みなさん、あさま山荘事件ってご存知ですか?
若い人も一度はテレビでそのワンシーンをみたことあるかと思います!あさま山荘事件っていうのは、1972年2月19日に連合赤軍のメンバー5人が軽井沢の「あさま山荘」で起こした人質・立てこもり事件です!
昭和の重大事件として、多くの人々の記憶に残るあさま山荘事件。
219時間にものぼった拘束時間は、日本の歴史上最も長い人質・立てこもり事件となり、テレビ放映されると視聴率は89.7%をたたき出しました。
この記事では、あさま山荘事件がなぜ起きたのかを詳しく解説していきたいと思います!
あさま山荘事件の目的とはなんだったのか?
歴史に残る人質・立てこもり事件である「あさま山荘事件」
ふつう、人質・立てこもり事件といえば、犯人側が身代金を要求するなど、なにか目的をもって立てこもるイメージがありますよね。では、あさま山荘事件では、犯人はどんな要求をしたのでしょうか?
一体犯人グループの目的は?
あさま山荘事件で立てこもった5人の犯人たちは、警察に対してなにかを要求をすることはありませんでした。実はこれが、事件が長期化した理由のひとつといえます!
では、犯人グループにはどんな目的があったのでしょうか??
事件を起こした連合赤軍は、公権力を滅ぼして、共産革命を起こすという目的で集まったグループでした。
もともとの目的が警察などの公権力を倒すことだったため、立てこもった犯人たちは、警察との銃撃戦を戦い抜くという覚悟を固めます。
暴力で公権力を滅ぼすなんてことを考える集団が立てこもったのだから、対応する警察は恐ろしかったでしょうね…。
犯人が降参しなかった理由
少し考えると、不思議なことがあります。
それは、立てこもった5人のみで警察を倒して革命を起こすなんてことは、できるはずがありません。無謀ですよね?
それは立てこもった5人も十分承知だったでしょう。それでも、彼らが降参しなかったのは、ある他の理由があったからだったんですね。
無理な立てこもり事件、降参できない理由って?
連合赤軍は、あさま山荘に立てこもるまでに、ある罪を犯していました。
警察に捕まれば、なんと、裁判で死刑になる可能性さえあったのです。
死刑になるくらいなら、本来の目的である警察とのせん滅戦を戦い抜いてやろう…そんな風にやけになっていたのかもしれません。
連合赤軍が犯した罪とは?
警察に捕まれば死刑になるかもしれないような罪。
それは一体何だったのでしょうか。あさま山荘に至るまでの連合赤軍が、どのような歩みを経ていたのかをみていきましょう。
連合赤軍について
連合赤軍は、暴力革命を起こし、共産主義を実現するという目的で、「赤軍派」と「革命左派」というもともと違う2つのグループがくっついてできました。
赤軍派と革命左派は、郵便局や銀行を襲撃して活動資金を確保したり、銃砲店を襲撃して大量の銃を強奪するなどの過激な活動を繰り返し、警察からもマークされます。
当時このような事件を起こしていたのは、20歳前後の大学生でした。しかも大学の進学率が高くない時期に、名のある大学に通う優秀な学生たちがこのような事件を起こしていたなんて、恐ろしいですね。
連合赤軍が犯した山岳ベース事件
都市部での活動が難しくなった連合赤軍は、総勢29名で山小屋の集団生活を始めました。この生活のなかで、異常な事件が発生します。それが「総括」と呼ばれる集団リンチでした。
この暴行は、特定の人物でなく、様々なメンバーによって行われます。
幹部の森恒夫が、殴ることをメンバーに命令し、抵抗すれば、その人も暴行のターゲットにしたからです。
この集団リンチにより、連合赤軍はわずか2カ月で12名ものメンバーを殺害しました。
亡くなった人たちの死因は、全身打撲による内臓破裂や、食事を与えられなかったことによる衰弱死、氷点下の屋外にさらされたことによる凍死など様々です。
この事件は、山岳ベース事件と呼ばれます。山での集団生活のなかで、連合赤軍のメンバー全員が、犯罪者となっていきました。
あさま山荘事件が起きたきっかけ
あさま山荘事件は連合赤軍のメンバー5人によって起こされました。
しかし、山で集団生活を送っていたメンバーは十数人いたはずで、なぜその中の5人が立てこもり事件を起こしたのかをみていきましょう。
きっかけその1・メンバーの脱走事件
集団生活のなかで殺害が日常的になると、その異常な状態から抜け出そうとするメンバーもでました。リーダーの2人が資金集めのために山小屋を離れると、その隙をねらって脱走者が相次いだのです。
この脱走に、山小屋に残ったメンバーは焦りを感じます。連合赤軍の中心メンバーは、警察から指名手配されていました。
90万枚もポスターが貼られ、テレビのCMでも情報が流されていたほどです。
脱走した人が警察に駆け込めば、居場所がバレて全員捕まってしまいます。山小屋で起きた殺人事件についても明らかになってしまう…。彼らは危機的状況に追い込まれました。
きっかけその2・暗闇の中の必死の逃亡
連合赤軍のメンバーは、急いで荷物をまとめて逃亡し、山伝いに移動しました。
時には小屋などない洞窟にも潜伏します。幹部のふたりが逮捕されたことで、警察はさらに周辺の捜査を拡大しました。
逃亡していたメンバーは、警察の捜査網をかいくぐるように、昼を避けて夜の山道を移動します。この真夜中の移動のせいで、連合赤軍のメンバーは山のなかを迷い込み、たどり着いたのが、長野県軽井沢だったのです。
このとき、逃げたのは9人ですが、軽井沢で食料調達のために別れた4人は警察に捕まりました。
残された5人のメンバーは、空き家の山荘に忍びこみますが、警察に見つかって銃撃戦となり、再び逃げます。彼らが逃げた先にあったのが、あの浅間山荘です。
追い詰められた連合赤軍の残党5人は、浅間山荘で管理人の奥さんを人質にとり、立てこもったのです。
こうして、かの有名なあさま山荘事件が発生しました。つまりこの事件は、計画立てられたものではなく、偶然迷い込んだ連合赤軍のメンバーが起こした、誰も予期しなかった事件だったのです。
あさま山荘事件の結果・まとめ
あさま山荘事件は、連合赤軍の残党が警察から逃げる中で、偶然起きてしまった事件といえます。
仲間を殺害し犯罪者となっていたメンバーは、警察に捕まるよりも銃撃戦を戦い抜いて死ぬ決意を固めていました。そのため、警察の説得には応じず、10日間も人質をとって立てこもったのです。
しかし、その後警察の強行突破により、連合赤軍の残党5人は全員生きた状態で捕まります。彼らは裁判にかけられ、1名は死刑、1名は無期懲役、1名は懲役13年の刑となりました。
驚くことに、5人のなかには未成年までいました!16歳だった少年は、中等少年院に送られます。
そして残りの1名ですが、裁判をする前に起きたクアラルンプール事件で解放され、国外逃亡を図りました。今もまだ捕まっておらず、国際指名手配されています。こうして、世間を騒がせたあさま山荘事件は幕を閉じたのです。
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【参考文献】
坂口弘『あさま山荘1972(下)』彩流社,1993年
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