アルゼンチン生まれの政治家チェ・ゲバラ(1928~1967)を知っていますか?
チェ・ゲバラはフィデル・カストロとともに1959年にキューバ革命を起こした人物です。
そして、今やTシャツロゴの常連人物になり、イケメン革命家の代名詞となっているチェ・ゲバラ。彼はキューバの英雄として今も多くのファンを魅了しています。
今日は、チェ・ゲバラって何をしてきた人なのか、その生涯についてわかりやすく解説していきたいと思います!
身体の弱かった幼少期
チェ・ゲバラは、1928年6月14日にアルゼンチンのロサリオという街で裕福な家庭に生まれます。
本名は「エルネスト・ゲバラ」といい、「チェ」というのは愛称なのですが、「チェ・ゲバラ」のほうが有名なのでこちらで通したいと思います。
ゲバラ少年は身体が弱く喘息持ちで、2歳で最初の喘息の発作を起こし、重い喘息のために幼少期に避暑地アルタ・グラシアに引っ越しました。
身体が弱いながらも活発な少年だったようで、ゲバラは13歳の時に高等学校に入学し、喘息持ちにもかかわらずラグビーやサッカーといったスポーツに熱中します。
スポーツだけでなく学業も優秀で、ゲバラは20歳の時にブエノスアイレス大学医学部に入学、そこでアレルギーの研究を行います。
ゲバラ自身が喘息で苦しんでいたため、少しでも緩和できるよう医学部を選んだりアレルギーの研究を行ったのかもしれませんね。
南アメリカ放浪の旅へ
1950年、20歳になったゲバラは、モペッド(ペダル付きのオートバイ)で北部アルゼンチンを単独走破します。
さらにゲバラは翌年には友人とともにオートバイで南アメリカをまわる旅に出て、2年かけてラテンアメリカを自分の目で見てまわりました。
この行動力がのちの革命につながって行くんでしょうね!
この旅でゲバラは帰国して医学部を卒業することを決意し、通常6年の過程を3年で終えてしまいます!
そして医師免許も取得するのです!もう言うことなしの完璧な学生ですね…
喘息持ちの身体の弱いゲバラ少年は、とても賢い青年に成長していました。
チェ・ゲバラ、革命家の道へ
当時のアルゼンチンでは医師免許を持っていると強制的に軍医になるようになっていました。
医師免許を取得したゲバラは、当時の政権下で軍医になることを嫌がりアルゼンチンを飛び出し逃亡!
再びラテンアメリカを放浪します。
その放浪の旅の中で、ゲバラは南米の貧困や病気、圧政と不平等に苦しむ人々を目の当たりにしたのです。
裕福な家庭で育ったゲバラにとってとても衝撃的だったことでしょう。アルゼンチンを飛び出したゲバラはグアテマラに流れつき、現地の政権に反発を抱いてグアテマラの革命に参加します。
しかし、その革命はアメリカが介入してきたことで失敗。ゲバラは怒りとともにメキシコに亡命するのです。この失敗が、ゲバラに火をつけました。
これからゲバラの怒涛の人生が始まるのです。
盟友カストロとの出会い、そしてキューバ革命へ
ゲバラは逃げ延びたメキシコで、キューバから亡命してきたフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会います。
当時のキューバは、バディスタ政権によるアメリカの影響を受けた独裁政権になっており、バディスタに反発していたのがカストロでした。
カストロは、ゲバラに祖国キューバの解放やキューバの社会主義国家実現を熱弁し、ゲバラもカストロの熱意に心を動かされたのです。
医師の資格を持っているゲバラは、重軍医として反独裁闘争に参加することを承諾します。
そこから25ヶ月間にもおよぶゲリラ戦に従軍しました。
キューバへの渡航
ちなみに、キューバ入りする際にグランマ号という10人乗りのヨットに、82人も乗って向かったそうでかなり無茶苦茶な旅だったようですね!
明らかに定員オーバーのヨットのせいで予定していた日時に遅れ、陸で待っていた人達は来ない…!と大混乱だったとか。
さて、ゲバラとカストロの軍は100人にも満たないメンバーでスタートしましたが、対するキューバの政府軍は何人だったでしょうか??
正解は6000人です。82人VS 6000人…
しかも政府軍は訓練を積んだ軍人で、かたやゲバラ達は寄せ集めのゲリラ集団です。
戦う前に怖じ気づいてしまいそうですが、ゲバラ達は強い意志のもと革命を遂行していきます。
ゲバラは、兵力を上げながら1958年12月にキューバの第二の都市・サンタ・クララへ突入し、現地市民の協力も得ながら、6000人の政府軍を混乱させ制圧することに成功します。
そして翌年、1959年にバティスタがドミニカへと逃亡し、カストロがキューバの首都・ハバナに入ったことで悲願のキューバ革命を成功したのです!
ゲバラが日本へ来日!
キューバ革命を成功させた半年後の1959年7月、ゲバラは日本を訪れています。
元々ゲバラ一行は広島を訪れる予定はなかったのですが、8月6日の原爆投下の日を目前に、
「他の日程をすべて犠牲にしても原爆慰霊碑に献花したい」
という強い願いにより、急きょ大阪から広島へと向かいました。
ゲバラ一行は原爆慰霊碑に献花しました。花を手向ける同行者の後ろで戦闘服姿のゲバラはうつむき加減で直立していたそうです。
その後一行は原爆資料館を約一時間かけてじっくりと見学しました。
館内の様々な原爆被害の陳列品を見る中で、それまで無口だったゲバラが突然通訳担当の広島県庁職員に問いかけます。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
ゲバラが原爆の惨禍に憤りを見せた瞬間でした。また、広島訪問時にゲバラは妻アレイダに絵はがきを送っています。
毎日新聞によると以下のように書かれていました。
「私の愛する人。今日は広島、原爆の落とされた街から送ります。原爆慰霊碑には7万8000人の死者の名前があり、合計は18万人と推定されます。平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い。抱擁を」
ゲバラが原爆の恐ろしさを伝えたこともあり、キューバでは原爆教育に力を入れるようになりました。
革命を指揮し、キューバの英雄と呼ばれたゲバラにしても原爆というのは言葉で表現しきれないものがあったのではないでしょうか。
英雄から匿われの存在へ
キューバ革命成功後6年ほど、ゲバラはキューバで政治家として大臣に就任し、大統領の招きでアルジェリアを訪問したり、国際連合総会で演説したりと革命家とは違う面で活躍を見せます。
しかし、革命がゲバラを呼んでいるのです!
1965年に国際的な革命闘争に参加するためにゲバラはキューバを離れます。
コンゴ動乱へ参加するも・・・
アフリカ各地をゲバラは歴訪し、コンゴでは一時的に闘争(コンゴ動乱)に参加しました。
革命家としての血が騒いだのでしょう、ゲバラはコンゴ動乱後に混乱が続く現地で革命の指導を試みましたが、コンゴ兵士の士気の低さに失望し、コンゴにて挫折を味わいます。
しかもゲバラはコンゴで持病の喘息の発作を起こし、療養のためにコンゴからチェコスロバキアの首都プラハ近郊の町、ラートビーという町に移動し匿われます。
そこでゲバラは偽名を使い、髭を剃り落とし、髪を切るなどして別人になりすましてドイツ人らと滞在しました。
ゲバラ・身を潜める
匿われた理由は色々あると思いますが、筆者はキューバでは英雄と呼ばれ、コンゴの混乱の革命を指導したゲバラの弱っている姿を世に晒せないために姿を隠したのではないかと推測します。
また、革命を指揮するゲバラです。国内外に敵は少なからずいたのではないでしょうか。
さらにゲバラは、チェコスロバキアを出国する際、ウルグアイのパスポートを偽装しモスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国したのです。
キューバの英雄がパスポートを偽装して帰国…
ゲバラの身の安全のためとはいえ、堂々と帰国ができなかったことがどこか寂しく感じます。
ラテンアメリカにて再び革命へ
秘密裏にキューバに帰国したゲバラはカストロとの会談の後、新たな革命の地・ボリビアへと向かいます。
ボリビアを選んだ理由は、南米大陸の中心部にあって大陸部の拠点となるとみなしたからです。
ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ペルー、チリに連絡組織が作られ、チリ社会党の指導者サルバドール・アジュンテは、ゲバラを支援しました。
ボリビアにゲバラは「アドルフォ・メナ・ゴンザレス」という偽名を使い、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡ります。
前回のパスポート偽装での変装とは違い、こちらの変装はかっこよく思えるから不思議ですね!
しかし独自の革命理論に固執したため、親ソ連的なボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞るようになりました。
また革命によって土地を手に入れた農民は、新たな革命には興味を示しませんでした。
さらにボリビア政府軍が、各地から応援をもらいゲリラ対策を練ったために、ゲバラは苦戦を強いられることとなります。
さらにボリビア政府軍が、各地から応援をもらいゲリラ対策を練ったために、ゲバラは苦戦を強いられることとなります。
それでもカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きをみせました。
しかし、先手を打ったボリビア政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺を行って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支持は事実上失われていきました。
キューバの英雄・チェゲバラの最期
支持は失われていってもゲバラは革命を諦めません。
1967年10月、20名ほどのゲリラ部隊とともにゲバラは行動していました。
しかしアンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、政府軍の襲撃を受けて捕らえられてしまいます。
捕らえられたゲバラらは渓谷から南にある村に連行され、小学校に収容されました。
翌朝、村にヘリコプターで到着したボリビア政府軍は「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信します。
ゲバラは政府軍兵士に右腕の付け根と左胸、首の根元部分の計3発撃たれましたが絶命せず、最終的には別の兵士によって心臓を撃たれて死亡しました。
死亡の証拠としてゲバラは両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められました。キューバの英雄の波乱の39年の人生が幕を閉じたのです。
銃撃を躊躇する兵士に向けて言い放った
「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」
そして、撃ち損じた当人に向けての
「お前の目の前にいるのは英雄でもなんでもないただの男だ。撃て!臆病者め!」
というのが、ゲバラ最後の言葉でした。
ゲバラの遺骨はそれまで行方知れずとなっていましたが、死後30年後の1997年にボリビアで遺骨が発見されてハバナへと移送されたのでした。
チェ・ゲバラとは一体何をした人なの?わかりやすく解説!名言や日本人への想いなど!まとめ
ゲバラは誰よりも率先して行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んでいました。
そこには、身体が弱いながらもラグビーやサッカーに熱中したゲバラ少年の姿が見受けられます。
しかし、自分に課す厳格な規律を周囲にも求めていたため、政治家だった当時の部下からは
「冷徹、尊大でまるで我々の教師であるように振る舞う」
と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったようなのです。
また、ゲリラ軍に志願してきた農民にも、資格として読み書きができる成年者であることを最低限要求をし、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切り捨てたのでした。
一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていたそうです。
ゲバラの人気は南アメリカだけにとどまらず、フランスの哲学者サルトルは
「20世紀で最も完璧な男」
ビートルズのジョン・レノンは
「世界で一番格好いい男」
そして、苦楽をともにしたカストロは
「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」
と評しています。
キューバの英雄と呼ばれるチェ・ゲバラは今でも絶大な人気を誇り、肖像画がキューバの紙幣になっています。
南アメリカのために奔走し、華々しく散ったチェ・ゲバラ。
彼はいつまでも英雄としてかっこいい姿で皆の心に生き続けるのだと思います。
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