ヨーロッパ歴史

ロベスピエールの恐怖政治はなぜ行われたのか?彼の性格や最後の言葉などを解説!

ロベスピエール 恐怖政治
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世界史に詳しくない人でも、フランス革命と聞いてギロチンを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか?実は筆者がそうでした!

やはり中世フランスと言えば残虐な拷問や魔女狩りなどは外せませんよね!

今回は、フランス革命が残酷で恐ろしいというイメージを人々に植え付けることにもなったロベスピエールについて簡単に解説していこうと思います。それではどうぞ!

優しく優秀な青年だったロベスピエール

恐怖でフランスを支配した人物の幼少期が一体どんなものだったのか、少しずつ見ていきましょう。

ロベスピエールの生い立ちとは?

マクシミリアン・ロベスピエールは、1758年フランス北部の地方都市アラスで、弁護士の家庭に生まれました。

母親は彼が6歳の頃に亡くなってしまい、10歳の時には父親も出て行ってしまいます。

そのためロベスピエールは母方の祖父母に育てられましたが、複雑な家庭環境を嘆くこともなく勉学に励み奨学金で進学に成功します。

パリに上京したロベスピエールは、リセ・ルイ₌ル₌グラン学院で共和制ローマの理想やキケロ、カトーの修辞学などを学びました。

その後パリ大学へと進学し、法律について学んだのち1781年、故郷の都市アラスに戻り刑事裁判官になります。

この時、彼はルソーに興味を持ち、実際にルソーに会いに行くほど多大な影響を受けます。

ルソーとは、社会契約論で有名な思想家であり、社会契約論とは「国家は人々の契約の上にある」、政府の役割は人々の権利の保護であると考える思想のことです。

生真面目なロベスピエールにはまさにぴったりの思想だったのかもしれません。

性格は穏やかで、処刑反対派だった?

刑事裁判官になったロベスピエールですが、その後すぐに裁判官の仕事を辞めてしまいます。

なぜなら彼は、死刑反対の立場を取っていたからです。え?て感じですよね。

当時のフランスでは死刑制度が存在し、死刑執行人によって処刑が行われていました。

死刑制度に疑問を持っていたロベスピエールは、その後弁護士になります。

これは、弁護士とは虐げられている人をたくさん救うことができる、ものすごく崇高な職業であると考えていたからでした。

残虐になっていくロベスピエール

ロベスピエールが故郷で弁護士として働き始めてから8年後の1789年、パリでフランス国王ルイ16世により三部会が開かれます。

三部会とは聖職者、貴族、平民の代表者を集めて議論を行おうというもので、ロベスピエールは平民の代表者を選出するアラス地方選挙に立候補し、見事当選します。

弁護士時代のロベスピエールは、貧しい市民の弁護も多く行っており、絶大な支持を得ていました。

弱い者の味方であり、真面目なロベスピエールは、国を良くしたいという思いが強かったのかもしれません。

しかし、この三部会での課税の話はまとまらず、民衆の国王への怒りは爆発してしまいまい、1789年7月14日、バスティーユ牢獄の襲撃によりフランス革命は始まってしまうのでした。

政治家としてのロベスピエールは、ジャコバン派に属し、中でも山岳派と呼ばれる急進的な勢力に属します。

山岳派の指導者はダントン、マラー、そしてロベスピエールの3人でした。

1791年6月21日、国王ルイ16世一家は革命の都パリから逃げ出そうと、ヴァレンヌ逃亡事件を引き起こしますが失敗に終わります。

この事件により、国王ルイ16世の妻であるマリーアントワネットは、故郷のオーストリアに助けを求め、革命軍VSオーストリア&プロイセン軍の革命戦争が勃発します。

この頃ロベスピエールは、左派の議員として動いていましたが、「国外の敵より先に国内の敵を片付けるべきだ」と戦争には反対の立場を取っていました。

1792年、オーストリアとの革命戦争が始まるとロベスピエールは徹底的な武装を国家に呼びかけましたが、オーストリアとの戦争は負け続きでした。

不満がたまった民衆は国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃します。

これにより、事件を主導していたサン・キュロットと呼ばれる革命的大衆たちの勢いが増しました。

さらにサン・キュロットたちは、左派で人気のあるロベスピエールを信仰していたため、彼の権力は一気に高まりました。

ロベスピエール主導のもと始まった恐怖政治

ロベスピエールは、ルイ16世の国王裁判で「国家が生き残るためには、ルイは死ななければならない」などとし処刑を主導する活動をしていきます。

フランスで王が殺されたとなれば、王政を敷いている他国を刺激してしまうのではと考えたジロンド派は王の処刑に反対します。

こうして、ルイ16世の処刑を巡り、ジロンド派とジャコバン派が対立することとなったのです。

激しい議論の末、最後は投票により国王の処刑が決定しました。

1793年1月21日、国王ルイ16世が処刑されると、まだ王様が国を治めていたヨーロッパの各国は、対仏大同盟を結成します。

これによりフランスは敵国だらけになってしまうのでした。

この頃のフランスは周りを敵に囲まれ国内では反乱がおき、早急に対応しなければならない状況でした。

そこで国民公会は対外戦争と内戦に対応するために公安委員会という機関を設置します。

この公安委員会の審議する内容は非公開で、審議の対象もすべてのことに及び、少数の限られたメンバーだけが物事を決定する権利を持つ独裁色の強い機関だったのです。

逆らうものは即処刑 

国王の処刑により勢いづいたジャコバン派はどんどん革命を進めていきました。

1793年7月13日、ジャコバン派の最初の指導者であったマラーがジロンド派によって暗殺されてしまいます。

次にジャコバン派の指導者になったダントンは、ロベスピエールと違い欲深い人物であったため汚職により失脚してしまいます。

こうしてジャコバン派の最高指導者になったロベスピエールは1793年7月27日に公安委員会に入って権力を得ると恐怖政治で国をまとめ上げていくことになります。

ロベスピエールは、「自由、平等、博愛」の徹底を求め、「フランス国民のすべてが権利と富を持つべきだ」という思想のもと政策を進めていきます。

ロベスピエールの処刑が始まる・・・・

一方、反対派であるジロンド派に対しては革命の敵であるとし、次々にギロチン送りにしていくロベスピエール。

この頃、フランスでは地域によって恐怖政治に差が生まれており、無軌道な処刑を終わらせるために、地方の革命裁判所や特別軍事法廷を廃止しました。そして反革命容疑者をパリで集中的に裁くことにしたのです。

ところが多くの裁判をこなすには、審議に時間をかけすぎてはいけないため、1794年6月10日、プレリアル22日の法が適用されます。

この法律は、反革命容疑者は弁護士、証人を必要としない裁判にかけられ、判決は無罪か死刑のみというものでした。かなり強引な裁判ですよね。

これは陪審員が怪しいと思えば即処刑できるもので、パリでは6月、7月の2か月間だけで1500人が処刑されました。地方の殺戮をとめるはずが、パリを血で染める結果となってしまったわけです。

この法律が恐怖政治のイメージを決定づけたと言えるのではないでしょうか。

同志であったダントンの処刑

ロベスピエールは他派に所属しているものだけでなく、ジャコバン派の政策に違反した者たちも次々処刑していきました。

同じジャコバン派の同志であったダントンはこの恐怖政治はやりすぎだと、ロベスピエールをたしなめますが、ロベスピエールはこのダントンをも処刑してしまいます。

ダントンはギロチンへ向かう途中ロベスピエールの家の前を通りかかると「ロベスピエール、次はお前の番だ!」と叫びました。

ロベスピエールがこの恐怖政治を行った期間はたった1年ほどでしたが、この間の死者数は、獄中死も含めると4万人にも及んだと言われています!!

この頃のフランスは、逆らったら殺される、いつ殺されてもおかしくない、という恐怖で支配されていたのです!本当に恐ろしい時代だったのですね。

ロベスピエールの最後とは?

ロベスピエールの派閥は、大規模な粛清を行っていたために敵も多くなっていきました。

戦争や内戦が落ち着いてくると、恐怖政治の必要もなくなっていき、ロベスピエールの行う政治に不満を持つ者も増えていきます。

恐怖政治に不満であったタリアン、バラス、フーシェ

たちは「処刑者リスト」というものをつくり議員たちを勧誘していきました。

最後は自分の定めた法により即処刑

処刑者リストを見た議員たちは、「次に殺されるのは自分だ」と思います。

こうして1794年7月27日、テルミドールの反動(テルミドール9日のクーデターともいう)が起こります。

この日、議会でロベスピエールの側近であるサン=ジュストが演説を行っていると、突如タリアンが演説を打ち切らせました。

議場から「暴君を倒せ!」というヤジが飛ぶなか、強制的に裁判が行われます。

ロベスピエールも反論しますが、「ダントンの血が喉を詰まらせているぞ!」とヤジを浴びせられてしまいます。すでに議長もタリアンの仲間だったため、すぐにロベスピエールの逮捕が決まりました。

逮捕の直前、絶望したロベスピエールはパリ市庁舎に立てこもり自殺を図りますが、あごに重傷を負いながらも死にきれず逮捕されてしまいます。

翌日の7月28日、ロベスピエール、弟や側近のサン=ジュスト、ジャコバン派のメンバーなど22名がギロチンによって処刑されました。

このときロベスピエールは36歳の若さでした。

ロベスピエール処刑直後、群衆からは歓声が沸き、15分もの間続いたと言われています。

逮捕の翌日に即処刑というのは早すぎる気がしますが、皮肉にもこれはロベスピエール自身が革命の敵を速やかに処刑できるように定めた法律だったのです。

 

ロベスピエールの最後の言葉とは?

ロベスピエールはテルミドールの反動によりあごに重傷を負っていたため、最後の言葉を語ることはありませんでした。

ロベスピエールは逮捕される前日の議会で、「この中で粛清されなければならない者がいる」と演説をします。

議員たちは誰が粛清されるのか名前を尋ねましたがピエールが答えなかったため、次に処刑されるのは自分かもしれないと震え上がりました。

この発言がロベスピエール反対派たちの結束を強める結果となり、翌日テルミドールの反動がおきてしまうのでした。

しかし演説があった夜、ロベスピエールは、「今私がした演説は最後の遺言である」と発言しており、彼は自分の死を予感していたのではないかと言われています。

なぜ恐怖政治は起きてしまったのか?

ロベスピエールは権力を握った後も私生活はとても質素であったそうです。

そのため、「清廉潔白な人」と敬われていました。

弁護士時代のロベスピエールは、貧しい市民の弁護もちゃんと引き受けており、お金を貰わない事もあったそうです

彼は弱い者の味方であり、「自由と平等、そして市民としての全権力を彼らに償還する」と奴隷制度の廃止も行いました。

彼は清潔で独身の弁護士ということもあり女性からの人気も高かったそうですが、生涯独身を貫き政治にすべてを捧げていました。

ロベスピエールは「徳なくして恐怖は罪であり、恐怖なくして徳は無力」という言葉を残しています。

強硬的過ぎたという自覚はあったのですが、世の中をより良くするためには恐怖による支配が欠かせないのだという思いだったようです。

決して私利私欲のために独裁をするのではなく、「こうすることでフランスは絶対良くなる」という、行き過ぎた正義感をもとに政治が行われた結果が恐怖政治でした。

恐怖とはフランス語でテルールと呼び、テロリズムの語源になりました。

そのため、恐怖政治を行ったロベスピエールは人類史上初めてのテロリストであるとも言われています。

ロベスピエールの恐怖政治はなぜ行われたのか?彼の性格や最後の言葉などを解説!まとめ

いかがだったでしょうか?

ロベスピエールは最初から最後まで弱い立場の者を助けたい、国を良くしたいという思想のもと活動していました。結果的にそれが恐怖政治という形で終わってしまいとても残念です。

時代が違えばとても素晴らしい人物として歴史に名が残っていたかもしれませんね。

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参考文献:図説 フランス革命史 河出書房新社

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