皆さん、こんにちは!
20世紀は2つの世界大戦があり戦争の世紀と言われるくらい混迷していました。
その2つの大戦が終わった後も、アメリカと当時のソ連との間の冷戦と呼ばれる対立の状況は続いており、いつ核戦争が始まってもおかしくないような状況でした。
そんな混迷の時代に、アメリカの大統領になったのがケネディです。
その若さから国民に期待され、アメリカという国の発展に力を尽くしましたが、志半ばで暗殺されました。
今回は、ケネディについて解説していきたいと思います!
ケネディ~20世紀で最も有名な米大統領の一人

ケネディは、1961年にわずか43歳でアメリカ大統領に就任します。
その若さから国民に期待され、第三次世界大戦の危機を回避。
公民権法の樹立による人種差別の撤廃や、月まで人を送ることを約束しました。
しかしケネディは大統領就任後、わずか3年で暗殺されてしまったのです。
享年46歳でした。
そのカリスマと、志半ばで倒れたという悲劇性もあり、今でも歴史上最も人気のあるアメリカ大統領の1人となっています。
冷戦の時代に現れた最も若い大統領
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする自由主義諸国と今のロシア(の前身であるソ連を筆頭とする共産主義諸国とに分かれて激しく対立していました。
自由主義諸国は西側、共産主義諸国は東側、とされ東西対立とも言われました。
その対立の激しさから冷戦と呼ばれ世界を二分してしまったのです。
その時代に、43歳で大統領になったケネディ。
アメリカ国民からはその若さからくるエネルギーに期待を寄せられました。
しかし対立するソ連からは、その若さと未経験さから東側の勢力拡大の絶好のチャンスと捉えられます。
その為、ベルリン危機やキューバ危機と言った一歩間違えると第三次世界大戦につながるような緊迫した事件が多発しました。
しかしケネディはそれらの危機を果敢な行動力と機敏な判断力で乗り切り、世界の平和の維持に成功したのでした。
不倫が大好き?
ケネディは36歳の時に、当時24歳の裕福な家の出身で名門大学を卒業しているジャクリーンと結婚します。
しかし、その若さゆえ、そして果敢な行動力ゆえか、結婚後も、そして大統領就任後も多くの女性との噂が絶えません。
そのお相手は、ホワイトハウスの職員や上院議員のスタッフから、女優や外交官の妻にまで及びました。
後に公表されたFBIの捜査報告書によれば、大統領在任中少なくとも32人と関係があったことがわかっているとのこと。
なかなかの女好きだったようですね。

ケネディの生涯

ケネディは1917年5月29日、マサチューセッツ州にて次男として生まれました。
ケネディ家はアイルランド系移民の末裔で実業家、ボストンでの実力者の一族でした。
ケネディ家からは、連邦下院議員やボストン市長も輩出しています。
父ジョセフも膨大な資産を有し、後に在英国大使にまでなる有力者。
ケネディは、幼い頃から病弱な青年で周りからよく心配されていたようです。
家庭環境はというと厳格な父親に、成績も抜群で優秀なスポーツマンの兄と言う厳しい環境の中で育ちました。
その幼少時の経験から困難なことにも立ち向かう強い精神力と挑戦し続ける根気強さが養われたとも言えます。
そして父の尽力もありケネディは晴れてハーバード大学に入学することができました。
太平洋戦争で撃沈される
大学卒業後、やはり父の尽力もあり海軍に入隊します。
最初は米国本土での勤務でしたが、アメリカの参戦と共に魚雷艇操縦訓練を受け、太平洋で魚雷艇の船長となります。
ケネディの乗った魚雷艇は1943年8月2日に南太平洋で任務中に日本の駆逐艦と衝突し撃沈。
船の残骸の板にしがみつき近くの無人島まで泳ぎ、ケネディは自らの怪我も顧みず火傷をした部下を助けたのです。
さらに部下達のために近くの島を泳いで自ら水や食糧の確保をし地元民に依頼して救助を呼び九死に一生を得たのでした。
この経験が大統領選挙等で盛んに宣伝され、当選に一役買ったのは間違いありません。
しかし同時に、死への恐怖、戦争の悲惨さ、そして真っ先に死んでいくのは前線の若い兵士だということを身にしみて理解しました。
それが後に大統領となり戦争回避へ尽力することにつながったとも言えます。
病気との戦い
戦後、下院議員、ついで上院議員となりますが、多くの脊椎の手術を受け長期に渡り入院するなど、健康状態はよくありませんでした。
そしてアジソン病という呼ばれるホルモンに関わる難病にもかかり、ステロイド剤を含む多くの薬を摂取することを余儀なくされました。
薬の副作用には、日焼けしたような色の肌、過剰な自信や強い性的衝動もあるとされ、彼の後の行動に影響を与えた可能性もあるかも知れません。
しかしこの入院中に、信念を持って行動した先輩議員についてまとめてみたいと思い立ち、本を執筆することにしたケネディ。
これは「勇気ある人々」として出版されるとすぐにベストセラーとなり、ピューリツァー賞も受賞しました。
まさに困難なことにも立ち向かう強い精神力と挑戦し続ける根気強さの表れといえましょう。
大統領選挙・僅差で当選
ケネディは1956年大統領選挙で副大統領候補に挙げられ、大統領への足がかりを得ました。
そして1960年の選挙には大統領候補として立候補。
若いこと、そしてカトリック教徒であることが不利に働くと想定されましたが、わずか12万票、得票率で0.17%の差で当選しました。
知名度の低さを含めた劣勢との下馬評にもかかわらず当選した大きな理由は2つあります。
1つは、初めてのテレビ討論で勝利したことです。
この年初めて大統領候補の間でのテレビ討論が計4回開催されました。
ここでケネディは、テレビ映りを考慮した服装やメークアップ、視聴者を意識した巧みな弁論、で力強さを強調することに成功しました。
2つめは黒人の票を獲得したこと。
選挙戦の終盤に、当時の黒人運動家で大きな力を持っていたキング牧師が逮捕されました。
その直後に、ケネディはキング牧師の夫人に電話し支持を表明しました。
さらに弟のロバート・ケネディもキング牧師の釈放に尽力し兄の選挙に大きく貢献したのです。
この対応がゆえに、大半がプロテスタント教徒だった南部の黒人がケネディを支持することとなります。
その結果、1961年1月20日、ケネディは第35代大統領に就任。
もっとも若く選ばれた大統領であり、初めてのカトリック教徒の大統領でした。
そしてその就任演説でこう国民に訴えかけました。
「私の仲間のアメリカ国民の皆さん、国が皆さんのために何が出来るかを問いかけるのではなく、皆さんが国のために何が出来るかを、問うてほしい」
キューバ危機・核戦争の1秒前
1962年10月14日、アメリカの偵察機がキューバでソ連が核ミサイル発射基地を建設していることを発見します。
キューバにミサイル基地があることは、全米が核ミサイルの標的となることを意味します。
そしてミサイルの到達時間の点から、核戦争になった時にアメリカがソ連に完全に劣勢になることを意味しました。
アメリカがこれまでのない国家への危機が訪れたのです。
ソ連が先にキューバから核ミサイルを撃つと、反撃の前に全米が攻撃にさらされてしまいます。
アメリカ軍部は、即時のキューバのミサイル基地破壊を要求しました。
しかしそれはソ連の保有する軍事施設への攻撃ですから、そのままソ連との核戦争につながる可能性の大きいものでした。
一方で、キューバのミサイル基地を放置すれば、それを脅しのネタとして今後ソ連が交渉においても大いに有利になることは間違いありませんでした。
従ってソ連は当然ミサイル基地の撤去は考えておらず、キューバへの攻撃の際には即座に核ミサイルを撃つとアメリカに警告します。
ケネディは、強硬な軍部を押さえつつ、交渉と世界の世論を味方につけることでこの難局を乗り越えようとしました。
まずキューバを海上閉鎖し、キューバへの軍事的経済的圧力を強化することにしました。
また国連では、米国連大使がソ連国連大使を厳しく追及し、ソ連の国連大使はタジタジとなります。
そしてこの様子が大々的に報道され、ソ連への国際世論の非難を高めることに成功しました。
同時に、裏では弟のロバートをソ連との交渉に当たらさせ、アメリカからの譲歩として、トルコからのアメリカの核ミサイルの撤去を申し出ました。
これらの努力が身を結び、ソ連は10月27日、キューバからの核ミサイルの撤去を発表します。
第三次世界大戦の1秒前とも言われ、多くの人が実際に核シェルターへ避難した状況から、核戦争を回避することができました。

アポロ計画・人類を月へ

ケネディはソ連に立ち遅れていた宇宙開発競争に打ち勝つことを強く望んでいました。
これは研究の面のみならず、国内の幅広い産業の育成と雇用の創出にもつながると彼は信じていたからです。
1961年5月25日に議会に対して、
「1960年代のうちにアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」
と述べました。さらには、
「なぜ月へ10年で行くのか、それがやさしいからでなく、難しいからだ。」
とも語りました。
彼の想いは暗殺後も歴代政権に引き継がれます。そして1967年7月20日に人類は月に降り立ちケネディの夢は果たされたのでした。
ケネディ暗殺
1963年11月22日、テキサス州ダラスで遊説中、市内をオープンカーでパレード中にケネディは2発の銃弾を受け暗殺されてしまいます。
享年46歳、わずか2年10ヶ月の大統領在任でした。
その後犯人であるとされた人物がすぐに射殺されたり、多くの異なった証言や状況証拠も集められましたがその真相は解明されていません。
マフィアの関与等、多くの陰謀論もうわさされています。
そして余談ですが、当日は通信衛星による初の日米間の衛星中継が実施された日でもあり、その最初に報じられたのがこのケネディ暗殺のニュースでした。
ケネディの問題

ケネディは大統領就任後も多くの女性との関係を持っていました。
後に公表されたFBIの捜査報告書によれば、大統領在任中少なくとも32人と関係があったことがわかっているとのことです。
最も有名な不倫相手が当時最も売れていた女優のマリリン・モンローです。
モンローがケネディの45歳の誕生日パーティーの際に歌った「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」も非常に有名です。
これは映像記録も残っていますが、なんとも気持ちのこもった切ない歌い方です。
マリリン・モンローとの関係は、彼女がマフィアと深いつながりもあったことから政権内からもケネディに強く忠告がありました。
それもあり関係はすぐに終わり、マリリン・モンローも謎の死を迎えます。
マフィアとの関係
マリリン・モンローとの関係にも出てきましたが、ケネディとマフィアとの関係は有名です。
そもそも、ケネディの父はその手がけていた事業からマフィアと深い関係を持っていました。
そして大統領選挙においては、彼の父はマフィアに依頼して、二重投票や買収と言った大規模な選挙不正を行いました。
ケネディ自身もマフィアの大ボスと直接面識もあり、愛人を紹介してもらったりもしていました。
このマフィアとの関係が暗殺にも関わっているとの説もあります。
ケネディの死後
ケネディの兄弟には多くが不幸が襲っております。
最も将来を期待されていた兄のジョセフは戦争中に特殊任務中に戦死。
弟のロバートはジョンと同じく1968年の大統領選挙中に暗殺。
弟のエドワードは飲酒運転と交通事故、そして同乗者の死、と言う事件を起こし、以後の大統領選を断念。
そして妹のローズマリーはロボトミー手術を受け、その結果生涯を施設で過ごすことになってしまいました。
ケネディの息子
ケネディの息子、JFKジュニアは、ジョンが暗殺された時にわずか3歳でした。
ジョンの国葬の際に、目の前を通る父の棺に向かって、左利きのJFKジュニアが右手で敬礼をしている写真が、広く報道されました。
JFKジュニアは1989年の民主党大会で演説をします。
この時の演説は若々しくエネルギーに満ちた、まさに父のジョンを彷彿とするものでありました。
この演説をきっかけに将来の有望な大統領候補として名前が挙げられることになります。
しかし1999年7月、自ら操縦する飛行機で遭難し、やはり若くして亡くなるという悲劇が繰り返されてしまったのでした。
ケネディの名前のついたもの
その功績、なりよりも夢と希望を国民に与えたとの認識から、彼の名前のついた施設や場所が世界中に多くあります。
ハーバード大学の中の政治学部、アメリカ海軍の空母、ニューヨークの空港、フロリダにあるロケット打ち上げセンター、などです。
さらにはドイツのベルリンを餓死から救った演説をした広場も彼の名前が付けられています。
死んだ後もその功績が讃えられているというのも、すごいと思います。

ケネディって何をした人?功績や最後などを解説!まとめ
いかがでしたでしょうか。
ケネディはアメリカの歴史上最も若く選ばれた大統領でした。
世界を核戦争の恐怖から救い、人類を月へ送ることを推し進め、人種差別とも闘いました。
しかし凶弾に倒れ大統領としてわずか3年、46歳でこの世を去りました。
一方で不倫のスキャンダルやマフィアとの関係等の暗い面もありました。
その若々しくエネルギーに満ちた言動は多くの人々に希望を与え、それが故に数多くの施設や場所に彼の名前が記されています。
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