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中国科挙制度の廃止理由が超絶・理不尽すぎる!無能な宦官は必要なし!

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世界史を勉強したみなさんならお分かりかと思いますが、中国史で有名な官僚の採用制度といえば「科挙(かきょ)」でしょう。

これは隋から清、つまり598年から1904年までの約1300年間おこなわれた、身分に関係なく試験に合格した人を官僚として採用する制度です!

「身分に関係なく試験に合格した人を官僚として採用する」なんて、現代では当たり前のことのように思うかもしれません。

しかし、科挙制度が始まった当時、これは世界的に見ても非常に最先端かつ優れた制度でした(イギリスですら、試験によって官僚を採用する制度を取り入れたのは1870年以後のことです)。

では、それほどの制度が廃止された理由は何なのでしょうか?

実は、科挙制度が廃止された理由には、現代社会にもつながる重大な秘密が隠されていたのです!!

そこで今回は、中国で科挙制度が廃止された理由について解説していきたいと思います!!

目次

科挙制度の問題点とは?

科挙制度がなぜ廃止されたのか、という問題を考えるためには、まず科挙制度の問題点から洗い出していく必要があります。

問題は大きく分けて二つありました。

科挙制度の1つ目の問題は受験生の資金不足?

一つ目は、勉強して科挙を受験するためには多額の資金が必要であったことです。

科挙には現代の大学受験とは違い、受験料がかかりません。そこまでは良いのですが、試験会場までの旅費、これは完全に受験生持ちで、政府は一切負担しませんでした。

そんなの当たり前じゃん!と思うかもしれません。。。。

広大な中国では、試験会場に行くだけでも相当な距離でした。この間の旅費、宿泊費が全て受験生の自己負担なわけです。

試験を受けて出世してやろうと思う人たちばかりですので当然、当時は、貧乏。お金がないのです。旅費でさえ大きな出費で出せないのです。

一例として、明代後半、これらの旅行費用の総額は現代の日本円でいうと600万円ほどだったと言われています。

もちろん、受験勉強にも多大な費用がかかります。

びっくりですよね。

それでも、科挙をうけるひとはたくさんいたんですからね。どんだけ科挙に人生をかけていたかがわかりますよね。

こうなってしまうと、田舎の、しかも貧乏な家の人間には実質的に受験資格が無いことになります。受験前からふるい落としがおこなわれているようなもんですね。

現代の日本でも萩生田文科相の「身の丈」発言が問題になりましたが、科挙の受験格差はそれどころの話ではなかったということがよく分かります。笑

このため、科挙に合格して官僚になってくるのは富裕層の人間だけになっていきました。

これでは、当初大きく掲げていた、「身分に関係なく優秀な人材だけを集める」、という科挙の目的も達成できなくなっていきます。

こうした中で、単純に科挙で試される内容自体も、時代の流れにそぐわなくなってきました。これが、二つ目の理由に関わってきます。

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科挙が廃止された理由・試験問題が時代遅れ?

科挙の試験問題は、主に「四書五経(ししょごきょう)」という、儒学のテキストから出題されました。四書五経は7つのテキストから成りますが、それぞれの文字数を合計すると、合計で43万字と言われています。

四書・・・『大学』『中庸』『孟子』『論語』
五経・・・『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』

どのテキストから出題されるかは当然分からないわけですから、受験者四書五経を丸ごと暗記していなければなりません。

一日に200字ずつ暗記したとしても6年かかる計算になります。

つまり、現代で言えば小学校6年間を丸ごと四書五経の暗記に費やすことになるのです。笑

どんだけ〜ですよ。

なので、ほとんどの受験生は小さい頃から常にこの「四書五経(ししょごきょう)」の勉強をしてきたわけです。

おおざっぱに言ってしまうと、科挙は現在の文系科目だけが試験範囲になっているようなものです。

現在でも文系科目は「丸暗記」だけすればよく、そのため私立文系を選択した学生は社会に出ても使えない、という批判がありますが、科挙が持つ問題もそれに似たようなものがあったわけですね。

科挙に合格した官僚は数字にめっぽう弱かった

特に、儒学は数学など理系の分野に弱かったため、数学的な知識に弱い官僚が多かったことも問題です。

近代になって、ヨーロッパが最新の兵器を使ってくるのに対し、中国の官僚がそれに対抗できるような新兵器の開発を行えなかったのも、そうしたことが原因としてありました。

西洋人が使ってくる兵器がどういった構造で動いているものなのかを、根本的に理解することが難しかったわけです。

兵器のしくみがわからないなんて戦争においては致命傷ですよね。

以上のように、科挙には大きく分けて資金的な受験格差と、試験内容が儒学の丸暗記だけに限られていたこと、という二つの問題がありました。

科挙制度は西洋におくれを取った人材採用

なんとなくですが当時の科挙に合格して官僚になった人たち、迷路とかめっちゃ苦手そうですね。

受験格差は貧乏な人間から受験の資格を奪い、試験問題の偏りは近代の西洋化という波に対応できる人材の確保を難しくさせました。

この二つの問題を解決し、西洋と互角に渡り合うための改革を行うためには、もはや科挙制度そのものを廃止するしかなかったのです。

それでは次に、科挙制度が廃止された時期について、その背景とともに解説していきましょう!

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科挙制度が廃止された時期っていつごろ?

科挙制度には以上のような問題点があったわけですが、それでもこの制度は1300年続きました。

では、これが廃止されたのはいつごろだったのでしょうか?

結論を言うと、科挙が廃止されたのは1904年、日本だと明治37年です。

日本では明治維新によって近代化してから37年も経っていたわけですね。一方中国は、まだ清朝の時代でした。

これに先立つ1895年、清朝は日本との戦争に敗北し(日清戦争)、多額の賠償金を支払うことになりました。

アヘン戦争などでヨーロッパとの戦争で負けることはあったわけですが、同じアジアの国の1つである日本との戦争に敗北したことは、大きな衝撃として受け止められました。

日本に敗北して気づいた!俺たちやばくないか?

この時代まで、中国は日本を後進国として捉えていました。

その後進国が西洋の文化や技術を取り入れた結果、先進国である中国を破ったわけです。

このため、西洋の技術がそれほど進んだものである、という意見を、清朝政府も無視できなくなってきたのです。

ちょっと気づくの遅くない?とツッコミをいれたくなります。

そこで、科挙を廃止し、近代的な教育制度と、その教育によって西洋の知識を身に着けた人材を、国家の官僚として採用していくための仕組み作りが求められるようになったわけです!

ただ、皆さんもお気づきかと思いますが日清戦争が終わってから科挙制度が廃止されるまで、10年近い差があります。

なぜそこまで時間がかかったのでしょうか?次にそれを考えていきましょう!

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科挙制度が続いた理由を考えてみた!

ここまでの解説で、科挙制度の問題点は理解していただけたと思います。

こうした問題は科挙制度が始まった当初から中国でも批判の対象となっていたのですが、結局、科挙制度は1300年という長い間存続を続けました。

その理由としては、科挙制度が皇帝支配にとってそれだけ便利なものであったことが挙げられます。

科挙制度が始まる以前の中国では、貴族制によって官僚が選ばれていました。

これは、貴族と呼ばれる身分の人々が、それぞれの官職を、父から子へ、子から孫へ、と世襲していく制度です。

日本でも、平安時代に藤原氏が関白の位を世襲していましたよね。

これと同じです。

こうした方法は、ヨーロッパでも近代まで行われていました。

いわば、国家の官職は一部の人々が独占する利権のようなもので、貴族でない身分の人間が官僚になることは、ごく一部の例外を除いてありませんでした。

しかし、皇帝の側からするとこれは少し都合の悪い制度でした。

というのも、官職を世襲していく制度だと、官僚としての能力が無い人物でも、家柄が良ければ位の高い官職に就けてしまうことになるからです。

無能なやつが政治をすることになるのです。

いくら政治家の息子だからといって、環境に関する知識もビジョンも無い人が環境大臣になったら困りますよね。

しかし貴族制だと、これが起こってしますわけです。

皇帝としてはそれでも政治が上手く回っていればいいのですが、もし政治が上手くいかなければ、批判は皇帝に集まります。

最悪の場合、反乱が起きて王朝が滅びます。

そうなれば、当然、皇帝は殺されてしまう。だから皇帝としては、できるかぎり優秀な人物を適材適所に配置し、政治を上手くコントロールしたいわけです。

科挙制度は皇帝にはありがたい制度だった!

そういう意味で、科挙は非常に優れた制度でした。

貴族かそうでないかに関係なく、試験に合格した優秀な人物が官僚になるわけですから、その能力はお墨付きです。

このため、科挙制度はいわば皇帝制と運命共同体のような関係となり、中国が皇帝制をとっていた長い期間、国家の人材を確保するための制度として機能してきたのです。

科挙制度の廃止が遅れた要因

しかし、近代になってくると、今度は科挙制度が、国家の改革を邪魔する存在になってきました。

というのも、科挙によって選ばれた官僚たちが、貴族のような特権階級としての意識を持ち始めたからです。

すでに解説したように、科挙には受験格差と試験内容の偏りがありました。

この裏返しとして、科挙官僚には強烈な特権意識があったようです。

多額の受験資金を用意できるだけの経済力があり、膨大な文字数である四書五経を長い時間かけて覚えてきたのだ、というプライドがあったわけです。

どこの時代も男性のプライドったら高い高いですよ。

現在でも、東大や有名私立大学を卒業した一部の人が、それ以下の大学出身者を「負け犬」として見下すようなことはあるでしょう。

全員ではないにせよ、科挙官僚の中にもこれと似た特権意識を持つ人が多くいたようなのです。

近代になって、科挙を廃止して西洋の教育制度を取り入れようとした時にも、こうした特権意識を持つ官僚が強く反対しました。

皮肉なことですが、日清戦争から科挙制度の廃止まで10年も間の空いた原因の一つがこれだったのです。

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科挙制度が廃止された理由がすごい!まとめ

いかがでしたでしょうか?

何度も言うように、科挙制度は身分によらず優れた人材を選抜する制度であり、それは人類の歴史の中で長い間、最先端の制度でした。

日本はもちろん、ヨーロッパですら、こうした方法で人材を選抜する制度が始まってから100年ちょっとしか経っていません。

しかし、受験格差と試験内容の偏りが、次第に科挙制度を最先端の制度から時代遅れの制度へと変えていきました。

そして、中国が西洋の技術を取り入れる必要性から逃れることができなくなった時、1300年続いた科挙制度も廃止されることになったのです。

とはいえ、科挙制度が持つ光と闇は、現代社会にも大きな問題を投げかけています。

なにしろ、試験によって人材を選抜すること自体は現在でも行われているわけです。

これは、そうした制度がそれだけ優れた制度であることの裏返しでしょう。

一方で、科挙制度のような受験格差は、現代の日本でも問題になっています。

試験問題だって、ずっと今のままでいいわけではありません。

時代の流れに応じて変化していかなければ、科挙制度と同じ結末を迎えるでしょう。

「温故知新」と言いますが、科挙制度の問題をしっかりと理解することで、現代の試験制度について、皆さんが考えていくきっかけになればと思います!ではまた!

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