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ハワイ王国について解説!激動の時代に巻き込まれた悲劇の王国

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最近やっとコロナも落ち着いてきましたね。

一時期デルタ株で毎日ニュースを騒がしていましたが最近は感染者数も減少傾向になり、やや安心ですね(まだまだ油断はできませんが…)

私は旅行が大好きなので状況を見て国内旅行が出来たらなと思います。

でも世界の状況を見る限り海外旅行はまだまだ厳しそうですね…。本当はハワイなども行ってみたいのですが…。

ところでもしかしたらハワイが日本の領土になっていたかもしれないってご存じですか??

今日は日米間で揺れ動いたハワイ王国について説明していきたいと思います!

目次

カメハメハ大王によるハワイ統一

ハワイに最初に住み始めたのは太平洋を渡ってきたポリネシア人たちでした。

彼らは文字を持たなかったため、その歴史の多くは謎に包まれていますが、ハワイの温暖な環境に恵まれ、フラダンスなど現代まで続く多くの伝統文化を華開かせました。

転機があったのは1778年、イギリス人船長ジェームズ・クックによるハワイ諸島発見です。

これによりハワイは西欧化の波へ飲み込まれることとなるのです。

当時のハワイは様々な豪族が支配している混乱の時代でしたが、ある一人の青年によりハワイに平和が訪れます。

この章では、カメハメハ大王によるハワイ統一事業を見ていきましょう

ハワイ統一までの道のり

カメハメハ大王は1758年ハワイ島のカパアウという町で生まれました。

当時ハワイ島を統治していたのはカメハメハの叔父にあたるカラニオプウでした。

カメハメハは青年になると、ヒロという町でナハの石を動かします。

先住民の間では「この石を動かしたものはハワイの王になる」と言い伝えられており、それを動かしたカメハメハは人々の信頼を集めるようになります。

やがて、叔父カラニオプウがなくなると、カメハメハはカラニオウプウの長男キワラオを倒しハワイ島を掌握。

当時島内に進出してきたイギリス人から武器や軍事技術を取り入れ、周辺のマウイ島・オアフ島などを征服しました。

1810にはハワイ諸島全域を統一し、ラハイナという町を首都としてハワイ王国を建国しました。

優れた内政と外交によりハワイに安定をもたらした

当時のハワイにはイギリス人やアメリカ人も進出してきましたが、カメハメハはそれらの西洋諸国と友好関係を築くことに成功しました。

西欧から優れた武器や技術を取り入れハワイの近代化を図る一方で、ハワイの伝統的な文化を保護したのです。

特にカメハメハが定めた「ママラホエ」と呼ばれる法律は戦争中の民間人の保護について明文化したものであり当時の世界から見ても先進的な法律でした。

そんなカメハメハ大王の偉業をたたえるために、現在ハワイにはカメハメハの銅像が3か所設置されています。

押し寄せる西欧近代化の波と揺れるハワイ

カメハメハ大王により建国されたハワイ王国は西洋各国と友好関係を結び、その技術を取り入れつつ自国の文化を保護することで独立を維持してきました。

しかし、ハワイの豊かな気候や砂糖を求めたアメリカ人やイギリス人の進出は止まりません。

この章では、ハワイの西欧化と徐々に混乱していくハワイ王国についてみていきましょう

キリスト教の伝来(カメハメハ2世統治

カメハメハ大王の後を継いだのは、息子のカメハメハ2世でした。

しかしこの時実権を握っていたのは継母のカアフマヌでした。

カアフマヌカプと呼ばれる多くの伝統的タブーを廃止し、カフナと呼ばれる神官たちの権威を抑えました。

さらにこの時期にキリスト教宣教師らがハワイに上陸し、キリスト教の布教が行われました。

宣教師たちはキリスト教布教とともに英語のアルファベット教育も施したため、ハワイの教育水準はあがりましたが、同時にハワイ独自の文化は徐々に衰退していったのです。

近代国家をめざした改革(カメハメハ3世統治

1825年、カメハメハ2世が病死すると弟のカメハメハ3世が即位します。

1832年に権力を握っていたカアフマヌが死去したことでカメハメハ3世の親政が開始されました。

カメハメハ3世は進出する欧米列強に対抗するためにハワイ初の憲法を制定したり土地改革を実施したりしました。

その成果もあり、イギリスやフランス、アメリカから独立国家として承認されることになったのです。

しかし、新たにできたハワイ政府では要職のほとんどを白人が占めるようになります。

また土地改革では結果的にハワイ人が土地を失う結果になるなど、この改革はのちにハワイ人自身の首を絞めることになったのです。

エリート王による安定した統治(カメハメハ4世統治 

カメハメハ2世の死後、王位は甥のカメハメハ4世が継ぎました。

カメハメハ4世は、ホノルルの王宮学校でプロテスタントの宣教師による英才教育を受けました

皇太子のころからサンフランシスコやワシントンDCといったアメリカの各都市やヨーロッパを訪問するなど国際色豊かな経験を積みました。

帰国後もカメハメハ3世のもとで閣僚として行政経験を積んだり、外国語の勉強に勤しんだりするなど、エリート王だったのです。

医療の進歩に貢献

弱冠20歳にて即位したカメハメハ世がまず取り組んだのは、ハワイの衛生改善でした。

当時、ハワイでは海外から持ち込まれたハンセン病やインフルエンザがまん延していました。

そこでカメハメハ4世は公立病院や高齢者向け施設の建設を議会に提案しますが、議会に拒否されてしまいます。

そこで王は王妃のエマとともに独自で基金を募り、病院や医療施設を建設しました。

これはいまでもクイーンズ病院として残っており、医療政策は大きな成果を収めました。

アメリカ依存脱却

次にカメハメハ4世が目指したのはアメリカの依存脱却でした。

当時、ハワイには多くのアメリカ人移民が増え、ハワイ王朝にとって脅威だったからです。

そのため、息子のアルバートの洗礼の際にイギリス女王ヴィクトリアに名親になってもらったり、ヨーロッパ諸国と関係を深めたりしました。

さらに日本の遣欧使節団を招くなど欧米以外の諸国との関係も深めようとしました。

しかし脱アメリカの成果が出る前にカメハメハ4世は持病のぜんそくが悪化し、わずか29歳で死去してしまいます。

カメハメハ王朝の断絶(カメハメハ5世統治期 

カメハメハ4世の後を継いだのは、その兄カメハメハ5世でした。

カメハメハ5世は王子時代にイギリスで厚くもてなされた一方でアメリカでは冷遇されていたため、王となった後も親イギリス的な政策を行うようになりました。

カメハメハ5世は、アメリカによって起案されたハワイ憲法を廃止し、新たな憲法を作ることで王権の拡大を目指しました。

しかしカメハメハ5世が42歳の時、独身で後継者がいない状態で死去してしまい、ここにカメハメハ王朝は断絶してしまったのです。

親米政策をとった王の統治(ルナリロ統治期)

カメハメハ王朝断絶後、国王選挙によって選ばれたのはカメハメハ大王の遠い子孫にあたるルナリロでした。

ルナリロは、親アメリカ的な考えを持つ人物であり政府閣僚にアメリカ人を多く採用しました。

しかし、即位から1年後ルナリロは肺結核にかかり病死してしまいます。

在位期間は短かったのですが、この時多く採用したアメリカ人たちによってハワイ王国はアメリカの傀儡政権となってしまいました。

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ハワイ王国最後のチャンスであったカラカウア王の改革

ルナリロの死後行われた選挙によって選ばれたのはカラカウアという人物でした。

カラカウアはもともとカメハメハ5世死後の国王選挙にも立候補していましたがルナリロに敗北していたのです。

晴れて国王に選出されたカラカウア王はハワイ王国の安定と永遠の独立を目指し、様々な政策を打ち出します。

アメリカ・ヨーロッパだけでなく、アジアやオセアニアまでを巻き込んだハワイ最後の外交政策を見ていきましょう。

アメリカとの貿易交渉

カラカウア王は王に即位するとすぐにカメハメハ4世の未亡人で会ったエマ夫人を娶ります。

エマ夫人はクイーンズ病院を作るなど国民人気が高い女性でありエマの支持者が暴動を起こしました。

カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りて、この暴動を鎮圧しました

暴動を鎮圧したカラカウア王ハワイ経済のためアメリカを訪問します。

アメリカ大統領グラントと会いハワイの名産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせるなどアメリカに対して強気の姿勢を見せたのです。

世界外遊・ポリネシア帝国の建設構想

さらにカラカウア王は1881年、世界各国と外交関係を結ぶために世界外遊を行いました。

ハワイ出発後、サンフランシスコ、日本、清王朝、東南アジア各国、ヨーロッパなどを訪問します。ここで歴代の王たちと異なるのはアメリカ・ヨーロッパだけでなくアジア諸国も訪問していることです。

カラカウア王は脱アメリカのためにアジアやオセアニアといった国々との関係も重視していました。さらにオセアニアを中心にポリネシア帝国を建設する構想を抱いていました。

1886年にはポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保

サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意にこぎつけています。

しかし、これはのちに述べるクーデターで実現することはありませんでした。

新たな成長国・日本への期待

カラカウア王が脱アメリカへの協力者として期待した国が、当時同じく近代化を推し進めていた成長国家・日本でした。

先に述べた外遊でも最初の訪問国を日本に選ぶなどその期待は大きかったのです。

カラカウア王はハワイ王国の安泰を図るため、姪子のカイウラニ王女と日本の皇室である山階宮(やましなのみや)との縁談を日本政府に持ちかけます。

さらになんと日本とハワイの合併まで提案したのです。

明治政府は日米関係の悪化を恐れてこれを丁重に断ります。

しかしもしこの時の縁談や日本ハワイ合併論が実現していればハワイは沖縄県と同じように日本の一都道府県「布哇県」になっていたかもしれません。

在ハワイアメリカ人のクーデターと失意の死

1887年、アメリカ系移民は脱アメリカ政策を進めるカラカウア王に反発し、カラカウアの退位王政の廃止・アメリカ合衆国への併合を要求したクーデターを起こします。

これに驚いたカラカウア王は銃剣憲法と呼ばれる親アメリカ的な憲法を認める代わりに上記の条件を取り下げてもらう交渉を行います。

アメリカ系住民は参政権などを得たことで満足しハワイ王国の滅亡は免れますがカラカウア王は権力の多くを失うことになりました。

これに反発したハワイの軍人が反乱を起こしますがこれも失敗。

失意にくれたカラカウア王は酒におぼれるようになり、54歳で死去します。

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ハワイ王国の滅亡

このように、ハワイ王国では、脱アメリカを目指し様々な王が改革を実施しようとしましたがその度に外圧や内政の混乱によって失敗してきました。

そしてとうとうアメリカによるハワイ併合はもはや時間の問題となってしまいます。

この章では、アメリカに飲み込まれるハワイの様子とそれに最後まで抵抗したハワイ最後の女王・リリウオカラニについてみていきます。

リリウオカラニ女王の即位

Queen Liliuokalani in a black dress Hawaiian Monarchy Hawaii

カラカウア王の死後、王位を継いだのは妹のリリウオカラニでした。

リリウオカラニは兄の遺志を継ぎ、アメリカに対してハワイの独立を守る政策を打ち出します。

王政廃止を訴えるアメリカ人移民たち(共和制派)との対立姿勢を明らかにし、新憲法の制定にとりかかります。

しかし、この法案も参政権をもったアメリカ系移民たちの手によって否認されてしまったのです。

ハワイ革命の勃発

1893年、対決姿勢を示すリリウオカラニに危機感を募らせた共和制派は、アメリカに軍事介入を要請します。

アメリカはこれを受けて海兵隊をハワイに派遣。リリウオカラニが住むイオラニ宮殿を包囲し、さらに政府機関を占領します。

その後、共和制派は王政廃止と臨時政府の樹立を宣言したのです。(ハワイ革命)

この革命に対して列強の一部の国が臨時政府を承認した一方で、王国を支持する国もありました。

それが日本です。

カラカウア王によって友好関係を築いていた日本は共和制派に不快感を示しハワイまで軍艦を送っています。

アメリカもこの革命自体は「不法」であるとみなし、調査団を派遣しています。

しかし共和派はこれらの圧力をはねのけ、1894年ハワイ共和国の独立を宣言します。

ハワイ王国の滅亡

ハワイ共和国建国の1年後、王政派による反乱が起きますがこれは数日で鎮圧されます。

さらにリリウオカラニの屋敷から多くの銃器が見つかったとしてリリウオカラニ自身が反乱の罪に問われて逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉されてしまいます。

そしてリリウオカラニは反乱で捕まった王政派の200人の命と引き換えに女王退位のサインを迫られ、これに署名。

こうしてハワイ王国は滅亡したのです。

ハワイ王国滅亡の4年後、ハワイ共和国はアメリカ合衆国に併合を要請します。

こうして1898年ハワイはアメリカに併合され、ハワイ準州となります。

最後までハワイの人々には旧女王として敬愛を受けていたリリウオカラニ、ハワイがアメリカに飲み込まれる様子を目の当たりにしながら1917年79歳で死去しました

その42年後の1959年、50番目の州・ハワイ州が成立。こうして現在まで続くハワイ州ができたのです。

ハワイ王国について解説!激動の時代に巻き込まれた悲劇の王国・まとめ

こうしてアメリカの膨張とともに滅亡した王国・ハワイ王国ですが、その名残はハワイに確実に残っています。

例えば、皆さんご存じの「アロハ・オエ」は、最後の女王・リリウオカラニが作詞作曲したものです。

「アロハ」とは愛する、「オエ」とはあなた、という意味であり、時代の流れに抗えず滅亡していくハワイ王国の中で、国を守れなかった無念やこれまでついてきてくれた国民ちへの感謝が歌になっているのです。

そのほかにもフラダンスや独特のハワイ文化など、激動の時代の中で必死に自分たちの誇りを守ろうとした王たちの努力の結晶がハワイに残されています。

海外旅行が解禁になりハワイにリゾート旅行に訪れた際は是非、ハワイの王たちの思いを感じてみたらいかがでしょうか。

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