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マッカーサーとはどんな人物だったのか?日本国民を操るために天皇を利用?

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みなさんこんにちは!

現在も世界への影響力をもつアメリカ。第二次世界大戦では日本の敵国として戦いました。

今では友好関係を築けていますね。しかし、ここに至るまで色々なことがありました。

「歴史の授業で印象に残っている外国人の写真といえば?」と道行く人に聞けば、あのコーンパイプをくわえたマッカーサーと答える人もいるのではないでしょうか?

今回は、現在の日本を作る過程で最も影響を与えたといっても過言ではないマッカーサー・マッカーサーについて深堀したいと思います!

目次

マッカーサーってどんな人?

コーンパイプが似合うマッカーサー。本名はマッカーサー・マッカーサーと言います。

1880年1月26日、アーカンソー州で陸軍の軍人の子として生まれました。

生まれたときの彼の父親の階級は大尉。

幼いマッカーサー少年は父親の転勤で全国各地の陸軍基地を転々としていました。

そんな彼が軍人になるのは自然な流れだったのかもしれないですね。

1898年に陸軍士官学校の入学資格を得る試験に合格しました。

この年、アメリカとスペインの間で戦争が始まり、マッカーサーの父がフィリピンへと派遣されたのです。

このことが彼のその後の人生に大きく影響を及ぼしました。

彼の父はフィリピンにおいて大きな実績を残し、次々とフィリピンの島をアメリカの支配下にしていきました。

そのことは新聞や手紙を通じてマッカーサーの耳にも入ってきます。

マッカーサーはそんな父のことを尊敬しており、その中でも父が取った作戦に興味を惹かれていました。

彼の父は、情報収集の為の常套手段とされていた拷問のようなことはしませんでした。

独立派の指導者を捕虜としてではなく丁重に扱い、アメリカと良好な関係を築いているという状況を作り出し、その結果として指導者についていたゲリラ達が投降しはじめたのです。

こうして戦争は沈静化しました。

マッカーサーは当時、領土拡張派を支持していました。

アメリカがフィリピンで行った支配ともとれる一連の行動は、アメリカの理想的なシステムを海外の後進国に伝えていくという誇るべき試みだとマッカーサーは考えていました。

その為、その最前線でこの大事業を指導する父のことをとても誇りに思っていたのでした。

そんな父は大きな功績を残し、1901年に任務を終えてアメリカへと帰ってきました。

マッカーサー少年(以下マッカーサー)は1899年に陸軍士官学校へ入学したあと、25年間で過去最高の成績を残しながら1903年に首席で卒業。

父の影響を受けながら着実に軍人への道を進んでいたのでした。

軍人としてのマッカーサー

士官学校を卒業したあと、当時の花形である工兵化の少尉に任命されました。そんな彼の最初の赴任地は、父のゆかりの地であるフィリピンでした。

彼はとても喜んだそうです。

尊敬する父が大きな功績を残したフィリピンで1年勤務したあと、翌年には中尉に昇進しました。

しかしマラリアにかかってしまいアメリカへと帰国。療養後はカリフォルニアの工兵学校にて勤務しました。

1905年、突然日本に行くよう命令を受けました。

日露戦争を観戦し、日本陸軍について視察していた父の副官として赴任することが命令でした。

12月にマッカーサーは日本に降り立ちました。

彼は後の回想録で、日本軍の兵士の間で評判が悪く、道端に捨てられていた脚気予防薬が「陛下のご希望により毎日3回服用せよ」と缶に記したところ誰も捨てなくなったと記録しています。

この頃に日本兵の天皇に対する忠誠心を知ったのですね。

その後彼は、香港やシンガポールなどを含む東南アジア全域の調査を命じられました。

この調査には数か月かかり、この経験は彼の後のキャリアに活かされることとなります。

アメリカに戻ったマッカーサーは、ホワイトハウスで勤務したのちにミルウォーキーへと転勤になりました。

本当にあちこち行きますね・・・。

息子の昇進を願う母ピンキー

この頃の彼の軍務成績は芳しくなく、あまり評価が高くなかったようです。

そんな彼のことを心配した母・ピンキーが鉄道王に息子を雇ってもらうようお願いする手紙を書いたそうです。

このことに驚いたマッカーサーは、また軍人として励んでいくことになります。それにしてもそこに親が出てくるとは驚きです。

1914年にはメキシコと戦争になる場合に備えて現地調査に向かいました。

ヨーロッパでは第一次世界大戦に向けて不穏な空気が流れていましたが、アメリカはヨーロッパには干渉しない立場をとっていたので、意識はヨーロッパではなくメキシコに向いていたのです。

しかしドイツが大西洋で無差別の船舶攻撃をした際に、アメリカの商船を攻撃してしまったことや、メキシコに対して対米参戦を唆していたことが明るみになり、対独戦線布告へと踏み切ったのでした。

開戦後、マッカーサーはフランスで第42師団参謀長として自ら前線に出向いて歩兵を直接指揮していました。

参謀将校でありながら最前線で部下と共に戦ったことで前線部隊の仲間に絶大な信頼と尊敬の念を抱かせることになります。

彼と共に戦った戦友の中には、後の大統領であるトルーマンもいました。

さらにマッカーサーにもう一人強力な味方が。先ほども登場した母・ピンキーです。

息子を溺愛するピンキーは、彼の昇進を催促する手紙を何度も陸軍長官に送りつけたそうです。

長官もドン引きだったでしょう・・・

しかしそんな母の子を思う気持ちが実を結び、1918年6月には准将、8月には第84歩兵旅団長に昇進しました。

同11月には休戦が成立し、連合軍の戦勝への貢献を認められたマッカーサーは数えきれないほどの叙勲を手に入れ、アメリカ陸軍屈指の英雄となったのです。

1919年にニューヨークへと帰還したマッカーサーは、憧れのウエストポイントの陸軍士官学校校長の任を得ました。

しかし当時第一次世界大戦への参戦という予想外の出来事に直面した結果、同校は臨時のスピード重視の教育をしていました。

そのスピードはなんと4年かけていたものを1年で終わらせるというものです。

なんたる短縮・・・

そして先輩後輩の上下関係が疎遠になり、過去の伝統ある校風がなくなっていました。

マッカーサーはこの学校を元の伝統あるものに立て直すことに精進します。

その立て直しの内容は、柔軟さと広い視野、リーダーシップとチームワークの重要性を生徒達に会得させることを目的としたものでした。

校外学習や団体スポーツを科目に導入するという彼の改革案は陸軍と民間から高い支持を得て、正式に採用されました。

こうして陸軍士官学校はかつての伝統ある校風を取り戻す第一歩を踏み出したのでした。

オリンピック選手団団長

1922年、校長の任期を満了したあと、今度は1924年のアムステルダムオリンピックにて選手団長に任命されました。

すごく色々な肩書きを経験していますね・・・

ただのコーンパイプのおじさんではないようです・・・。

オリンピック会場へ乗り込んだ選手団の前で、彼は演説をします。

「我々は勝つことを目的にここへ来た。」と・・・

参加することに意義があるとされていたオリンピック精神と対立する発言ではありましたが、選手団は本当に国別メダル獲得数で1位となりました。

マッカーサー・陸軍少佐へ!

マッカーサーの弾圧

1925年、陸軍少将へと昇進。

この時も母・ピンキーは少将への昇進を催促する手紙を何度も送っていたそうです。

しつこいですね。

しかしそんな手紙がなくても、彼の陸軍における評価は着実に上がっていました。

1930年、50歳になったマッカーサーは史上最年少で陸軍参謀総長に就任します。

この頃恐慌による予算削減の舵を握ることになり、堅実な活躍をしていました。

しかし1931年年末から、第一次世界大戦の復員達によるボーナス支給の前倒しを要求するデモが行われた時、早まった判断から陸軍に大きな汚点を残すこととなります。

ボーナスの前倒し要求のデモを行っていたかつての戦友や部下に対し、国家転覆を目論む共産主義に加担しているとの疑いから実力行使による弾圧をしたのです

現場に向かったマッカーサーは、部下達に向けて催涙ガスを発射してデモ隊を解散させました。

この無慈悲な弾圧事件により彼は非難を浴びることになり、ニューヨーク州知事であったローズヴェルトとの友情にも亀裂が入ります。

この2人の対立は1935年、決定的な対立関係に発展したのでした。

1930年、ナチスによるドイツ再軍備や日中戦争の勃発を契機にアメリカにおけるフィリピンの地位は変動していきます。

日本が領土として広げていた東南アジアの地理的関係から、日米戦争がおきた場合にフィリピンを保持できる可能性が低くなっていたのです。

また、フィリピンからの低価格なものが本土に流れてくることによってアメリカ国内ではフィリピンを脅威としている人もいました。

さらに、1933年に大統領となったローズヴェルトは海外植民地に対して否定的であった為フィリピン独立への動きは加速しました。

こうした状況の中で、マッカーサーはフィリピンの軍隊を独立後も自立できるレベルまで育てるためのフィリピン駐留米軍軍事顧問団長という任務を任されたのです。

彼は愛着あるフィリピンへまた赴任できることを喜んでいました。

しかし、辞令は現地についてからにしてほしいとローズヴェルトに打診していました。

参謀総長という肩書きのまま向かえば、大将という地位のままフィリピン国民の前に出ていけることが理由です。

ローズヴェルトはこの頼みを一度聞き入れましたが、マッカーサーがアメリカ国内を移動中の1935年10月1日、突然発表するのです。

このことにマッカーサーは激怒し、ローズヴェルトとの間に遺恨が残りました。

さて、こうしてまたフィリピンに戻ってきたマッカーサー。

その後をさらに見ていきましょう。

マッカーサーが赴任したのと同じ年にフィリピンの大統領に就任したマヌエルはマッカーサーと友好な関係にあったので、マッカーサーの任務も円滑に進むと思われました。

しかし、副官としてマッカーサーに随行していたアイゼンハワーは、マッカーサーの名誉欲が以前にも増して強くなっていると感じていました。

1937年、マッカーサーは陸軍を退役した上でまだ創設もされていないフィリピン軍の元帥となります。

自らがデザインした元帥服を着て意気揚々と公の場に現れたマッカーサーはアメリカ陸軍兵から嘲笑の的になりました。

第二次世界大戦中のマッカーサー

1941年日本が南部仏印へ進駐すると、アメリカはフィリピンが脅威にさらされたと考え、マッカーサーにアメリカ軍への復職を要請します。

そして陸軍中将として復職したマッカーサーは、極東における陸軍総司令官に就任したのです。

そして同年12月、日本軍による真珠湾攻撃の知らせを受け彼は相当な衝撃を受けたそうです。

日本が対米戦争を起こすにしても1942年4月以降だと思っていたのです。

その為対応が後手にまわり、適切な指示をフィリピンに展開している陸軍航空隊に出さなかったために指揮下の戦闘機と爆撃機の大半を日本軍に撃破されるという大失態をおこします。

この時点でマッカーサー配下には、アメリカ軍1万2000人とフィリピン軍11万2000人の陸軍部隊がいました。

これだけいればしばらくは大丈夫だろうと思っていたマッカーサーでしたが、日本軍がフィリピンに上陸するとアメリカの敗戦が続きました。

さらに経験の浅いフィリピン軍は次々と武器を捨てて逃げ出す始末。

かなり想定外です。

窮地に立たされたマッカーサーは、残っている部隊をバターン半島とコレヒドール要塞に収容して、持久戦を続けるとの命令を下します。

しかしこれを受けてバターン半島で戦う兵士は、マッカーサーにダグアウト・ダグというあだ名をつけて不満を募らせていました。

第一次世界大戦時とは違い、頑強なコレヒドール半島の要塞に籠って最前線の視察をしないことや、食料難に直面しているバターンとは対照的に、その4倍もコレヒドールでは支給されていることが要因でした。

そんなマッカーサーに新たな指令が下ります。

オーストラリアに向かい、反撃する為の兵力を組織せよという内容です。

彼は1942年3月11日の夜に側近を連れて要塞を脱出し、小型の魚雷艇と飛行機を乗り継いでオーストラリアに向かいました。

マッカーサーが小型艇で日本海軍を突破してオーストラリアへと脱出したことは、アメリカ国内で人気を博します。

再び英雄として持て囃されたのです。しかしマッカーサーは怒っていました。

ここにくればフィリピン奪回作戦に使える兵力が用意されていると思っていたのに、実際にはまったくなかったからです。

成り行きとはいえ、バターンとコレヒドールの兵を見捨てたことになってしまい面目丸つぶれです。

意思疎通の大事さを再認識する話ですね・・・

そして4月にバターン半島、5月にコレヒドールが日本軍に降伏すると、ローズヴェルト達が自分を陥れようとしていると疑心暗鬼になります。

以後終戦まで、バターン時代からの数少ない取り巻き以外は一切信用しないようになりました。

しかし実際はそうではありませんでした。

ローズヴェルトは、マッカーサーの人気再燃を無視できないくらいになっていました。

そして海軍首脳の反対を押し切ってマッカーサーを太平洋における米軍の半分を指揮下とする南西太平洋方面連合軍司令官という役職につけ、反撃作戦の総指揮をとらせることにしたのです。

1944年7月末、マッカーサーは真珠湾でローズヴェルトや海軍高官と後半の戦略会議をしていました。

海軍代表は、ミンダナオ島を奪回した後はフィリピンを素通りして台湾へ向かう方針を提示しました。

しかしマッカーサーはこれに反対。

フィリピン国民に対するアメリカの道義的責任という観点で、レイテ島とルソン島にも向かうべきだと主張しました。

結局はマッカーサーの案が承認され、彼はフィリピンに対する仁義を通すという意味も込めた反撃をすることになるのです。

そして1944年12月にマッカーサーはアメリカ軍元帥にまで昇進します。

1945年2月にはフィリピンのほぼ全域で戦闘が停止し、フィリピンの人々は祖国解放の英雄として彼を迎え入れたのでした。

第二次世界大戦後のマッカーサー

1945年8月15日、ローズヴェルトの急死に伴って大統領に就任していたトルーマンはマッカーサーを極東連合最高司令官という役職に任命しました。

連合国に無条件降伏した日本の占領を彼の手に委ねたのでした。

彼は9月11日から本格的な占領統治に取り掛かりましたが、大きな問題に直面しました。

それは、日本の最高権力者である天皇の処遇と天皇制への対処でした。

そこで思い出したのが、彼の尊敬する父・アーサーが独立派の指導者にとった行動でした。

マッカーサーはそれと同様の方法を取ることにします。

日本国民から絶対的な尊厳を得ている天皇とアメリカが良好な関係を築いているという状況を作り出すことにするのです。

その手段の1つとして、天皇と2人で並んで写真を撮らせたうえで大々的に発表させました。

彼の思惑通り、この写真は効果覿面でした。

日本国民は現人神である天皇が対等に接しているマッカーサーを新たな統治者として受け入れたのです。

こうしてマッカーサーは、日本国民の意識を対米反抗ではなく復興へと向けることに成功したのでした。

その後のマッカーサーによる民主主義的な改革により日本は変革を遂げ、従順な新米国家へと姿を変えていきました。

朝鮮半島では

1950年、朝鮮戦争が勃発しました。

南半分の韓国も管轄するマッカーサー率いるアメリカ一派は、破竹の勢いで侵略してくる北朝鮮勢力により朝鮮半島から追い出される危機に直面していました。

ここでマッカーサーは起死回生の一手として、無謀とも思われた仁川からの上陸作戦を強行します。

この奇襲は成功を収め、戦線を大きく押し上げることになりました。

38度線を超えて戦線を北上させたマッカーサーは、この劇的な戦勝に酔いしれたのでした。

ここで止めておけばよかったものを、さらに北上していきます。この辺から朝鮮戦争の様相は変わっていきました。

米軍の北進を、自国への脅威とした中国が北朝鮮に力を貸したのです。

公に正規軍を派遣することは、国連常任理事国としてできなかった中国は、義勇軍として民間という体で軍を派遣しました。

しかしこの中国の参戦はマッカーサーにとって誤算でした。

トルーマン大統領にも参戦してくる可能性は低いと報告していたのに、戦況をひっくり返されてしまった責任は重大でした。

さらに、トルーマン大統領の考えていた中国との和平交渉とは対照的なことをしでかしたのです。

中国に向けて全面戦争の通牒のような声明を独断で発表したのでした。

これに激怒したトルーマンは、1951年4月11日の緊急記者会見でマッカーサーの全職務からの罷免を発表しました。

アメリカへの帰国

1951年4月16日に東京を離れたマッカーサーは19日にワシントンでの上下両院合同議会で演説をしました。

彼らしいドラマチックな内容でした。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。

彼が残した言葉です。そしてその13年後、急性肝不全で84年の生涯を終えました。

マッカーサーとはどんな人物だったのか?まとめ

日本人なら誰もが一度は目にする、飛行機から降りてくる写真のマッカーサー。

どのような生い立ちで、どんなことが彼の思想や統治に影響を与えたのか。

少し深く知るだけでも面白いですよね。

日本は敗戦国ながら、分割統治されずにすみました。そして、今日の経済大国と言われる日本があるのです。

歴史とは、どの立場に立つかでずいぶんと物の見方が変わりますが、それにしても日本はラッキーだったのではないかと思います。

開国して100年もしないうちにマッカーサーなんて人が飛行機から降りてきているのですから、めまぐるしい時代でした!

またなにかの歴史を深堀していきましょう!

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