最近日本では政権交代があり、新たに菅義偉総理が誕生しました。
総理大臣になる人と言うと、やはりエリート階級の人たちだろうと思いますよね。
ですが菅さんはいちご農家出身で、元からエリートというわけではありませんでした。そこから総理大臣にまで上り詰めたことで、レーガンを令和の豊臣秀吉ともてはやす声もあります。
今回紹介する第40代アメリカ大統領ロナルド・レーガンも、そんな菅総理的な成り上がりロマン物語を歩いた人です。
レーガンはB級映画俳優から、最終的にアメリカ大統領へと上り詰めました。
そんな男の一生を、これから楽しく見ていきましょう。
レーガン幼少期の家庭環境
ロナルド・ウィルソン・レーガンは1911年、イリノイ州タンピコのさびれた田舎町で生まれました。
両親は二人ともキリスト教徒。特に上流階級の出身というわけではありません。ただ父親のジョンはあまり信心深い信者ではなく、飲んだくれの自由人だったそうです。
なんだか意外ですよね!
一方母親のネリは信心深い信者で、レーガンを幼少期からよく教会へ連れて行ったそうです。かなり対照的な両親から生まれてきたのですね。
幼少期のレーガンは、酒に酔って玄関で爆睡する父親をベッドまで運んでいたそうで、かなり苦労していたそうです。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]やさしい子供だったのね![/chat]
レーガン大統領の青年期
さてそんなレーガンも成長して、16歳になります。マッチョで、イケメンで、頼れる好青年に育ちました。
そしてレーガンは、大学進学のための学費を稼ぐべく、バイトを始めます。学費のためにバイトをするというのは、現代の若者にも通じるものがあって、親近感がわきますね!
始めたバイトは水難救助員でした。勤務期間中になんと77人も救助したそうですよ。正義感溢れる優しい青年だったことが伺えますよね。
ですがこの時、勢い余って溺れていない人まで救助するなんてこともあったみたいですけどね。
レーガンはこのバイトを通して、命を救う責任感、使命感を学んでいったそうです。バイトの域を超え、とても熱心に取り組んだのですね。
大学時代に政治家としての才能が?
レーガンは地元から180キロ離れた場所にあるユーレカ大学へ進学します。
フットボール部に憧れの先輩がいたこと、自分のガールフレンドがこの大学に行きたがっていたことが、進学の決め手だったそうです。けっこうライトな動機だったのですね。
レーガンは大学で社会学と経済学を専攻します。
しかし意外にも一番に打ち込んだのは、スポーツ、演劇などの課外活動だったそうです。
また大学が財政難で、専門の数を減らそうとした時にレーガンは、それに反対するスピーチを行っています。この時に、レーガンの弁舌の才能が磨かれたのです。
大学卒業から就職まで
1932年に大学を卒業したレーガンでしたが、当時のアメリカは世界恐慌にあえぎ、街は失業者で溢れていました。
在学中に就職が決まっていたわけでもなく、レーガンがこれから就職活動するには厳しい状況にありました。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]就職活動はいつの時代も厳しいんじゃないの?[/chat]
[chat face=”1122362.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]簡単に就職できるバブリーな時期もあったんじゃよ[/chat]
しかしこの時のレーガンには、ある夢が出来ていました。大学在学時に演劇に没頭する中で、俳優になるという夢を持っていたのです。
政治の世界ではなく華やかな映画の世界に憧れていたんですね。
レーガンは恐慌に負けず、何とかその夢を実現させようとしました。
そこでまずは、スポーツアナウンサーになろうとします。当時のアメリカでは、アナウンサーから俳優に転身する人が多かったためレーガンもそのルートで俳優の道を切り開こうとしていたみたいですね。
またレーガンは大学時代に課外活動で、フットボールなどスポーツにも熱中していました。
その経験を活かしてスポーツアナウンサーになり、そこから俳優を目指そうという考えです。
そしてレーガンはスポーツアナウンサーとして就職すべく、大都会シカゴで就職活動を始めます。
レーガンの最初の挫折
しかし恐慌で失業者が溢れかえる最中、そんな大都会で何の経験もない大学を出たばかりの青二才が就職活動をするなど、たいへん無謀な話でした。
これを例えるなら、オーキド博士からピカチュウを貰ったばかりのサトシが、いきなりポケモンリーグに挑むくらい無謀なことです。
当然、結果は撃沈に次ぐ撃沈。
レーガンはあきらめて、ある田舎町で就職活動を始めます。大統領ですらこう言った苦しい時代が合ったと思うと見方もかわりますね!
何とかその地でスポーツアナウンサーの職を得ると、フットボール実況の業務に没頭していきました。このアナウンサーの仕事が、レーガンにさらなる喋りのスキルを与えました。
これが後に大統領選挙、就任後に生きてきます。
こう見ると、若きレーガンは無謀ではあるけれども、行動力はバツグンですよね!
ちなみに、このあと新たに就任したルーズベルト大統領が、恐慌への経済対策を行ってくれて、失業していたレーガンの父も職を得たそうですよ。
この経験を機にレーガンの政治的思想は、同大統領所属の民主党支持へと傾きました。
レーガン・大根役者時代
さてレーガンは、スポーツアナウンサーの職を得たわけですが、その仕事のツテでワーナーブラザーズのオーディションにこぎ着け、1937年に見事俳優の仕事をゲットします。
レーガンはB級映画と呼ばれる、A級映画の前座映画に出演するようになりました。初の仕事は、劇中のラジオアナウンサー役です。
そこでレーガンは持ち前の好青年ボイスで視聴者を魅了したのです。そして俳優としてキャリアを重ねるうちに、これまで以上に収入もアップし、ウキウキの時代を過ごしていくこととなります。
アメリカンドリームとはこういうことなのでしょうか?しかし人生はそう甘くはありません。
第二次世界大戦勃発で兵士に?
レーガンの喜びも束の間。
1939年に第二次世界大戦が勃発したのです。アメリカも戦争に巻き込まれ、レーガンは兵士として招集されました。
しかしレーガンは視力が弱かったために、兵士として前線で戦うのは無理と判断されました。
そんなレーガンが配属されたのは、兵士の教育映画を制作する部門でした。
そこでレーガンは映画内で兵士役を演じたり、ナレーションを担当したりしました。戦争中ですら、レーガンの能力が生かされたわけなんですね。
そして1940年、この年にレーガンにとってビッグイベントがありました。
レーガン・結婚から離婚へ
女優ジェーン・ワイマンとの結婚です。
のちに子供も生まれ、その4か月後には軍隊での兵役を終えて除隊。これから、さぞかし幸せな家族生活が始まりそうな予感です。
ところがどっこい。またもやそうはいきませんでした。
ワイマンが女優として成功していくのに対して、レーガンは俳優として伸び悩み始めていたのがきっかけでした。
レーガンは好青年の役を演じるのは得意だったのですが、この時すでに30代後半。
すでに外見はオッサンであり、青年役を演じるのに限界が来ていたのです。
レーガンは成功する妻に対する嫉妬を覚え、徐々に家庭が崩壊していきます。
ワイマンがアカデミー賞を取った1948年、二人はとうとう離婚してしまいました。このため、後に大統領に就任する時、歴代で唯一離婚歴のある大統領と言われてしまうこととなります。
[chat face=”1961650-1.jpg” name=”” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]離婚くらいいいわよ。大統領だって人間よ。[/chat]
ちなみに、二人目の離婚歴のある大統領はトランプさんです。
そして52年に俳優業も引退してしまいます。さてさて、俳優として行き詰まり、家庭を失ったレーガンの運命やいかに!?
再婚・そして政治の道へ
さて俳優業も家庭も崩壊したレーガンですが、レーガンはようやく後の成功の舞台である政治へと手を伸ばします。
レーガンは映画俳優組合という政治団体に入会しました。
戦争が終わった当時、資本主義国であるアメリカと、格差の無い平等な社会の実現を目指す共産主義国のソビエト連邦が対立し、バチバチに火花を散らしていました。
レーガンのいる組合にも、共産主義者たちがいて、レーガンらは暴力的な手段をいとわない姿勢を示していました。
レーガンは得意の演説で、レーガンらに対して自制を求めるなどする中で、反共産主義の立場を鮮明にしていたのです。
こう言った状況の中でレーガンの思想は、より国を守ろうと保守的になっていきます。
そして1952年、レーガンが俳優を辞めた年ですが、同年、女優のナンシーと結婚します。
さらにこの時期、テレビの普及もあって、レーガンはテレビ出演の仕事を受けるようになっていきました。
この仕事のツテで、ゼネラル・エレクトリック社からお呼びがかかり、同社の社員に対して政治教育を行うようになります。
とんとん拍子に政治への階段を駆け上がっていったのです!
ツテで、ゼネラル・エレクトリック社の教育の中でレーガンはさらに保守思想を強め、共和党支持へと転向していくことになります。
ゼネラル・エレクトリックの中で政治的な経験を積み、政治家としての資質を手に入れていったのです。
そして経験を積んだレーガンは1967年に、カリフォルニア州知事選挙に立候補。なんと見事当選を決めました。
これがレーガンの政治家デビューでした。
レーガンのカリフォルニア知事としての政治方針は、自由を重視するもので、なかなか国民からは好意的な印象をもたれたんです。
レーガン大統領誕生
そして州知事として政治経験を積んだ後、1968年にいよいよ大統領選挙に立候補します。
しかし共和党内の予備選挙で、ニクソン候補の前に敗退してしまいます。
その後も何度も機会を逃してしまいますが、粘り強く立候補を繰り返しました。
そして長年の努力が実り、ようやく1980年に、現職のカーターを下し大統領に当選したのでした!
この時役立ったのは、アナウンサー、俳優時代に培ったスピーチ力と演技力でした。長年の俳優としての経験が役立ったのですから無名時代といっても無意味だったわけではなさそうです。
そして1981年に就任したレーガンは、減税、軍事力拡大などに努めました。特に演説の腕はすさまじく、聴衆の心を見事につかみました。
宿敵だったソビエト連邦相手には、一度は対決姿勢を示すものの、財政難や向こう側の歩み寄りなどもあり、レーガンがそれに応じたことで、徐々に和解の方向へと向かっていきました。
半世紀近く続いたソ連との対立を、終焉に向かわせる重要な役割を果たしました。
このため現在では、アメリカ歴代大統領トップ5に入るほどの人気を誇っています。
これがB級映画俳優から成り上がった男の物語なのでした。大物政治家と聞くと親戚や家族にコネがありそうな気もしますがこういったエピソードを聞くとなんだか応援したくなってきますよね。
ロナルド・レーガンは大根役者の成り上がり?まとめ
庶民の出身から紆余曲折を経て大統領へと成り上がったレーガンでした。成り上がりの決めてはやはり、行動力、そしてスピーチ力、演技力を醸成した長年の努力だと思います。
日本でも知名度が高く中曽根元首相とはとても仲が良かったことで知られていますよね。
日本人にとっては好感がもてるアメリカ大統領の一人なのかもしれません。レーガン元大統領のノリの良さと、明るさはとても大統領とは思えない親近感さえわきます。
またなんといっても継続は力なりということを証明してくれた生き方でもあります。見習いたいところがたくさんです!
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