1944年6月19日から20日にかけてマリアナ沖にて、日米両海軍による大規模な戦闘が起きました。
これをマリアナ沖海戦と言います。
どのようにして開戦したのか、そして日本軍はなぜ負けたのわかりやすく解説していきます。
マリアナ沖ってどこ?
まず、この海戦が起きた「マリアナ沖」とはどこなのでしょうか。
マリアナ沖海戦は「マリアナ諸島沖」と「パラオ諸島沖」で起きました。
アメリカ側からの呼称は「フィリピン海海戦」です。
マリアナ諸島はミクロネシア北西部の列島で北西太平洋とフィリピン海の境界にあたります。
マリアナ諸島は、ファラリョン・デ・パハロス島、マウグ島、などなどたくさんの島から成り立ちます。
なんとなくどのあたりかイメージがわいてきたでしょうか。
マリアナ諸島は、太平洋戦争で劣勢に立たされた日本軍が1943年9月に定めた国土を守るための防衛ライン、絶対国防圏の東部分に当たります。
この地域の制空、制海権をアメリカに渡さないことは、日本を守るために必要なことだったのです。
あ号作戦

では何故、マリアナ沖海戦は起きたのでしょうか。
もちろん絶対国防圏を守るため、それはまず第一にあったことでしょう。
直接的な理由としては、日本軍のアメリカ軍迎撃作戦「あ号作戦」が発令されたことによって引き起こされたものだといえます。
あ号作戦とは、連合艦隊司令長官古賀峯一大将による計画です。
アメリカの機動部隊を中部太平洋方面にて撃滅することが目的の計画でした。
その主力部隊として考えられていたのが小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊。
そして、1943年7月に基地航空部隊として新たに編成された角田覚治中将率いる第一航空艦隊でした。
あ号作戦を計画した古賀大将は、マリアナを防衛するためマリアナ諸島、西カロリン諸島などに強力な基地航空部隊を展開させ、アメリカとの決戦に備えていました。
しかし1944年3月31日、当時パラオにあった司令部が空襲に襲われ、司令部をダバオ(フィリピン)に移す途中、古賀大将は殉職してしまいます。
古賀大将の殉職を受け、1944年5月3日に豊田福武大将が連合艦隊司令長官に就任。
福田大将指揮のもと、1944年5月20日、小沢中将率いる第一機動部隊はミンダナオ島(フィリピン)とボルネオ島(ブルネイ)の間に位置するタウイタウイに集結します。
これがあ号作戦の、ひいてはマリアナ沖海戦の始まりだったのです。
決戦前に壊滅した部隊
あ号作戦が発令されたため、主力部隊に数えられていた角田中将率いる第一航空艦隊は1944年5月27日から6月9日にかけてソロモン諸島(南太平洋メラネシアの島嶼(とうしょ)群)、マーシャル諸島(太平洋の島国。ミクロネシア連邦の東、キリバスの北)を偵察していました。
偵察の結果、すでにアメリカ軍機動部隊が出撃していたことから、1944年6月10日、豊田大将により全軍に対して臨戦体制をとることが命ぜられます。
実はこの6月10日の時点で、第一航空艦隊はすでに戦力を削られています。
というのも、あ号作戦が開始される前に出動を迫られたいくつかの作戦で、多くの航空機を失っていたからです。
第一航空艦隊が出動した作戦の1つがビアク島に増援を送るための作戦「渾作戦」でした。
渾作戦はビアク島に増援を送る目的で第三次にわたり実行されましたが全て失敗します。
渾作戦実行中に、あ号作戦が開始されることが決まったので、第一航空艦隊は戦力を大幅に削られたままあ号作戦にとりかかることになってしまったのです。
すでに多くを失っていた第一航空艦隊は、あ号作戦の開始により、さらに兵力、航空機を失います。
1944年6月11日哨戒飛行中、正午過ぎにアメリカ機動部隊発見を告げた索敵機がその後消息を断ちます。
その1時間後には、サイパン、テニアン、ロタ、グアムはアメリカ軍による空襲にさらされ、さらに多くの航空機が消失することとなります。
さらに1944年6月15日にはサイパン周辺の艦艇攻撃に向かった24機のうち、10機が未帰還。
1944年6月18日には同じく70機が飛び立ちますが、21機が未帰還となってしまいました。
その後、マリアナ沖海戦が開戦となった1944年6月19日の早朝までに可動できるすべての機体をグアム島に集結させましたが、集まったのは約50機。
あ号作戦にて成果を上げることを期待されていた第一航空艦隊は、事実上の大きな衝突であったマリアナ沖海戦の前に崩壊を遂げてしまったのです。
暗雲立ち込める海戦
あ号作戦の主力とされていた第一航空艦隊の崩壊にあっても作戦は決行されます。
では、マリアナ沖海戦が始まる前、一体どのようなことが起こっていたのでしょうか。
海軍乙事件

時は少し遡って1944年3月31日。
先述しましたが、空襲のため、当時パラオにあった司令部をダバオに移すことになりました。
この時使用されたのは2機の二式大艇(二式飛行艇。大日本帝国海軍の飛行艇)です。
一番機には司令長官の古賀大将はじめ幕僚7人と搭乗員。
二番機には参謀長の福留繁中将はじめ幕僚10人と搭乗員が搭乗しました。
当時パラオとダバオの間には低気圧があり、天候は荒れていたようです。
そのため、一番機、二番機ともに離水と同時にお互いの位置を見失い、単独飛行となってしまいました。
その後、古賀大将の乗った一番機は遭難してしまいます。
嵐の後に捜索が開始されるも、1944年4月22日に捜索打ち切りとなり、搭乗員全員が殉職とされました。
この事件を「海軍乙事件」と言います。
では何故これが海軍「乙」事件と言われたのでしょう。
それは、1943年4月18日。
古賀大将の前任の連合艦隊司令長官であった山本五十六大将が南太平洋ソロモン諸島のブーゲンビル島上空でアメリカ軍機に銃撃され戦死した事件を「海軍甲事件」と呼ぶからです。
この当時、指揮官が前線に出て指揮をとるのは、兵士の士気を高めるという点において当たり前のこととして捉えられていました。
しかし、実際に海軍甲事件、海軍乙事件からわかるように、司令官が前線に出て指揮を取ることは、司令官を失う可能性を含む大変な危険を伴います。
そこで1944年9月以降、海軍の司令部は横浜市日吉台に移されることになり、地上から指揮を取ることに変化していきました。
マリアナ沖海戦では生かされなかった大将の殉職ですが、その後時代は変化していったのです。
重大な情報漏れ
古賀大将の搭乗した一番機と同時に飛び立った二番機はどうなったのでしょうか。
福留中将の搭乗した二番機は暴風圏を脱出、1944年4月1日午前2時50分ごろセブ島に不時着しました。
夜明けごろ、現地漁民と思われる男たちによって救助された福留中将らは、今後の作戦について書かれたZ作戦計画書と暗号書関係の図書が入った書類ケースを持っていました。
Z作戦とは1943年8月15日に出された「連合艦隊第三段作戦命令」の中で明示された作戦のこと。
早期に敵の侵攻部隊を発見し、航空兵力の大部分を持ってする先制攻撃により、連合御国軍の空母部隊を撃滅することを重視した作戦で、あ号作戦が含まれていました。
陸地に連れてこられほっとしたのも束の間、漁民だと思っていたのは実は現地のゲリラ兵だったため中将らは慌てます。
持っていた書類ケースを海に投げ捨てるも、もちろんゲリラ兵により回収され、アメリカ軍にわたることになってしまうのです。
そして福留中将らはゲリラ兵の捕虜となってしまったのでした。
作戦計画書流出
捕虜となった福留中将らは、その後日本軍による現地取引により釈放されます。
そして1944年4月17日、海軍大臣官邸にて事情聴取を受けることになりました。
遭難、ゲリラ軍に捕まる、そして何より、作戦計画書が奪われてしまった、これは重大な事件だったからです。
しかし、この事情聴取で福留中将らはZ作戦計画書と暗号書関係の図書の行方について曖昧な答えを繰り返したそうです。
実際にはゲリラ兵によって奪われているものの、「機密図書は漁民の手に渡ったが、彼らは関心を持たなかった」この結論で締め括られてしまったのです。
もちろん実際にはそんなわけはなく、ゲリラ兵によって奪われた機密文書はオーストラリアの連合軍司令部にて翻訳され、共有されます。
アメリカの戦史家ジョーゼフ・D・ハリントンの著作『ヤンキー・サムライ』の中で機密書類について次のように書かれています。
「来攻するアメリカ艦隊からマリアナ諸島をいかに防衛するか、その作戦計画が詳細に述べられていた。それには、現在の戦況と予想敵兵力ならびに、4月末まで日本海軍の水上部隊と航空部隊をどこに配備するかについて、詳細に述べられていた。古賀提督は、アメリカ軍が4月末以降はいつ侵攻してくるかもしれないと考えていた。」
つまり、機密書類は奪われたばかりか、その後の全ての計画は連合国軍に筒抜けだったというわけなのです。
歴史に「もし」はありませんが、仮に福留中将らが機密文書がゲリラ兵によって奪われたことを報告し、あ号作戦が再考されていたら、その後の戦況は多少は変わったのかもしれませんね。
開戦へ
アメリカ軍をはじめ、連合国軍に日本軍の作戦計画がわたったことなど知らされない、タウイタウイに集結していた小沢中将率いる第一機動部隊。
彼らは、近海にアメリカ軍の潜水艦が出没していたため十分な訓練が行われないまま、1944年の6月19日のマリアナ沖海戦を迎えました。
この海戦においては「アウトレンジ戦法」を実施することが決まっていました。
アウトレンジとは本来、砲術用語です。
敵の砲弾が届かない距離から撃つ事ができる砲をもって一方的に攻撃することを指します。
機動部隊に置き換えると、敵の攻撃機が味方の機動部隊を攻撃できない距離から攻撃を仕掛け、勝利する。アウトレンジ戦法とはそんな戦法だったのです。
日本軍の所有する航空機は航続距離(1回の給油で飛行できる距離)がアメリカ軍の航空機に比べ長かった、つまり燃費が良いという特徴がありました。
燃費の良い航空機であるからこそ、アメリカ軍の射程外から攻撃隊を発進させて攻撃を行うアウトレンジ戦法が有効であると考えられたのです。
6月19日午前7時30分、中本道次郎大尉の率いる攻撃隊67機が出撃。
日本軍から攻撃を仕掛けていきました。
しかし、攻撃隊は目標であった地点、出撃前の偵察でアメリカ機動部隊がいた地点に向かうも、その約40キロメートル手前で多くが撃墜され、42機が未帰還となりました。
続いて午前8時に出撃した128機のうち、96機が未帰還。
そして午前9時5分に出撃した47機のうち、7機が未帰還と開戦直後から日本軍は最初から苦戦を強いられたのでした。
マリアナ沖海戦の結果と敗因
マリアナ沖海戦はどのように帰着したのでしょうか。
マリアナ沖海戦の結果、そして何が原因だったのかについて解説していきます。
海戦の結果
1944年6月19日早朝より開始したマリアナ沖海戦は、結果として日本軍の惨敗に終ります。
19日のうちに、本隊の空母大鳳、翔鶴は魚雷により沈没。
特に大鳳は日本海軍航空母艦史上最強の構造と最良の機能を持った艦だと言われていました。
装甲飛行甲板(装甲板が貼られた飛行甲板)、2基のエレベーターを保有し、竣工は1944年3月。
最新鋭の巨大航空母艦だったのです。
この最新鋭空母大鳳は、たった1発の魚雷の命中がきっかけとなり、竣工後わずか3ヶ月で沈没してしまいました。
また、20日にはアメリカ軍機動部隊の攻撃により、空母飛鷹が沈没。
結果として小沢中将率いる第一機動部隊に残った艦載機は35機。
291機は損失してしまい、日本軍は沖縄へ引き上げることになってしまいました。
この敗戦の結果、マリアナ方面における反撃は不可能とみなされ、マリアナ諸島方面に置かれた兵力は一部の航空部隊と、潜水部隊が置かれるのみとなってしまいます。
その後、絶対国防圏であったマリアナ諸島のうち、サイパン島は1944年7月8日。
テニアン島は8月3日。
グアム島は8月11日にそれぞれ玉砕し、絶対国防圏の要衝といえるマリアナ諸島は失われてしまいました。
これ以降、日本本土、特に都市部に対する本格的な空襲のが頻繁に起こるようになっていきます。
さらに、マリアナ諸島が失われたことにより、当時の首相であり、太平洋戦争開戦の最高責任者であった東條英機は退陣を余儀なくされました。
敗戦の原因は?マリアナの七面鳥撃ち
マリアナ沖海戦における日本軍の敗因はどこにあったのでしょうか。
福留中将の遭難による作戦の流出。これも一つの要因であるといえるでしょう。
また、日本とアメリカの技術の差についても要因として挙げられます。
「マリアナの七面鳥撃ち」
これはマリアナ沖海戦に参加したアメリカの将兵が、日本のパイロットが次々に撃ち落とされていく様を嘲った言葉です。
七面鳥撃ち(Turkey shoot)とは、七面鳥は大きくて動きが鈍いので撃つことが簡単だ。ということから派生し、「簡単」「朝飯前」といった意味を持ちます。
当時、アメリカ軍はVT信管を備えていました。
VT信管とは近接信管のことです。
放った砲弾が目標物に当たらなくても、目標から一定距離までいくと自動的に発火(爆発)する信管のことを指します。
ですから狙いを定めずとも、「その辺り」を狙って引き金を引けば、目標物が近くに来た時点で勝手に爆発してくれるのです。
そもそもこの当時の日本軍のパイロットの技術が未熟だったこともありますが、技術の面でも優れていたアメリカ軍にとっては飛来する日本軍航空機を迎撃することはまさに朝飯前。
実に簡単なことだったのです。
ベテランパイロットの不在
先に挙げたように、この当時の日本軍パイロットの腕は未熟でした。
なぜなら、いわゆるベテランと呼ばれるようなパイロットの多くが既に戦死しており、熟練したものはほとんどいなかったからです。
未熟なものばかりが実戦に駆り出されていたことも、マリアナ沖海戦における敗因の一つと言えるかと思います。
マリアナ沖海戦をまたずして崩壊してしまった角田中将率いる第一航空艦隊の搭乗員のほとんどは、練習航空隊を出たばかりの将兵で、実戦の経験は全くない人がほとんどでした。
彼らは本来であれば、実践を経験する前に約1年にわたる訓練が必要と見られていましたが、もちろんそんな余裕はこの当時の日本にはありませんでした。
作戦に無謀さはなかったか、について言及はできませんが、やはり未熟なパイロットばかりであったことが第一航空艦隊の崩壊につながったのだと思います。
そしてアウトレンジ戦法をとろうとしたマリアナ沖海戦本戦においては、パイロット自身だけではなく指揮官も実践経験、指揮経験の少ないものに置き換わってしまっていました。
体力という観点からすると、パイロットは年若い方が重宝されていたようです。
しかし、いくら年若いとはいえ、十分な実践訓練を積んでいない若い将兵ばかりで作戦は実行できるでしょうか。
そしてそれを指揮するのが十分な指揮経験のない指揮官であったらどうでしょうか。
この軍隊として、圧倒的な経験値の少なかったということ。
これも敗因の一つになりえたと見ることができるでしょう。
マリアナ沖海戦をわかりやすく!解説!敗因はなんだったのか?まとめ
マリアナ沖海戦に負けたこと、あ号作戦に敗北したことは、太平洋戦争における日本の実質的な敗戦を決定づけたと元当事者、研究者は見ています。
わずか2日間で多大な犠牲を出し、太平洋戦争の戦局を決定づけることになってしまったマリアナ沖海戦。
太平洋戦争について
「やめ方が下手だった。始める時も始め方が下手だった。」
と証言する元兵士の方がいますが、マリアナ沖海戦の流れを見るにつけ、始め方も、やってしまったことに対する態度も、やめ方もうまくなかったのだと筆者は思います。
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【参考文献】
「太平洋戦争海戦全史」新人物往来社戦史室編、株式会社新人物往来社
「日本はいかに敗れたか(上)マリアナ沖海戦終了まで」奥宮正武、PHP研究所
「WWⅡ悲劇の艦隊 過失と怠慢と予期せぬ状況がもたらした惨劇」大内建二、潮書房光人社
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95433
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/8755
http://member.tokoha-u.ac.jp/~kdeguchi/hobby/japan/j_ship/h_cruiser.html
https://trafficnews.jp/post/117694
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