チトーへの評価~カリスマ指導者の功績~
2章では主にチトーの軍人時代についてお話しました。
ここではユーゴスラビアの指導者となったチトーの功績を中心にお話します。
ううううう
そしてチトーはそれらの功績によってユーゴスラビアから称えられ、そして世界からも称えられる指導者となっていきました。
ではチトーはどのような功績をあげて、世界からどのように評価されたのか?
この章では、それらについて見ていきましょう。
民族主義を一切許さなかった~兄弟愛と統一~
ユーゴスラビアの指導者となったチトーが成し遂げた大きな実績の1つは、異なる民族をまとめあげたことです。
チトーはパルチザン時代のモットー「兄弟愛と統一」をユーゴスラビアの指導者となっても引き続き掲げて、国民に1つにまとまるよう求めました。
ここまで何度かお話しているように、ユーゴスラビアには多様な民族がいるので、異民族同士で対立が起きやすい状況にありました。
中には「俺たちの民族だけが偉いんだ!」と主張する民族主義者も居ました。
チトーはこのような差別や民族主義を絶対に許さず、秘密警察を使って徹底的に弾圧しました。
チトーの出生地クロアチアでの民族主義者に対しても、差別をするようなことがあれば容赦なく弾圧しました。
チトーがこうして民族主義者を排除したこと、そして差別を嫌うチトーの性格によってユーゴスラビアの国民は1つにまとまったのです。
またチトーはユーゴスラビア内の各共和国に自治権を付与し、各共和国に自国のことを任せるようにしました。
そして、共和国の間で対立が生じたときはチトーが仲裁する形で対立を抑えたのです。
その後、チトーの提案によって、「兄弟愛と統一道路」と呼ばれる、ユーゴスラビアの両端を横断する大きな道路も作られました。
当時ユーゴスラビアで暮らしていた人はこのときを振り返って「民族の違いなど関係なく暮らしていた」と述べています。
このようにして異民族同士の争いが起きずに済み、ユーゴスラビア国内は平穏であり続けることができたのです。
自身への批判を認めた
チトーの統治体制の大きな特徴の1つとして、「言論の自由」を国民に認めたことが挙げられます。
チトーは独裁者です。
でも、ヒトラーやスターリンのような独裁者とは全く異なります。
ヒトラーやスターリンは国民を監視下に置き、自分の主義に反する国民を容赦なく理不尽に殺害しました。
しかし、チトーはそのような理不尽なことを一切行いませんでした。チトーは、国民に限らず新聞などのメディアも含めてチトーに対して批判することを、それなりに認めたのです。
「独裁者」と聞くと、「自分の主義に反する者は殺す」といった悪のイメージを持つかもしれませんが、チトーはまさに「素晴らしき良き独裁者」だったのです。
独裁体制を取ると権力におぼれて暴君になりがちな側面があります。
そうした中で、チトーが自分に対する批判行為を容認したことは大いに評価されるべきでしょう。
経済面やインフラを充実させた
チトーの素晴らしい功績は民族の問題の解決だけでなく、経済面やインフラなどのユーゴスラビアの社会的側面を充実させたことも挙げられます。
チトーは「自主管理社会主義」という独自の経済政策を取りました。
これは「労働者側が経営側を監視・管理する」という体制です。
その結果、ユーゴスラビアは経済的に成長しました。
またインフラも充実し、無料で医療を受けることができるほどになったのです。
このようにユーゴスラビアは豊かになり、当時を懐かしむ国民は「何不自由なく暮らせた」と語ります。
こうしてチトーは軍務だけでなく、国政でも功績を挙げて国民の暮らしを良くしました。
そんなチトーを国民は敬愛したのです。
国際的に良好な外交関係を築いた
チトーは外交面でも素晴らしい働きをし、世界の各国と良好な関係を築きました。
第二次世界大戦終了後の世界では、アメリカやイギリスをはじめとする「西側諸国」と、ソ連をはじめとする「東側諸国」が対立する冷戦に入っていました。
ユーゴスラビアは、形式上この東西のどちらにも属さず中立の形を取りました。
アメリカに対しては、提案された戦後のヨーロッパ復興計画である「マーシャル・プラン」を受け入れ、西側諸国と良好な関係になります。
しかし、冷戦について東西で意見が割れたときは棄権という手段を取り、どっちつかずの姿勢を貫きました。
そのこともあって、チトーは東西を問わず、各国と良好な関係を築きます。
ユーゴスラビアと関係が悪くなったソ連では、その後スターリンが死去してフルシチョフがソ連の指導者となり、フルシチョフがスターリン批判を行います。
これを受けて、ユーゴスラビアとソ連の関係が回復することになります。
こうして、チトーは東西そして世界各国から支持を受けます。
西側諸国、東側諸国のそれぞれから20個以上の賞、アジアやアフリカ、南米からも多くの賞を受けます。
ユーゴスラビア国内からもたくさんの賞を受けます。
チトーが世界各国から受けた賞の総数は100個以上にものぼります。
ユーゴスラビアだけでなく、世界からもチトーは尊敬されたのです。
史上最大規模の国葬~国際社会が認めたカリスマ~
チトーに対する世界の評価が分かる出来事がもう1つあります。それは、1980年にチトーが亡くなった後に行われた国葬です。
この国葬には世界の119か国もの国々から要人が参加しました。
この規模は、1989年に昭和天皇の国葬が行われるまでは、史上最大規模の国葬でした。
世界がいかにチトーに一目おいていたのか、よく分かります。
こうして、ユーゴスラビアから、そして世界から尊敬されながら、チトーは見送られたのです。
チトー死去後~カリスマ指導者が遺した問題~
こうして数々の功績を残し、人々を惹きつけてきたチトーのおかげでユーゴスラビアは素晴らしい国となりました。
しかしチトーが亡くなった後、ユーゴスラビアの様子はそれまでの様子から一変します。
ユーゴスラビアは、チトーが亡くなった場合を見据えたビジョンを用意していなかったのです。
そして、ユーゴスラビアで色々な問題が生まれてきます。
それらの問題は「チトーが遺(のこ)した問題」と言えるでしょう。
いったい、どんな問題が起きたのでしょうか?ここでは、それについて見ていきましょう。
チトーに代わる後継者が居なかった
チトーが遺した大きな問題は、彼に代わる「後継者」が居なかったことです。
ユーゴスラビアのバラバラな民族が1つにまとめあがったのは、チトーによる弾圧や、差別を嫌う彼の持つカリスマ性があったからこそなのです。
チトーが居ない時代に、彼と同じぐらいユーゴスラビアをうまく治められる人物は居なかったのです。
チトーは力づくで差別や民族主義を抑え込んでいましたが、チトー死去後にそれを抑え込める人間はユーゴスラビアには居ませんでした。
こうして、差別を嫌ったチトーの想いもむなしく、民族対立が再びキバをむきます。
経済も社会インフラも不安定になり、ユーゴスラビアはますます不安定な情勢になります。
このような状況でユーゴスラビアが安定するはずもなく、情勢は混迷を極めます。
地獄のユーゴスラビア紛争へ、そして完全崩壊
1991年、ユーゴスラビアの混迷は頂点に達します。
ユーゴスラビアの構成国の中から、経済的に独立をしたい国や、他国の民族主義に嫌気がさして独立したい国が現れます。
また、そうした独立を望む国に反対する国も現れます。
そして独立を認めるか認めないかをめぐり、ユーゴスラビアの各国で紛争が起きてしまいます。
それが「ユーゴスラビア紛争」です。
この紛争は1991年から2001年まで続き、死者数は約20万人以上にのぼります。
ユーゴスラビア紛争では、敵対民族を地球上から本気で根絶しようとする最悪な所業をなす人たちまで現れました。
そのため、この紛争は人類史上でも最悪クラスのものなのです。
紛争が終わった後はユーゴスラビア内の各国がすべて独立し、ユーゴスラビアは完全に崩壊しました。
そして、いまも民族間の対立は依然として消えていないのです。
チトーは「兄弟愛と統一」を掲げてユーゴスラビアを1つにまとめました。
しかしチトーのその望みとは裏腹にユーゴスラビアは崩壊し、民族間の融和には現在も程遠い状況なのです。
カリスマ指導者・チトー大統領の生涯と評価を解説!まとめ
今回は、チトー大統領の生涯、そして功績と評価について解説しました。
チトーは、枢軸国側からユーゴスラビアを解放し、民族の対立を抑え込み、ユーゴスラビアを社会的に良くしていきました。
モットーには「兄弟愛と統一」を掲げ、民族の違いは一切問題にせず、どの民族とも対等に関われるユーゴスラビアを実現しました。
そのチトーが持つ数々の功績と人柄にユーゴスラビアの人々は惹かれ、民族の違いなど関係なく1つにまとまることができたのです。
チトーが死去した今でもなお「カリスマ指導者」と呼ばれるのも納得いくと思います。
もしかすると、この記事を読んでチトーを好きになった人もいるかもしれませんね。
しかしチトーがユーゴスラビアを治めて平和でいる間に「チトーが亡くなった後はどうするのか?」という問題に対する答えを用意できなかったことは、後に大きな悲劇をもたらしました。
私たちはいま平和に生きることができていますが、そのことが国の指導者次第で出来なくなる可能性はあると思います。
チトーの生涯とユーゴスラビアが崩壊していく様子を見ると、そのことが分かると思います。
「国の指導者が変わって平和でなくなったらどうするのか?」
私たちはその答えを既に用意していなければならないように思います。
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参考文献・参考サイト
カタルーニャの未来はスロベニアとは異なる|ヨーロッパ|東洋経済オンライン|社会をよくする経済ニュースhttps://toyokeizai.net/articles/-/195267
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ユーゴスラビアの崩壊 第1回 民族主義の台頭|BS世界のドキュメンタリー|NHK BS1
平成元年 年次世界経済報告 本編 第2章 長期拡大のミクロ的要因https://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/wp-we89-1/wp-we89-00306.html
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ボスニア追悼式典で一部対立: 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM11H7Z_R10C15A7000000/


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