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アインシュタインって何をした人?功績や最後などを解説!

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皆さん、こんにちは!

20世紀の前半に突然現れて、それまでのニュートンの物理学を大きく変えた、それがアインシュタインです。

天才の代名詞とされることも多い、20世紀最大の理論物理学者・アインシュタイン

しかし、5歳になるまであまり喋ることもできず、学業も不振で、大学でも落第している、そんなアインシュタインが世界を変える論文を次々に発表していったのでした。

半導体、コンピューター、GPS・人工衛星、など、この21世紀に普通に使われている技術はアインシュタインの理論によって生まれたものと言えるものです。

今回は、アインシュタインについて解説していきたいと思います!

目次

アインシュタイン~20世紀最高の物理学者

アインシュタインは20世紀最高の物理学者と言えます。

少し前に英国の学者の集まりであるロイヤル・ソサイエティで、科学に最も貢献した有名な科学者はだれかとの質問を行いました。

その結果は僅差で、1位がニュートン、2位がアインシュタインでした。

ニュートンの支持者は、彼こそが近代科学の手法そのものを確立した、と強く主張しています。

一方、アインシュタインの支持者は、アインシュタインはニュートンの誤りを正しつつ、よりスケールの大きな理論だと、主張しています。

そして、時間と空間を含めた理論を構築し宇宙の始まりやブラックホールといったものの議論を可能にしたと主張しています。

いずれにせよ、20世紀最高の物理学者の一人であることは間違いないでしょう。

アインシュタインの主な理論

アインシュタインは、それまでの科学の常識を覆す、さまざまな物理の理論を発表しました。

特に1905年は画期的で学者でさえ理解に苦しむ論文を4つも発表し、奇跡の年と呼ばれています。

少なくとも17世紀のアイザック・ニュートン以来、最も革新的かつ広範囲にわたるものでした。

1つめは、放射と光のエネルギー特性を扱うものであり本人も非常に革命的なんだと評しています。

すなわち、光が波だけでなく粒子の性質も持つことを明らかにしたものです。

これはいわゆる光電効果のことで、光と電流に関係があることを明らかにしました。

私たちには少し難しいような気もしますよね。わかりやすく言うと光電効果とは金属に光を当てると電子が飛び出す現象のことを意味します。

光電効果は新たな科学分野量子力学を生み出し、その基礎となりました。

2つめ論文は原子の実際のサイズの決定に関するものとのことで、いわゆるブラウン運動についての理論を確立しました。

ブラウン運動とは液体や気体中に存在する微粒子が、不規則に運動を行う現象のことです。

アインシュタインはこのブラウン運動は、分子の不規則な衝突、によって起こっていることを説明しました。

この理論により、今では当たり前になっている原子や分子の存在を立証するのに役立つことになりました。

3つめは、特殊相対性理論に関するもので、時間と空間の理論の変更を迫るものと本人は述べています。

すなわち、ニュートンは時間はそれ自体として存在し、外部の何ものにも影響されることなく一定に流れると主張し、空間についても同様の説明をしました。

しかしアインシュタインは、時間と空間の尺度は絶対的ではなく相対的であると、この特殊相対性理論の中で証明しました。

この概念はあまりに難解すぎるためにイタリアのある会社が一番わかりやすい説明を募るコンテストを開催し、優勝者には賞金まで出すほどでした。

アインシュタイン自身はこう説明しています。

「可愛い女の子と1時間一緒にいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな1時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである」

その後1916年には4つめの一般相対性理論を発表しました。

これは特殊相対性理論をさらに広範囲にわたって応用できるようにした理論です。

そして1905年の論文の中で、エネルギーと質量の関係を新たに発見していましたが、これが後に有名な公式E=mc2を生み出すことになりました。

このエネルギーと質量の関係、すなわちエネルギーと質量は比例するという論理が、原子力の利用の理論的基礎となっています。

原爆開発への関与

上記で触れました通り、相対性理論のエネルギーと質量は比例するという論理が原子爆弾製造の基本になっています。

アメリカが原子爆弾の開発に至ったのは、ドイツの核兵器開発の危険性を訴えたルーズベルト大統領への手紙がきっかけとされています。

この手紙は、科学者シドラーらが作成しアインシュタインがサインしたものでした。

第二次世界大戦が始まる直前の1939年8月2日、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛てに届けられました。

手紙の内容はウランによる連鎖反応によって生み出される強大なエネルギーが爆弾として利用可能であり、ナチス・ドイツがその爆弾の開発を進めているというものでした。

手紙を受け取ったルーズベルト大統領は、軍関係者や科学者・技術者と協議をはじめ、その動きはのちにマンハッタン計画と呼ばれる原子爆弾製造プロジェクトにつながることになります。

アインシュタイン自身はドイツ出身であり、またその反戦的な政治思想の持ち主とされ、この原子爆弾製造プロジェクトに呼ばれることはありませんでした。

そして結果としてナチス・ドイツは核兵器を開発しませんでした。

日本の広島と長崎に原子爆弾が投下されたことを知ったアインシュタインは、この手紙を書いたことを後悔したといいます。

そして戦後に「ドイツが原爆の開発に成功しないと知っていたら、爆弾のために何かをすることはなかっただろう」と語っています。

さらには、アインシュタインの死の直後にラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、戦争の根絶や科学技術の平和利用を表明しています。

後世への影響

アインシュタインの理論は実は私たちの普段の生活に大いに役に立っています。

相対性理論が現代の私たちの生活に役立っている代表例としてGPSが挙げられます。

相対性理論に基づくと、早く動く物体ほど時間は遅く感じるようになります。

同時に相対性理論によると質量の大きいものから離れるほど時間は早く感じるようになります。

この2つをを合わせるとGPS人工衛星の場合、GPS人口衛星の時間と地球上の時間に誤差が出てきます。

この誤差を相対性理論に基づいて補正をします。

補正をしないと、1日で10キロメートル以上の誤差が位置情報に出てしまうのです。

また光電効果も普段よく私たちが目にするものです。

光電効果とは、光と電流に関係があること、つまり、金属に光を当てると電子が飛び出す現象のことです。

例えば、光センサーで動く自動ドアがその最も身近な応用例です。

他には、光を電気信号へと変換する技術としてデジタルカメラに使用されたり、太陽電池や太陽光発電に応用されています。

また、ブラウン運動に関するアインシュタインの研究も身近なところに応用されています。

ブラウン運動とは液体や気体中に存在する微粒子が、不規則に運動を行う現象のことです。

このブラウン運動の理論は、微粒子の動きの法則という観点から洗剤の汚れ成分を分解する原理にまで応用されています。

またコンピューター・グラフィックスや医療分野でも用いられています。

アインシュタインの生涯

アインシュタインはユダヤ人の両親のもと、1879年3月14日にドイツの南西部のウルムという街で生まれました。

幼い時から天才か、と思いきや、言葉を発することが非常に遅く、5歳くらいまであまり人と話をすることができなかったと言われています。

一方で、5歳の頃、父親が見せてくれた羅針盤の動きに大変強い興味を持ったことをきっかけに、数学や物理などは自ら進んで独習に励みました。

9歳のときにピタゴラスの定理を自力で証明し、12歳のときには幾何学の学習をはじめ、16歳までには微分・積分も、独学で習得したといわれています。

学校には馴染めず、教師も彼の才能を評価しませんでした。

そしてアインシュタインは家族の転居もあり、高校を中退するに至っています。

アインシュタインと言えば小さな頃から天才的な能力を発揮していたのでは?と思ってしまいますよね。しかし必ずしも幼い頃の彼は優等生ではなかったのです。

アインシュタイン大学入学

1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験しますが、不合格。

1年間、地元の学校で勉強し十分な成績を得て、1896年にこの大学に入学しました。

しかしアインシュタインは自分の興味ある分野だけに熱中し、教師にも反抗的で大学の講義にはあまり出席せず成績も大きくばらつきがありました。

学生の頃のアインシュタインは大学に助手として残って研究に励みたいと思っていたのですが教師に反抗的な態度でそれは難しかったようです。

在学中に教員資格を取りますが職を得ることは出来ず、卒業してもアルバイトをしてなんとか職をつなぐ状態でしたが、その中でも論文の構想を進めていました。

1902年に友人の紹介もあり本意ではないのですが、スイス特許局に就職します。

仕事はあまり大変ではなく決まったもので時間の余裕もあり、大学のように上下関係などもなく、かえって研究に自由に打ち込むことができました。

その結果が3年後の1905年に奇跡の年として実を結ぶことになります。

奇跡の年

1905年、26歳のアインシュタインは6月に光量子説、すなわち光電効果の論文、7月にブラウン運動の理論、9月に特殊相対論に関する論文を発表します。

さらに11月にはこのエネルギーと質量の関係、すなわちエネルギーと質量は比例するという論理、のちの公式E=mc2につながる考えを発表します。

これらの論文は、空間・時間、質量・エネルギーという基本的な概念に対する科学的理解に大きな変革をもたらし、現代物理学の基礎となるものでした。

26歳のアインシュタインのその論文は、過去の大学での成績や、ただの特許局の役人が作った論文と言う理由でなかなか周囲の理解は得られませんでした。

また理解が得られなかった最大の理由としてあまりにも難解すぎる論文だったと言うことが挙げられます。

しかし当時の高名な科学者マックス・プランクの支持を得たことにより、学界にも次第に受け入れられるようになり、4年後には助教授のオファーをもらうようになります。

そしてこの奇跡の年から100年目となる2005年は世界物理年と定められ。

特にイギリスではアインシュタイン年と呼ばれることになりました。

一般相対性理論発表

1909年に特許局を辞めチューリッヒ大学の助教授となります。

この時も実は特許局の給料の方が高いとのことで大学からの誘いを1回断っています。

しかし特許局の上司はこんなに勤務態度が悪いスタッフが大学の先生になんかなれるはずがないと憤慨したそうです。

その後の人生は順風満帆でした。

いくつかの大学の教授職を勤め、1914年には当時理系の大学では世界のトップだったベルリン大学の教授に就任するまでになります。

そして1915年から1916年にかけて一般相対性理論を発表します。

この中で、宇宙の膨張やブラックホール、そして光も重力で曲がることを予言します。

1919年にイギリスの天文学者により光も重力で曲がることが観測され、その結果一般相対性理論が正しいことが立証されました。

これは1919年に起こった皆既日食を使って実証されています。

すなわち、アインシュタインが正しければ、皆既日食の時には太陽の近くにある星は、その星から出る光が太陽の重力で曲がるため、通常とは若干違う位置に見えるはず、と考えました。

そして実際に光が曲がってその星の見かけの位置が少しずれていることが観測され、この一般相対性理論の正しさが証明され、アインシュタインの名声はさらに高まりました。

アメリカへ移住

ユダヤ人であり反戦主義者であるアインシュタインは1933年のナチスによる政権獲得を機にドイツを去ることになります。

1935年にはアメリカの永住権を申請、1940年にはアメリカ国籍を取得します。

アメリカでもプリンストン研究所の教授として研究を続け、時空構造の仮説としてのワームホールの概念の発表などを進めます。

また戦争を早く終わらせたいという観点からのアメリカ政府との関わりもあったようです。

アインシュタインの死

1955年4月、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界に訴えるラッセル=アインシュタイン宣言に、哲学者バートランド・ラッセルとともに署名しました。

そのすぐ後に、心臓の痛みから倒れ、1955年4月18日に亡くなりました。

享年76歳でした。

アインシュタインと日本

アインシュタインはチューリッヒ大学教授の時に世界各国の若手研究者たちの育成に従事します。

その教え子の1人に理論物理学者でのちに東北帝国大学の教授となる石原純がおりました。

石原は後にアインシュタインが日本の学生から東洋について知りたがっていたこと、科学にとどまらず、広い意味で人間文化にも強い関心を寄せていたことを述べています。

アインシュタインは元々、世界中の様々な人や文化を分け隔てなく理解し受け入れようとしていたことがよくわかる話です。

そして1922年、日本の出版社の誘いにアインシュタインは応じ、1922年の11月から12月の約40日間、日本を訪れます。

日本に来る船の上でノーベル賞受賞が発表されたこともあり日本では多くの人に大歓迎されました。

日本に着いた時に来日の目的を聞かれて、それは2つあると答えています。

1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめてみたい、とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きしてみたいということ。

もう1つは、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことは、自分の使命だと考えるているということ。

そして日本では数回の学術的な講演の合間に、能や歌舞伎を見て、松島や京都・奈良なども訪問し、日本の文化を堪能しました。

アインシュタインの日本に関する発言

アインシュタインは日本について、基本的には非常に好意的な印象を抱いたという発言を残しています。

今まで知り合ったどの民族より気に入っています。物静かで、謙虚で、知的で、芸術的センスがあって、思いやりがあって、外見にとらわれず、責任感があるのです。

日本人はイタリア人と気性が似ているが、日本人のほうが洗練されているし、今も芸術的伝統が染みこんでいる。神経質ではなくユーモアたっぷり。

皮肉や疑念とはまったく無縁な純然たる尊敬の心は日本人の特徴だ。純粋な心は、他のどこの人々にも見られない、みんながこの国を愛して尊敬すべきだ

日本では、自然と人間は、一体化しているように見えます。

この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかであり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついています。

同時に、日本人の没個性や遠慮深い特性にも気づいていたようです。

ここの国民は知的欲求のほうが芸術的欲求よりも弱いようだ。天性か。

ほとんど、一定の型にはまっている、みたいだ。

日本人は疑問を持たず非個性的で、自分に与えられた社会的機能を晴れやかに尽くします。

もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。日本では、個人主義は欧米ほど確固たるものではありません。

そして1922年時点で、その後の日本の向かう先についてこんなコメントを残しています。

たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。

西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。

アインシュタインの名言

アインシュタインは、人の生き方、といったことにつながるような、多くの非常に思慮深い言葉を残しています。

ここでは興味深いアインシュタインの名言を一気にご紹介していきたいと思います。

・人が恋に落ちるのは、万有引力のせいではない。

・神はいつでも公平に機会を与えてくださる。

・人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走らなければならない。

・天才とは努力する凡才のことである。

・挫折を経験したことが無い者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。

・私は、それほど賢くはありません。ただ、人より長く1つのことと付き合ってきただけなのです。

・常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

・大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない。

・私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。

・大切なのは、自問自答し続けることである。

そしてアインシュタインが平和主義者・反戦主義者であることはよく知られているところです。

彼の言葉からも平和主義者であったことがよくわかる名言がいくつも残されています。

・たとえ国家が要求しても良心に反することをしてはいけない。

・兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです。

・私は選択できる限り、市民の自由、寛容、そして法の前にすべての市民が平等である国にのみ生きるでしょう。

アインシュタインの写真

アインシュタインで1番有名な写真と言えばやはりあの舌を出している個性的なショットではないでしょうか。

1951年3月14日、アインシュタインの72歳の誕生日、ある通信社のカメラマンがアインシュタインの誕生日の写真を撮る時に笑ってくださいと言いました。

アインシュタインはそのカメラマンのリクエストに危うく応えそうになってしまいます。

いつもメディアに対してはそっけない態度をしていたのに笑ってはいけないとつい代わりに舌を出したのでした。

新聞にこの写真が掲載された数日後にアインシュタイン本人から連絡が入りました。

アインシュタインはこの写真を大変気に入ったようで焼き増しを頼み、さらには知人への見舞いカードなどに貼って送ったようです。

またこの写真は1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリも受賞しています。

アインシュタインの脳

アインシュタインの死後、その遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流されました。

しかしアインシュタインの遺体の検死を行った解剖学者は脳だけを勝手に自宅に持ち帰り自分で保管していました。

1990年以降この脳の存在が明らかになり、何人かの科学者がその研究をしています。

その研究の結果、アインシュタインの脳は、数値や空間処理に関わる領域が大きいことが示唆されてもいます。

しかし、驚くことにアインシュタインの脳は一般の人よりもむしろ小さかったと言うのです。

アインシュタインって何をした人?功績や最後などを解説!まとめ

天才の代名詞とされることも多い、20世紀最大の理論物理学者アインシュタイン。

半導体、コンピューター、GPS・人工衛星、など、この21世紀に普通に使われている技術はアインシュタインの理論によって生まれたものと言えるものです。

しかし、学校の先生に才能を認められなかったり、苦手な科目があったり、大学入試も就職も必ずしも当初の希望通りにならず失敗するなど、挫折や苦労の連続でした。

彼の人生は、天才ということだけでも、また突然ラッキーなことが起こったいうことでもなく、こつこつと研究を続けていたのが実を結んだ形、なのかもしれません。

無名の時期からこの世を去るまでの間に、300本以上の論文を書いたと言われています。

大学教授でも役人でも高校を中退しても、自分の好奇心を信じ、自分の可能性を信じて、真面目にコツコツと物理学に向き合った人生だったのでしょう。

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