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科挙だけじゃない!中国で行われた科挙より過酷な試験があった!

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世界史を勉強したみなさんならお分かりかと思いますが、中国史で有名な官僚の採用制度といえば科挙(かきょ)でしょう。

その厳しさゆえカンニングする人が後を絶たず科挙の試験場は絶対にカンニングできないように個室になっていました。

ここまで対策をするということはそれだけ、カンニングをしようとする人も多かったということでしょうね。

まあものすごく難しい試験だったのでなにか不正でもしないと合格できなかったのかもしれません。

今日はそんな科挙よりも過酷な試験が存在していたということ皆さんに知ってもらおうと思います。

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目次

官僚のチャンスが誰にでも!科挙は夢の試験だった?

科挙とは隋から清、つまり598年から1905年までの約1300年間おこなわれていました。

身分に関係なく試験に合格した人まら誰でも官僚になれるという夢の制度。

今では考えられなくらいめちゃくちゃ厳しく過酷な試験だったそうです!

親が貧乏なら子供も貧乏で身分が低い時代。

当時としては、身分関係なく試験によって官僚になれるというのはすごいことだったのです。

しかし、合格するためには幼い時からかなりの勉強が必要だったらしく、どれだけ過酷な試験だったのかがわかりますよね。

試験の半年前から勉強すればいいか〜なんて甘い考えだと当然ながら不合格。

また、現在の日本でも官僚は試験によって選ばれるわけですから、この科挙について、みなさんもイメージはしやすいと思います。

とりあえず試験に受かりさえすればよいのです!

まあその試験がかなり難題ということもありますが勉強すれば誰にでもチャンスがあるということです。

科挙制度の前はどんなふうに官僚を選んだのか?

では、隋よりも前の時代、中国で官僚になるためにはどのような就職活動が必要だったのでしょうか?

そこで次に後漢時代を例にとって、古代中国で官僚を目指す人のちょっと過酷な?就職事情について解説していきたいと思います!

隋の時代に科挙が登場するまで、中国における官僚の採用制度の基本は「郷挙里選」(きょうきょうりせん)と呼れるものでした。

世界史の教科書で目にしたことがある人もいると思います。

郷挙里選(きょうきょりせん)とはどんな制度?

これは、各地方の行政長官(後漢時代では「太守(たいしゅ)」、現在の日本の県知事クラス)が、自分の地方にいる優秀な人物を官僚として推薦する制度です。

後漢時代には、各地方は「郡(ぐん)」と呼ばれる区画に分けられていました。

最も多い時期には105の郡が置かれたと言われています。

ちなみに、郡は現在の日本だと県に相当するものです。

この各郡に、人口20万人あたりに一人という、推薦する人数の割り当てがありました。

そのため太守は、毎年自分の担当する郡に住んでいる人の中から、決められた人数だけ、優秀な人物を国に推薦する必要があったのです。

「郎官(ろうかん)」とは?

ちなみに後漢時代、毎年各郡から推薦されてくる人々の合計は200人に昇りました。

推薦された人々は都に集められ、「郎官(ろうかん)」という役職に就きます。

郎官は、中央の官庁で働く官僚候補生のようなもので、官僚に推薦された人々はまずこの役職で仕事をこなしながら、官僚としての実務を学んでいきます。

そして、郎官として実績を積んでいけば、三公(さんこう。現在の日本だと総理大臣クラス)や九卿(きゅうけい。現在の日本だと各省庁の大臣クラス)の推薦を受けて、より高ランクの役職へと出世できました。

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郷挙里選には大きな問題点が・・・・

しかし、この制度には重大な問題点がありました。

そこで次に、郷挙里選の問題点と過酷な就職事情について説明していきます。

問題点①:定員の数

郷挙里選の最大の問題点は、人材が毎年推薦されてくるのに対し、郎官より上のポストには限りがあったことです。まず郎官には定員がありません。

毎年200人が推薦されてくるわけですから、定員があったら困りますよね?しかし、当然ではありますが、郎官以外の役職には定員があります。

たとえば、現在の外務大臣に当たる大鴻臚(だいこうろ)の部下として実務をおこなう治礼郎(ちれいろう)の定員は47人でした。

定年退職という制度は無いため、ポストに空きがでるのはそのポストに就いている人が亡くなったり、不正を摘発されてクビになったり、別のポストにうつった場合に限られてきます。

そうなると、毎年200人ずつ郎官が増えてくるのに対して、先程の治礼郎に昇進できるのは、1年に1人いれば良い方でしょう。

このため、後漢時代の末期になると、郎官になったはいいものの、それ以上のポストにはいつまで経っても昇進できない人が多くなります。

中には一生を郎官で終える人も出てくるどでした。では、出世できない人は単純に能力が無かったから出世できなかったのかというとそうではありません。

実は、郷挙里選にはもう一つの問題があったのです!

問題点②:推薦の基準

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/

すでに説明したとおり、郷挙里選で官僚になるためには太守による推薦がなければいけません。

太守の側からすれば、毎年一定の人数を必ず推薦しなければいけないわけです。しかしこの時代、官僚が不正や違法行為によって摘発されると、推薦した人も連帯責任として処罰されてしまいました。

これは、現在の日本で大臣による不正が発覚すると、総理大臣の任命責任が問われるのと一緒ですね!

そうなると、仕事はできても人格に問題がある、というような人物を推薦することはちょっと難しいですよね。

これによってなにが起こるかというと、結局太守は、自分の同僚、先輩の子供や親戚を優先的に推薦するということが増えてくるのです。

自分が知っている人の関係者であれば、その人間性や官僚としての能力もある程度分かりますよね。そのため、太守としてもそういう人物を推薦したほうが安心というわけです。

また、すでに説明したとおり、郎官から出世するためには、三公九卿など、大臣クラスの推薦が必要になります。

科挙合格者

この時大臣が人物を選ぶ基準も、太守と同様になってきます。膨大な数の郎官の中から、いちいち面接によって推薦する人物を選ぶわけにはいきませんよね(笑)

そのため、大臣たちも結局は、自分と面識のある人の関係者を優先して推薦せざるを得ないわけです。

つまり、どんなに能力があっても人脈がなければ官僚として出世できず、一生を郎官で終えなければならないことになります。

この結果、官僚の息子や親戚は20代前半で高ランクの役職に就ける一方で、そういったコネクションの無い人は40代でやっと地方の小役人、という事態も起こってしまったのです!

科挙とは!昔の中国試験制度を簡単に説明するよ!まとめ

いかがでしたでしょうか。そもそも郷挙里選は、身分や経済力に関係なく、優れた人物を全国各地から集めるために始まった制度でした。

しかし、今回解説したような問題点から、結局は能力よりも人脈こそが、官僚を目指す人の重要な要素になってしまったのです。こうした問題点をクリアするために、国が作った試験によって人を選ぶ、科挙の制度が考案されたとも言えます。

まあ科挙にも色々と問題はあったのですが・・・(汗)ということで、後漢時代の官僚の就職事情について解説していきました!

実はこの時代、他にも官僚になるための方法というのはあったのですが、それらについてはまた要望があれば解説していきたいと思います!ではまた!

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