皆さん、こんにちは!
20世紀の半ばは2つの世界大戦の終わった後、まだ混迷が続いていました。
アメリカと当時のソ連との間の冷戦と呼ばれる対立の状況は続いており、いつ核戦争が始まってもおかしくないような状況でした。
そんな混迷の時代に、43歳の若さでアメリカの大統領になったのがケネディ・F・ケネディです。
そしてそのケネディ・F・ケネディを陰で支え、その業績のほとんどにおいて実際に最も貢献したのは、その弟のロバート・ケネディです。
そのロバート・ケネディも兄のケネディ・F・ケネディと同様、その若さから国民に期待され、アメリカという国の発展に力を尽くしました。
しかしやはり兄と同様、志半ばで暗殺されました。
今回は、ロバート・ケネディについて解説していきたいと思います!
ロバート・ケネディとは?
ロバート・ケネディは、ケネディ・F・ケネディの弟として、若い大統領の兄を支えました。
兄の死後はその志を継ぐものとして、そして兄以上に素直でまっすぐな性格から、国民に大いに期待されました。
しかし兄の暗殺のわずか5年後に、兄と同じように銃で撃たれ暗殺されたのです。
ケネディ・F・ケネディと同じように、志半ばで倒れたという悲劇性もあり、兄ほどではないですが、その人柄から今でも非常に人気のあるアメリカの政治家です。
兄・JFKの影武者のような存在
ではさっそくロバート・ケネディの生い立ちから見ていきましょう。
ロバート・ケネディはケネディ家の7番目の子どもとして生まれました。
最も期待され非常に活動的だった長兄ジョーや野心家の次兄のケネディと異なりロバートは大人しく寡黙な子どもでした。
後に大統領となるケネディ・F・ケネディからは、幼い時にアメリカの偉人の伝記の話などを多く聞かされたものでした。
そうした兄との幼い時からの関係もあり、兄ケネディが政治家として昇り詰めて行く中、ロバートは兄を影で支える役割を演じました。
大統領選挙の手伝い、マフィアとの関係、キューバ危機におけるソ連との秘密裏の交渉、人種問題における多くの関係者との交渉などです。
さらには、兄の不倫の清算までも・・・・・
ロバート・ケネディがいなければ、ケネディ・F・ケネディは大統領になっていなかったかもしれません。
兄ケネディ・F・ケネディの偉業の多くはロバート・ケネディの影での尽力があって初めて達成できたものでした。
兄・JFKとの違い
次兄ケネディは、幼い頃から病弱、厳格な父親、成績も抜群で優秀なスポーツマンの長兄ジョーとの比較、と言った厳しい環境の中で育ちました。
しかしその幼少時の経験から困難なことにも立ち向かう強い精神力と挑戦し続ける根気強さが養われました。
同時に病弱だったことから、屋内に引きこもり非常に多くの本を読みました。
特にアメリカの偉人の伝記が好きで、その影響もあり、野心家に育っていきます。
一方でロバートは9人きょうだいの7番目の子どもであり、あまり親に顧みられることもなく、期待もされず過ごしました。
親に顧みられなかったからか、もの静かで優しくシャイでごく普通の少年でしたが、その内側には確固たる自分の信念を常に秘めていました。
穏やかで野心とはほど遠いですが、同時に素直で正直でまっすぐな青年へと成長していきました。
マフィアと深い関係があり違法なことにも手をかけていたような父からは、誰に似たのだろう、とまで言われています。
しかし、その素直で正直でまっすぐな性格がゆえに、後の大統領選挙でも多くの支持を集めることになるのです。
ロバートケネディと兄・JFKは似ている?
野心家の兄ケネディと、寡黙でまっすぐなロバート。全く違う2人ですが、似ている点はあります。
もちろん、2人とも上院議員になりホワイトハウスで国の政治にも携わった点は同じです。
しかし、驚くことに2人ともほぼ同じ時期に同じ女性を愛していたとされています。
しかも不倫。
その女性は、当時人気女優だった、マリリン・モンローです。
マリリン・モンローと最初に関係があったのは、兄のケネディです。
しかし彼女がマフィアと深いつながりもあったことから政権内からも兄ケネディに強く忠告がありました。
そして兄ケネディとマリリン・モンローとの間の関係を終了させようと奔走したのがロバートとされています。
驚くことにその間にロバート自身もマリリン・モンローの魅力に取り憑かれマリリン・モンローと恋愛関係になってしまったのです。
そのような関係が長く続くはずもなく、この兄弟とマリリン・モンローの関係はすぐに終わります。
そしてその直後に、マリリン・モンローも謎の死を迎えます。
ロバート・ケネディの生涯
ロバート・ケネディは1925年11月20日、マサチューセッツ州にてケネディ家の7番目の子どもとして生まれました。
ケネディ家はアイルランド系移民の末裔で実業家、ボストンでの実力者の一族でした。
父ジョセフも膨大な資産を有し、後に在英国大使にまでなる有力者でした。
父の事業が拡大しボストンからニューヨークにまで広がる中で家族も転々とし、ロバートはかなり頻繁に転校することになりました。
その転校の多さからあまり友達も出来ず、寡黙で落ち着いた性格はこの時に得られたものと思われます。
同時に敬虔なカトリック教徒だった母の強い影響も受けています。
例えば、ロバートは最初は有名な高校に入学していますが、プロテスタントだ、という理由で母が高校2年目でカトリックの全寮制の学校に転校させてしまっています。
その母の影響からか、穏やかで野心とはほど遠いですが、同時に素直で正直でまっすぐな、そして信念を持った青年へと成長していきました。
ロバート・ケネディ海軍へ
ロバートは18歳になる直前に海軍へ入隊します。
そして当時第二次世界大戦を踏まえて設立されていた、海軍将校の為のプログラムに参加しました。
しかしこのプログラムはロバートを満足させるものではなく、彼は机上の議論よりも実際の現場に携わりたい、と思うようになっていました。
その想いは、ロバートの長兄ジョーの戦死後に叶うことになります。
父からの期待を一身に集めていた長兄ジョーの戦死により、父も徐々にロバートにも目をかけてるようになります。
そして大戦後にその想いは叶い、長兄の名前のついた駆逐艦ジョセフ・P・ケネディ・Jrに搭乗することになるのです。
大統領の兄を支えて
海軍除隊後、ロバートケネディはハーバード大学に入学します。
そして在学中に早速次兄ケネディの下院議員選挙の手伝いを始めます。
ハーバード卒業後、さらに進学しバージニア大学で法律の勉強に励みます。
卒業後は父のそばにいてその手伝い等でのんびり過ごしていたようです。
その時にボストンの新聞社のレポーターとして、日本のサンフランシスコ講和条約を取材しています。
さらには、ロバートケネディは兄のケネディと一緒に日本を含めたアジア旅行に出ます。
2ヶ月弱の旅だったので、兄とよく議論もし、歳の離れた兄弟の仲が本当に深くなったきっかけとなったのでした。
その後は弁護士として法務省での勤務を皮切りに、議会の法律顧問等を務め、ワシントンでのキャリアを進めていくのでした。
また同時にアジア旅行を通じて仲の深まった兄ケネディの上院議員選挙、さらには大統領選挙を精力的に支援することになります。
特に大統領選挙戦の終盤におけるロバートの尽力が、大激戦の選挙の行方を左右したと言われています。
そして兄ケネディの人気を決定づけるある出来事が起こります。
選挙戦の終盤に当時の黒人運動家で大きな力を持っていたキング牧師が逮捕さてしまったのです。
その直後に、兄ケネディはキング牧師の夫人に電話し支持を表明しました。
ロバートはその影でキング牧師の釈放に尽力しました。
そのキング牧師への支援の姿勢が黒人に強く感銘を与え、大半がプロテスタント教徒だった南部の黒人が兄ケネディを支持することとなりました。
わずか12万票、得票率で0.17%のごくわずかな差での当選に大きな貢献をしたのです。
兄ケネディの大統領就任後は、法務長官として、しかしそれ以上に兄ケネディのいわば影武者として、大統領を支えます。
ロバート・ケネディキューバ危機で活躍
その1つが、キューバ危機でした。
1962年10月14日、アメリカの偵察機がキューバでソ連が核ミサイル発射基地を建設していることを発見します。
キューバにミサイル基地があることは、全米が核ミサイルの標的となることを意味します。
そしてミサイルの到達時間の点から、核戦争になった時にアメリカがソ連に完全に劣勢になることを意味します。
ソ連が先にキューバから核ミサイルを撃つと、反撃の前に全米が攻撃にさらされてしまいます。
アメリカ軍部は、即時のキューバのミサイル基地破壊を要求しました。
しかしそれはソ連の保有する軍事施設への攻撃ですから、そのままソ連との核戦争につながる可能性の大きいものでした。
一方で、キューバのミサイル基地を放置すれば、それを脅しのネタとして今後ソ連が交渉においても大いに有利になることは間違いありませんでした。
従ってソ連は当然ミサイル基地の撤去は考えておらず、キューバへの攻撃の際には即座に核ミサイルを撃つとアメリカに警告します。
兄ケネディは、強硬な軍部を押さえつつ、交渉と世界の世論を味方につけることでこの難局を乗り越えようとしました。
この時に、裏でソ連との交渉に当たっていたのが、ロバートです。
表に出せないアメリカからの譲歩案を、兄ケネディはロバートに持たせソ連との難しい交渉を託したのです。
それを見事にまとめ上げ、ソ連の譲歩も引き出し、核戦争を回避することに成功したのでした。
ロバートの誠実で率直でまっすぐな人柄がこの交渉でも役に立ったと思われます。
人種問題にも取り組んだロバートケネディ
もう1つは人種問題です。
ロバートは兄ケネディ以上に人種問題の解決に積極的に努力しました。
兄ケネディが大統領の時に、南部の大学で、黒人学生の入学が肌の色を理由に拒否される事件が発生しました。
その際も、州知事や大学関係者を説得しようとしたのが大統領のケネディではなく、ロバートだったのです。
やはりロバートの誠実で率直でまっすぐな人柄がこの場でも人々に感銘を与えたと思われます。
兄ケネディの死後・志半ばで・・・・
1963年11月22日、兄ケネディは、テキサス州ダラスで遊説中、市内をオープンカーでパレード中に暗殺されました。
享年46歳、わずか2年10ヶ月の大統領在任でした。
ロバートは、副大統領のケネディソンと仲は悪くワシントンを去りニューヨーク州の上院議員になります。
ここでも精力的に人種問題や南部の問題、貧困の撲滅に奮闘しその人柄もあって支持を広げることになります。
大統領選挙
1968年の大統領選挙は、ケネディソン大統領が2期目を目指していましたがロバート自身は立候補は考えていませんでした。
個人的にケネディソンと仲が悪いことが出馬の理由と思われたくないとの想い、また民主党を混乱や分裂させたくないという想いからでした。
しかしあるジャーナリストからロバートケネディはこのように言われてしまいます。
「貧しい人々は未だにケネディ大統領の写真を家に飾っている、あなたにはそういう人達に真摯に向き合う義務がある」
そして現職の大統領であるケネディソンの民主党予備選挙での苦戦を見て、ついに立候補を決意します。
ロバートはやはり人種問題と貧困の撲滅をその政策の中心にし、変化を求めました。
その若くエネルギーの溢れた姿勢は特に若い世代の広範な支持を集めました。
特に、1968年4月4日、黒人指導者のキング牧師が暗殺された際の対応は多くの賞賛を得ています。
ロバートは選挙遊説の途中でインディアナポリスにいましたが、危険を顧みず黒人居住区に行き急遽演説をします。
その中でロバートは、公衆の前で初めて兄ケネディの暗殺の話をし、アメリカに必要なものは分断でも暴力でも憎悪でもない、と述べました。
そしてアメリカに必要なものは、愛とお互いへの思いやりだ、と述べ、国民の団結を訴えました。
その真っ直ぐで率直な演説は多くの人の心をうち、その夜、35以上の都市で暴動が発生しましたが、インディアナポリスでは何も起きず静かでした。
しかし、その率直で真っ直ぐな性格なゆえに、正直な発言も目立ち、伝統的かつ保守的な考えを持つ人々への支持はあまり広まりませんでした。
ケネディソン大統領が現職でありながら、その不人気から民主党予備選挙から降りたため、混戦のまま、雌雄を決するカリフォルニア州での予備選挙に突入するのでした。
ロバート・ケネディ暗殺
1968年6月5日、ロバートは最大の州であるカリフォルニア州での予備選挙に勝利、大統領指名獲得に向け上機嫌でその夜の祝勝会で勝利演説をしました。
しかしロバートケネディが演説を終えると会場内に銃声が響き渡ります。
なんとロバートは会場を出る際に銃撃され暗殺されてしまったのです。
享年42歳。
兄ケネディと同様、40代での志半ばでの死でした。
そしてその死はやはり兄と同様、謎の部分が多いものとなっています。
ロバート・ケネディと日本
ロバート・ケネディは1962年2月に日本を訪れています。
これも、大統領の兄ケネディの代わりでした。
1961年に当時の池田首相がワシントンにケネディ大統領を訪ね、そのお返しとして大統領の訪日が1962年に予定されておりました。
しかし、いわゆる安保闘争で日本とアメリカの関係が最悪な状態にあり、大統領の身の安全すら危惧される状況でした。
さらにはケネディ大統領が核実験を続けることもその状態の悪化に拍車をかけました。
そのような困難な状況の時にいつも頼りにされてしまうのが、ロバートでした。
ロバートは日本の反米の機運の高まりの中、精力的に日本をまわり多くの日本人と会話をして、この最悪の状況の改善に努めました。
そして1962年2月6日、早稲田大学の大隈講堂で講演を行いました。
多くの人々が来ることで混乱も想定され、駐日アメリカ大使館は中止を考えていたようです。
しかしロバートは、話せばわかるとばかりに、早稲田大学へ行くことも自ら決めた、とのことのようです。
当日は反対派学生たちが暴徒と化し、怒号や野次でやはり大混乱となりました。
しかし、ロバートはそのような状況の中でも落ち着きを失わず、反対派の学生を壇上にあげ、その話を聞き出そうとしました。
そして、反対派の人々の意見を聞いてその場で話し合いをしようと試みました。
このロバートの、落ち着いた、そして寛容と理解ある態度は、多くの日本人が感銘を受けたものでした。
ロバート・ケネディと小渕元首相
この早稲田大学での講演の聴衆の中に、当時早稲田の学生だった小渕恵三がいました。
この講演に感動し、ロバートの落ち着いた実直な、そして異なる考えの人々を受け容れる態度に強く感銘を受けた小渕恵三。
彼は政治の勉強をさらに続けること、心新たにし、大学院政治学科に進学したのです。
その在学中にロバートの講演の影響からか、これからの政治家は世界を知らなくてはだめだとの思いで、小渕恵三は世界に一人旅に出ました。
ロバートケネディは日本の政治家でも多大なる影響を与えていたといえます。
さて小渕恵三の旅行でのハイライトは、ワシントンでロバートと再会を果たしたところです。
なぜワシントンでロバートケネディと小渕恵三が再会することになったのか。
1962年の早稲田での講演に感動した小渕恵三はすぐさまロバートケネディ宛に手紙を送ります。
その熱意ある手紙にロバートは感心し、この小渕恵三と言う少年に会ってみたいと考えたのでした。
ただのごく普通の学生に快く会ってくれたことに感激した小渕恵三は「分け隔てなく多くの人に会わなければ」と心新た政治家の道に進むのでした。
まさにロバートが総理大臣小渕の生みの親とも言えるかもしれません。
そしてのちに総理大臣になった小渕は、ホワイトハウス訪問時に、ロバートの未亡人とお会いしています。
ロバート・ケネディと合気道
ロバートは精力的に日本をまわり多くの日本人と会話をして、日米関係の改善に努めました。
京都では庶民的なおでん屋に行き若者と会話したり、大阪の小学校や団地を訪問したりもしました。
そして合気道の評判を聞いていたロバートは塩田剛三という合気道家の道場を訪れます。
最初は塩田とその弟子の演武を見ていましたが、あまりに簡単に弟子が倒されるので、演技ではないかとロバートは疑いました。
そこで、ロバートは、同行していた自分のボディーガードに、お前がいけ、と命じます。
塩田に相手をしろと・・・・結果は、あまりにもあっけないものでした。
YouTubeで検索するとその時の映像も出てきます。
大柄なボディーガードがまるで子どものように、小柄な塩田に苦もなく、キリキリ舞いされて最後は取り押さえられています。
ボディーガードは、今朝は朝食抜きでした、と言い訳するのが精一杯だったとのことです。
このように落ち着いて実直で素直で、寛容と理解の精神を持ったロバートの人柄は多くの日本人に多大なる影響を与えました。
そして日米関係もこの訪日をきっかけに落ち着き始めることにもなります。
ロバート・ケネディの死後
ロバートの死後、大混乱となった民主党は予備選で運動していなかったハンフリー副大統領を民主党の大統領候補として指名します。
しかし大統領選挙では、1960年の選挙でケネディ・F・ケネディにわずか0.17%の得票差で敗れたニクソンが、今度はわずか0.7%の得票差で勝利したのでした。
ケネディ一家・不幸な兄弟
ケネディの兄弟には多くが不幸が襲っております。
最も将来を期待されていた長兄のジョセフは戦争中に特殊任務中に戦死。
次兄ケネディは1963年にダラスで暗殺。
弟のエドワードは飲酒運転と交通事故、そして同乗者の死、と言う事件を起こし、以後の大統領選を断念。
そして姉のローズマリーはロボトミー手術を受け、その結果生涯を施設で過ごすことになってしまいました。
ロバート・ケネディの子供達
ロバートは7男4女の父であり、多くの孫もいます。
ケネディ家の呪い、があるのか、不幸な死に方やスキャンダルに関わった人もいます。
息子のデビッドは薬物過剰摂取で28歳の若さで死亡。息子のマイケルはスキーの事故で38歳の若さで死亡。
ただしケネディー家の子孫の多くは法律の勉強をして弁護士になったり政治家になって今も活躍しています。
長女キャスリーンはメリーランド州の副知事を務め、長男のジョセフは下院議員でした。
三女のメアリーはニューヨーク州知事のクオモと結婚していたこともありました。
さらに孫のジョセフも下院議員でした。やはり非常に華やかな一族です。
ロバート・ケネディの名前のついたもの
ワシントンにある球場は、ロバートの名前にちなんで、RFKメモリアル球場、と改名されました。
共和党のブッシュ大統領は司法省本部ビルをロバート・F・ケネディ司法省ビルと命名しました。
さらに、バイデン大統領は自分の理想をいつも振り返ることができるように、ホワイトハウスの執務室に新たにロバートとキング牧師の肖像画を掲げています。
ロバート・ケネディって何をした人?功績や最後などを解説! まとめ
いかがでしたでしょうか。
ロバート・ケネディは兄ケネディ・F・ケネディを陰で支え、兄の死後はその志を継ぐものとして、そして兄以上に素直でまっすぐな性格から、国民に大いに期待されました。
しかし兄の暗殺のわずか5年後に、兄と同じように銃で撃たれ暗殺されました。
兄ケネディと同じように、志半ばで倒れたという悲劇性もあり、兄ほどではないですが、その人柄から今でも非常に人気のあるアメリカの政治家です。
その穏やかで率直で真っ直ぐで、同時に寛容と理解を重んじ、人種間の対立や貧困問題に真摯に取り組んだロバートの思想は、後の政治家に大きな影響を与えています。
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