして、彼らの頭上には教会の旗や皇帝の肖像が掲げられています。

このことからも分かる通り、行進当初、民衆は穏やかでした。

そして、皇帝に対する憎しみや敵意なども存在していませんでした。民衆は皇帝を愛し、自身らが信じる信仰の代表者として信頼していたのです。そして、愛する皇帝に窮状を訴え、解決してもらおうと考えていました。

行進隊が宮殿前の広場に入ったとき、事件は起こりました。

彼らを取り囲んでいた軍隊が発砲したのです。その結果は惨憺たるもの。1000人以上が亡くなり、2000人もの人が怪我をした、と言われています。

ニコライ2世が悪魔に!

民衆にとって、軍隊とは皇帝に繋がるもの。軍隊の発砲は、民衆が皇帝に抱いていた敬愛を打ち砕きました。

ニコライ2世は、民衆にとって「血のニコライ」となってしまったのです。

ニコライ2世はこの事件の後、民衆に歩み寄る態度を見せます。

彼らの要求である憲法の制定や労働者の権利の保障などを受け入れ、実際に取り入れることを約束したのです。民衆は再度、皇帝に忠誠を誓いました。

革命は落ち着いたかに見えました。しかし、仲間を殺された怒りは、民衆の心の中でくすぶっていたのです。

二月革命

「二月革命」と呼ばれる第二次ロシア革命が起こったのは、1917年のこと。

この頃、ロシアは第一次世界大戦の真っ最中でした。その戦争により、国内の状況は最悪なものとなっていました。

まきや薪も無く、パンも無い・・・・。つまり、燃料や食料と言った生活に必要なものが、ことごとく民衆の手に渡っていなかったのです。季節は2月の寒いさかり。

たったひとかけらのパンを求めて・・

民衆の不満は募りました。そして爆発したのが、1917年2月23日

始まりは、女性たちのストライキでした。彼女達のスローガンは「パンをよこせ」

フランス革命下のフランスもそうでしたが、民衆は飢えていました。パン屋の前には大行列ができ、店の襲撃事件もあったと言います。

最初は女性だけで起こしたストライキでしたが、徐々に男性たちにも浸透していきます。26日には、首都全域にまでストライキが広がっていったのです。

こんな状況で、ニコライ2世はどうしたのでしょう。

彼の頭は、戦争のことで一杯でした。

ニコライ2世・退位へ

結果、彼が選んだ方法は武力で押さえつけること。

これにより、さらに多くの血が流れてしまいます。そんな中、民衆に同調する兵士も現れました。そんな人々は、民衆のストライキ団と行動を共にするようになっていきます。

ここまで行くと、民衆の勢いを止めることは不可能です。民衆と兵士で結成された評議会(ソヴィエト)は、臨時の政府を作り上げ、ニコライ2世に退位を求めました。

ニコライ2世は、潔く帝位を退く決断をしました。当初は弟であるミハイルに帝位を譲る考えでしたが、その当時の情勢から民衆はそれを許しませんでした。

またミハイル自身も首を縦には振らなかったのです。

これにより、長きにわたるロシアの帝政は崩れたのです。

そして、ニコライ2世とその家族は逮捕され、拘束されることとなりました。

ニコライ2世とその家族

ニコライ2世のことを調べていると、その家族のことにも目が向きます。それは、彼が「皇帝」という立場でありながら、良い夫・良い父親であることが分かるからでしょう。

ニコライ2世には、妻と5人の子供がいました。彼らをご紹介していきます!

まずは、妻のアレクサンドラ皇后です。イギリスのヴィクトリア女王の孫にあたり、彼女のイギリス流の教育を受けて育ちました。

当時としては珍しいことに、ニコライ2世とは宗教の壁を越えた恋愛結婚です。結婚してからも、愛情を込めた手紙を夫との間でやりとりしていました。

子供達は、女の子が4人と男の子が1人です。上から、オリガ・タチアナ・マリア・アナスタシア・アレクセイとなります。

この中では、アナスタシアとアレクセイが有名でしょう。

アナスタシアは、まことしやかに生存説が流れましたし、「自分がアナスタシアだ」と言い張る女性も出現したからです。

そして、アレクセイは血友病という難病を患い、さらに革命によって命を失ったことから、悲劇の皇太子として知られています。

エドワード・ラ人スキーが書いた「皇帝ニコライ処刑」という本の中に、胸が痛くなる文章があります。ここに、引用してみましょう。

もう一つ心を打たれたのは、彼女たちの日記の間に押し花が残っていたことだ。彼女たちがあんなにしあわせだったツァールスコエ・セローの公園で摘んだ草花。彼女たちはそれを流刑先へもっていき、日記のページの間にはさんでおいたのだ。

「皇帝ニコライ処刑 上」P192 12~14行から引用

ここに出てくる「彼女たち」は、マリアとタチアナを指しています。

革命が起こるまで、皇女たちは幸せに、無邪気に暮らしていたのです。そしてその思い出を、辛い軟禁生活中に思い出していたことが偲ばれます。

怪僧・ラスプーチンとの関係

ロシア革命やニコライ2世一家を考えるときに、忘れてはならない人物がいます。それが、「怪僧」と呼ばれたグリゴリー・ラスプーチンです。

彼の名前は広く知られており、ニコライ2世より有名かもしれませんね。

ラスプーチンと皇帝一家は密接な付き合いをしていました。特にアレクサンドラ皇后はラスプーチンを何よりも信用し、彼の家賃を支払うといったパトロン的立場でもありました。

そして、皇后に引っ張られるようにニコライ2世も、彼を重用したのです。

ラスプーチンへの依存

そのきっかけは、ニコライ2世の息子・アレクセイの病気にありました。アレクセイが幼い頃、血友病で生死の境を彷徨ったとき、それを助けたのがラスプーチンだった、と言うのです。

息子を助けてもらったアレクサンドラは、一気にラスプーチンに心酔していったのです。

ラスプーチンはニコライ2世を「パパ」、アレクサンドラを「ママ」と呼んでいたと言われています。

このことからも、ラスプーチンと皇帝一家の近さが分かるでしょう。

また、ラスプーチンはロシア革命の原因の一旦を握っています。

彼には悪評が多く、奔放な生活が、宮廷を取り巻く人々や民衆の怒りを買ったのです。勿論、それをかばい続ける皇帝にも、人々の怒りは集まりました。

アレクサンドラとニコライ2世のラスプーチンに対する態度が少しでも違っていれば、ロシア革命は別の形で終わっていたのかもしれません。

皇帝一家の悲惨な結末

さてさて、いよいよ、ニコライ2世の本題に入って行きましょう!

二月革命により皇帝一家は退位させられ、その自由を奪われたニコライ2世。これにより、皇帝一家は民間人となってしまいます。

彼らを待ち受ける未来は不吉なものでしかありませんでした。イギリスへの亡命の話も持ち上がりましたが、ソヴィエトによってもみ消されてしまったのです。

結果、家族そろってシベリアで監禁生活を送ることになりました。

1917年11月、「10月革命」が起きました。これは、帝政が倒れてから政権を握っていた臨時政府が倒され、ソビエト連邦結成のきっかけとなるものです。

この10月革命により、元皇帝一家はエカテリンブルクに移され、さらなる監禁生活を送ることになります。

その生活は勿論、快適なものではありませんでした。1日2時間の散歩と、罵倒する言葉が書き殴られたトイレ。これだけで、その辛さが分かることでしょう。

結局、エカテリンブルグの家はニコライ2世とその家族にとって最後の家となりました。

裁判なしの処刑

ニコライ2世達がエカテリンブルグに監禁されている、まさにその時。反革命軍(白軍とも)が立ち上がり、元皇帝のいる地へと近づいていきました。

それに危機感を覚えたのが、ソヴィエト連邦共産党委員会です。これは、1917年に発足し、1991年のソ連解体まで続いた、ソ連の最高機関になります。

彼らが恐れるのはただ一つ。反革命軍による皇帝の奪還。もし、皇帝が彼らに保護されてしまえば、これまでの苦労が水の泡となってしまいます。

ソヴィエト連邦共産党委員会は、残酷な決断を下しました。

ニコライ2世一家を正式な裁判にもかけず、銃殺刑にすることを決めたのです。ルイ16世やマリー・アントワネットですら、出来レースとは言え裁判がありました。そう考えて見ると、元皇帝一家の処置は、かなり異例と言えるでしょう。

ニコライ2世一家の無慈悲な結末

1918年7月17日。

ニコライ2世とその家族は、彼らに忠実に従ってきた召使4人と共に、当時住んでいた屋敷の地下へと連れていかれました。

そこで行われたのは、弾丸飛び交う残酷な銃殺刑。子供まで手にかける、正に虐殺と言えるものでした。

オリガを筆頭とする皇女たちは、コルセットに宝石を埋め込んでいました。それが銃弾を跳ね返し、皇女たちは死ぬに死ねません。

その上、跳ね返った銃弾は部屋の中を飛び交います。13歳という幼さであるアレクセイは、死に物狂いで床を這いまわります。幼い体で、何とか生き残ろうとしたのです。

ニコライ2世は、なんとか子供達を殺させまいと彼女達の前に立ちはだかります。

「子供達は撃つな!」

自分も死ぬであろうその中で、彼がこう言ったということは、銃殺刑に参加した兵士たちが証言しています。

ニコライ2世とその家族の遺体は、無残にも廃坑に捨てられました。その後掘り起こされ、燃やされた遺体もあれば、硫酸を掛けられ再度埋められた遺体もありました。

革命当時は、元皇帝一家を手にかけたということは名誉の証でした。

その為、処刑の状況は今に詳しく伝わっています。皇女たちのコルセット、皇太子の状況、そして、ニコライ2世が発した言葉は、そう大きく間違っているものでは無いでしょう。

処刑の場でも家族を守ろうとしたニコライ2世。その姿は、皇帝というよりも、一人の人間として悲しい気持ちにさせられます。

ロマノフ王朝・最後の皇帝が悲惨すぎる・まとめ

ロマノフ王朝、そして、ニコライ2世とその家族の最期を見てきました。

聞いているだけで、何かずっしりと、心に重しが乗ってきたような気分になるエピソードが多いですよね。

皇帝らしからぬ、子供思いで家庭人だったニコライ2世。彼を愛し、子供を愛したアレクサンドラ皇后。そして、5人の皇女と皇太子たち。彼らが一緒に写っている写真を見ると、思わず微笑んでしまうような、美しいものばかりです。

一度、彼らの姿を見てください。きっと心を揺さぶられ、当時の情勢に思いを馳せて見たくなるはずですから……

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<参考文献>
・「皇帝ニコライ処刑 ロシア革命の真相 上」(1993)エドワード・ラジンスキー著 工藤精一郎訳
・「皇帝ニコライ処刑 ロシア革命の真相 下」(1993)エドワード・ラジンスキ―著 工藤誠一郎訳

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