本腰をいれ戦いに挑むホーチミン・無敵の北ベトナム!

いよいよ、世界は乱れ、植民地を支配してきた大国もボロボロに。。。
ベトナムの独立も現実味を帯びてきます。
そして、ついに、ホーチミンが故郷、仏領インドシナに戻る日が近づいて来ました。
ホーチミンのさらなる波乱万丈と、大活躍のファイナル・シーズンか?!
三十年ぶりの帰郷、そして独立運動に邁進
日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった1941年、ホーチミンは、中国から故郷の仏領インドシナへの侵入に成功。
1910年に旅立ってから30年ぶりの故郷。さぞや、感慨深かったでしょう。しかし、思い出に浸るヒマは無いホーチミンです!
まず手始めに、ホーチミンは、「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任。このベトミンが、その後ベトナム独立・統一の中心組織となりました。
とはいえ、戦いは楽じゃありません。日本軍が、仏領インドシナに進駐してきてフランス軍と一緒に支配し始めましたから。
そこで、ホーチミンは1942年、かつて自分たちを殺そうとした、蔣介石に助けを求め、中国へ行きました。その時に初めて使った名前が、「ホーチミン」。
ついに、ホーチミン時代到来!
ところがどっこい、ホーチミンは、蒋介石の中国国民党に逮捕されちゃいます。もともと、蒋介石は、共産党が大嫌いですから。。。
でも、ホーチミンは焦りません。いや焦ったかもしれませんが、ムチャはしませんでした。
せっせと、ポエム(漢詩)を作り続けました。。。たとえば、こんな詩です。。。
「バラの花が咲くが、バラは何をしたのかも知らずに枯れてゆく、しかし、バラの香りは牢獄にただよい、囚人の心では、世界の全ての不正が叫び出す」
うーん、牢獄で虐待されながらも、ロマンティックで、図太くて。。。この生命力、折れない心の強さ。。勉強になりますね。
そして、ホーチミンは、何とか生き残り、蒋介石軍と交渉し、釈放され、1944年、仏領インドシナに戻ります。
さすがの生命力と交渉力。タダモノじゃない!
そうこうするうちに、1945年8月、日本は連合国に降伏。9月にはポツダム宣言に調印して、
日本の敗戦確定。日本軍は仏領インドシナでも、活動を禁止されます。
チャンス到来!何度もチャンスが訪れているホーチミンですがなかなか思うように進みませんね・・。。
ホーチミンは、ポツダム宣言調印の当日に、ベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)樹立を宣言。ホーチミンは、国家主席兼首相に就任します。
いやー、ついに、やりましたね!
今後も色々と困難はあるだろうけど(実際には苦労ばっか)、とうとう、ベトナムに独立国を作りました!
この一連の動きでの、ホーチミンのスゴミは、キレッキレの判断力と行動力。
・機が熟すまでは、焦らず、待つ。
・チャンスが来たと判断したら、つべこべ言わず、ガムシャラに実行!
これは、もう、さすが、としか言えません!
独立万歳!と思ったらベトナム南北分断・そして、アメリカが・・
北ベトナムの人たちは、よっしゃ!と思いますよね。だって、支配者がいなくなって、独立国家樹立ですから。。。アゲアゲでしょ。ところが、喜びも、つかのま。。またもや、試練。。
なんと、フランス軍が仏領インドシナ南部へ復帰し始めました。。
しかも、北ベトナムには、中国国民党軍が侵入。この国民党が、盗賊よりもタチの悪いアクドイ集団だったようです。
中国国民党を激しく嫌悪していたホーチミンの言葉が残っています。
「中国人のクソを一生喰らうよりは、フランス人のクソをしばらく嗅ぐ方がまし」
驚くほど下品ですが、本音みたいです。
ホーチミンはまず、盗賊みたいな国民党を追い出しその後フランスと独立の交渉をして、中国を追い出しそうと考えます。
ホーチミンらしい! 何事もあきらめずに、現実的な解決策を考えて、実行!
結果、1946年3月、国民党が北ベトナムから、やっと帰ってくれました。
と、ところが、次のステップで。。。
フランスとの交渉が決裂しちゃいます!
ついに、12月、フランス軍は北ベトナムへの攻撃を開始! ホンモノの独立戦争勃発。歴史上は、第一次インドシナ戦争と呼ばれます。
ホーチミンの指導の下、乏しい武器で、命がけで戦う北ベトナム軍。そして、8年も続いた戦争の末、1954年5月、ついに、フランス軍が降伏。
植民地ベトナムが、支配者フランスを打ち破った瞬間です!
そして、7月、ジュネーヴ協定締結。北ベトナムとフランスは正式に休戦します。
やれやれ。。。やっと勝ったぜ。。と一休みしたところですが。。。。
ここで、またもや、大問題!この協定で、ベトナムは、北緯17度線で南北に分けられてしまいます。
つまり、北がホーチミンの、ベトナム民主共和国(北ベトナム)、南がベトナム国(南ベトナム)。そして、この分断が、とんでもない大バトルへ発展していくのです。
ホーチミンの地位に異変?! アメリカとガチンコの末に。。。。
ホーチミンも、北ベトナムも、ぜんぜん休むヒマがありません!!だって、南北分断後のベトナムでは、アメリカが南ベトナムを後押しし始めたのです。
対抗して北ベトナムは南に浸透しベトナム内戦が激化。そして、ホーチミンの立場にも、異変がでてきます。
北ベトナム内で、統一方法を巡り、激しく意見が対立します。トップのホーチミンは、ジュネーヴ協定実施を通じた平和的方法を支持。
一方、ナンバー2のズアンさんという人は、武力で統一を強力に主張しました。議論の結果、ズアンが勝ち、リーダーの地位をゲット!
ホーチミンは、トップの座を奪われてしまいます。
引き続き、ホーチミンは、北ベトナムの国家主席(実際の権力者はズアンですけど。。)として、外交を担当して、世界を味方につけたり北ベトナム国民を励ましたりして、大活躍します。
要は、ホーチミンにとっては、ベトナム独立が人生の目標なので、自分の権力が弱くなっても、気にしないんです。みんなで決めた方針(武力で統一)に従って、引き続き、努力を継続!
ここがスゴイですよね!
自分の立場じゃなくて、目標の為に、戦い続ける。言うのは簡単ですけど、なかなか出来ませんよね。
さて、その後の展開は、こんな感じです。
1960年12月 南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)結成。これメッチャ重要!ベトコンが、北ベトナム軍と連携して、南の内部で攻撃の中心になります。。
1965年3月 米軍の南ベトナム派兵開始(最大50万人超!)。とうとう世界最強の米軍が。。
1966年7月 ホーチミンがラジオ演説。「独立と自由ほど尊いものはない」
世界がベトナムに注目し始め、ホーチミンは、ベトナム独立のシンボルとして、さらに有名になります。
1968年1月 テト攻勢。これが、アメリカを追い出す大きなキッカケになります。
テトはベトナムの旧正月で、みんなが、お休み気分でした。
その油断をつき、ベトコンと北ベトナムが攻撃しアメリカ大使館を一時占拠!最後は、米軍がはね返し、ベトコンと北ベトナムは約6万人の犠牲者を出し敗退。
しかし、事件はテレビで世界に中継され、アメリカ人は大ショックを受け、ベトナムってヤバえよと考えはじめ、ベトナム撤退論が広まります。
そして、1969年6月、ついに、アメリカのニクソン大統領がベトナム撤退計画を発表!
ホーチミン、そして北ベトナムとしては、よっしゃ、いよいよ、ベトナム統一だー!って感じですね。
ついに、我らのホーチミンも。。そして、ベトナム統一の行方は?!
1969年といえば、ホーチミンが、ベトナムを旅立ってから約60年。戦い続けた末、いよいよ、悲願の南北ベトナム統一が目前か!。。。。と思った矢先のできごとでした。。
1969年9月2、ホーチミン死去79歳。
今回は本当に亡くなりました。心臓発作だったようです。ベトナムの独立・統一のために、最後まで頑張って人々を勇気づけた人生でした。
ホーチミン死去に悲しみつつも、北ベトナム軍は、その後4年近く、アメリカと南ベトナムを相手に、苛酷な戦いを続けます。
そして、1973年3月、米軍撤退。
2年後の1975年4月30日に、南ベトナム首都サイゴンが陥落しベトナム戦争終結。
北ベトナム勝利。
これは、アメリカが勝てなかった、唯一の戦争として記録されます。翌年1976年には、選挙を経て南北ベトナムが統一されベトナム社会主義共和国誕生。
ホーチミンが亡くなって7年後、ついに、ベトナム統一、独立が実現!
ホーチミンの生涯の夢が、やっと、叶ったのです!!
因みに、南ベトナムの首都、サイゴン市は、ホーチミンにちなみ、ホーチミン市に改称されました。ホーチミン市は、ベトナム最大都市で、ベトナムGDPの半分を占める一大商業センターです。
ホーチミンの遺産・手段と目的を間違わない
いやーすごい人生ですね。30年間の世界放浪、革命運動、独立戦争、逮捕、投獄、死亡説。
普通の人の何倍、いや何十倍も濃い人生。しかも、見かけは、その辺の、オッちゃん。。。
ホーチミンの偉業と比べる為、同じ共産主義のカンボジア(お隣)との違いを見てみましょう。
カンボジアでは、国民の20-25%が政府に殺され、国はボッロボロ。ベトナムは、フランス、アメリカにボコボコにされながら、統一し、自力で独立。
何が違うのでしょうか?
ホーチミンの目的はベトナム独立と人々の幸せ。。
ベトナムとカンボジア。
隣国であり、同じ共産主義でありながら未来の形はだいぶ違っていました。それはなによりトップ人柄や目的の違いが大きいようです。
カンボジアの支配者はポルポトさんでしたが、彼は、共産主義自体が目的だったようです。
一方、ホーチミンの目的は、ベトナムの独立と人々の幸せ。共産主義は手段というか道具?
やっぱり、手段と目的を取り違えないことが大切なんでしょうか?
それと、ポルポトはコンプレックスが強く、独りよがりで、インテリや反対者を、どんどん殺しました。
対象的に、ホーチミンは語学が出来て、頭がよく、謙虚でユーモアもあったので、敵にも味方にも好かれる人物でした。コンプレックスとも無縁だったようです。
ホーチミンの人柄を示す、こんなエピソードがあります。
ホーチミンは、あるとき、町で一番貧しい家族を訪問して、様子をみました。ところが、その家族のあまりの貧しさに同情して、ホーチミン。は、家族を抱きしめて泣いてしまいます。そして、その後、ホーチミンは、その家族の生活を助け続けた
こんな人柄が、ホーチミンの、リーダーシップや政策にも、影響を与えたのかもしれませんね。
その差は明白! ホンモノの地獄カンボジアvs独立したベトナム
もちろん、共産主義政権なので、北ベトナムでも反対者への処刑、虐待は有りました。
しかし、ポルポトやその他の共産政権に比べれば圧倒的に少なかったようです。まあ、200万人を殺したポルポトと比べるのは、アレですけど。
つまり、カンボジア人はポルポトにより地獄に落とされましたが、ベトナム人は、ホーチミンのおかげで独立し初めて自分たちの国を持てたんですね。
結局、手段と目的を間違わないこととか、リーダーの人格、コンプレックス、才能が、民族の運命を左右するのかもしれませんね。。。
ホーチミンからベトナムの人たちへ伝えたかったこと。。。
ホーチミンが残したかったのは、民族の独立や自由の精神だといえます。
自分の神格化は、すごくいやだったようですね。
たとえば、ホーチミンは、死後、自分の遺体は火葬を希望し、おおげさな墓も拒否しました。
実際には、ベトナムの人びとは、ホーチミンの遺体を永久保存し、デカい廟堂(びょうどう)まで作りました。
本人は、天国で、ゼッタイ苦笑してますね。
ベトナムの人々が、廟堂や、ご遺体を見て、ホーチミンの、精神を思い出せれば、結果オーライでしょう。
ホーチミンってどんな人?ホーチミンの生涯をわかりやすく解説!まとめ
いやー、波乱万丈(はらんばんじょう)という言葉に、ピッタシですね、ホーチミンの人生。
ホーチミンは、リンカーンとか、ナポレオンとかに比べたら、有名じゃないけど、ぜんぜん負けないヒーローっぷりじゃないすか?!
なんたって、ホーチミンは、人生のほとんどを戦いに費やし、ベトナムを独立させちゃいましたからね。
ホーチミンの成功の秘訣は
・笑顔、謙虚、誠実、ユーモア、知性で、味方を増やし、敵を減らす人間力。
・目標(独立)を忘れず、戦いながら、じっくり待ち、チャンスが来たら、爆速で行動する決断、行動力。
しかも、ホーチミンは、生活が質素、おカネにもキレイだったから、むだな争いと無縁。
結果、独立戦争につきももの、虐殺、粛清は、比較的少なく、国もうまくまとまったのでしょう。
ホーチミンの人生をふり返ると、国の運命も意外と、リーダー個人の性格や力量に依存するのかもと思えてしまいます。
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【参考文献】
ホー・チ・ミン伝(上下)チャールズ・フェン著 岩波新書 1974年
ホー・チ・ミン 古田元夫著 岩波書店 1995年
ベトナムの星 J.ラクチュール著 サイマル出版会 1968年
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